4 椿皿
「さて――」
梓は新聞を丁寧に折りたたむと、あらためて私に向き直り、こう言った。
「君がここを訪れたということは、また何か奇妙なことでもあったか」
そう言って、梓はあっさりと指輪を巡るできごとを流してしまう。私はそのことに若干の戸惑いを覚えた――が、かといって、あのときのやりとりは自分にとっても苦い過去でしかなく、今さら蒸し返したいようなことでもない。だからこそ、それ自体はありがたいことではあった。
それに、たとえあのとき先に起こることを知っていたとしても、私にはあのできごとを回避することなどできなかっただろう。思い返してみても、あの状況で自分がどうするべきだったのか、その答えを未だに出せないでいた。
もちろん、悔いや負い目が全くないわけではない。しかし、それでもそれを引きずってばかりもいられなくなったのは、彼女の言うとおり、私の周囲で別の異変が起こったからだ。
私は鞄を下ろすと、その中から一枚の皿を取り出した。梓は身を乗り出すこともなく、視線だけをそちらへ向ける。
「今度は何だ」
取り出したのは黒い漆器の皿。大きさは手のひらに乗る程度で、底にはお椀のような――しかしそれよりは低めの台がついている。
皿の内側の部分には蒔絵で――おそらくは――鹿の絵が描かれていた。おそらく、としたのは、その鹿が幾重にも枝分かれした大きな角を持ち、体が葉に覆われた独特の姿をしていたからだ。
「銘々皿……椿皿か? それは初めて見るな。まさか、また正体不明の人物から、君の元へ届けられでもしたんじゃないだろうな」
梓はそう言った。私は首を横に振る。
「違う。これは家の前に誰かが置き去った物でもなければ、例の家から持ち出してきた物でもない」
私はそう言って、その皿を梓の目の前に、カウンターの上に、ことりと置いた。
「私の父の遺品なの」
梓は皿から目を離すと、じっと私のことを見返した。
それが起こったのは、女優の事故が報じられた翌日のことだった。
私はふと、机の上にある漆器の皿に水がたまっていることに気づく。この現象に遭遇したのはこれで二度目。一度目は京都から戻った後のことだった。
そのときは雨もりだと思ったので、そこにあった水は何の気なしに捨てている。しかし、実際に水滴が落ちているところを見たわけではなく、天井にその跡を見つけたわけでもなかった。
再び同じ状況を前にして、私はあらためて違和感を抱く。
皿にたまった水。透明で濁りなどない、至ってきれいな水だ。しかし、これは本当に雨水なのだろうか。
よくよく考えてみれば、どこかおかしい。水は周囲に飛び散ることもなく、その皿だけにうっすらとたまっている。ここしばらく雨は降っていない――そう思った途端、私は妙な既視感を覚えた。
これと同じ状況を、どこかで読んだ気がする。そのことを思い出して、私は例の日記帳を手に取った。
記憶を頼りに該当のページを探し出す。
――二階にある漆器の皿に水がたまっている。
雨もりかもしれない。
――あれは雨もりではなかったようだ。
ここしばらく雨は降っていない。
これだ。
私は合点がいくと同時に戸惑った。目の前で起きていることは、まさしくこの日記帳に書かれた内容と同じ。だが、違う。この皿は千鳥が持ち出した物でも、私の元に届けられた物でもない。
だとすれば――どういうことだろう。同じような状況が日記にあるということは、これはむしろ、ありふれた現象だということだろうか。この皿のことが、日記帳に書かれているはずなどないのだから。
この家も古い。何かしらの不具合があってもおかしくはないだろう。母に尋ねてみなくては。日記の内容と結びつけて考えるのは、それからでも遅くない。
そう思って、日記帳を机の上に戻そうとした。そのとき。
視界にある漆器の皿の近く。何か白いものが動いていることに気づいて、私は全ての動きを止めた。
白いもの。白く細い、すらりとした一本の腕。その腕が皿に向かって伸びている。あたかも、不要になったその皿を下げようとでもするかのように。
腕のつけ根部分は机の向こうの死角になったところにあって、それが何者なのか――そもそも、その先はあるのか――うかがい知ることはできない。いずれにせよ、そこに誰かが隠れられるとも思えなかった。
私は少しも動けなくなる。机の上の皿から、それに手を伸ばす腕から、目を離すことができない。その動向を一瞬たりとも見逃すことが恐ろしくて、身じろぎすらできないでいた。
不意に、ぴちゃん、と音がする。水音か。でも、どこから――
雨もりではないだろう。今日は一日中、晴天の予報だ。当然、雨音もしない。そう思って、皿の方へ、そこにたまった水へと、わずかばかり意識を向ける。そこで初めて、水面にかすかな波紋が広がっていることに気づいた。
