5 秘密箱

 少しずつ読み進めていた日記帳にも、そろそろ終わりが見えてきた。少なくとも手元の日記帳については、あと数日のうちに読破できるだろう。これからしばらくの間、何ごとも起こらなければ、だが。

 以前、個人的な日記帳も売買されている、ということを梓と話して、驚かされたことがあった気がする。実際に読んでみると、確かに、書き手の素直な心情によって綴られた日々は、もはや物語といってもよく、興味を持ってもおかしくはないと思わされた。さすがに、見ず知らずの人物の日記を買い求めようとは思わないが。

 古道具が起こす奇妙なできごとに悩まされながら、やえさんという助言者と共に、それに対処する日々を過ごしていたかごめさん。しかし、それ以外の部分では、彼女はあくまでも裁縫が少し得意な普通の人だ。

 刺繍や編み物だけではなく、衣服やその他の布製品まで作ってしまえる彼女は、そうした趣味で充実した日々を送ってもいたようだ。怪異とは関係ない、毎日のちょっとしたできごとに、少しずつ変化していく事柄。そうした日記の内容は、まさしく彼女の人生そのものだろう。

 しかし、そう考えると、わざわざどこからか古道具を拾ってくる彼女の悪癖が、より奇妙なことに思われた。どうしてそんなことになったのか、その始まりが書かれた日記帳は残念ながら手元にない。

 何にせよ、日記帳を読んでいくうちに、私の中にはかごめさんと、そして彼女の理解者だったやえさんの物語が徐々に鮮明になっていった。

 毒舌で皮肉屋のやえさんは、正体不明な人物ではあるが、かごめさんにとってはおそらく、なくてはならない存在だろう。かごめさんに助言をし、時に苦言を呈してくれる、このやえさんは今どこでどうしているのだろうか。

 それから、もうひとつ。読んでいて新しくわかったことだが、悪さをする怪異の中には、時にやえさんではどうしようもないものもあったようだ。そんなとき日記には、吉道よしみちさんに任せる、というようなことが書かれている。頻度は多くないので今まで気づかなかったが、この彼――でいいのだろうか――も協力者なのかもしれない。

 私はふと、しばらく放置していたダンボール箱を開けてみる気になった。日記を読んでいると、ほとんどの怪異はかごめさんによって解決されていて、ここにある古道具も、さほど危険はないように思われたからだ。問題になったのは、盗聴器の隠されていた西洋人形と片割れを無くした指輪くらいか。

 私はダンボール箱から、立方体の木箱を取り出した。そういえば、この箱を開けたことはない。というより、千鳥も梓も手に取りはしたが、開けて中を見ることはなかった。

 さて、どうやって開けるのだろうか。

 しばらくは、ためつすがめつ、いろいろと試してみたが、なかなか思うようにはいかない。しかし、そうしているうちに、組合わさった木の一部が少しだけ動くことに気づく。それをゆっくりと滑らせると、その先に小さな空間があって――その中で丸い目玉がぎょろりと動いた。

 私は思わず箱を取り落とす。

 ――油断した。

 しばらく箱を観察していたが、床に落ちたそれは、ひとりでに動いたり、変な音がしたりといったようなことはない。恐る恐る箱を拾って、先ほどの空間を見てみるが、そこには穴すらなく、ただ別の木の板があるだけだった。

 しかも、箱は一部が動いただけで、蓋が開くわけでもない。そもそも、これは開けることができるものなのだろうか。そんなところから疑い始める。

 一瞬だけ見えたあの目は、ただの見間違いだろうか。いや、確かに黄色い虹彩と黒々とした瞳孔が見えた。その目は私のことを認識し、しっかりとこちらを見ていたようにも思う。

