6 紫縮緬

 その日、私はあかとき堂を訪れていた。

 これは私の周囲で何かしらの怪異が起こったから――というわけではない。

 店に来た理由はただひとつ。ここに至ってようやく、私はかごめさんの日記帳を全て読み終えたからだ。そのことを梓と話し合うために、わざわざ手元にある日記帳を店にまで持ち込んでいた。

 よくよく考えると、そこまでする必要はなかったかもしれない。しかし、この日記帳について話せる相手など梓くらいで――ようするに、私はこのことについて話をしたかったのだろう。

 とはいえ、日記帳に何か重大なことが書かれていたとか、そういった事情があるわけでもない。鷹の根付についてもあれから進展はなく、他に手がかりとなる情報も得られてはいなかった。

 そうなると、ここにはない――が、かごめさんの家に存在するだろう日記帳が、やはり気になるところなのだが――これについては、すぐにどうこうできることでもない。その他の物についても、とりあえずは今のところ――ついこの間の秘密箱の件がそうだったように――こちらから手出しをしなければ、何かを起こす気配はなかった。

 他に気がかりがあるとすれば、家にいた何か――這うもの、のことだろうか。あれがかごめさんの家にあった物のどれかに由来するものなのか、あるいは元々あの家に居ついていたものなのか、それはまだわかっていない。

 伊吹が言うには、今はもう心配ないとのことで、預けた鷹の根付と共に、詳しいことがわかれば連絡してもらうことになっていた。その言葉を信じて、とりあえずは棚上げにされている。

 そういった現状を、私は梓にあらためて報告していたのだが――そうしている間にも、彼女はずっと、かごめさんの日記帳をぱらぱらとめくっていた。どうも、読みながら私の話を聞いていたらしい。ただ、相槌は適切だったので、話の方を無視していたわけではないだろう。

 梓はいつものようにカウンターの奥にいて、私は売り物だろう椅子に座らされている。私の方はすでに話を終えていたが、梓はどうやら、もう少しで一冊分の日記帳に目を通し終えるところらしい。この状況でわざわざ急かす必要もなかったので、私はただそれを待っていた。

 かごめさんの日記を読んで、梓は何を思うのだろうか。

 私は当初、彼女の――他人の日記帳を読むことに抵抗を感じていたが、今ではむしろ愛着と呼べるほどに、それを身近なものとして思うようになっていた。その手の話が苦手で、始めこそ日記の内容を怖がっていた私が、無理にでも読んでいるうちに、いつしかそれを恐れなくなった程度には。

 そう考えたとき、私はふと思う。日記の内容はともかくとして、私はどちらかというと怖い話は得意ではないのだが――では、梓はどうなのだろうか、と。

 日記帳から顔を上げる頃合いを見計らって、私は梓にこう問いかけた。

「かごめさんは、拾った物の怪異にずいぶんと悩まされていたみたいだけど……梓はどうなの? 幽霊とか――そういうものは見えないんでしょう?」

 梓は私のことをじっと見つめると、ほんの少し悲しそうな表情で苦笑した。

「見えない、ね。見える見えないを、ことさらどうこう言うこと自体、私はあまり好きではない。というより、私が知る中でその――見える者たちは、皆それを自然のこととして、取り立てて誇ることも、恥じることもなかったからな。しかし、まあ――私の祖母はどちらかというと、見える人だ」

 そして、梓は見えない人らしい。いや、強すぎて怪異の方が近づけない、だったか。それがどう違うのかはわからないが。何にせよ、伊吹の言葉を信じるなら、そういうことなのだろう。

 梓は淡々とこう続ける。

「私が幼い頃、祖母はここにあるアンティークにまつわる物語について、いろいろと話をしてくれたよ。思えば、祖母はそうした話をすることで、物に付加価値を与えることができる人だった」

 そこまで言うと、梓は軽く肩を竦めた。

「とはいえ、アンティークの鑑定については、あの人が情に左右されることなどなかったが」

 彼女の言葉に、私は思わず笑ってしまう。その物の価値以上に特別な価値を付与することはできない――だったか。その辺りは、祖母と孫でそれほど差はないらしい。

「何にせよ、私は祖母が語る話の中でも、とりわけ――不思議な物語を聞くのが大好きだった」

 梓はそう言って、店内を見渡した。私もまた、あらためてそれらに目を向ける。

 アンティークショップには、さまざまな古めかしい道具や装飾品が並んでいた。そして、ここにある物の中には、おそらくいわくつきの品がいくつか混じっているのだろう。

 しばらくの間、それらのアンティークを眺めてから、彼女は不意にため息をついた。

「しかし、どうやら私には、祖母が見たり聞いたりしたものを、同じように見たり聞いたりすることはできないらしい。そういうものに縁がないようだからな。そのことを、たまに寂しく思うことはあるよ」

 どこか斜に構えたところのある、アンティークショップの店主。しかし、今のその言葉は、彼女が初めて私に見せた心の内であるかのように思われた。

 私は梓と初めて会ったときのことを思い出す。回顧メモリーにも感傷センチメンタルにも逸話エピソードにも興味はない、と冷ややかに言った彼女に、反発するように投げかけた私の問いかけ。

 ――じゃあ、呪いカースには?