音はその波紋の動きと一致している。しかし、天井から水滴が落ちているわけではないようだ。
水音は耳を澄ませなければ聞こえないほど、かすかな音だった。自分の呼吸音だけが、妙にうるさく感じられる。
不自然に長く、奇妙に折れ曲がった白い腕は、やがて皿までたどり着くと、手探りするように、その指を皿の縁に這わせ始めた。
ぴちゃん、と音がする。腕はその音を目指しているのか、皿の内側へそろそろと手を伸ばしていく。たまった水に指先が触れようとした、その瞬間。
まるで、私に見られていることに気づいたかのように、その腕は一切の動きを止めた。
私は沈黙したその腕と睨み合う。
いや、それは錯覚だ。腕のどこにも、目などついてはいない。それは傷ひとつない、白く美しい、しなやかな腕だった。
不意に、何かが這うような音が聞こえてくる。ずるずると、何かがこすれるような音がゆっくりと移動し近づいていた。その音が聞こえる度に、家のどこからか、わずかにみしみしと軋む音がする。
この音は――家鳴りなどではない。
白い腕は、ゆっくりと漆器の皿から離れようとしていた。皿に興味を失ったのか。いや、別の何かに気を取られているかのように。そう思った刹那。
腕は何かに引きずり込まれたかのように、机の影の死角へと消えていった。最後に見せた、もがくように宙を掻いたその仕草が、妙にかまめかしく目に焼きつく。
そして、次に聞こえてきたのは、ひどく耳障りな音だった。
「な、何」
水分のある何かをぶちまけるような音と、硬いものが折れるような音。
私は音の出所を探して、周囲を見回した。動くものは何もない。腕の消えたところ――机の影をのぞき込んだが、当然何もなかった。
正体のわからない音は続いている。何かが這うような音と共に、水っぽい破裂音と乾いた破砕音が響く。その音は、おそらく壁の中か、その向こう、見えないところから聞こえてくるようだった。
「何の音!?」
思わず、そう叫んだ。自分でも驚くほどの金切り声で。
――何が起こっているの。
漆器の皿は父の遺品だ。これが怪異と関わりがあるはずがない。しかし、だとしたら、今起こっているこれは何だ。
家から出るべきだろうか。よくわからないが、ここから逃げるべきでは。そう思ったとき、全ての音が不意に止んだ。いや、かすかだが、這うような音は相変わらず聞こえている。しかし、それも徐々に遠ざかっていった。
私は荒く息をしながらその場で立ち尽くした。どうしよう。どうすればいい。
室内も、机の上のぬいぐるみも日記帳も、もちろん漆器の皿も。あの腕が現れ消えていく前と、何も変わりはない。しかし――
私はしばし呆然としてから、ようやく落ち着きを取り戻すと、机の上の日記帳へと飛びついた。
ページをめくり、皿に関する別の記述を探す。だが、なかなか見つからない。
では、白い腕についてはどうだろう。
――押し入れの中から誰かが手招いている。
子どもの手のようだ。
爪が全て剥がれている。
血まみれで見るからに痛々しい。
違う。
ならば、壁の中を這うような音は。
――かりかりと何かをひっかく音が聞こえている。
窓の辺りからだろうか。
外ではなく中からのような気もする。
室内に動くものはない。
違う。
日記帳を何度も行ったり来たりしながら、私はこの現象に関連する何かを探した。
私は焦る。今にもまた、あの腕が姿を現すのではないか、壁の中を這う何かが戻って来るのではないかと――そのことを強く恐れていた。
しかし、今のところは何の音もしない。水音も、這うような音も、破裂音も破砕音も、何も。
そうして、しばらく日記帳を読んでいくうちに、私はそこに――亡き父の名を見つけた。
梓は漆器の皿を手に取ると、その内側に描かれた絵をじっと見つめた。
「これは
彼女はひとりごとを呟きながら、今度は皿を裏返し、あるいはそれを側面から見たりしている。そうして、ひとしきり眺めてから、その皿をカウンターの上にそっと戻した。
「悪くないな。蒔絵の出来もいいし、珍しいモチーフだ」
彼女はそう評したが、私にとっては、これがありふれた物なのかそうでないのか、アンティークとしてどれほどの価値がある物なのか、そんなことはあまり重要ではなかった。私は淡々とこう答える。
「亡くなった父が持っていたの。私の名前と関連があるからってことでしょうけど。たぶん」
「………………君の名?」
珍しく戸惑ったような表情で梓がそう聞き返したので、私は顔をしかめた。まさか、私の名を覚えていないのだろうか。しかし、確かに呼ばれたこともない気がするので、そんなものかもしれない。
私は軽くため息をつく。
「
「鹿……まあ、鹿、だが」