 やはり、この箱も梓に見てもらった方がいいのだろう。そう考えて、私はその箱を手に、あかとき堂へと向かった。



 扉を開けると同時に、ドアベルの音が鳴る。いつもどおりの、いらっしゃい、という梓の声。しかし、いつもと違って、店の入口に近いところ、日の当たる窓辺に人影があった。

 そこにいたのは店主の梓――ではない。

 年の頃は二十くらいだろうか。若い女性が、怪訝な顔で私のことを見つめている。彼女は徐々にその目を見開いていくと、その口をぱくぱくと開け閉めし始めた。

 何度かそうしてから、彼女はようやく言葉を発する。

「おおおお客様だ!」

 そんなことを叫びながら、彼女は無遠慮にこちらを指差している。私は思わず立ち止まって、まじまじと相手を見返した。

 そのうち店の奥から聞こえてきたのは、不機嫌そうな梓の声だ。

柚子ゆず。それはどういう意味だ。ここは店だ。客くらい来る」

 梓はおそらく、いつもどおりカウンターの向こうにいるのだろう。彼女は柚子と呼ばれた女性の反応を待つことなく、続けて私にこう問いかけた。

「それで? 今度は何が起こったんだ。鹿子」

 何だ知り合いかあ、と呟いたのは窓辺の彼女だ。私が訪れていたときにそうしていたように、元いた椅子に座り直している。それでも私のことに興味があるのか、横目でこちらの動向をうかがっていた。

 何者だろうか。どうにも気になって、私もまた彼女のいる方へと目を向けた。

 店の片隅にある古びた書きもの机は、おそらくは売り物だろう。しかし、彼女はそんなこと気にする風もなく、自分の居場所だと言わんばかりにそこを占拠していた。机の上には古書やガラス瓶などと共に、いくつかのアクセサリーが並べられている。

 私がそちらに気をとられていると、珍しく梓が奥から姿を現した。

「柚子のことは気にするな。いないものと思ってくれてかまわない」

「えええ。私も一応、お客さんなのにい」

 柚子は不満の声を上げたが、梓に鋭い視線を向けられる。

「どこが客だ。入り浸っているだけじゃないか」

「そんなこと言って。あず姉がうっかり何か壊しても、もう直してあげないから」

 頬を膨らませて言い返した柚子の言葉に、私は思わず首を傾げた。

「直す?」

 その反応に、梓は苦々しげな表情を浮かべている。柚子の方はきょとんとした顔を私の方へと向けたが、それはすぐに人懐こそうな笑みに変わった。

 彼女はあらためてこう名乗る。

「あ。私、猪倉いのくら柚子ゆずです。アクセサリーとかが好きで、作る人を目指して修行中で。それで、ここにある物を参考にして、勉強してます。よろしく」

「一宮鹿子です。よろしく……」

 彼女の勢いに気圧されながらも、私はそう名乗り返した。そのやりとりに、梓はあからさまなため息をつく。

「何が勉強だ。店の物を勝手にいじったり、自作のアクセサリーだかを持ち込んで撮影所代わりにしたり。好き勝手しているじゃないか」

 そこでようやく、私は机の上にある物の理由を察した。どうやら彼女は、ここで自分の作ったアクセサリーとやらを撮影していたらしい。しかも売り物を小道具にしているようで、そうなると客というには確かに自由すぎる気もする。

 ただ、店主である梓に苦言を呈されているにもかかわらず、柚子の方はどこ吹く風だ。

「この店、雰囲気いいから。映えるでしょ? ここで撮った画像、反応いいの。置いてあるアクセサリーも、おもしろいし。こういう、今風とはちょっと外れたところがいいんだよね」

 そう言った彼女が手にしているのは、小さな宝石が散りばめられたブローチだった。これも店の商品だろうか。よく見ると、彼女自身もまた、空色の石があしらわれた素朴なペンダントを身につけている。

 柚子はとぼけた調子でこう続けた。

「それに一応、店の宣伝にもなるかな、と――」

 そんな言い訳めいた言葉に、梓はよりいっそう顔をしかめた。

「勝手なことを」

 仲がいいのか、悪いのか。とにかく近しい間柄であることは確かなようだ。しかし、どういう関係なのかは、いまいちよくわからない。

 私はどちらへともなく、こう問いかけた。

「柚子さんは――その。もしかして、梓とは親戚、とか?」

 店を自由に利用しているようだから身内なのかと思ったのだが、柚子は首を横に振る。

「ううん。そうだな……何だろう。幼なじみ、でもないよねえ。私があず姉と初めて会ったとき、私は小学生だったけど、あず姉は高校生だったし。まあ、昔なじみということで」

「君が店に迷い込んで来たんだろう。探検をしている、とか言って。そうして、いつの間にか居着いたんだ」

「そうそう。ここ、学校でも有名なおばけ屋敷だったんだよね」

 おばけ屋敷。その言葉に、私は思わず店内を見回した。

 そういえば、椿皿を返しに行ったとき、梓は情報屋への対価としていわくつきの品を渡している、というようなことを言っていた。だとすればやはり、この店ではそういう物も扱っているのだろう。近所でおばけ屋敷と噂される程度には、何かしら不思議なことが起こるのかもしれない。