 私がそう尋ねたとき、梓は多少なりとも、それを期待したのだろうか。自分の身に起こるかもしれない不思議な物語を。

 しかし、目の前の梓はいつもと変わらない調子で、その感慨をふんと軽く笑い飛ばした。

「とはいえ、だ。アンティークは何も、怪異や不思議が全てではない。むしろ、そんなことを起こすことの方が珍しい。そこを勘違いされては困る。アンティークが持つおもしろさは、もっと別にあるのだから」

 私は思わず苦笑した。確かに梓は不思議な物語に憧れがあるのかもしれないが、おそらくアンティークそのものにだって、愛着はあるだろう。何かあるたびに、あんなにも饒舌に語っているのだから。

「それは、もう。いつも、いろいろと語っていただいておりますので」

 私は冗談めかしたつもりだったが、梓はなぜか、あからさまに顔をしかめた。

「いや。私はむしろ、そういうことを語るのが、どうも苦手なようだ。だから、不必要に知識を並べ立ててしまう。祖母にもよく、恥ずかしいからやめろと言われているよ。ぺらぺらと余計なことまで話すべきではないと」

 梓はそのときのことを思い出したのか、不服そうにため息をつく。

「そんなつもりはないのだがな……好きで話しているだけで――と、それがいけないのかもしれないが」

 梓が何かにつけて事細かに話すのは、詳しくない私にもわかりやすく説明しようとしているものだと思っていたが――単に好きでそうしていたらしい。それならそれで、かまわないとも思うが。

 梓はそこで、あらためてかごめさんの日記帳を手に取ると、目当ての記述を探すようにぱらぱらとページをめくり始めた。

「それで――この日記帳を全て読み終えた、という話だが。君の元にある物で怪異を起こしそうな物はもうない、ということで間違いないな?」

 梓の問いかけに、私は頷く。

 日記を読んでいるときは常に意識していたので、それに関しては間違いないと思う。とはいえ、そもそも記述を見つけられなかった秘密箱のような例もあるのだから、それらの物に危険がないということにはならないが。

 しかし、そのことは当然、梓も了解しているはずだ。わざわざ確認したということは、何かを危惧してのことだろう。

 私はこう問い返す。

「何か気になることでもあった?」

 梓が開かれた日記帳を指し示したので、私はそれを覗き込んだ。目にした途端、私はその内容を思い出す。

「ああ。火事騒動の件ね」

 そう言ってから、私はあらためてそこにある文章に目を通した。


 ――家が火事だと騒ぎになった。

 窓から黒煙が上がっていると。

 確かめてみたが火の手はない。

 煙もいつのまにか消えていた。


 かごめさんの身に起こった、不審な火にまつわる一連のできごとは、この文章から始まっている。このときは黒煙が見えただけだったが、それはやがて、彼女の家があわや火事に見舞われるか、というところまで発展していった。

 それを引き起こした物は、確か――

「燃える着物、だっけ」

 私の言葉に、梓は頷いた。

「振袖火事のそれを再現したものだろう。わざわざそんなことをするとは。これを誂えた者は、よほど物好きな人物だったに違いない」

 それを聞いた私は、おそらく怪訝な顔をしていたのだろう。しかし、このときの梓はその反応に呆れることなく、わざわざこう言い直してくれた。

「すまない。名称としては、明暦めいれき大火たいかが正しいな。振袖火事は俗説による別名だ」

 明暦の大火――何となく、聞いたことはあるような。

 大火、というからには火事だろう。喧嘩と火事は江戸の華。江戸時代に火事が多かったことは知っている。そのうちいくつかは、大きな被害を出したことも。

 いまいち、ぴんときていない私の様子を察して、梓はさらにこう尋ねた。

「……日本史は得意ではないか」

「人並みの知識はあると思うけど。専門はどちらかというと現代社会で」

 とはいえ、歴史の勉強などせいぜい高校生のときくらいしかしていない。ほとんど忘れてしまっている気もする。

 私の言い訳に呆れたのか、梓はいつもの冷ややかな表情に戻ってこう言った。

「いや。いい――わかった。明暦の大火というのは、一六五七年に江戸で発生した大火災で、江戸城を含む街の大半が焼失した。死者の数は定かではないが、数万人――多くて十万人以上とも言われている」