やはり歯切れが悪い。皿に描かれた鹿の絵と自分の名を結びつけることが、そんなにおかしいだろうか。
ともあれ、私がここを訪れたのはそのことについて議論するためではない。私は単刀直入にこう尋ねた。
「ねえ。物が起こす怪異が人を殺すことはあるの?」
「……どういうことだ」
梓はすぐに気色ばむ。私はこう続けた。
「父の死には不審な点があった。もしも、この皿が――」
「待て。順を追って話してくれ」
梓はそう言って、私の言葉をさえぎった。
もしも、この皿が本当に怪異を起こすのであれば、父を殺したのはこの皿なのではないだろうか――私はその問いかけを飲み込む。
順を追って話すとして、さて、どこから話せばいいのだろう。少しだけ考えてから、私は背景を含めて、その全てを話し始めた。
両親が離婚したのは、私が物心つく前のことだった。
私にとっての家族とは祖父母と母の三人を指し、そこに父は含まれていない。私が父と接していたのは赤ん坊だった頃の短い間だけで、言葉を交わした記憶もなければ、顔すらろくに覚えていなかった。それくらい、私にとって父は希薄な存在だ。
その感覚は、他の家族にとっても同じようなものだったと思う。
母はその場にいない人の悪口をあげつらうような人ではなかったので、別れたからといっても父のことを悪く言うことはなかった。しかし、逆に良いようにも言わなかった――というか、話すこと自体を避けていた節がある。
母にとって、父の存在はあまり口にしたくない、思い出したくないことだったらしい。別れた後、お互いに連絡を取ることもしていなかったのだから、それも推して知るべしだろう。
それは祖父母にしても似たようなもので、父のことはほとんどないものとして扱われていた気がする。そのせいで、父の過去に何があったのかを、私は知らない。
何にせよ、私もそうした母の気持ちを慮って、父のことをことさら尋ねたりはしなかった。そもそも、知りたいと思ったこともなかったかもしれない。
家族としては現状で何ひとつ不足はなく、私には父のことを気にする必要などなかったからだ。あの母が言葉を濁すくらいなのだから、父の人となりなど知ったところで、失望するだけかもしれない――その頃の私は、そんな風に考えていたように思う。
そんな父の存在が急に大きくなったのは、私の元に、とある知らせが舞い込んでからだった。
父が死んだ。その知らせを受けたのは、私が大学生のとき。亡くなったのはアパートの一室で、発見されたのは死後しばらく経ってからだったらしい。
父の死は、孤独死だった。
身寄りのなかった父の遺体を引き取るため、私は母と共に警察へと赴いた。父の死因は溺死。風呂場で転倒したかして、不慮の事故により亡くなったのだろうと説明された。
そのとき私たちが対面したのは、焼かれて骨となった父だ。発見されたときにはすでに、父の遺体はそれほど腐敗していたということだろう。
それを見ても、そのときの私は特に悲しいとも思えなかった。それに対してどんな感情を抱けばいいのか、まだ気持ちの整理がついていなかったのだと思う。
私は母と共に、父が暮らしていた部屋の後始末を行った。質素な生活が偲ばれる他は、取り立てて問題となるようなもの――遺産とか借金とかそういったもの――はなかったようだ。
変わった物があったとすれば、殺風景な部屋の中にあって、妙に目を引いた漆器の皿とぬいぐるみくらいだろう。その遺品を見たとき、母はすぐさま、似合わない、というようなことを言っていた気がする。
端切れで作られたらしい――おそらく手作りの――小さな鹿のぬいぐるみと、変わった鹿の姿が描かれた漆器の皿。それを見たとき、私は何だか、打ちのめされたような気持ちがした。
父のことなど、私は何も知らない。しかし、父の方は私に何かしらの思いがあったのかもしれなかった。どんな思いだったのか、何を考えていたのか。今となっては、私に知る術などない。
私は母に、皿とぬいぐるみを引き取ってもいいか尋ねた。母はそれを承諾し、それ以来そのふたつは常に私の手元にある。
身近に置いてからこちら、私の元でこの皿が奇妙なことを起こすことはなかった。おかしいと思ったのは、皿に水がたまっていたことに気づいたのが初めてだ。
だから当然、今まで父の死に怪異がかかわっているかもしれない、などと考えたことはない。しかし、皿の元に現れた白い腕と妙な音をきっかけに、私は日記帳に父の名を見つけてしまった。
だから私は――
私からひと通りの事情を聞いた梓は、神妙な顔でふむと呟くと、続けてこう問いかけた。
「それで、君の父上の死について、不審な点とは?」
彼女の視線を受けて、私はそれに答える。