 柚子は続けてこう話した。

「その頃は、おばあちゃんがお店やってて――あ。おばあちゃんって、あず姉のおばあちゃんね」

「ここはもともと祖母の店だ。私はそれを引き継いだに過ぎない」

 私はその言葉を意外に思った。

 あまりにもなじみ過ぎているせいで、私は彼女が何十年もこの店の主であるかのように錯覚していた――が、さすがにそんなことはないだろう。時間の重みを感じる店の空気も、誰かから受け継いだものだとすれば合点がいく。

 何にせよ、この店にはそれだけの歴史があるらしい。父のことがあったばかりだったので、私は思わずこう言った。

「初めて会ったときには、回顧メモリーにも感傷センチメンタルにも逸話エピソードにも興味はない……とか何とか言ってたけど。おばあさんの遺産としてこの店を受け継いだなら、ここにある物には、それなりに思い入れがあるんじゃない?」

「勝手に殺すな。祖母はまだ健在だ。今頃、家でビデオゲームに夢中になっている」

 梓の言葉に、私はばつの悪い思いで顔をしかめた。それはそれとして気になる単語を耳にしたので、私は思わず聞き返す。

「それは失礼。それで、どうして……ビデオゲーム?」

「彼女はすべての文化を愛している。アンティークの分野からは勇退し、今は新しい文化に夢中だ。それだけだ。そんなことより――」

 そう言いながら、梓はあらためて私の方へと向き直った。

「今日は、どんな用件だ?」

 私は鞄から例の箱を取り出すと、梓へと差し出した。

 白っぽい木で作られた立方体の箱だ。両手に収まるほどの大きさで、いくつかのパーツが組み合わされているようだが、装飾的なものではない。一部分だけ動かせることはわかったが、それ以上は調べていないので、やはりどうやって開けるのかはわからなかった。

 無言でそれを受け取った梓に、私は指差しながら説明する。

「ここの部分を――スライドさせて、そのときここにぽっかりと空間があったような気がしたんだけど。そこに目があって。もう一度見たときにはなくなってた」

 暗い隙間から見えたのは、黄色い虹彩と黒々とした瞳孔の丸い目。あらためて考えると、あれは――

「人の目じゃなかった気がする」

 梓はふむと呟くと、私がそうしたのと同じように箱の一部を動かした。しかし、そこにはやはり目などない。

 梓はそのことを確かめると、動かした部分はそのままに別の面を表へ向けた。他に動く部分がないかを探しているのだろう。くるくると箱を回しながらも、彼女はいつものように、その物について話し始める。

「細工箱だな。ようするに、仕掛けが隠されていて、一定の操作をしないと開けられない箱だ。日本では、明治の頃に考案された箱根の秘密箱が有名だろう。まあ、この箱はそれとは違うようだが……箱根の物は指物職人が考案したもので、土産としても売られているから、寄せ木細工の模様も凝っている」

 梓が箱の一部に力を加えると、それまで動かなかった部分がわずかに動く。そうして、少しずつ仕掛けを解いていくようだ。

「箱根の秘密箱より以前にも、この手の箱はあったようだが――この仕掛けは独自の物かな。工程がやけに多いな……」

 と、しばらくは何かしら語りつつ箱の仕掛けを動かしていた梓だが、徐々に口数が少なくなり、ついには無言になってしまった。かなりの時間が経った後、不意に梓はその名を呼ぶ。

「………………柚子」

 呼ばれた本人は、いつの間にか自分の作業場所へと戻っていたようだ。撮影のための準備をしていたのか、それとも、もう済んだのか。店内のどこからか持って来たらしいガラスの器を手にしたまま、彼女は梓の呼びかけに振り向く。

「ん? 何?」

 梓は怪訝な顔をしている柚子の元まで歩み寄ると、無言で箱を差し出した。柚子は素直にそれを受け取ると、こう問いかける。

「これを開ければいいの?」

 柚子は梓の返事を待つこともなく、ふうんと呟くと、さっそく箱の一部を動かし始めた。かと思えば、彼女は迷うことなく、次々と組合わさった木のパーツを動かしていく。

 呆気にとられていたのも束の間。柚子は、はい、という声と共に、その箱を梓に手渡した。

 立方体を構成していた面の板がひとつ、完全に外れている。その先には、残りの面に囲われた四角い空間が確かに口を開けていた。

「もう開いたのか。本当に器用だな。お前は」

 梓はあっさりとそう言うと、さっそく箱の中を確認した。私も彼女の肩越しに、それを覗き込む。

 そこにあったのは、鳥を彫刻した小さな細工物だ。小さな穴が空いていて、色褪せた紐が通されている。これは――

「根付だな。鷹か」

 そう言って、梓はその根付を取り出した。

 鷹かどうかは私には判断がつかなかったが、確かにその根付は猛禽類を模した物のようだ。色はアイボリー――ということは、素材はやはり象牙だろうか。

 細工は精緻で、獲物を捕らえるところか、それとも飛び立つ瞬間か、その一瞬の姿が写実的に捉えられている。それはまるで生きているかのようで、素人目に見ても出来がいいと思えた。

