6_罠
「こんばんはー。鈴木さん、お加減いかがですか?」
鈴木美羽。私がよく使っている偽名だ。その名前で看護師さんが柔らかく問いかける。
つい気を許して長話してしまいたくなるような温かな声色は素直にすごいと思う。
「全然大丈夫です。そもそも貧血位で入院だなんて大げさなんですよ」
「もう。鈴木さん、その貧血で救急車を呼んだのは誰ですか?」
苦笑しながら返事をすると、看護師さんが口をとがらせる。怒っているような様子まで可愛らしい。
「うっ……。私です……」
「そうですよ。一人暮らしの女の子なんだから、もっと色々気を使ってください。貧血で倒れた時に、頭の打ちどころが悪かったら救急車も呼べなかったかもしれないんですからね」
「はい……。すみません」
「はい。反省しているならいいです」
看護師さんがポンと柏手を打つと、にっこりと満面の笑顔になる。その笑顔が眩しくて、安心する。
「そろそろ消灯時間ですが、夜中でも何かあったらナースコールしてくださいね」
「はい。わかりました」
「では、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
柔らかい笑顔のまま看護師さんが病室を去っていく。途端に病室がしんと静まり返って、少し寂しくなる。
「おやすみ、か」
寝る前にあいさつをしたのなんて久しぶりで、なんだかむず痒い。
『お望みなら毎晩通話してやってもいいんだぞ』
通話を繋げっぱなしにしていた博士が茶化すように言ってくる。
『二日目あたりで、面倒だから用件がないなら掛けてくるなとか言うんでしょ』
『違いない。くく……』
『ふふっ』
少し笑ったおかげで肩の力が抜ける。あまり自覚は無かったが緊張していたらしい。
ここは脳内出血で倒れた宇宙政策委員の一人が入院している病院だ。その委員が、短い時間だが意識を取り戻したという偽の情報を数時間前に流した。
その情報で組織の連中をつり出して、情報を吐かせるという算段だ。
『もうすぐ消灯時間だ。奴らが動くとすればこれからだろう』
『分かってる。院内のネットワークを調べてみたけど、やっぱりバックドアが仕掛けてあった』
『ばれるようなことはしてないだろうな……』
咎めるような口調の博士の声に、信頼されていないような気がして少しムッとする。
だが、これまでつかめなかった組織の情報が手に入るかもしれないという大事な場面で、博士は神経質になりすぎているだけなのだと考え直して、気を静める。
『当たり前でしょ。面倒だからネットワークを乗っ取って、焦ったハッカーが出てきたところを直接対決したいところだけど、ネットワークの監視をするだけにとどめているわ。足跡は一切残してないから、気付かれようがない』
ネットワークの監視も、ルーターに取り付けた送信機から私に直接パケットを送っているので、検知することはほぼ不可能だ。
ルーターへの送信機の取り付けも病院のネットワークを管理する業者に博士が手を回して作業を行ったから、ここから辿られる心配もない。
『ふん。血気盛んだな。だが、奴らの情報は目と鼻の先だ。ここで焦って気取られればすべてが水の泡になる。くれぐれも慎重に頼むぞ』
『大丈夫だって。そっちこそ、変なことはしないでよ』
博士が気を張った声で釘を刺してくるので、言葉を博士に返す。
『もちろん分かっている。だが、本当に私の強襲部隊は出さなくていいのか?』
『はぁ』
事前に何回もした議論を博士が蒸し返してくるので、うんざりした気分になる。
『何回も言ったでしょ。相手は情報操作のスペシャリスト。人数が多ければいいってわけじゃない。通信を乗っ取られて、散々かき回されるのが落ちよ』
『ああ。それは分かっている。だが……』
博士がなおも続けようとするが、息を詰まらせてため息を吐く。
『いや。すまない。悪かった。君だけに任せるのがどうしても不安でな。あいつらは人を殺すのを何とも思わない連中だ。君の身に何かあったらと思うと、どうしてもな』
どこか諦めたように、それでいて申し訳なさそうに言う博士の口調。私のことを大事に思ってくれているのが伝わって、こんな状況だというのについ嬉しくなってしまう。
『大丈夫だって。……パパを見殺しにして、祐樹を置き去りにした、あの日。あの日以来、即座に動けなかった判断力と、祐樹を背負えなかった非力さを嘆かなかった日は無い』
パパが自爆しようとしていることをもっと早く察して止められていたら。
祐樹をヘリまで運べるだけの力を持っていたら。
そんなもしもが頭にこびりついて離れない。
『だから体も鍛えて、敵を制圧する技術を身につけた。迷いを押し込めて、必要な時にはすぐ動けるよう心を固めてきた。どんな相手が来たって、絶対に油断しない。そいつが私に気づく前に捕まえて、組織の情報を窃取する』
博士に向かって宣言することで決意を強固なものにする。失敗は許されない。
『そうか。これ以上は何も言うまい。私が行ければ良かったのだが、足手まといになるだけだ。秘書と、部隊長を現地に向かわせている。二人とも状況を見て、的確に動けるだけの実力を持った人物だ』
『ありがとう。頼りにしているわ』
私だけでやるといったのだが、博士が折れてくれなくて、最終的に博士の信頼する二人を病院の外に配置することで合意した。
博士のよこした実働部隊の二人のスマホに私はアクセスすることができるが、最初に通信を行った時点で相手側のハッカーに乗っ取られる恐れがある。
だから、状況の開始を知らせる連絡以降は、全てのやり取りを敵に見られている、もしくは敵が偽造した情報である可能性があるということを念頭に置くように通達している。
『もうすぐ消灯よ。それ以降は非常事態でない限り博士には連絡しない』
私と博士の回線も安全だという保証はない。
『ああ。歯痒くてたまらんが、私が出しゃばっても邪魔にしかならんことは分かっている』
博士が力んだ声で言う。その声が本当に悔しそうで、こっちが申し訳なく思えてくる。
『博士には下準備をたくさんしてもらった。私一人だったらここまで手際よくできなかったから、感謝している』
『……感謝しているのはこっちの方だ』
博士がぶっきらぼうに言い捨てて、ごくりと息を呑む音が聞こえてくる。直に消灯だ。言いたいことはあったが、それを押し込めたのだろう。
『だから、ここからは私の仕事。この日のために8年間準備をしてきた。絶対に成功させる』
すべては私の幸せのために。
『……武運を』
『ええ。任せて』
博士の重くてどこか切なげな声が届くと共に通信が途絶える。一拍置いて、病室の照明が落ちる。
長い夜はこれからだ。
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