第一章③ 旦那様

「――はい、よろしくお願いします。旦那様」


 魔女様は俺の差し出した手を両手で優しく包み、控えめに握りながら、にこりと微笑みそんな事を口走る。


 旦那様? 聞き間違いだろうか。

 いいや、今確かに魔女様は俺の事をそう呼んだのだ。


「あの、魔女様? そういうのは、もっと段階を踏んでから……」


「えっと、でも、一つ屋根の下で暮らすというのは……その、つまり、そういう事……ですよね?」


「確かに俺はこれからこの家で世話になるって話だったけど、でもそれがそのままそうはならないと言うか……」


 予想外の事態に、頭を抱える。

 どうやら、魔女様は世間知らずなご様子だ。

 異世界スケールで距離感のバグった魔女様に、一般常識は通用しない。


 もしかすると、この世界ではそれが常識なのか。

 なんて一瞬頭を過ったが、そんなはずはないだろう。

 会ったばかり男をいきなり旦那様とする常識は、異世界であっても存在しえない。


 まだ俺たちはお付き合いをしてすらいないどころか、お互いの名前すら知らないのだ。

 魔女様はそういった段階を踏まないどころか、踏みつぶして進軍してきた。


 草食系森ガールかと思えば、見た目に寄らず意外と肉食系だったのか。

 なんて生産性の無い思考に脳のリソースを割いていたが、しかしこれまでの話からよく考えてみると、魔女様のこの行動には合点がいく部分もある。


 魔女様は引き籠り歴二〇〇年の大ベテランだ。

 当然、こんな森の中に引き籠っていればまともな他人との交流はゼロに等しい。早い話が人馴れしていないのである。


 ちょっと異性とお話をしたら惚れてしまう、なんて事も有るのかもしれない。

 勿論普通はそんな事無いだろうが、魔女様の境遇を考えると可能性はゼロでは無いだろう。


 かくいう俺も他人の事をとやかく言える人間ではない。

 前世では産まれてこの方恋人も居らず、魔女様には及ばないが俺もそれなりに異性への耐性は限りなくゼロに近い。

 好きだと言われればその人を好きになってしまう程度にはちょろい自信がある。


 突然の事に驚き、脳が刺激されたからか、少しずつ連想ゲームの様に記憶が呼び起こされていく。どうやら俺はそういう人間らしい。


 しかし、どうしようか。

 俺が返答に困りまごまごと言い淀んでいると、魔女様は紫紺の瞳をうるうるとさせながら、


「やっぱり、嫌ですか……?」


 なんて、上目遣いでいじらしい事を言うのだ。

 俺は慌てて目を逸らす。それはずるいだろう。


 魔女様のプロポーズを下手に断ると、それはそれでこの世界での生命線を失ってしまう。

 一旦良い感じに誤魔化しつつも関係を崩さない様なスマートな断り文句を模索してはみるが、そんな気の利いた言葉はぱっと都合よくは出て来なかった。

 なので、


「いえ、あの……はい、お世話になります。よろしくお願いします、魔女様」


「はいっ!」


 俺は魔女様の押しに流されるままに、首を縦に振ってしまった。

 おめでとう、ヒモ男は旦那様に進化した!


 というか、建前として一旦断るもしくは保留のステップを挟もうと思ってはいたのだが、俺の脳はそんな愚かな選択肢の為に思考を回転させるという業務を早々に放棄していた。

 つまり、鼻から俺の理性とは裏腹に、本能はYES以外の回答を出す気など無かったのだ。


 そう、考えてみれば何も悪い話では無い。

 魔女様は容姿だけを見てもめちゃくちゃ可愛い。


 艶の有る夜空の様に美しい黒髪、こちらを見つめる宝石の様に輝く紫紺の瞳。

 そのまま人形や彫像、絵画の様な美術品となっていてもおかしくはない。

 まるで作り物みたいに整っている。


 その上、その辺で命を落としていた見ず知らずの俺を魔法で救ってくれて、こうやって面倒を見てくれる様な優しい人だ。


 この世界での生活を考えても、そうでなくても、特段無下にする理由も無かった。

 どんな形で始まるにせよ、二人の関係はこれから築いて行けばいいのだ。


 ――改めて、こうして、俺の第二の人生は魔女様の旦那様として、この森の中から始まるのだった。


 