 私が箱を開けようとしたときに見返してきたのは、これか。普通に考えれば、見返せるはずもないのだが――自然にそう考えてしまうほどには、私もこういったことに慣れてしまったようだ。

 その根付を前にした梓は、息を吹き返したように語り始める。

「根付は帯から印籠などを吊るすための留め具だが、着物から洋服に変わってからは使われなくなり、代わりに海外の方で美術品、収集品として人気になった。そのせいで、多くは海外に流出してしまっている。これは――なかなかいい品じゃないか」

 どうやら梓はこの根付がお気に召したらしい。しかし、私は複雑な思いで彼女の話を聞いていた。どれほどいい品なのだとしても、ぎょろりと動いた目のことを思い出すと、素直に共感できないでいる。

 私の表情から察したのか、梓は思い出したようにこう言った。

「箱の中から見返していた、だったか。とはいえ、素晴らしい美術品というものは、そもそも命を得て動くものだからな」

 私が怪訝な顔をすると、梓はこう続ける。

「京都御所の猿ケ辻さるがつじを知らないか。あれは木彫りの猿だが、夜な夜な抜け出してはいたずらをするというので、金網で閉じ込められている。それ以外にも、例えば著名な絵師の描いた絵が抜け出したり、そういう話はよくある」

「まーた、始まった……」

 呆れたようにそう呟いたのは、すでに書きもの机に戻っていた柚子だった。今は店の商品を参考にして、何やら絵――デザイン画だろうか――を描いている。

 私はあらためて鷹の根付に目を向けた。

 出来がいいために命を得た根付。箱を開けようとしたときには睨まれてしまったが、箱の中にあったときは特に何も異変を起こすことはなかった。しかし、よくよく考えれば、それはつまり、閉じ込められていたものを解き放ってしまった、ということではないだろうか。

 そんな私の不安を汲んだのか、それとも単にその根付が気に入っただけか、梓は私に向かってこう提案する。

「心配なら、しばらく私が預かろう。この根付なら、それなりの金額で買い取ってもいい」

 梓にとっては、この程度の怪異は問題にもならないらしい。ただ、そもそも梓は箱の中から見返してきた目を実際に見たわけではないのだが――それでも、彼女が危険と判断しないなら、おそらく心配はないのだろう。

 考えた末に、私は秘密箱と根付を梓に託すことにする。

 ひとまず問題が解決したところで、私は梓と柚子に別れを告げて帰宅した。早々に帰ったのは、鷹の根付について何かわからないかと、かごめさんの日記を確かめたかったからだ。しかし、その日ざっと見た中には、箱についても根付についても、その記述を見つけることはできなかった。




 箱を開けた次の日の朝、梓から電話があった。

 その声音からただならぬ気配を感じ取り、私は急いであかとき堂へと向かう。しかして、その先で私を待っていたのは――いつもと違う、ひどく荒れたアンティークショップの店内だった。

 私はそれらを横目で見ながら、急いで梓がいるであろうカウンターの方へと向かう。

 色とりどりのガラス瓶は倒され、壁に掛けられた絵もいくつか床に落ちている。きれいに陳列されていたアクセサリーは乱され、木製の箪笥チェストには傷がついてしまっていた――が、これは元からかもしれない。

 梓はいつもどおりカウンターの向こうにいた。いったい何があったのだろう。泥棒にでも入られたのだろうか。店の状況に関して聞きたいことはたくさんあったが、顔を合わせてすぐに梓が言及したのは、そのことについてではなかった。

「鷹の根付が、ない」

 ない、ということはその根付が盗まれたのか。いや――いくら価値がある物だとしても、それだけ盗まれるのはおかしい。他にも盗まれた物があるのだろうか。

 しかし、梓が口にしたのは鷹の根付のことだけ。だとすれば、もしかして――

「まさかとは思うけど、その鷹が動いた、とか?」

 確かに昨日、冗談めかしてそんなことを話していた気がするが、まさか本当にそれが動き出したのだろうか。私はそう考えたのだが、梓はそれを断言することなく、ただ首を横に振った。

