第一章② 災厄の魔女
「着きましたよ。ここが、わたしの家です」
そんなに長くは歩かなかったと思う。
数分程歩くと、森の中で一際開けた場所に出た。
その開けた空間にぽつんと、決して小さくも大きくもない、それでも一人で住むなら十分な広さであろう丸太組みの小屋が建っていた。
小屋の周りには、彼女が育てているのであろう森に生えている木々や苔類とは違った種類の様々な植物や花が色取り取りに咲いていて、そこの空間だけまるで別の世界の様だ。
小屋に近づいて見ると、かなり古い時代に建てられた物を直し直し使っている様で、あちこちに修復の跡が見られる。
しかし、彼女がきちんと手入れして小綺麗に整えられているからか、それも趣としてアンティーク感の有る味を醸し出している様に思えた。
小屋の近くには川も有る様だ。綺麗な水が流れていて、キラキラと輝いて見えた。
「どうぞ」
「お邪魔しまーす」
彼女が玄関のドアを開けて待っていてくれているので、促されるままお邪魔する。
中へ入ると、そこは薄暗い森の中とは対照的な、天井から吊るされたランプの暖色の灯りに包まれた、暖かな明るい空間だった。
ランプをよく見れば、それは火や電気を使って発光している物では無い様で、拳よりも少し小さいくらいのサイズの石を中心に淡い暖色の光りを放っている。
「こちらです」
そして、すぐに目につく食卓として使っているのであろうテーブルへと案内された。
俺と彼女はその卓を挟み、対面になる形で座る。
席に着くと、それを合図としたかの様に、台所の方からポットと二つのカップのティーセットがふわふわと宙を浮いて、テーブルの方へとゆっくりとやって来た。
その光景に放心唖然としていると、それらはそのまま一人でに動き、カップはそれぞれ二人の目の前に着席し、ポットは丁寧にそれらに紅茶を注いだ。
二人分の紅茶が用意されると、まるで「ごゆっくり」と言うかの様にカタンと小さな音を立てて、ポットもまた食卓の中央辺りに着席した。
俺はその数秒間、あまりの非現実的名光景に思考が止まりぼうっとしていた。
しかし、きっと彼女にとってそれは日常的な、当たり前の光景なのだろう。
それを特段気にした様子もなく、ティーセットが入れてくれた紅茶に口を付け、ほっと一つため息を吐いた。
そして、彼女は
「さて、そうですね。まずは、自己紹介でもしましょうか」
と前置きをしてから、カップを置き、話始めた。
「わたしは、この森に住む“災厄の魔女”です」
「災厄の魔女……? それが、名前?」
“災厄”、不穏なワードだ。
「あ、いえ。名前と言いますか……わたしは、世間からそう呼称されています」
どういう事だろうか。
どうしてわざわざ名前ではなく二つ名の様な呼称を名乗るのだろうか。
と、俺が不思議そうにしていると、
「えっと、そうですね。二〇〇年も生きて来たので、自分の名前や、色んな記憶はどこかに落として来ちゃいました。あなたが呼びやすい様に、好きに呼んでください」
彼女は少し照れ臭そうに微笑みながら、そう名乗った。
魔女、彼女は確かにそう言ったのだ。
彼女の表情、そしてこれまでの体験からも、その言葉が嘘や冗談、妄想の類ではないという事は理解できた。
ここまで来れば、俺の起きたてほやほやで回りの悪い頭でも、今自分の身に何が起こっているのか、何を体験しているのか、状況を把握出来る。
つまり、さっきの浮いていたティーセットも、出会った際に彼女の言っていた『死者蘇生』も、全て彼女の――魔女様の行使する魔法という訳だ。
自分を二〇〇年生きた魔女と名乗る、名も分からぬエルフの女の子。そして魔法、死者蘇生。
目覚めた時からおかしな状況だった。
薄々そんな気はしていたが、やはりここは所謂“異世界”なのだろう。
異世界転生――いや、別人として生まれ変わった訳ではなく、跳ねられてぐちゃぐちゃの死体だけがこの異世界へ転移して来た。
そして、それを偶々魔女様に拾われて、蘇生されただけなのだから、これは正確には転生ではなく、“異世界転移”なのだろう。
事故に会って死ぬ直前に異世界転移、というパターンはお約束だ。
しかし、死んだ後に死体が異世界転移するのでは、少し遅いのではないだろうか、と思わなくもない。
だが、それも魔女様の『死者蘇生』の魔法のおかげで蘇り、何とかなったのだから、不幸中の幸いという事なのだろう。
――死体での、少し遅れた異世界転移を果たした俺は、魔女様に蘇生されて事なきを得るのだった。
なんて、呑気に頭の中でナレーションを入れてみつつも、改めて自分も自己紹介をしようとして、違和感に気付く。
「俺は――あれ? えっと……」
俺は、誰だ?