・・・



「お話してたら、結構時間が過ぎちゃいましたね。お腹、空いてませんか?」


「そう言われると、確かに空いて来たかも。もうそんな時間か」


 色々な事が有り過ぎてそれどころでは無かったが、一度意識すると思い出したかの様に腹の虫が鳴り始める。


「それじゃあ、お夕飯作りますね。苦手な物とか、無いですか?」


「ああ、大丈夫。何か手伝おうか?」


「いえ、すぐ出来ますから、少し待っててくださいね?」


 新たな同居人を得てご機嫌な魔女様は、下手な鼻歌を歌いながら台所で食事の準備を始めた。


 俺も手伝おうと思い腰を浮かすが、すぐに椅子に座らされてしまったので、魔女様の姿を横目に、そのまま大人しく茶を啜りながら待機する事にした。


 ……旦那様なんて呼ばれてちょっと浮かれていたが、改めて自身を俯瞰すると、やはり今のこの状況は結局ヒモのそれではないだろうか。


 しかし、それもここまで来れば、もはやヒモでもなんでも構わない気さえする。

 彼女居ない歴=年齢の俺としては、この状況はかなり美味しい。


 自分の奥さんの、しかもエルフ美少女の手料理というのは、まさしく夢にまで見たシチュエーションというやつだ。

 一度は死んで名前も記憶も無くして、踏んだり蹴ったりかと思ったが、その不幸分の役得が揺り戻しで回って来た様だ。


 ふと窓の外を見ると、ここへ来たと時よりも辺りは暗くなっていた。


 木々が天まで伸び空を覆い隠す深い森の中では時間間隔も無くなりそうなものだが、案外日の光は届いていて昼夜の区別が付く様だ。

 と言っても、夜も完全に真っ暗で何も見えないという訳でも無い。


 木の幹から生えていた結晶体の石が淡く光を放っており、天然のランプとして灯りの役割を果たしている。

 あの結晶体の石も魔法的な物なのだろう。



 程なくして、魔女様が料理を運んできた。


 運んできたと言っても、やはりティーセットと同じ様に魔法で宙に浮いた盆の上に乗せられて、すーっと流れる様に食卓へと運ばれて来たのだ。


「お待たせしました。出来ましたよ~」


「ありがとう」


 俺は盆の上から料理を受け取る。


 一つ目の皿には手のひらサイズのパン。

 そして、もう一つの木製のお椀に入っているのは、大きめにごろっとカットされたカブや人参、芋の様な野菜類、それにソーセージやベーコンが入った具沢山の温かいスープ。

 ポトフという料理だった。


 元々森の中で転がっていた死体だった身だ、自分で気づかぬ内に身体が冷えていたのだろう。

 ポトフのお椀を持ち上げた手の指先に、じんわりと温かいスープの熱が伝わってくる。


 配膳した後、魔女様が着席するのを待ってから、二人揃って


「「いただきます」」


 と手を合わせて、食べ始めた。


 まずはスプーンでお椀から具を掬って口へ運び、次にお椀に口を付けスープを啜る。

 塩と胡椒でシンプルに味付けされ、野菜の旨味がスープに染み出た、心も身体も温まる優しい味だ。


「うん、美味い」


 スープの味付けと同じシンプルな感想が素直に口を突く。

 魔女様の方を見ると、ほくほくと食事に舌鼓をうっている俺の様子を嬉しそうに眺めていた。


「人に食べてもらったのは初めてなんですけど、お口に合った様で良かったです」


 そうは言っているが、先程の料理をする魔女様の様子を見ていた限り、きっと彼女は普段から料理をしているのだろう。

 手際がよく、所作の端々から慣れを感じた。


 引き籠り歴二〇〇年の世間知らずな魔女だと思っていたが、こういった面では結構家庭的な女性なのかもしれない。


「うん、なんだか懐かしいって言うか、食べる安心感って感じ」


「ふふっ。それってつまり、故郷の味って事ですかね?」


「ん……んー、多分。食べた事が有る、様な気がする」


 舌が感じる懐かしさに、記憶がまた一つ呼び起こされたのだろうか。

 しかし、依然記憶はぼやけていて、返事も曖昧になってしまった。


 それでも、確かにこのポトフのシンプルな味付けは俺の舌に合っている様だった。