 それを聞いて、私は思わず、ああ、と声を上げた。

「もしかして、それを機に江戸の都市が整理されたっていう? 犠牲者を弔うために、回向院えこういんが建てられた……」

 火事の名称は忘れていたが、その事実自体は覚えていた。梓は頷く。

「そのことだ。江戸は火事が多かったことで有名だが、その中でもこの大火の被害は甚大だった。原因については、定かではない。放火説なども唱えられているが――中でも有名なのは、本妙寺ほんみょうじの失火とする説だ。それが振袖火事の名の由来でもある」

 言っているそばから梓は饒舌に語り始めた、が――私はそれを指摘することなく、ひとまずそこで合いの手を入れる。

「どんな話なの?」

 梓はこう続けた。

「まず、裕福な家の娘がすれ違った男に一目惚れするが、恋患いで命を落とす――と、この時点でよくある話な気もするが」

 そんなことが現実によくあるだろうか。私は訝しく思ったが、ここでは口を出さないでおく。しかし、続けて梓が呟いたのは、こんな言葉だった。

「紫縮緬の生地に、荒磯と菊の柄」

「何それ」

 私は思わずそう返した。しかし、梓は何ごともなかったように話を続ける。

「その娘は亡くなる前に、想い人が着ていたものに似せて振り袖を誂えていた。死後にその振り袖は売られ、別の娘の物となるが、その娘も病で亡くなり――といったことがくり返される。不吉だとして、その振り袖は寺で焼いて供養することになるが、火のついたその振り袖は突然の風に舞い上がってしまった。それが原因で街に炎が燃え広がって――と、それが顛末らしい」

「何と言うか……ずいぶんと詳しいけど」

 詳しいというか、出来すぎているというか。その事情を誰かが語ったのだとして、いったい誰が知っていたというのだろう。

 私がうろんな目を向けると、梓は苦笑した。

「そもそもこの話は、明暦の大火を正式に記録した史料には残っていない。いつ頃から広まったかもわからない。ただ、ここまで知られてしまえば、たとえそれが不確かな話だとしても、その火事に別の名を与えるほどになるわけだ。あるいは――この後に、お七火事しちかじが起こっているからな。あれこそ物語の題材にもなっているし、その影響はあるかもしれない。ともかく――」

 梓はそこで、あらためてかごめさんの日記帳に目を向けた。

「紫縮緬の、というのは、その振袖のことだ。桔梗の紋――だったか、伝えられている話だと、もっと細かな描写があった気もするが……日記にはそこまで書かれていなくとも、紫縮緬の振り袖でおまけに火とくれば、どうしたって振袖火事に結びつく」

 私は思わず、ふむと唸った。

「作り話なのに、振り袖についてそんな詳細があるのね。いや――作り話だからこそ、か」

 私は日記帳のページをめくって、それに関する記述を探した。


 ――ボヤの原因がわかった。

 紫ちりめんの振り袖だ。

 いつの間にかくすぶり燃えている。

 仕方がないので浴槽の水に沈めておいた。

 しかし知らぬ間にふわりと飛んでいく。


 確かに、紫ちりめんの振り袖とある。しかし、柄までは書かれていない。この後にも、そんなことは書かれていなかったと思うが――


 ――人からこんな話を聞いた。

 大昔に着物を燃やして大火事になったことがあったらしい。

 それが燃えずに残っていたのだろうか。

 悲しい恋の妄念と一緒に。


 あらためて読むと、かごめさんは振袖火事の俗説を知っていて、それを信じていたらしいことがわかる。しかし、梓はそうではないだろう。話を聞いたばかりの私ですら、それは事実ではないだろうと思っている。

 とはいえ、だとしたらこの怪異は――いったい何だったのだろうか。

 由来自体が作り話で、しかも、それを再現したにすぎない物。それが怪異を起こす理由が全く理解できなかった。それとも、俗説には多少なりとも真実が含まれていて、不吉な振り袖は実在した、ということだろうか。

「それで? 日記に書かれている振り袖が再現された物だとして、だったらなぜ、それは燃えたりしたの? それとも、実は本物だったとか?」

 私はその疑問を素直に投げかけた。しかし、梓はただ肩を竦めるだけだ。

「そもそも何をして本物と呼ぶのか、だが――何かを元に作られた物があったとして、それが偽物とは限らないからな」

 どういうことだろう。何かを元に作られた物は、どうしたって複製品か模造品か、ということにならないだろうか。私は思わず食い下がった。

「でも、これについては、その元になる話からして作り話なんでしょう? だとすれば、恋の妄念とやらも、そもそも存在しないってことになる。それなら、何がこの着物に火をつけたの?」