「父はうっかり転倒したかで、そのまま浴槽で気絶したらしいの。それで、死因が溺死なのは確からしいんだけど……なかったって。現場の浴槽に、それほどの水は」
それを聞いた梓は、淡々とこう返す。
「亡くなってから、何らかの理由で排水されたか、蒸発したという可能性は? 十センチに満たない深さでも、溺死することはあるというからな……」
梓はあくまでも、現実的な見解を示すことにしたようだ。私は苦笑した。
「話してくれた警察の人も、似たようなことを言ってた気がする」
それを聞いた梓は、軽く顔をしかめる。
「警察の判断としては、事件性はなかったということだろう。しかし、君もずいぶんと詳しく聞いたものだな」
梓のその指摘に、私は軽く肩を竦めた。
「しつこく食い下がったから。まあ、話してくれた人も、これが事故だって納得してなかったのかも。これは私の印象だけどね」
梓はしばらくの間、考え込むように私のことをじっと見つめていた。しかし、不意にため息をつくと、カウンターの上にある皿の方へと目を向ける。
「とにかく――そこから君は、気づくと水がたまっているという、この椿皿と父上の死との関連を、疑い始めたわけだな?」
父の溺死と皿の水。関連がある、と考えるには少し弱いと自分でも思う。しかし――
皿の元に現れた白い腕。そして、その後に起こった怪音。あれらが皿の引き起こしたことなら、父が生きていた頃にも同様のことがあった可能性はあるのではないだろうか。
ただし、仮にそうだとしても、それが事実、父を殺したとするには、やはり無理があるかもしれないが。
私の身に起こった奇怪なできごとについては、今のところ梓も断定的なことは言っていない。あまりにもおかしなことだったから、彼女にもすぐにはその正体がわからないのだろう。
私自身も、今となっては夢でも見ていたのではないかと疑っているくらいだ。それくらい、あのとき見聞きしたものは、今まで経験したことのないようなできごとだった。
物思いに沈んでいた私に向かって、梓はさらにこう問いかける。
「もうひとつ。この椿皿が例のゴミ屋敷――いや、実態からすると骨董屋敷と呼んだ方がいいか――そこから、君の父上に渡ったというのは、確かだろうか? 日記帳に父上の名があったというが、偶然にしては少々できすぎている気もするが」
私は日記の文面を思い出しながら、こう言った。
「父の名があったといっても、名字だけで、しかも漢字がわからなかったのか、カタカナ表記。だから、同姓ってこともなくはないでしょうね」
私はまず、そう前置きする。
日記帳に父の名があったことは確かだ。しかし、名前があったというだけでは、同一人物だと断定できるものではない。そう判断したのは、父の元に同一と思われる皿があったことがひとつ、それから――
そもそもの話。私がたまたま知っただけのゴミ屋敷――あらため、骨董屋敷に住んでいた人物と、私の父に接点があったということ自体、都合が良すぎると言われればそうだろう。しかし。
「私もこんな偶然、とは思ったけど……もともと取材をしていた地区が、父の住んでいたところ――つまり、父が亡くなった町でもあって。お年寄りが多かったし。そこで民生委員と知り合って、人脈を広げてたの。ゴミ屋敷としての噂を知ったのも、そこから」
そう考えると、父とたまたま縁があった、というよりは、父の面影を追っていた中でそれに辿り着いた、という方が正しいかもしれない。
「だから、そもそも私は、父が生活していたところを中心に活動していたことになる。無意識に、だったけど」
珍しく気づかうような声音で、梓はこう問いかける。
「君が孤独死にこだわっていたのは、父親のことがあったから、か?」
私は答えに詰まった。しかし、それはどう考えても、明らかなことだろう。
「そうね。そうだったのかも」
私は軽い調子で、そう返す。
孤独に死んでいった者たちが、何を思っていたのか。私がそれを追わずにはいられなかったのは、間違いなく父の死が影響していたからに違いない。
しかし、今さらそんなことをしたところで、父にとっては何のなぐさめにもならないことは、わかっていた。だからこそ、私は今まで、そのことをあえて意識しないようにしていたのだと思う。
私は大きく息を吐くと、気持ちを切り替えてから、こう言った。
「何にせよ、父がその――骨董屋敷からこの皿を手に入れた可能性は高いと思う。元々、父には似合わない物だって、母も言っていたし」
梓は私の表情をうかがっている。もしかしたら――私があえて話さなかったことに気づいたのだろうか。
しかし、彼女は訝しげな表情を浮かべながらも、ひとまずは納得したように頷いた。
「そう、か。それで、怪異が人を殺すか、だったか?」
私は、はっとして彼女の次の言葉を待つ。