「わからん。わかっているのは鷹の根付がないこと。誰かに侵入されたわけではないこと。そして店内の、この有り様だ」

 そう言った梓の声音は、あからさまに不機嫌そうだった。しかし、自分の店がこうなったのだから、それも仕方がないだろう。

 梓は断定しなかったが、この状況を考えると、鷹の根付が店で暴れた可能性も考えられるのではないだろうか。ただの根付ならともかく、私は確かに、箱の中から見返してきたところを見ている。まだそうだとは言い切れないとはいえ、自分が持ち込んだ物が騒動の発端かと思うと、私は気が気ではなかった。

 かといって、何ができるわけでもない。考え込んだ梓を前に、私はとりあえず彼女の判断を待つことにする。

「鷹の根付が動いた、か……」

 梓がそう呟いたのをきっかけに、私は恐る恐るこう告げた。

「一応、かごめさんの日記にざっと目は通したんだけど……箱のことも根付のことも、手元の日記には書かれてなかった」

 梓はそれを聞いても、何の反応も示さない。あるいは、何かを迷っているようだ。しかし、私の視線を感じてか、不意にため息をつくと、彼女は諦めたようにこう言った。

「考えていても仕方がないな。ちょうどいい。確か、こちらの方に来ていたはず。あいつを呼ぼう」

「呼ぶって……次は――何を?」

「動物の専門家だ」

 私はもう、何を言われても驚かなくなりつつあった。



 ドアベルの音が鳴ると共に、店の扉が開いた。

「こんにちは」

 と店に入ってきたのは大学生くらいの青年だ。取り立てて目立つところのない、至って普通の真面目そうな青年だった。

 梓はカウンターの奥――おそらくバックヤードのようなところ――にいて、そのとき店内にいたのは私だけだった。私は彼のことを、珍しく訪れた店の客かと思ったのだが――

 青年は私のことに気がつくと、おずおずとこう話しかけた。

「あの……すみません。梓さんはどちらに――」

 私が応じる間もなく、奥から梓が出てくる。

「よく来た。さっそくだが、鷹を捕まえてくれ。根付だ。昨夜、店に置いたままにしておいたら、消えてしまった。おそらく、そいつのせいで店はこの有り様だ」

 ならば、この青年が梓の言っていた動物の専門家なのだろう。専門家と言うからには威厳のある、そうでなくとも、もっと年長の人物を想像していたのだが。

 とはいえ、以前に会った石の専門家だかも、それほど年上ではなかったような気もする。それでも京都の彼は、どこか浮世離れした人物ではあった。そのことを考えると、目の前の青年は――好青年ではあるが専門家と呼ばれるような人物だとは思われない。

 現に彼は梓に詰め寄られて、たじたじになっている。

「はあ。あの……もう少し詳しく経緯をご説明いただけますか? 根付? 鷹を模した物ってことですよね。それが、ここで暴れたんですか?」

 店内を見回しながらも立て続けにそう尋ねた青年に、梓は簡潔に、そうだ、とだけ頷いた。青年はそれを見て、なるほど、と頷き返す。

 根付を捕まえろだの、それが暴れただの、とんでもないことを話している割には理解が早い。どうも彼は見かけの平凡さとは違って、そういうことに慣れているようだ。

 青年は納得すると、何かを探すように店内を歩き始めた――が、いくらもしないうちに、ちらりと梓の方へと視線を向ける。腕を組んで見守っていた梓は、見られていることに気づくとこう問いかけた。