 私の反応に、梓は呆れたような表情を浮かべている。

「ずいぶんと、こだわっているようだが……しかし、怪異に因果を求めたところでな」

 別にこだわっているつもりはないのだが――こういう据わりの悪い話は、ある程度納得できないと、どうにも気が収まらないだけだ。

 そんな私の思いを見透かしてか、梓はこう答え直す。

「そもそも、全ての事柄に都合よくわかりやすい原因があるわけじゃないだろう。わからないことはわからない――そういうものだ。だからこそ、気になるのかもしれないが」

 そう断言されてしまうと、私は引き下がらざるを得ない。押し黙る私とは対照的に、梓は平然とこう続ける。

「ともかく、振り袖が燃えた理由なんて、こんなところで議論したところでわかりはしない。現物もないことだし――もしかしたら、実のところ怪異などではなく、科学的に説明のできる現象だったのかもしれない。もちろん――そうではなかったかもしれないが」

 答えを知るには、材料が少なすぎる、か。その理屈自体は、私にもわかる。ただし、それで燃える振り袖の件が納得できたわけではなかったが。

 私は思わず顔をしかめると、日記の内容を思い出しながらこう言った。

「何にせよ、そんな着物を作るなんて、はた迷惑な人がいたってことね。どうしてそんな物を作ろうと思ったかは知らないけど。燃えてしまうなら、作る意味なんてないでしょう? 現に、その着物はもうないみたいだし」

 紫縮緬の振り袖にまつわる、かごめさんの物語はこうだ。

 火事を起こすことがわかったその振り袖はかごめさんの手によって解体され、怪異はひとまず鳴りを潜めることになる。しかし、次の年にはまた同じように小火騒ぎが起こってしまった。残された紫縮緬の生地の、もはや振り袖ですらなくなったそれを封じることで、この騒動はようやく終息する。

 だから、この日記の内容が確かなら、紫縮緬の振り袖はもう残ってはいない――はずだった。

 考え込んだ私に向かって、梓はこんなことを言い出す。

「振り袖を誂えた者も、それが燃えるとは思っていなかったのかもしれない。形代かたしろとして怪異を引き写してしまっただけで――あるいは、そこには本当に何の関わりもなく、ただ好きなように着物を誂えたところ、燃える振り袖になってしまった、という可能性だってあるだろう」

 そんな可能性があるだろうか。ないとは言い切れないだけで、あるとも思えないが。私は思わず反発した。

「それじゃあ、余計に意味がわからないじゃない」

 詰め寄る私をかわすように、梓はとぼけた様子でそっぽを向いている。

「何にせよ、架空の物を現実に作ってみたいという欲求それ自体は、特に珍しくはないと思うが。そうだな――蓬莱の玉の枝があっただろう」

 突然何のことかと思ったが、そういえば、あのダンボール箱の中には、確かにそんな物も入っていた。竹取物語で、かぐや姫が求婚者に与えた無理難題のひとつ――を、おそらく模した物。

 何だか、振り袖の件をはぐらかされた気もするが――

 梓はこう続ける。

「あれは架空の宝物ではあるが、物語の中でも、車持皇子くらもちのみこが職人に作らせたわけだからな。金工をする者としては、そういう物を作ってみたくなるものかもしれない」

 振り袖のことを引きずっていた私は、梓の言い分に疑いの眼差しを向ける。

「まあ、そういう宝物ならわからなくはないけど。それが不吉な振り袖だとしても、作ってみたくなるものなの?」

 梓は、さあな、と冷たくあしらった。

「だから物好きだと言っただろう。何にせよ、それもひとつの作品にはなり得るからな。架空の物ではないが、柚子もよく店の物を勝手に真似て作っている。練習だ、とか言って。粒金細工りゅうきんさいくの真似事をしていたときには、さすがに驚いたが」

 知らない言葉だったので、私は思わず聞き返した。

「粒金細工?」

 私の反応を見て、梓はおもむろに席を立つと、どこからか金細工のアクセサリーを持って戻って来た。それをそのままカウンターの上に置く。

 小さなブローチだ。細かな彫刻が施されている――と思ったのだが、よく見るとごく小さな金の粒が並べられて、それが模様となっているようだった。

「グラニュレーションとも呼ばれる技法だ。その名のとおり、一ミリにも満たない金の粒を無数に並べることで模様を作る。これらを接着するのが難しい。紀元前二千年から一千年までは盛んに行われていたが、その後は長らく途絶えてしまった。そのため、失われた技術としても知られている。今の技術で再現も試みられているようだが、その時代に行われていたものと同じ方法かどうかは、もはやわからない」

 失われた技術。確かに伝統工芸などは、次代の担い手がいないだとか、技術の継承ができていないだとか、そういう話をよく聞く。それでも何となく、そういった伝統的なものは誰かが守っていくのだと思っていた。誰か――だなんて、漠然とした話だが。