 異国の味というのは往々にして口には合いにくい物だが、まさか異世界に来てこんな懐かしい気持ちになれるとは思わなかった。


「何か、思い出したんですか?」


「いや、全然。俺ってこういう人間だったのかなって思うようなバラバラの欠片は見つかるけど、決定的な何かは欠けてる様な、そんな感じかな」


 見えているはずなのに触れられない。

 ゴールが見えているはずなのに、どれだけ走っても辿り着けない。

 形の合わないパズルのピース。

 そんなむず痒さが有る。


「そうですか。まあ、焦らなくても大丈夫ですよ。わたしも二〇〇年前から記憶喪失ですけど、何とかなってます」


 魔女様流のブラックジョークなのだろうか。

 ころころと笑ってはいるが、俺と比べて魔女様の方は結構洒落にならない事態では有る。


 しかし、二〇〇年か――。

 という事は、きっと魔女様の記憶喪失は件の大災厄が起因するものなのだろう。


「それはちょっと特殊な事例な気がしなくもないけど……。ていうか、エルフの寿命ってどのくらいなの?」


「あ、いえ。エルフだから長生きしてるって訳でないんですよ。普通、エルフでも人間と寿命自体は変わりません。ただ、ちょっと魔力の強い種族ってだけですよ」


 漫画や小説の創作上のエルフというのは、作品によっては長命種として描かれる事も有るので、そういう物かと受け入れかけていた。

 しかし、それは俺の勘違いだった様で、どうやらこの世界ではそういう訳では無いらしい。


「じゃあ、二〇〇年も生きている魔女様はエルフの中でも特別なのか」


「そう言われると、ちょっと照れ臭いですけどね」


 と、そう言う魔女様の表情は照れと言うよりは、どこか寂し気に見えた。


 あまり触れられたくない話題なのだろうか。

 もしかすると、それは俺が知らないだけで食事中には似つかわしくない話題だったのかもしれない。


 しかし、そんな様子を見せたのも一瞬の事。

 魔女様はすぐに元の穏やかな表情に戻っており、「それよりも――」とすぐに明るい方へと話題の舵を切ってくれた。


 それから、俺たちは和やかな夕食の一時を過ごした。


「ごちそうさま。美味しかったよ」


「ふふっ。なら明日も、明後日も、その次も、作ってあげますね?」



 そして、夕食の片付けを終えた後。

 俺が手持ち無沙汰に食卓で寛ぎゆっくりとしていると、


「お風呂、入りませんか?」


 と、タオルを持った魔女様がやって来た。

 どうやら、この異世界でもお風呂文化は有るらしい。


「え、入る入る。この世界にもお風呂って有るんだね、良かった」


 何だかんだで怒涛の一日を過ごした分、疲れを取りたいところだったのでとても助かった。


「ふふっ。じゃあ、行きましょうか」


 そして、魔女様にのこのこと付いて来た結果、俺たちは森の更に奥に有る大きな泉の前へとやって来ていた。


 小屋の前に流れていた川の水は、ここから流れて来ているのだろう。


 お風呂と言われて期待していたが、目の前に有るのはどう見ても森のマイナスイオンでキンキンに冷えた泉である。


 もしかすると、この世界で言う風呂というのは冷たい水に入ることを指すのだろうか。

 ただでさえ気温の低い森の中、この泉に浸かってしまえば折角の食事で温まった身体も一瞬で冷え切ってしまう事だろう。


 ついさっき生き返ったばかりだと言うのに、すぐにまた泉に浸かって凍死というのは避けたいところだ。


「あの、魔女様?」


「?……どうしました?」


「もしかして、お風呂ってここの事?」


「はい、そうですよ?」


「おぉう……」


 やはり、そうなのか。

 残念ながら、この世界の風呂は俺の知る物とは違ったらしい。


 確かに身体を洗う事は出来るだろうが、温まって疲労を取るという役目は果たしてくれないだろう。

 と、がくりと肩を落とす。


「それじゃあ、一緒に入りましょうか」


 しかし、それも一瞬の事。

 魔女様の言葉が引っ掛かり、脳裏で反芻される。


 魔女様はなんと言っただろうか。そう、“一緒に入りましょうか”と言ったのだ。入る……どこに?