「私がいては不都合か」

 青年は答えにくそうに、梓の方を見返している。彼が何かを言うより先に、梓はため息をつき、そして――

「仕方ないな。しばらく出る」

 そう言い残して、梓は店を出て行ってしまった。

 何が何だかわからない私は、初めて会った青年とふたり、この店に置いてけぼりだ。私はあまりのことに呆然とした。

 青年は私のことを気づかって、こう声をかける。

「初めまして。僕は隼瀬はやせ伊吹いぶきと申します。梓さんのお友だちですか?」

 ええまあと曖昧な返事をして、私はどうにか名乗り返した。そして、自分がここにいる理由を説明する。

「その鷹の根付、私が持ち込んだ物なの。それで」

 伊吹はその言葉に、なるほど、と頷く。それを見て、私は軽く苦笑した。

「まあ、それにしたって、梓がどうして急に出て行ったのか、わからないけど。私たちを置いて……」

 今はもう閉ざされた店の扉に目を向けながら、私は何気なくそう呟いた。すると、背後から訝しげな声が上がる。

「ご存知ないんですか?」

 振り返ると、伊吹が怪訝な顔で首を傾げていた。私がぽかんとした表情でいると、彼は少し言いにくそうにしながらも、こう続ける。

「梓さんは、何と言いますか……そういう体質なんですよ。たまにいらっしゃいますけど。そういう方」

「体質?」

「怪異とは無縁というか、何というか」

 私はその言葉を奇妙に思う。あれだけ怪異のことを語っていた梓が、それと無縁だなんてことがあるだろうか。いったい、どういうことだろう。

「霊が退治できる、とかではなく?」

「というより、強すぎて彼女の周りには近寄れないんです。そのせいで、そういったものを見たこともないそうですよ」

 強すぎる。何が強すぎるのだろうか。しかも、見たことがない、と言う。その割には、その存在を固く信じていたように思うが――

「ですから、その鷹の根付はよほど強い力を持っていたのかもしれません。でもこれは……疾風しっぷうを出すまでもないかな」

 疾風。何のことだろう。

 ともあれ――そう言った後、伊吹は店内をひとり見て回り始めた。おそらく鷹の根付を探しているのだろう。しかし、傍目で見ていると――店の惨状は別にして――単に商品を眺めているだけにしか思えない。

 そもそも、彼はそういうことがわかる人なのだろうか。梓は自分が霊能者に嫌われているようなことを言っていたが――

 彼は店をひと巡りして私のところまで戻ってくると、残念そうにこう告げた。

「どうも、いないみたいです。その――鷹の根付ですが」

 私からは、はいそうですか、としか言いようがない。その後は、ふたりで梓が帰ってくるのを待つ。

 ドアベルの音と共に扉が開くなり、梓は早々にこう問いかけた。

「どうだった?」

 伊吹はあらためてこう報告する。

「申し訳ないですが、この店では見つかりません。どこか遠くに逃げたのかもしれませんね」

「何だと」

「僕を睨まれても困るんですけど……」

 鋭い視線を向けられて情けない表情になった伊吹を前に、梓は顔をしかめて考え込んだ。伊吹は軽く肩を竦めてから、そんな梓に声をかける。

「一応、疾風に探させてみますか? でも、僕自身がその根付を見てませんから、うまくいくかどうか。やれるだけ、やってみますけど」

 伊吹の言葉に、梓は首を横に振った。そして、私の元へと歩み寄る。

「すまない。鹿子。根付をなくしたのは私の失態だ。こんなことは、起こり得ないと思っていたものだから」

 何かと思えば――彼女は預かった根付がなくなったことを何より気にしていたらしい。

 しかし、これは彼女の責任ではないだろう。普通は鷹の根付が飛んで行ったりするなどとは思わない。私の方でも、どちらかと言うと店が荒らされたことを気にしていたくらいだ。

 とりあえず、この騒動はいったんこれで決着となったようだ。しかし、それで店の状況がどうにかなるわけではない。その後は、無関係の伊吹を巻き込んで、私たちは店内の片づけをすることになった。




 根付の失踪から一夜明けた朝。私は家中に響き渡る異様な音で目が覚めた。

 ちょうど日が昇り始める時間。耳に不快なその音が夢ではないことを確かめると、私はすぐさまベッドから飛び起きた。

 壁の中を、何かが這うような音がする。何か――大きな、得体の知れないもの。

 その音は、白い腕が現れたときに聞いたものと同じだったが、そのときよりは大きくなっているような気がした。何にせよ、皿を返してからも聞こえているということは、やはりこれは皿とは無関係の音だったということだろう。

 音はずっと続いていて、遠ざかる気配はない。這うような音と共に、家の壁が、柱が、絶えずみしみしと悲鳴を上げている。それにしても――這うものがまだこの家にいたのだとして、それはなぜ、突然こんなにも暴れ出したりしたのだろうか。