 しかし、実際に失われた技術があるからには、それはそう簡単なことではないのだろう。

 そんなことを思いながら、私は粒金細工のブローチにあらためて目を向けた。

 私は手先が不器用な方なので、何かを作りたいという欲求がそもそもない。そうでなくとも、やり方が全くわからないなら、それを真似ようなどとは思わないだろう。だからこそ、そんなことを考える者がいたとしたら、そういった技術について、よほどの感心と自信があるに違いない。

「よくわからないけど、才能あるのね。あの子」

 私は何気なくそう言った。

 アクセサリーを作る人を目指して修行中だと言っていたか。今はこの場にいないが、普段から店に入り浸っているという話で――そのことに、梓はいい顔をしていないようだった。

 とはいえ、梓とは長いつき合いのようだし、そうして場所を貸しているからには、内心では応援しているのかもしれない――と思ったのだが、梓は不機嫌そうな表情を浮かべると、こう吐き捨てた。

「どうだか。それに、才能のあるなしは、それで食べていけるかはどうかとは関係ないからな」

 いまいち、仲がいいのか悪いのかわからない。そういったことを、気兼ねなく言い合える仲ということだろうか。

 梓はそこで粒金細工のブローチを手に取ると、あらためてこう話し始めた。

「技術も物も、伝えていかなければ消えて無くなってしまうものだよ。百年の時を経て物が残っているのは、たまたまそうなったからではない。それは確かに誰かが残したからだ」

 梓はブローチをカウンターの上に戻すと、今度はまた、ぱらぱらとかごめさんの日記帳をめくり始めた。

「特に火は恐ろしい。燃えてしまえば、全てが灰になる」

 それを聞いて、私はふと思う。

 もしかして、梓が日記帳にあった火事の記述を気にしたのは、何よりそれを危惧していたからだろうか。怪異を恐れない彼女が、珍しく恐ろしいと思うもの――

 梓はさらに、こう続ける。

「祖母のこの店を引き継いでから、私は先のことをよく考えるようになった。ここにある物は、それこそ祖母が生まれる以前から、誰かが残し、誰かが守った物なんだ。私はそれを、また誰かに引き継がなければならない」

 私はその言葉に、はっとした。

 この店に対する梓の矜持を耳にして、私は思わず我が身を振り返る。今の私には、彼女のように誇れるものはあるだろうか、と。

 かごめさんの日記帳を読み終えてからこちら、私自身、これからの身の振り方についても考えるようにはなっていた――この先、自分はどう生きていくつもりなのか、ということを。

 事件に捲き込まれ、その対処に追われて――そのせいで、今はまだ無為に過ごしていても許される――そんな気がしていた。しかし、いつまでもこのまま、というわけにはいかないだろう。

 ただ、そんな現実的な問題が目の前にあることを理解しつつも、私は未だに真正面からそれに向き合えないでいた。

 なぜなら、まだ何も終わっていないからだ。かごめさんが残した遺品。それを持ち出した千鳥の死。自分の元に届けられたいわくつきの物たち。それらが何ひとつわからないままで、先のことなど考えられるはずもない。

 私のそういった思いについては、今のところ梓に打ち明けるつもりはなかった。これはあくまでも私の問題だ。怪異のことで梓に頼ることはあっても、自分の問題を彼女にゆだねることはできない。

 とはいえ、今の私にいったい何ができるというのだろう。

 そのとき不意に、目の前に積み上がった日記帳が目に入った。残された手がかりがあるとすれば――やはりこれしかないのかもしれない。かごめさんの家に残されているはずの――ここにはない日記帳。

 私はもう一度、あの家へ行かなければならないのだろう。そのことを、あらためて確信する。

 ただ、空き家となったあの家に部外者である私が入るとなると、少々面倒な話で――とはいえ、このことはもう少し真剣に検討してみてもいいだろう。いざとなれば、千鳥のように忍び込めばいい――それくらいの覚悟はできている。

 思いついた計画については胸に秘めて、その後も私は梓と取るに足らない話をした。日記帳を読破したとして勇んでここにやって来たはずだが、結局のところ、私たちはたわいもない話をしただけだった――が、それでも得られたものはあっただろう。

 夕刻になると、私は妙に浮ついた気分で帰宅した。これからのことに、少しだけ展望が見えた気がしたからだ。しかし――

 その気持ちはすぐさま吹き飛ぶことになる。なぜなら、家に帰りついたそのとき、私はそれを目にしてしまったからだ。

 窓から上がる黒い煙を。



 黒い煙の原因について、私に思い当たることなどあるはずもなかった。

 ずしりと重い日記帳を机の上に下ろしてから、私は家中をくまなく探す。しかし、火元になるような物は見つからず、燃えた跡すら見当たらなかった。電気系統も、軽く見た限りでは問題なさそうだ。