気付けば、俺は自分の名前すら思い出せなくなっていた。
事故直後の記憶があやふやなのは、衝撃による短期的な記憶障害かと思っていた。
しかし、これはいよいよまずいかもしれない。
知識などはきちんと持ち合わせている様だ。
しかし、どうやら俺は自分の記憶の“思い出”に当たる部分の殆どと、そして自分の名前を欠落してしまっているらしい。
自分の事が分からない、自分がどういう人生を歩んできたのかが分からない。かなり深刻な記憶喪失状態だ。
魔女様は俺の二の句を待ちながらも、言葉に詰まる様子を見て小首を傾げていた。
「……ごめん。自分の名前が、思い出せない」
咄嗟の事で頭も混乱し、誤魔化す事も出来なかった俺は、正直に現状を伝える。
「ふふっ。でも、それならわたしと一緒ですね?」
そう言えば、先程魔女様も“名前と記憶をどこかに落としてきた”と話していた。
だと言うのに、深刻に頭を抱える俺に対して、魔女様は少し楽観的だ。
俺という記憶喪失仲間が増えた事を喜んでいる様に見える。
そんな魔女様を見ていると、俺の記憶喪失もそんなに大した事じゃ無いんじゃないかと、そう錯覚しそうになって来て、思わず釣られて笑みが零れる。
「ああ、一緒だ。じゃあ、俺の事も呼びやすい様に呼んでくれると助かるよ。お互い、その内思い出すと思うし――」
――なんて、俺は二〇〇歳越えの魔女様に対してかなりフランクにタメ口で話してしまっているが、大丈夫だろうか。
だって、魔女様はどこからどう見ても年下の可愛い女の子だ。
どうしても二〇〇歳なんて現実感の無い年齢よりも、見た目の印象が先行してしまう。
しかし、そんな事を気にしていたのは俺だけの様で、魔女様は俺の言葉遣いを咎める様子は無い。
それどころか、俺の砕けた態度に少し嬉しそうにさえ見える。
「ふふっ。その反応……やっぱり、あなたはこの世界の人では無いんですね」
と、魔女様は俺を見てそんな事を言う。
俺はまだその事を話してはいないはずだ。
どういう訳か、どうやら魔女様は俺が異世界からの来訪者で有る事を薄々感づいていた、もしくは知っていた様だ。
俺の態度や、反応からの推察だろうか。
やはり、この世界の人間なら二〇〇歳越えの魔女様に対しては敬って接するのだろうか。
それとも、俺の行動におかしな点が有り、何か別の要因が判断材料となったのだろうか。
それとも――、
「どうして、それを……。もしかして、魔女様が俺をこの世界に?」
「いいえ。わたしにはそんな魔法、使えません」
「じゃあ、どうして……」
「だって、この世界の人なら、わたしを――“災厄の魔女”を恐怖し、そして嫌悪しますから。あなたの様に、そんな親し気に接してはくれませんよ」
と、微笑む魔女様の表情は儚く、そして切な気で、今にも消え入りそうで――。
「すみません。変な話、しちゃいましたね」
反応に困っている様に見えたのか、魔女様はそう言って言葉尻を誤魔化した。
そんな様子を見て、俺は正直に自分の身の上を話す。
「あー、いや。そう、魔女様の言う通りだ。どうやら俺はこの世界とは違う、別の世界から転移してきたらしい。でも、その転移の直前に死んでしまったみたいで、それであの森の中で死体が転がってたって訳だ」
そして、記憶も無くしてしまった。
魔女様はそれをどこかへ落としてきたなんて表現していたが、俺はどちらかと言えば“そこには有るが見えないし触れられない”という感覚の方が近い。
「そうだったんですね」
「魔女様は、俺が転移してきた理由に心当たりとかって……」
「いいえ。残念ながら、それも有りません。本当に偶々、あなたを森の中で見つけたんですよ」
「そっか。でも、偶然にでも『死者蘇生』なんて出来る魔女様の住むこの森に転移して来れたのは、不幸中の幸いなのかな」
「ふふっ。それは、どうでしょうね?」
「えっ」
「だってわたし、とっても悪ーい魔女なんですよ?」