接点が偶然だろうと、そうでなかろうと――そして、それがどこからもたらされた物であろうと――事実、父の元にあった皿の周辺で奇妙なことが起こったことは確かだ。これらのできごとが父の死と関連しているということは、あり得るのだろうか。
目の前の漆器の皿について、梓はあらためてこんなことを話し始める。
「まず漆器とは、その名の通り漆――ウルシの木から採れる樹液を塗られた食器のことだ。私が椿皿と呼んだのは形状による。こういった高台のある皿のことで、横から見ると椿に似ていることが名の由来だ。そして、この大きさなら用途としては銘々皿だろう――取り分け用の皿と言った方が君にはわかりやすいか」
そういう言い方をするからには、何も知らないだろう私にわざわざ説明してくれているのだろう。さすがに漆器くらいは知っているが。とりあえず黙って聞いておくことにする。
「漆器には、さまざまな装飾の技法があるが、これに用いられているのは漆で絵を描き、そこに金粉を蒔いて定着させる蒔絵だな。絵のモチーフからしても用途からしても、揃いのひとつである可能性は高いと思うのだが――この皿が骨董屋敷にあった物だとして、その頃には他の皿もあったのだろうか」
用途はともかく、なぜ鹿の絵だと揃いになるのだろう。猪鹿蝶とか、そういうことだろうか。私は内心で首を傾げる。
しかし、少なくとも日記に書かれていた時点で、皿は揃いではなかっただろうと思われた。私は日記帳から、該当のページを梓に見せる。
――二階にある漆器の皿に水がたまっている。
雨もりかもしれない。
見ただけではよくわからない。
自分で確かめることは難しい。
しかし、業者を家に入れる気にもなれない。
――あれは雨もりではなかったようだ。
ここしばらく雨は降っていない。
皿は危険なものではないとのこと。
ただし借りものだから本当は返さないといけないらしい。
どこで借りたかはやえさんにもわからない。
これを読む限りは、皿が複数あったようには思われない。そして、例のやえさんとやらの見立てでは、危険なものではない、とのこと。これは、水にも白い腕にも危険はない、ということなのか、あるいは、この時点では白い腕は出現していなかったのか。確かに、白い腕に関しては日記帳のどこにも書かれてはいなかった。
それにしても、借り物とは――
梓も気になる点だったのか、彼女が真っ先に言及したのは、そのことだった。
「借り物、ね。この記述から、思い当たることがひとつだけ。しかし、どうだろうな。確信があるわけじゃない」
私は思わず身を乗り出した。
「どんな荒唐無稽なことでもかまわない。教えてちょうだい」
私はそう促す。今はとにかく、この皿についてできる限りのことが知りたかった。
身構える私に、梓はこう問いかける。
「君は椀貸伝説を知っているか」
「椀貸伝説?」
問い返す私に、梓は頷く。
「いわゆる民話などでよくある話だ。依頼すると椀などを貸してくれる不可思議な穴なり淵なりがあって、人々はそれを利用していたが、返さない者がいたので、それ以来、貸してくれなくなった、という内容だ。全国で似た話が伝えられている」
私は戸惑った。どんな荒唐無稽なことでも、とは言ったが、まさかそんな昔話――いや、おとぎ話のようなものが出てくるとは思わなかったからだ。
梓は平然と続ける。
「だから、君の言うその白い腕も、もしかしたらこの皿を取り返しに来たのかもしれない、と思ってな」
何をさも当然のように、とんでもないことを言い出すのだろう。私は顔をしかめた。
「取り返しに来たのだとして、どうして今?」
困惑しながらも、私はそう問いかける。
「この皿は君の手元にあったとのことだが、それまで地元に持ち帰ったことはあったか? 今回、実家に戻るよりも以前に」
梓からは、逆にそう問い返された。考えた末に、私は首を横に振る。
「ない。父が亡くなったのは大学生のときだし。私はそのとき東京にいた」
それを聞いて、梓は納得したように頷く。
「この皿がどこかで借りた物だとして、それを借りた場所はここから――この土地から、そう遠くないのではないかと思う」
どんな根拠があって、そう言っているのだろう。私はなおさら混乱した。
「だから取り返しに来た? それなら、骨董屋敷にあったときには? 遠すぎて手が届かなかった、と?」
自分で言っていて、何て滑稽なのだろうと思った。つまり、あの白い腕は、貸していたはずの皿が地元に戻ってきたからこれ幸いと取り返しに来た、ということになる。
思っていた怪異と違う。あのときの怪音はもっと生々しく、嫌な気配がした。そんな能天気なものではなかったはずだ。
もしかして、這うような音とその後の音は、白い腕とはまた別の現象なのだろうか。
考え込んだ私に向かって、梓はこう問いかけた。