 ひとまずは梓に連絡を入れることにする。

 電話の向こうから、彼女にはくどくどと――火に気をつけるように、何なら例の物を全て店に持って来い、とまで言われた。時刻はもう夜。今から梓のところに転がり込むのもどうかと思って、それについては流石に遠慮する。

 それに、今のところ目にしたのは黒い煙だけだ。何かが燃えていたわけではない。そんな現状でそうすることは、どうにも大げさなように思えた。

 とはいえ、それこそ黒い煙の怪異となると、日記帳の中に記述があったのは例の振り袖くらいのものだ。気づいていなかっただけで、その振り袖に由来する物が、実はあのダンボール箱にはあったのだろうか。もしくは、父の遺品だった椿皿や、壁の中を這う何かのように、元々この家にあった別の何かが、原因なのかもしれないが。

 伊吹が家に来たときに、ダンボール箱の中の物も見てもらった方がよかったかもしれない。霊能者らしいのだから――と、今さらながらそう思いつつ、結局、彼のことを便利に使おうとしている自分に気づいて、私は複雑な思いを抱いた。あの人となりからして、彼はおそらく、いろいろと頼みやすい人物なのだろう。

 何にせよ、他に確かめることができる物といえば、それくらいしか残っていない。仕方がないので、私は例の箱の中を確認することにした。

 秘密箱を取り出したとき以来、開けていなかったダンボール箱を、久しぶりに開けることにする。ひとつずつ中身を取り出して、ひとまず床に並べていった。

 まず、蓬莱の玉の枝。湯のみの茶わんに、螺鈿の盃、古銭、能の面――特に関連はなさそうだ。古い手鏡が少し気になったが、表面が曇って鈍い光すら返さないそれに、火を起こす力があるように見えなかった。

 残るは陶製の壷だけ。薄い青色で、表面には濃い青で絵か、あるいは模様が描かれている。しかし、描かれているのは絵なのか模様なのか、いまいちわからない。中には、ごわごわした白い布のような物が詰められている。

 何かが詰められている――そのことが気になって、私は思わずそれを取り出した。そうして中を覗き込んでから、即座にしまった、と思う。

 壷の奥底には紫色の何かが入っていた。布のように見えるが――振り袖が入る大きさではないから、端切れだろうか。よく見ると、それには焦げたような跡もある。

 慌てて白い布の方を見てみると、こちらは裏側に、模様のような文字のような、読めない何かが刺繍されていた。それを見て、真っ先に思ったのは、御札に似ている、だ。

 それに思い至った瞬間、私は急いでそれを壷の中へと押し入れた。

 どうだろう。これで再び封じることができただろうか。

 しかし、これでは秘密箱のときと同じだ。うかつなことをするんじゃなかった。私は後悔する。ただ、もしもこれが黒い煙の原因だとしたら、白い布を取り出すより前に、怪異を起こしていたことにはなるが――

 私は日記帳のことを思い出す。


 ――紫ちりめんの端切れを封じた。

 開けてはならない箱の中へ。


 箱と書かれていたから、まさかこんな物に入れられているとは思わなかった。

 私は――おそらく紫縮緬が封じられていただろう――その壷を、ひとまず別の場所へ移すことにした。ちょうど壷が入りそうな一斗缶があったので、これに入れて家の外――裏庭の、建物からは少し離れたところに置く。しばらくこの状態で様子を見てみることにした。

 とはいえ、梓とあんな話をした後では、もしかしたら、これが今にも火を吹き出すのではないかと思って、気が気ではない。考えた末に、私は薄手の毛布にくるまり、壷の入った缶を目の前にして――勝手口に座り込むことにした。そのまま、それをじっと監視する。

 そうして、私は眠れぬ一夜を過ごした。




 一晩中ずっと見張っていたが、あの壷は――そして中にある紫の布は、何の異変も起こさなかった。どうしようか迷ったのだが、それをその場に置いたままにして、私は手ぶらであかとき堂へ向かう。

 店に着いて早々、梓は私にこう言った。

「京都で火除けのお守りを借りてきた」

 それは小さな巾着袋だった。お守り、と言われればそう思えなくもないが、神社などでよく見る物とは少し違う。受け取ると、中に何か固い物が入っていることがわかった。

 それにしても、買うではなく借りるなのか――と思わないではなかったが、有り難く借り受けることにする。梓がそう言うからには、それなりに御利益がある物なのだろう。

「ありがとう。でも、いいの? 火除けのお守りなら、梓だって必要でしょ」

 梓は首を横に振る。

「私が持っていても無意味だからな」

 彼女は不服そうに、そう答えた。

「もしかして、お守りの効力まで無効なの」

 私は苦笑したが、梓はただ肩を竦めている。そして、私のことをあらためて見返すと、彼女は不機嫌そうな表情を浮かべて、こう尋ねた。

「その――紫の布が入った壷は持って来なかったのか」

 私は答えに困って、しばし黙り込んだ。

 梓の元にあれば、その紫縮緬も怪異を起こすことはないのかもしれない。しかし、鷹の根付の例もある。もしも、この店であの布が火を出してしまったら。そして、それが燃え広がってしまったら――