 私はそろそろとベッドを離れると、端末を手に取った。そして、真っ先に梓への番号を探し出す。

 この音も、皿のときと同じようにやがては止むのかもしれない。そう思いつつも、私は梓に電話をかけた。

 応答を待つ間、周囲の音に耳を澄ませておく。すると、どうも――這うような音や家鳴りとはまた別の音が聞こえるような気がした。

 どこか遠くの方から。これは鳥が翼をはばたかせる音だろうか。それだけでなく、鳴き声のような音も――

 そんなことを考えていると、不意に梓が電話に応答した。私が軽く状況を説明すると、彼女は即座にこう告げる。

「すぐにそちらへ伊吹を向かわせる」

 電話を切ると、さっきまで聞こえていた異様な音がいつの間にか鳴り止んでいることに気づいた。おかしな音は――ただの家鳴りを含めて――何もしない。

 私は身支度を整えてから、家の外で伊吹を待った。心許ない時間を長く過ごした気がするが、実際にはそれほどではなかっただろう。日が頂に昇りきる前に、彼は私の家を訪れた。

「こんにちは」

 昨日と変わらぬ様子で、伊吹は私にそう声をかけた。突然のことだというのに、にこにこと愛想よく笑っている辺り、彼は思った以上に人がいいようだ。

 私は何だか急に心苦しくなる。

「その。呼び出したりして、申し訳ないんだけど……昨日の今日で会ったばかりだっていうのに」

「かまいませんよ。慣れてますから」

 突然の呼び出しに、か。それとも梓の無茶な要求に、だろうか。私は怪異のことよりむしろ、彼のことが心配になった。

 とりあえず状況を伝えると、伊吹はさっそく家の方へと向き直る。古い一軒家だ。しかし、何か恐ろしいものが潜んでいそうだとか、嫌な気配があるとか、そんなことは一切ない。平凡で取るに足らない、ごく普通の民家。

 しかし、伊吹はその家を見ると、少しもしないうちに顔をしかめた。

「ここ、何かいました?」

 私は答えに迷う。その何かの姿を、私は目にしたわけではない。ただ音を聞いただけ。しかし――

「いたんでしょうね。あんな音がしたからには」

 私がそう答えると、伊吹は頷いた。

「あまり、よくないものの気配がします。ご無事で何よりでした」

 よくないもの。

 音に対する恐怖心がなかったわけではないが、私はこのことに自分の身の危険までは感じていなかった。梓が平然としているから、こういったことにずいぶんと麻痺してしまっている気がする。

 しかし、彼女の場合は、おそらくその体質で怪異を避けられているにすぎない。私と梓では条件が違う。これは考えをあらためなければならないかもしれない。

 思えば――梓のことを知る柚子や伊吹と話してみて、あらためて感じたことだが――私は彼女のことをまだ何も知らないようだ。私自身は、梓に自分の身の上話までしてしまったというのに。

「一宮さん。とりあえずこの家、少し探ってみますね」

 物思いに沈んでいた私は、伊吹に声をかけられて、はっとした。

 そうして振り向いた先。伊吹は私の返事を待つことなく、突然真上を向いたかと思うと――長く声を発し始めた。まるで犬の遠吠えのように。私は突然のことに呆然とする。

 平静に戻った伊吹は、私が引いていることに気づくと、ごまかすように笑みを浮かべた。照れているようだ。何なのだろう。

 それからいくらもしないうちに、どこからか犬の足音が近づいてくる。それと犬の呼吸音、だろうか。しかし、周囲のどこにも犬の姿は見えない。

 伊吹は何もない地面に向かって、こう呼んだ。

「疾風」

 その呼びかけに応えるように、彼の視線の先にある空間が少し歪んで見えた。伊吹が家の方を指差すと、犬の影のようなものは揺らぎながら家の方へと走って行く。

「今の、犬?」

 だとすれば、疾風というのは犬の名前か。私がそう思って呟くと、伊吹は軽く目を見開いた。

「ご覧になられました?」

 朧気だったので、はっきり見たわけではなかったが――見てはいけなかったのだろうか。私はそう不安になったが、伊吹はむしろ、ぱっとその目を輝かせた。

「かわいいでしょう? 僕の犬なんです」

「え」

 ただの犬好きのようなことを言い始めた。しかし、あれはどう見ても普通の犬ではなかったと思うのだが。

 梓は彼のことを動物専門家だと称していたが、私が考えるに、これはむしろ――

「あなた、その。もしかして、霊能者ってやつ?」

 その問いかけに、伊吹はきょとんとした顔で首を傾げている。

「え? ああ……一般の人からすると、そうなんでしょうね。僕自身には、あまり自覚がなくて。そういうことを、普通にしている家なので」

「……動物の専門家?」

「梓さんは、そんな風におっしゃってましたか」

 伊吹は苦笑している。

 私は急に、彼と梓の接点が気になり出した。柚子は梓のことを昔なじみだと言っていたが、伊吹もまた、それなりに近しそうではある。

「梓とは、どういう関係か、聞いても?」

「そうですね……元は梓さんのおばあさんに、うちの両親がお世話になっていたので。それで」

 梓の祖母とは会ったことはないが――おばけ屋敷と噂される店を営んでいたなら、おそらくその人物も怪異に詳しいのだろう。そして、伊吹もまた――その言い分を信じるなら――動物の専門家――いや、おそらくは動物の怪異の専門家――であるらしい。