「この辺りで、椀貸伝説のある場所を探してみるか?」
その言葉に、私は目を見開く。
「探せるの」
「各地にあるものだからな……この辺りに限定するにしても、事実この皿を借りた場所だと断定できるかどうか、確約はできないが」
探して――どうするのだろう。私は迷った。そうして押し黙っているうちに、梓はこう続ける。
「どちらにせよ、この皿は私が預かろう。白い腕とそれに伴って起きたことについては、私も何か嫌な感じがする」
その申し出についても、私はすぐに返事をすることができなかった。これが危険な物ならば、それを彼女に預けていいものだろうか。
しかし、皿を手に取った梓は、特に恐れる様子もない。
「父上の死の真相がどうあれ、この皿は、しかるべきところに返せるなら返した方がいいかもしれない。こういった物は、少しでも危険だと思ったのなら、手放さない道理はない。怪異は天災のようなもの。避けられるならそうするべきだし、それを恨んだところで――」
梓はそこで私の顔を見ると、表情を曇らせて黙り込んだ。私はいったいどんな顔をしていたのだろう。
何にせよ、どうも今の私は判断する冷静さを欠いているようだ。梓の言うとおり、この皿はしばらく彼女に預けた方がいいのかもしれない。
梓はひとつため息をついてから、再び口を開く。
「ともかく――調べてみるから、それまで少し時間をくれないか」
今度は悩むことなく、私はその申し出を受け入れた。
家に帰り、ひとり自室で考え事をしていた。この日、梓と話したことについて。そして、梓に話さなかったことについて。
私はあのとき、日記にあったある記述を、あえて梓に見せていなかった。見せなかった理由は、気持ちの整理がまだついていなかったからだ。
日記によると、父はその頃、ひとり暮らしの老人を支援するような会社か何かで働いていたらしい。父が骨董屋敷に赴くことになったのは、それが縁だったようだ。
私は日記帳を手に取り、該当のページを読み始める。
――フクチさんという人が来た。
ご用聞きのようなことをしているらしい。
やえさんはサギか何かじゃないかと言っている。
決めつけるのはよくないと思う。
ご用聞きの言葉どおり、父はいろいろと彼女の頼みごとを受けていたらしい。年寄りでは難しい高所の照明器具の入れ替えやら、重い荷物の運搬やら。ちゃんとした業務なので、もちろん詐欺ではない。
――フクチさんの娘さんは鹿子ちゃんと言うらしい。
二階にある漆器の皿が気になったようだ。
鹿の絵が描かれているから、と。
日記には、そんな風に私の名も書いてある。
まさか、こんなところで自分の名を見ることになるとは思わなかったが――これがあったからこそ、私は父との関わりを確信したのだった。
ただ、父が鹿の絵を私に結びつけたことに関しては、短絡的だと思わないではないが。
――漆器の皿はフクチさんに譲ることにした。
危険がないことはやえさんに確認している。
水がたまることもそうそうあることではない。
ひとこと伝えておけば問題ないだろう。
ただあのことだけは黙っていようとやえさんと話した。
これが、父に皿が譲られた経緯だ。私はくり返しその部分を読み返す。
あのこと、とはいったい何だろう。なぜ、あえて黙っていることにしたのか。
私は考える。怪異が人を殺したとしても、それはおそらく人知を越えた現象なのだろう。そんなものを相手に、恨みを晴らそうなどとは私も考えてはいない。しかし――
もしも、その物が怪異を起こすとわかっていて、あえて相手にそれを渡すことがあったとしたら。
父が亡くなった時期の日記帳は手元になかった。ちょうど抜けている部分だ。存在するならば、あの家のどこかに残されているのだろう。そこには何かしら、父の死に関することが書かれているのかもしれない。
彼女は何を考えて、父に皿を譲ったのだろうか。彼女の言葉は信用できるのか。今まで私は、この日記帳を頼りにしていたが、それは本当に正しいことだったのだろうか。
死んだ者の思いなど、私にはわからない。過失にせよ故意にせよ、もしも彼女が何かを伝えずに、父にそれを渡したことで――そのせいで父が死んだとすれば。
しんとした室内に家鳴りの音が響く。あるいはこの音は、白い腕が現れたときにこの場にいた別の何かが――壁の中を這っていた何かが動くことで鳴っているのだろうか。
父の死についての不審な点。そこに生まれてしまった疑念をどうすることもできずに、私はただ目の前の文字を何度も読み返していた。
後日、梓から連絡があった。
皿を借りた場所が特定できたと言う。それが容易なことなのか、それともそうでないのか、私にはわからない。しかし、彼女からの電話では、簡素にその事実と住所が告げられただけだ。
