5_生きた証
「痛っ!」
『どうした!?』
『何でもないから、ちょっと待ってて』
指先に鋭い痛みが走ったので手元を見ると、きなこちゃんが不満げに尻尾を打ち付けながら私を見上げていた。まん丸なおめめが愛らしい。
「ごめんね。ちょっと考え事してたんだ」
博士との会話に夢中で、撫でるのがおざなりになっていたから噛まれたらしい。跡が残っていないので甘噛み程度だが。
「きなこはかまってちゃんなところも可愛いねぇ」
お詫びとばかりにきなこちゃんの耳の裏をかりかりすると、うっとりと目を細めて顔を寄せてくる。
そのまま背中を撫でていると、再び私の膝の上で眠り込んでしまった。可愛い。
『ふぅ。もういいよ』
『……また猫か』
博士が呆れたように呟く。最初にアニマルセラピーをすすめてくれたのは博士だった。こんなにも素晴らしい世界を教えてくれたことには感謝しかない。
『まあね』
『まさかお前がここまで入れ込むとはな……。いっそのこと家で飼ったらどうだ?』
『そうしたいんだけどね』
きなこちゃんの体を見ると、呼吸にあわせて上下している。その周期が私よりも早くて、小さな体で頑張っているのだと愛おしくなる。
『私はあいつらに追われているから。そのせいで結構な頻度で住処を変えてる。お引越しは猫ちゃんにとってストレスになる。……もしかしたら、私は外出したきりで帰れないかもしれない。そう思ったら、引き取ることなんてできないよ。無責任な可愛がり方だって分かってるんだけどね』
自嘲するように笑ってしまう。きなこちゃんの温もりに胸が締め付けられる。
『俺がお前を保護すると何度も言っているだろうに。組織のことは忘れろって、あいつらも言ってたんだろ』
諭すような博士の声に申し訳なくなる。
博士は最初に連絡をした日から何度も保護を申し出てくれた。パパが信頼できると言うからには、きっと組織の手から私を守ってくれるだろう。
それを断り続けているのは私のわがままでしかない。でも、何も知らないところで私のことが決まってしまうのはもう嫌だった。
『そうだね。パパも祐樹も私に幸せになれって。組織のことも、自分たちのことも全部忘れてしまえって。そう言ってた』
組織から逃げ出して、博士の手も借りたおかげで逃亡生活も安定したころ。私は自分を入念にスキャンした。
祐樹がなぜ管理者コードを使うことができたのかを知りたかったから。
その結果、祐樹が条件付きで一度だけコードの使用を許可されていたことが分かった。
条件は、逃亡を実行した日かつパパのバイタル信号が途絶えていること。つまり、逃亡の最中にパパが死んでしまっていた場合にのみ祐樹は私に対して管理者コードの行使ができたのだ。
『身勝手だよね』
祐樹が管理者コードを付与されていたということは、パパから事前に逃亡のことを聞かされていたのだ。もしかしたら、なにかあればアッシュトゥアッシュを実行する気だったということも知っていたのかもしれない。
『パパも祐樹も私の知らないところで計画を練っていた。私をのけ者にしていたんだよ』
『……そうあいつらを責めるな。お前のことを守りたかっただけだろうに』
『分かってる! そんなこと、分かってるんだよ。けどね、納得はできない』
事前に計画を知っていたら、私は反対していただろう。二人が隣にいてくれることの方が大事だったから。
パパも祐樹もそれを知っていて、説得するだけの時間が無かったから、二人で計画をした。
そんなことくらい、分かっている。パパと祐樹の優しさは誰よりも私が分かっている。
『二人が私のことを想ってくれていたのは分かっている。でもね、私の知らないところで計画を練っていた。悲痛な覚悟をしていた。これが許せない。私だって当事者だったのに、何も知らないところで全部が決まっていた。どうしたって、許せないのよ……』
ふつふつと怒りが湧いてくる。同時に、二人のことを思い出して悲しくなってきて、やるせない気分になってくる。
『それでもあいつらはお前の幸せを望んだんだ。最期の願いくらいかなえてやったらどうだ』
博士は意地悪だ。