 そう考えると、とてもではないが、ここに持ち込む気にはなれなかった。

 しかし、梓がそれを提案するのも、私のことを心配してくれているからだろう。その好意自体は有り難い。私はできるだけ平静を装って――何でもないことのように、こう答えた。

「大丈夫。まだ火を出したわけじゃないし。もしかしたら、あの――かごめさんの作っただろう刺繍で、封じ込めることができてるのかも」

 そうは言ったものの、放置しているあの壷の――紫の布ことが気にならないわけではない。梓に相談しようにも、振り袖の件はそもそも昨日に散々話をしたばかりだ。その上で、これ以上の長話をしたとして、何かがわかるとも思えなかった。結局、梓からお守りを受け取っただけで、私は早々に店を辞す。

 駅から家へ向かう途中、辿り着く前にすでに何か嫌な予感がしていた。家の方で、煙が上がっているような気がする。気のせいだろうか。

 しかし、近づくにつれ人の気配が――喧噪が大きくなっていき、何かが起こっているらしいことがわかってきた。漠然とした不安は、徐々に確かなものになっていく。

 家の前に人だかりができていることに気づいた途端、私は思わずかけ出した。

 群衆の中のひとりが振り向き、あ、と言う声を上げて、私の方へと歩み寄る。中年の女性だ。お隣さんで、私が小さな頃からお世話になっていた人だった。

 彼女は私の顔を見ると、ほっとしたように胸を撫で下ろす。

「ああ。よかった。出かけてたのね。今、消防車を呼んだよ。じきに来るから、それまで近づいちゃダメだからね」

 消防車。やはり――と思い、私は慌てて家の方へと走った。そして、人だかりをかき分けて、表門の前に立つ。

 家が燃えていた。裏手の方から黒い煙が上がり、赤い炎がちらちらと揺れているのが見える。しかし、まだ火は回り切っていないようだ。それを確認した途端、私は周りの人たちの制止を振り切って、家の中へとかけ込んだ。

 冷静な判断ができていたわけではない。それでもそうしたのは、咄嗟に――燃えてしまう、と思ったからだ。父の遺品が。かごめさんの日記帳が。

 外から見た限りでは、まだ一部が燃えているだけかと思ったのだが、家の中にはすでに煙が満ち始めていた。そして、熱気を感じる。足が竦みそうになるのをこらえながら、私は無理にでも前へと進んで行く。

 急いで自分の部屋へと――二階への階段を上った。服の袖で口を抑え、息を止めながらそこまで辿り着くと、机の上にある日記帳と父の遺品だけを持って部屋を出る。

 火の回りが早い。ちらちらと燃える炎が見えた。階段を下りて、そう長くはないはずの玄関までの距離を、身を屈めながら歩いて行く。熱い。痛い。煙で前が見えない。

 燃えていく。私の家が。この家で生まれ、高校生のときまでをここで過ごした。家を出た後でも、たまにそこにあることを懐かしむことができる――そんな、私にとってかけがえのない故郷だった。それが今、全てを炎に焼かれていく。

 祖父母が寝起きしていた一階の和室。家族でよく集まっていた居間。倉庫代わりだった応接間。炎はやがて二階にある母の部屋も、そして私の部屋をも燃やし尽くしてしまうのだろう。

 私自身はあまり物に執着しない方だと思っていた。そもそもこの家は、いずれ売りに出されるはずだったのだ。それでも、焼け落ちていく家を見ていると、胸が張り裂けそうな、力が抜けていくような、そんな感覚に囚われる。

 それでも、どうにか玄関の扉に縋りついて、私はそこから外に飛び出した。ふらふらと家から離れて、そこで力尽きたように膝をつく。

「鹿子!」

 門の方から私を呼ぶ声がする。この声は――

 どうして、と思いつつ顔を上げると、苦々しい表情の梓がそこに立っているのが見えた。彼女は私の元へかけ寄ると、こう声を荒げる。

「馬鹿者。こんな無茶をするやつがあるか」

 私はただ肩で息をするばかりだ。そうして私が何も答えられないのを見ると、梓は声の調子を和らげてこう言った。

「すまなかった。私も、もっとちゃんと話しておくべきだった。明暦の大火は旧暦で一月――つまり今頃に起こっている。日記帳で騒動のあった日付とも一致していた。だから気にしていたんだ。もしもまた火を出すなら、この日だろうと」