お互いに都合のいい日を待って、私たちはその場所へ向かうことになった。当然、梓はあの漆器の皿を持って。
駅で待ち合わせ、三十分ほど電車に揺られる。目的地へは、そこからバスで二時間程度。そうして訪れたのは、山間にある長閑な集落だ。
バス亭からは、さらに歩くとのこと。穏やかな流れの川に沿って、私たちは道を進んで行く。
周囲の景色を見ているうちに、ふと気になって、私は梓にこう問いかけた。
「ところで、どうやってこの場所を特定したの? 霊能者にでも頼んだとか?」
「霊能者にどうしてそんなことがわかるんだ。どちらにせよ、私はその手の専門家には嫌われている」
梓は淡々とそう答えた。
嫌われている。なぜだろうか。どちらかというと、そういうことに通じている方かと思っていたのだが。それとも、同業者だから、だろうか。
梓は軽く肩を竦めながら、こう続ける。
「とはいえ、私では知識不足だろうし、調べたところで特定するには至らない。流石に全ての椀貸伝説を見て回るわけにもいかないからな。結局は情報屋に頼ることにした」
情報屋。また、あやしげな単語が出てきた。梓は私の訝しげな表情に気づくことなく、何でもないことのように話し続ける。
「私もたまに利用している。情報の確かさという点では申し分ない。ただ、どんなことでもわかる代わり、法外な金額を要求されるが」
何かのフィクションにでもありそうな話だ。私は軽い気持ちでこう尋ねた。
「まあ……そういうのは金持ちからはふんだくって、情によっては
「何だそれは」
梓には怪訝な顔をされる。伝わらなかった。
「そうでないなら、その法外な金額をあなたはどうやって支払ったの」
「うちには幸い、相手が気に入るような、いわくつきの品がいろいろあるからな」
彼女の言葉に、私は軽く目を見開いた。ならば、梓はこの情報を得るために、店の商品を手放したということか。どうして、そこまで。
梓は私の視線など意に介さず、平然としている。そして、ぽつりとこう口にした。
「どうせ、私の手元にあっても何も起こらない」
そう呟いた彼女の声音が、少しだけ寂しそうに聞こえたのは気のせいだろうか。
しばらくの間は、お互いに無言で歩いた。先行く梓に従って、川の支流を辿り山の中へと入って行く。杉林の中にある小さな祠を横目に、その脇道を通り過ぎて行った。
事前の話が確かなら、そろそろ着く頃合いだろう。そう思って、私は梓に問いかける。
「それで、その――椀貸伝説だっけ。私も調べたけど、それってあくまでも物語よね?」
「そうだな。借りる物、貸してくれる場所、貸してくれる者の正体。場所によって形を変えながらも、くり返し語られているということは、それがそれだけ、すぐれた物語だということだろう」
彼女はそう言った。しかし、それが物語ならば、私はいったい、ここに何をしに来たのだろう。
梓はこう続ける。
「昔は宴などで人が集まるとき、人々は大抵、他所から食器などを借りていた。余分にそれらを持っている家など、あまりなかっただろうからな。そういう場合に、どんな問題が起こると思う?」
「借りた物を返さない者が出てくる」
私がそう答えると、梓は頷いた。
「実際、そう考えると、この話は教訓としてよくできている。昔々はどこそこで食器なり何なりを簡単に借りることができた。しかし、不心得者がいて、それができなくなった。聞いている者にとっても、それは不利益だ。だから、そんなことをしてはいけない。わかりやすいだろう?」
確かに、そうかもしれないが――
私は戸惑う。彼女は椀貸伝説のことを物語としてではなく、事実として捉えているのだと思っていた。でなければ、返しに来ようという話にはならないはずだ。
しかし、どうも話を聞いていると、それが物語であること自体は否定しないらしい。これはどう考えればいいのだろうか。
「それで、その――私は何にその皿を返しに行くの? 物語なんでしょ?」
その問いかけに、梓は怪訝な顔で私のことを見返した。
「物語は物語だよ。しかし、それはそれとして、ここには皿があり、情報屋が持ち主はここにいると言っている。物語として語られていることと、そういった存在が在るということは、相反しはしない。つまりは、そういうことだ」
梓はあっさりとそう言った。
辿り着いたのは支流の行き止まり。小さな滝が流れ落ちる、深く澄んだ淵の岸辺だった。
周辺に人影はなく、聞こえてくるのは、風によってざわめく木々の音と、時折響く鳥の鳴き声だけ。水面は不思議と波もなく、水底があざやかに見渡せた。それでいて、角度によっては鏡のように周囲を映しているようにも見える。
私はしばし呆然と、その光景に見とれていた。