『分かってる。幸せになることがパパと祐樹に報いるための一番のことだなんて、分かってるの』
仮にパパと祐樹が生き残ったとしても、私は二人の幸せを最後まで願っていただろう。
『だから私は幸せにならなきゃいけない』
それがパパと祐樹の生きた証だから。管理者権限は私にあるから、祐樹からの管理者コードを解除できるということはスキャンをしたときに分かっている。
だが、それをなくすのは二人とのつながりを消してしまうように思えて、できていない。そのせいで、今も幸せにならなければならないという強迫観念にも似た思いが私の中に渦巻いている。
『それならさっさとあいつらのことを忘れたらどうだ。それを望んでいたんだろ』
博士の言うことはもっともだ。幸せになる一番の近道は記憶を消してしまうことだろう。
それ自体は簡単だ。私は電脳化しているのだから、感情や記憶を乱すことができる。
それが一番合理的だっていうことは、分かっている。だが、どうしてもその考えを受け入れられない。
『そうだね。それが一番だっていうのは分かってるよ。でもね、もう何も知らないままでいるのは嫌なの。私のことが私抜きに決められてしまうのは、どうしても我慢ならないの』
二人のことを忘れられない理由。それはただ後ろめたいだけだ。
身を挺して私を逃がしてくれた二人のこと忘れて、のうのうと生き続けるなんて、そんな自分を許せない。
だが、そんな理由で私の幸福の枷となっている二人を忘れられずにいること自体が、私の幸せを願ったパパと祐樹に対する最大の裏切りだ。
そのことを誰かに伝えてしまえばすべてが崩れてしまうような気がして、当事者の自分抜きで物事が進むのは嫌なのだと建前を言う。
『だから、組織が私をどうしようとしているか。少なくともこれを把握しておかないと気が済まないのよ。あいつらが突然私の日常を壊すかもしれない。そう思うと心配でたまらないの。あいつらが何をしようとしているかが分からないうちは、私は幸せになることができないのよ』
『はぁ』
博士がため息を吐く。でも、それは突き放したようなものではなく、どことなく温かい。
『ほんと、変に頑固なところはそっくりだよ』
『なんのこと?』
『いや、何でもない。気にするな』
博士がこぼした言葉の意味が分からなくて聞き返すが、教えてくれなかった。博士のどこか寂しげな声が胸を締め付けて、これ以上追及できない。
『ともかく、お前の覚悟は分かった。俺もあいつらには色々と思うところがある。だが、お前の情報のおかげでようやくこちらから仕掛けることができる。本当に助かった』
先ほどとは打って変わって博士の言葉は力強い。やはり、博士の組織に対する憎しみは並大抵ではないようだ。
『そっか。それは良かった。……どうするつもりなの』
『……すこし考える時間をくれ。お前でさえ尻尾を掴むのに8年もかかった相手だ。並大抵の奴らじゃない。しっかりと作戦を考えなければ』
『私も一緒に考える』
『ふっ』
博士が鼻で笑うので、ムッとして言い返そうとするが、博士がすぐに言葉を続けるので機を失う。
『分かっている。お前をのけ者にはしない。だが、二人で一から作戦を練るのも効率が悪い。お互いにひな形を持ち寄って話をした方が良いだろう』
『……そうね』
その言葉を聞いて安心する。博士の声は柔らかいが、芯があって、私にしっかりと向き合ってくれている。私を抑え込むための一時しのぎの言葉ではない。
『追って連絡する。勝手に動くなよ』
『そっちこそ』
『ふん』
面白がるように鼻で笑って、博士との通話が終了する。
「はぁ」
一気に事態が動き出したのでなんだかどっと疲れた。
「ふふ」
そんなこちらの様子を悟ったのか、きなこちゃんがごろごろ言い始めた。目を閉じたままなのに、本当にかわいい子だ。
「待っててね。必ず戻ってくるから」
きなこちゃんをゆっくりと撫でながら、決意を固める。
すべては私の幸せのため。二人の生きた証のため。それを邪魔する組織とけりをつける。
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