そう言った魔女様の表情からは先程の切な気な雰囲気は消え去っており、代わりに悪戯っぽく不敵に笑って見せていた。
もしかすると、本当に異世界人かの再度の確認の為に脅す様な意図が有ったのかもしれないが、正直言ってちっとも怖くは無かった。
「――二〇〇年前に起きた、世界を滅ぼしかけた魔法災害、“大災厄”。わたしが、それを引き起こしたんです」
“災厄の魔女”――魔女様は世間からそう呼称されている。それは彼女の起こした魔法災害、“大災厄”に起因する二つ名だった。
曰く、それを引き起こした張本人、超悪い魔女様らしい。
この世界においての災厄の魔女というのは、元居た世界で例えるとテレビで大々的に報道されている殺人犯の様な、お尋ね者なのだろう。
“災厄”という不穏なワード、それは思っていた通りだった。
しかし、俺が魔女様に命を救われた事自体は間違いない。
だからなのか、それとも世界を滅ぼすなんてスケールの大きい話に対して現実感が無くイメージが湧き辛いからか、はたまたその美しい容姿に見惚れてか。
どうしても本当に魔女様がそんな事をする悪い人だとは、とても思えなかった。
「その大災厄の事は、この世界に来たばかりの俺にはよく分からないけれど……それでも、魔女様は俺の命の恩人だよ。ありがとう」
だから、そんな話を聞いた後でも、俺の魔女様へ対しての印象は、そして接し方は然程変わらなかった。
そんな風に依然親し気な俺の様子を見て、魔女様は少しほっとした様に、優しい安堵の微笑みを溢していた。
それから、この世界について魔女様に色々と聞いていく事にした。
なんせこの世界については知らない事だらけだ。
現段階で元の世界に帰る手段も無く、俺はしばらくこの異世界で生きて行かなくてはならないだろう。
しかし、この世界において俺の頼みの綱は魔女様だけだ。
なので、一先ずは情報収集がてら雑談でもしつつ、仲を深めようという作戦だ。
まあ、記憶喪失で自己すらあやふやな俺の方から出せる会話の種は特に無く、俺は専ら聞き専なので、まずは適当に話題提起から始めてみる。
「そう言えば、ここってどこなの?」
流れで魔女様に付いて来て今に至るが、俺は自分の現在地についても何も知らなかった。
「ここは魔女の森です。二〇〇年前、人々に追われ逃げてきたわたしが住み着いてからはそう呼ばれています」
二〇〇年前。
つまりは件の大災厄以降、という事。
先程の質問は異世界からの来訪者として“この世界について”くらいの広義で聞いたつもりだったのだが、魔女様からは自分の暮らす森についての説明が返ってきた。
「じゃあ、この家というよりは、この森自体が魔女様の縄張りって感じなのか」
「そうですね。どういう訳か、元々この森は魔力に満ちている土地で、魔力の弱い者を寄せ付けない『迷い』の魔法に覆われていたんです。なので、それを有効活用して隠れ家にしている感じですね」
どういう仕組みなのかを魔女様が解説してくれた。
魔力の弱い者は森の奥へ足を踏み入れようとしても、迷った末に入口まで戻って来てしまうらしい。
そんな『迷い』の魔法がいつからか土地に満ちる魔力で維持されている、まさに天然の迷路だ。
「なるほどね、それは丁度良い……って、あれ? じゃあ――」
「はい、そうなんです。ですから、あなたがこの森に入って来られた事には本当に驚きました」
そう。俺がこの森に居たこと自体、少しおかしいのだ。
通りで、初めに会った時に“普通は入って来られない”と言っていた訳だ。
「……もしかして、死体だったから人間判定されなかったのかな」
「どうなんでしょう。そうかもしれませんし、そうじゃないかもしれません」
「何か、心当たりが?」
「いいえ。わたしも異世界人というのは初めてなので、ちゃんとした理由まではよく分からないんです」
異世界転移だから特例だったのか、それとも俺にも『迷い』の魔法を突破出来る程に強い魔力が有るのか、それとも他の要因があるのか。