 いや、魔女様曰くこの泉はお風呂だと言う。

 なら、入る場所なんて一つしか無いだろう。

 そして、その期待は的中。


「恥ずかしいので、あっち向いててくださいね」


 そう言って、魔女様はこちらへ背を向る。

 そして、先程まで身に纏っていた純白のワンピースドレスをその場で脱ぎ、それをはらりとその辺りの平らな岩の上へと落とした。


 一応礼儀として慌てて目を逸らす素振りだけはしたが、それは素振りだけだ。

 悪いとは思いつつも、横目でばっちりと魔女様の肢体を目に焼き付けてしまった。


 森に生えた結晶体の石の淡い光に照らされた、薄暗い森の中で浮かび上がるその姿。


 夜空の様に美しい黒髪、そして白くきめ細かい透明感のある肌のコントラストは、やはり芸術品としてそのまま美術館で飾られていても不思議ではないだろう。


 男として、その美しい肢体を完全に視界に入れないという選択肢を、俺が取れるはずもなかった。


 そんな俺の視線を知ってか知らずか、恥ずかしいとは言いつつも、彼女は俺の視線をそれ程気にした様子も無い。


 魔女様はそのまま冷たい水の泉の中へとそそくさと入って行く。


 そして、それと同時に。

 先程まで入れば身体が凍り付きそうな冷たい泉が、魔女様の足先が触れた瞬間、白い湯気を立て始めた。


 湯気が立つ。それはつまりこの泉の水が、一瞬で温かいお湯になったという事だ。

 大量の湯が一瞬で産まれた。これこそ、まさしく俺の求めていたお風呂の姿だ。


「これも……魔法?」


「はい、『温度変化』の魔法で私が触れている間だけお湯にしてるんです。私が離れるとまた冷たい水に戻ってしまうので、今の内にあなたもどうぞ」


「えっと、一緒に入っても大丈夫なの?」


「?……冷たい方が、良かったですか?」


「いえ、温かいお風呂が良いです。入ります」


 本当に良いのだろうか、と葛藤する。

 しかし、温かい風呂と、そして魔女様との混浴という誘惑に抗える訳もなく、俺は魔女様に促されるままに入浴した。


 しかし、流石にお互いの姿がはっきりと見える距離感で入るのは少し気が引けた。

 幸い大きな泉だったので、少し魔女様と距離を取った位置を取って入ることにした。


「ああ……沁みる……」


 湯につかれば、身体の芯まで熱が伝わって来る。

 疲れもじんわりと抜けて行き、まるで心も洗われる様だ。いや、さっきまで邪心に溢れていたが。


「ふふっ。気に入って貰えて良かったです。でも、なんだか遠くないですか?」


「いや、流石に、ここで大丈夫」


「そうですか? まあ、広いですもんね」


「そうそう、折角広いからね。うんうん」


 なんて、俺の邪心を悟られぬように適当に誤魔化す。

 いや、むしろ魔女様にはそんな事既にお見通しで、からかわれたのかもしれないが。


「でも、てっきり最初は冷たい泉に入らされるのかと思って、びっくりしたよ。今度は凍死するんじゃないかと」


「もう。折角生き返ったばかりなのに、また死んだらわたしも面倒見切れませんよ?」


「いやいや。もしその時は、またお願いします」


「何言ってるんですか。あれはそんな簡単な魔法じゃありませんから、本当に次は無いですよ? 気をつけてくださいね?」


 そんな事を冗談半分で言っていると、魔女様に窘められてしまった。


「ごめんごめん。まあ、そうだよね。そんな都合よく何度も生き返れる訳ないか」


 異世界とは言っても、やはりここは現実には違いないのだ。当然ゲームの様に何度もコンティニューという訳には行かないらしい。


 今まで見てきた魔女様の魔法の数々。

 俺を生き返らせた『死者蘇生』、ティーセットを運んできた『物体浮遊』、そして一瞬で泉を大きな風呂へと変えた『温度変化』。


 どれも魔法の名に相応しい超常の力だが、やはりその中でも俺に第二の人生を与えた『死者蘇生』の魔法は、因果すらも捻じ曲げる別格の物だ。


 やはりその分、回数制限や使用条件、もしくは著しく低い成功率の様なデメリットも存在するのだろう。


「そうですね。と言いますか、あれはわたしの作った魔法ですから、そもそも他の人には使えません」


「なにそれ、すごい」


 エルフは魔力が強いとは言っていたが、だからと言って、誰だって簡単に使える魔法では無いだろうとは思ってはいた。

 しかし、まさか魔女様のオリジナル魔法だったとは。


 という事は、もし仮に俺が他の場所に転移していた場合、確実に命は助からなかった訳だ。

 魔女様に出会えたのは本当に運が良かったんだな、と改めて思う。


「まあ、これでも昔は実力を買われて、国の宮廷魔導士だったりしたんです。魔法には少し自信が有ります」


 そうやってちょっと自慢気に話す彼女からは今にもえへん、という声が鼻高らかに聞こえてきそうだ。


 魔女様ははそんな風に自分で新たな魔法を作り出してしまえる程の腕だ。

 この世界の中でも指折りの魔法使いなのだろう。


 それこそ、一人で世界を滅ぼしてしまえる程の。

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