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子どものころ、熱を出すと決まって見る夢があったのですが、漫画を読んでいる時に似た様な描写を認めて以降、一切その夢を見なくなった事を思い出しました。
脳内のボキャブラリーみたいなモンがありふれたモノであったのが恥ずかしかったのか?
こちらを拝読しなければこの先思い出す事があったかどうか。ありがとうございます。
作者からの返信
昔は、何かを書いたりするというのは、その道の愛好者とか芸術を志す人みたいな意識が強かったと思うのですが、現代だとツールの多様化もありますが、人間の立場が互いに違いすぎて、そのことがすぐ争いや衝突の原因になり、作家的な人が他人を測る範囲が狭くなりすぎた面があると思います。
作家自体に一般人と比べて、特異性がもうないんだとおもうんです。むしろ単純に劣ってる面も多いんだと思います。
ですからテンプレ的なものをぬかせば、主婦のことは主婦が書いた方がいいし、それ自体がとてもリアルなことでもありますし、そこで起こる共感性は資本主義とも相性がいいと思います。
でも作家が主婦を取材して書いただけの自身に共通性を見出せないものは、多分、単純に感動ポルノや尻切れトンボみたいのしか生まれないんだろうなとも思います。
リアルにするかそうしないかは、その場の覇権をもったコンプラが決めることの気もします。
ですから漫画で夢のある種の補完がされたというのは、それが過去のものでも、本来はありふれたものではなく、やっぱりその漫画家さんの実力が高かったのかもしれませんよね。
なんだか豚が、噂の隣のオッサンのイメージと重なります。軽蔑し見下している存在なのに、豚がドヤ顔で栄光の死をとげる・・・そしてわたしは取り残され・・・わたしの顔を見るのは豚しかいなかったというのも奇妙な関係です。ラストはわたしの孤独さがうかがえますね。
作者からの返信
この作品自体は、実は知病と同時期のものだったりします。
隣のオッサンはあんまり気にしてなかったのですが、潜在的にはあるんかもですね。
隣のオッサン的な人は今でもよく出会いますね。
言うことが段々悪化していくんですけどね。
でも人との出会いって課題が含まれることがあると思うんです。
おこがましいことを言えば、相手にとっても、わたしはその人の人生の何らかの課題なのかもしれません。
そのときの出会いで、その課題が解決されるかどうかは判らないけど、わたしにはまだ隣のオッサンを卒業できない課題が残されているのかもしれませんね。
「きっとあなたのカルビも美味しいのでしょうね」のところでやられてしまいました。
受容する側はいつも与える側を軽視してしまいがちですが、そのような浅はかさは確かに自分の中にもあるよなあと思い知らされました。
作者からの返信
わざわざコメントやレビューまで頂き、ありがとうございます。
そういう意味ですと、受容する側には与える側に比べて「評価」という武器が強く与えられますよね。
ですから、ある程度は仕方ないものだとも思いますし、逆に評価しなくてはいけないシーンもあったりして、難しいですよね。