そのうち不意に、梓から漆器の皿を差し出される。私はそれを無言で受け取った。
皿には蒔絵で鹿が描かれている。幾重にも枝分かれした大きな角を持ち、体が葉に覆われた独特の姿をしている、変わった鹿だ。
見ようによっては雄々しくも見えるその鹿は、私が今いる場所と同じ、山の中の水辺に佇んでいるようだった。
動けずにいる私に、梓はこう声をかける。
「物は物だよ。思いはその物にあるのではない。君が今、感じているものこそが、思いだろう? 物がなくなっても、その事実が消えて無くなるわけではない」
そう言って梓は一度口を閉ざしたが、一息置くと、気づかわしげにこう問いかけた。
「それでも、手元に置いておきたいか?」
私は首を横に振る。
「いいえ」
そう答えて、私は淵の冷たい水にその皿を浸すと、ためらうことなく手放した。
「借りたものは返しましょう、でしょ?」
梓の言うとおり、私にとって大事なのはこの皿自体ではない。そして、今の私は、梓の助言と助力を無下にするわけにはいかなかった。
皿は深い深い淵の底へ落ちていく。水が澄んでいるので、しばらくはゆっくりと沈んでいく様が見えていたが、それもやがて暗がりの中へと消えていった。
しばらくの間、ただ水面を眺めていた。特別なことは何も起こらない。とても静かで穏やかな光景だ。
不意に梓が口を開く。
「椿皿に描かれていた鹿のことだが――」
珍しく言いにくそうに、梓はそこで口を閉ざした。ちらりと私に視線をよこしてから、何かを決心したように、彼女は再び口を開く。
「珍しいモチーフだと言っただろう。あれは、
「……いざさおう?」
突然のことに、私は間抜けな調子で問い返す。
「高さ二丈もある大鹿で、角は七つに分かれ、体には苔が生えている。数千の鹿を従えて、人を食い殺していた」
何だか急に物騒な話になった。人を食い殺すような、恐ろしい大鹿。それは――
「つまり――化け物鹿だ」
「化け物」
「最後には勅命により、退治される」
「退治」
何の考えもなしにそうくり返していると、不意にあることが思い出された。
――ただあのことだけは黙っていようとやえさんと話した。
日記帳に書かれていた言葉だ。
あの鹿の絵は父にとってはおそらく――私だった。化け物鹿ではなく。ならば黙っていた方がいいだろう。たとえ、そのことを知っていたとしても。
私は思わず吹き出した。それを発端に、自分でもよくわからない笑いが込み上げてくる。
「どうした。鹿子」
梓が珍しく、ぎょっとしている。
「親子そろって」
私の笑いは止まらない。その合間に、どうにかその言葉を絞り出した。
「そういうことには疎いから」
化け物鹿の物語。
父はきっと、そんなことを知りはしなかっただろう。だからこそ、それを知っていた彼女は、父のことを思って黙ってくれた。父のために。
――フクチさんは本当によくしてくれる。
娘さんとは会えなくなった理由はわからないけど。
いつかきっと和解できるのではないかと思う。
そうなって欲しい。
日記に書かれていたその言葉を、私は一言一句違わずに覚えていた。
彼女の日記を、信じてもいいだろうか。いや、私はきっともう、それを信じたいと思っている。そして、今なら信じられるような気がした。
もう、私の中に渦巻いていた疑念はない。
私が笑いを収めたことを確かめて、梓はこう言った。
「では、帰るか」
その言葉に、私は頷く。
淵を背にすると、梓は振り返ることなく歩き始めた。感傷的なところなどない、彼女らしい潔さで。
私の方は、ほんの少しの名残惜しさを感じながらも、それに続く。
「そういえば――」
私は若干の心残りから、前を行く梓にこう話した。
「あの皿は揃いの皿なんでしょう? 全てが揃っているなら、描かれているその――伊佐々王の物語が、どんなものか、少し見てみたかったかも」
「何なら、揃いで皿を借りてみるか?」
そのとき、背後でかしゃん、と小さく音がした。思わず振り向いた視線の先。淵の岸辺で、水面から伸びた白い腕が、漆器の皿を重ねていくのが見えた。
その光景に、私は――自分でそれを望んでいながら、理不尽にも――ぞっとする。あのときの白い腕は、やはり。
「もしも、それが借りられたら……梓はどうするの……」
私は白い腕の動きから目を離せずに、呆然としながらそう言った。
淵の様子に気づくこともなく、梓はさっさと遠ざかっていく。そして、立ち止まることもなく、こう答えた。
「私が求めるとなると、売り物としてだからな。残念ながら返せないし、借りはしないよ」
その言葉を聞いたからか、白い腕は岸辺に置かれた皿を、そっと回収していった。どこか残念そうに。
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