 伊吹は続けてこう話す。

「僕の故郷は群馬なんですが、今は大学に通うため、こっちに下宿しているんです。梓さんはそれを知ってたので、僕のことを呼んだのかと」

 それを聞いて、私は思わず顔をしかめた。

「そう。大学生なの。じゃあ、その……学校の方は大丈夫? というか、梓にこき使われてない?」

 彼がここにいるのは、間違いなく梓から指示されたからだろう。私としてはありがたいことなのだが、彼にしてみれば、よく知りもしない相手のところへ突然呼び出されていることになる。迷惑でないはずがない。

 昨日は昨日で、何の関係もないというのに、彼は店の片づけまで手伝わされていた。私はあらためて彼のことが心配になる。

「今日の予定は? 私のせいで呼び出しておいてあれだけど、梓が無茶言ったなら、私から言っておくけど」

 老婆心だと思いつつそう言ってしまったのは、彼が親しくしていた後輩に少し似ていると思ったからだ。しかし、私のお節介に対して、伊吹は困ったような表情を浮かべている。

 そんなことを話していると、不意に犬が近づく気配がした。戻ってきた、と言った方が正しいか。伊吹はすぐさまそれに反応し、そちらの方へ視線を向ける。しかし、その先にはやはり何の姿も見えない。

 伊吹はその場にしゃがみ込むと、しばらく真剣な表情で地面と睨み合っていた。いや――おそらくその視線の先には、姿は見えなくとも、彼がかわいがっている犬がいるのだろう。

 しばらくして顔を上げた伊吹は、私に向かってこう言った。

「よくないものは、この家にはもう、いないようです」

 もう、いない。どこかへ去ったということだろうか。ならば、再びここへ来る可能性があるのかもしれない。

「また、こんなことが起こると思う?」

「いいえ。そのよくないものは、争って負けたのではないかと」

 その言葉に、私は思わず首を傾げた。

 いったい何に負けたのか――と考えたとき、真っ先に思い出したのは白い腕のことだ。もしかしたらあのときも、この家では争いがあったのではないだろうか。白い腕と這うもの。そして、あのとき勝ったのは、おそらく這うものだった。

 だとすれば、今回は――

 ふと見ると、伊吹は何かを視線で追っていた。そのうち、彼はそれに従うように歩き始める。

 見守っていると、彼はやがて家と外壁にわずかな隙間がある辺りで立ち止まった。彼はそこで屈み込むと、地面にある何かを拾い上げる。

「ああ。ありましたよ。これですよね? 鷹の根付」

 そう言って、伊吹は手にしたものを掲げて見せた。それを確かめて、私は軽く息を飲む。

 それは間違いなく、あかとき堂で秘密箱から取り出した鷹の根付だった。店でなくなった根付が、なぜこんなところに――

 聞こえた翼の音と鳴き声の正体は、この鷹の根付だったのだろうか。そして、伊吹の話を信じるなら、今回はその鷹が這うものに――勝ったのだろう。

 理屈がわかったわけではないが、私はとりあえずそう納得した。しかし、這うものがよくないものだったとして、この鷹の根付はどうなのだろうか。

 伊吹はこちらへと戻って来る途中、何か気がかりがあるかのように、じっと根付を見つめていた。その表情は思いの外、厳しい。これもまた、よくないものなのかもしれない。

 私の側まで戻ると、伊吹は鷹の根付を示しながらこう問いかけた。

「あの、これ……僕に預からせてはもらえないでしょうか」

 それが善いものであれ悪いものであれ、動き回る鷹の根付など私に管理できるはずがない。そう思って、私はそれを承諾した。

 伊吹が帰った後、私は電話で梓に報告する。

「動物関連の怪異は、だいたいあの家に収束するんだ。それがいいだろう」

 根付を伊吹に預けたことに対して、梓は私にそう言った。

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