実際のところは、魔女様にも分からないらしい。
「でも、本当に二〇〇年もの間、ずっとこの森で?」
「はい。ずっと、わたしは独りこの森で暮らしています」
世界を滅ぼしかけて人々に追われたこの魔女様は、二〇〇年もの間この森の中に引き籠っている様だ。
俺の生きた九倍程の年数を、この森の中でたった一人。
それはどういう感覚なのだろうか、どういう思いなのだろうか。
「そんなに長い間、独りで……」
その途方もない孤独の時間を想像し、思わず言葉が漏れる。
気を悪くしただろうか。
そう思い魔女様の様子を窺うが、どうやらその逆だ。
「はい。ですから、こうやってわたしと向き合ってなお、普通に話してくれる人と会えて嬉しいです」
その言葉には二〇〇年分の感慨が詰まっているのを感じた。
つまり、二〇〇年の間に“普通に話してくれない人”は今までに何人もこの森にやって来たのだろう。
きっと、それは災厄の魔女に恨みを持って殺しに来る様な、魔女様が先程口にした恐怖や嫌悪、そんな感情に駆り立てられた人間だけだったのだろう。
もちろん彼らはこの家の有る森の奥までは入って来られず、最終的には『迷い』の魔法によって追い返されはしただろう。
しかし、それでも魔女様の心に深い傷を残して行ったはずだ。そう思うと、何ともやるせない。
「そんな、俺で良ければ、いくらでも話し相手になるよ」
なんだか、しんみりとしてしまった。
もう少し情報収集でもしたい所だったのだが、話の流れがそんな雰囲気では無くなってしまったので、そのまま魔女様と取り留めのない話を交わし、時間は過ぎて行った。
本来であれば焦って元の世界への帰還方法を探る所なのだろうが、不思議と帰りたいという気持ちも湧いて来なかった。
それは記憶喪失故、思い出を持たぬ故だろうか。
どちらにせよ、心の底から欲求が湧いて来ないのであればそれは取り急ぎ必要の無い事だろう。
と切り捨て、すぐに頭の片隅に追いやってしまった。
それから、一頻り話題が回った後。
「それで、これからどうするんですか?」
おっと、それは俺としては本題だ。それを魔女様の方から切り出してくれた。
何せ俺はこの世界に身体一つで放り出されたのだ。
食い扶持も行く当てなんて有るはずもないので、出来れば――、
「――えっと、もし良ければ、なんですけど……。あなたが嫌でなければ、しばらくここに居ませんか?」
「え、良いの? 迷惑にならないかな」
「はい。その……わたしも、ずっと独りは寂しかったので……」
一度は落とした命を救って貰った上に、更に図々しくも「この世界で生きるのを助けてください」なんてどうお願いしようかと思っていた所だった。
それをなんと、彼女の方から申し出てきた。
この森の中でたった独り、二〇〇年という時間、余程人恋しかったあのだろうか。
そんな心に付け込む形になるのは、少々心苦しい所では有るが、背に腹は代えられない。
お世話になれると言うのならば、こちらとしては願ったり叶ったりだ。
ありがたくそのお言葉に甘えさせて頂こう。
「じゃあ、よろしくお願いします、魔女様」
俺は何となく格好をつけて手を差し出してみた。
しかし、それは魔女様の寂し気に付け込んだヒモにしてください宣言でしか無いので、つける格好も無いのだが。
しかし、魔女様は手を握る事に照れがあるのか、可愛らしく頬を少し朱に染めて、「あっ、えっと……」と視線を泳がせていた。
そうして少し迷う素振りをしていたが、意を決したのか、にこりと微笑み、俺の手を両手で優しく包み、控えめに握り返してくれた。
――こうして、俺の第二の人生は魔女様のヒモとして、この森の中から始まるのだった。
「はい、よろしくお願いします。旦那様」
あれ?
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