 どうにか落ち着いてきたので、私はそこでようやく、強張っていた腕の力をそっと緩めた。必死になって守った物――ボロボロの日記帳と薄汚れたぬいぐるみを目にした途端、急に乾いた笑いが込み上げてくる。

「鹿子?」

 心配そうな梓の声。

 私の目には、知らず涙があふれた。梓の言うとおりだ。これだけのために、私はなんて無茶をしたのだろう。それでも――

「馬鹿みたいって思う? 物は物なんでしょ? 私だってそう思う。でも私は……私は――」

 嗚咽で声が震えている。梓は何も言わずに私の肩に手を当てると、炎に包まれていく家の方を悲しげに見やった。そして優しい声で、こう話す。

「長い歴史の中ではきっと、多くの価値ある物が失われてきただろう。だからこそ、時を経て今に残されている物は、間違いなく全て価値ある物だ。誰かがそれに心を寄せ、そして守った物なのだから」

 私はあらためて、日記帳とぬいぐるみを抱き締めた。梓は私を立たせると、支えつつも火事場から遠ざけるように歩き出す。

 梓はさらに、こう続けた。

「しかし、物は物として価値があるように、君自身にも価値があるだろう。どちらか、じゃない。それぞれに、だ。だからこそ、君が君自身を尊ばないでどうする」

 燃え続ける家から十分な距離を取ってから、梓は立ち止まり、そして振り返った。炎はとどまることなく、家中を包み込んでいく。無力な私では、もはやどうすることもできない。

 私が救うことができたのは、日記帳とぬいぐるみ――このたった二つだけ。後は全てが失われていく。

 残されたそれらにしがみつく私の手に、梓はそっとその手を重ねた。

「物に向ける思い自体は、私も否定するつもりはないよ。どんな物にだって、回顧メモリーが、感傷センチメンタルが、逸話エピソードがある。それは、誰かの心の中に。しかし、私はそれに――値などつけられない。ただ、それだけだ」

 そう言って、全てが終わるまで、彼女は私の傍らに立っていた。




 火中に飛び込んだ私だが、お守りのお陰か大した怪我もなく、念のため病院で検査をしただけで特に問題もなく帰された。

 とはいえ、私にはもう帰る場所はない。実家は全焼し、残っているのは黒く焼け焦げた燃えかす――ただ、それだけだ。

 消火が確認された後、私は梓と共にその焼け跡を歩いた。

 紫の布を探しに行ったのだが――それはどうやら、どこかに消えてしまったようだ。代わりに、青い壷だけがなぜかきれいに残っているのを発見する。火の近くにあったというのに、燃えた跡はもちろん、煤けた汚れすらなかった。

 壷からは白い布のような物が飛び出している。覗き込んでみたが――中に紫の布は入っていなかった。

 残された白い布を見て、梓はこう言う。

火浣布かかんぷか。江戸時代に平賀ひらが源内げんない秩父ちちぶ山中で元となる鉱物を発見し、作成したことで知られている燃えない布だ――いや。火鼠ひねずみ皮衣かわごろも、かな」

 私が思わずそれを手に取ると、梓はさらにこう続ける。

「鹿子。それはおそらく石綿いしわた――アスベストだ。取り扱いには注意した方がいい」

 アスベスト。というと、一時期建材の使用などで問題になった、あのアスベストだろうか。確か、あれは――

「有害物質じゃないの」

「線維状の角閃石かくせんせきあるいは蛇紋石じゃもんせき。耐火性などの優れた性質でさまざまな用途に使用されていたが、空中に飛散した物を長期間吸い込むと肺癌などの原因となることがわかり、現在では使用を禁止されている――な。まあ、すぐにどうこうなるものじゃない」

 梓は淡々とそう答える。

 私はそのアスベストを、ひとまず遠くの地面に追いやった。そして何気なく、壷の中を覗き込む。

 紫の布がなかったので、中には何もないだろう――と思っていたが、よく見るとそこには何かがあった。

 鍵だ。黒っぽい金属の、どこか古めかしい鍵。

 私はそれを取り出して、梓に見せた。しかし、それはなんの変哲もない、ただの鍵だ。当然、梓にもどこの鍵かまではわからなかった。

 しかし、この壷の中にあったということは――

 災難に巻き込まれながらも、唯一、私の手に残された物。それはいったい何を開けるための鍵なのだろうか。

 その鍵を見つめながら、私はただ、まだ見ぬ閉ざされた何かのことを思っていた。




 そして、これは後日の話。お隣さんから不思議な話を聞いた。

 家が火事だと騒ぎになる少し前。家の裏手で妙な物を見たそうだ。燃える紫色の小さな布がふわりと風に舞い上がったと思うと、火の粉を散らしながら、どこかへ飛んでいったのだと言う。

 どこへ飛んでいったのかは、わからない。

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