二十一 『くろ』

 青色の少女は、その美しい顔を恐怖で彩ってから、もう一度たすけてと口にした。


「くろ、くろがおいかけてくるの」


 その言葉に顔を上げる。少女の奥、泉の底は一見透き通っているように見えたが、よくよく考えてみれば底が見えていなかった。


 春斗は一歩前へと踏み出した。少女がゆっくりと顔を上げて、期待の中に心配の色を混ぜた目で春斗を見上げていた。


「くろって何だ」

「くろはくろ。まっくろがおいかけてきて、わたし……わたし、にげて、にげて。でも、みずのなかに、つかまって」


 とつとつと少女が言葉を連ねる。


 似ていない、と春斗は自分に言い聞かせた。ただ『あの子』と年の近いだけの少女だ。それ以外、一つだって共通項はない。


 鈍く痛み始めた頭に顔をしかめて、ぎちりと棍を強く握る。指先は力を入れすぎたせいで血の気を失い白くなってしまっていた。


 少女の言う『くろ』の正体は判然としないが、魔物か何かだろうか。春斗は周囲に気を配りながら、更に一歩少女に近づいた。


 特に気配が変化しないことを確認して、二歩、三歩と歩を進める。そうして少女の目の前に足をそろえると、左足を一歩引いてかがんでやる。


「立てるか」


 右手を伸ばせば、少女は青い目をぱちぱちと瞬かせて、そろりと春斗の右手に左手を伸ばした。


 そのゆっくりとした動作を待ってやろうと、右手の位置は固定していた。


 とはいえ、先ほどまで転ぶまで逃げていたものが近くにいるのもまた事実。


「チッ!」

「わあっ!?」


 僅かに大きな何かが動いた気配を察知して、咄嗟に少女の手を握り自分の後方へ投げ飛ばす。後ろで、いたい、と聞こえて罪悪感を覚えたが、生憎と謝る余裕はなさそうだった。


 水底から何かが立ち上がる音がする。ごぽごぽと泡を立てて、巨大質量を伴った何かが泉のそこから立ち上がった。そのように感じた。


 くろ、と少女が後ろで小さく落とす。


 春斗は険しい表情のまま棍を握る。物理攻撃が効く相手とも思えなかった。


「なるほど、確かに『くろ』だな、これは」

「う、もうおいつかれた」

「どんくさいのか、これ?」

「どんくさい?えっと、はやくは、ないかな」


 そうか、と頷く。少女の足で逃げ切れるくらいだから、確かに足は速くなさそうだ。


 もっとも、足が速い速くない以前に足が見当たらないので何とも言いがたいところではある。


 それは得体の知れない姿をしてた。姿を形容しようにも、常にうごめいているおかげで形容しようがない。強いて言えば『黒い物体』と呼ぶしかないだろう。


 現段階では別に春斗には危害を加えられていない。別に殺気を向けられているわけでもないし、暴力を振るわれたわけでもない。ただおかしなことに、それが敵性体であると言うことだけは確信できた。


 挙げ句、その黒い何かが生物であると五感が訴えているのだから意味が分からない、と春斗は舌打ちをならした。事前情報無しで得体の知れないものと戦わされるほど最悪なことはない。


「おい、立てるか」


 少女に目線をくれてやることもできず、声だけで問う。後ろでもぞもぞと動く気配を感じて、立ち上がったのだと判断した。遅れて、たてる、と声がした。


 春斗はもう一度黒い何かを見上げて、それから小さく息を吸う。


「わきゃっ!」

「口を閉じてろ!逃げるぞ!」


 ぱっと少女が両手で口を塞ぐ。春斗は少女を抱きかかえると、そのまま一目散に逃げ出した。


 先ほど血だまりを作っていた場所であれば、この黒い物体は周囲の木々を無理にでもなぎ倒さなければ近寄れない。逆に、春斗や少女であれば、最悪道に沿って逃走できる。周辺の魔物は見たところ春斗の敵ではないし、少女の足で逃げ切れるのであれば、当然春斗の足でも逃げ切れるだろう。


 そんな算段で木の生い茂る方へ飛び込んだ。ぎゃあっ、ぎゃあっ、と耳障りな音が耳をかすめて、何度目か分からない舌打ちをならす。


「うるせえな!」


 怒号と共に風の魔術を起動させる。体内の魔力生成器官が活動するのに合わせ、灰色の目の奥に金の光が揺れた。


 ひっ、と怒号に驚いたらしい少女の悲鳴が聞こえた気がしたが、人命優先である。怖がられるだけで済むのなら安いものだとスピードも攻撃の手も緩めず走る。


 後ろを振り返れば、黒い何かは木々の奥に隠れて随分と見えにくい位置にいた。


「本当に足が遅いな」

「うん、はやくないよ。でも、おいかけてくるの。ずっと、ずっと」


 対こぼした言葉に少女が答えた。少女を抱きかかえ邸内法の手をふるって、風の刃で近寄ってくる魔物を切り刻む。濃厚な血のにおいがあたりに漂ったが、少女はおびえた様子は見せなかった。


 何かおかしい、と漠然とした違和感を覚えて、春斗は眉間にしわを寄せた。


「――逃げ切れないのか」


 確認するように少女に尋ねれば、青い少女は不思議そうな顔をした。


 みずのなかにつかまって。


 彼女の言葉を信じるのであれば、あの黒い何かは水に縁のある何かとみるべきだろう。不定形であることからまっとうな生物であるとも思えない。


 考えられるとすれば、ゴーストや不死者の類いだろうか。しかしそれもなんとなくしっくりこなかった。


「にげきれるの?」


 逃げてきた、と少女は確かに口にしたはずだ。その上で、逃げ切れると思っていなかったらしい。その不自然さに春斗は内心首をかしげて、もう一度後ろを振り返す。


 木々の奥の奥へとおいて行かれた黒い物体はほとんど視認できない。このまま迷いの小道を飛び出してしまえば、逃げ切ることができるだろう。


(逃げる必要があるが、逃げ切れない。ずっと追いかけてくる『くろ』。まるで言葉遊びだな)


 十分に距離を稼げたことを確認して、速度を緩めて少女を下ろす。血液を吸った土が赤黒く染まって柔らかくなっていた。

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