第七十一話 戦いのあと
永遠の闇のみに支配された世界。
時も光も音も無い、真なる虚無に満たされた世界。
──来たか。
──ああ。
ロンは、その影に向かって、静かに応える。
影の姿は、まだ見えない。
相手に近づこうとしてみたが、どうしても上手くいかなかった。
──ひどく淋しいところだな、ここは。想像してたのとは、随分ちがう。
──……。
──けどまあ、俺たちには、似合いの場所か。
ロンがぐるりを見渡しながらいうと、影が腕を組んだ気配がした。
──まだだ。
──なに?
──おまえがここへ来るのは、まだ早い。わたしは、ここで孤独を愉しんでいるのだ。心の底からな。もうしばらく、誰にも邪魔されたくはない。
──そんなことっ。
──さっさと楽になろうとするな。馬鹿者め。お前には、まだやるべきことが残っている。
直後、ロンは全身に強い衝撃を受けて、その場から弾き飛ばされた。
そのまま遥か彼方、星のように輝くちいさな光へと向かって、昏い濁流の中をみるみる押し流されていく。
──っ! ま、待ってくれ!
──もっと藻掻け。足掻け。血反吐にまみれ、己の無力さに絶望しながら、
──そんなっ……ヴァロウグ、俺はっ!
──ロン……わたしは、ここでいつもみている……どうしようもなく愚かで弱い、お前という男の無様な生き様をな……。
──ヴァロウグーッ!!!
ふいに、眩しい光に襲われて、思わず眼を閉じる。
ふたたびゆっくり瞼を開いた時、視界には見知らぬ天井があった。
窓から午後の色づいた陽光の差し込む、瀟洒なつくりの部屋だ。
すぐに、リグラールの城の一室だろうと見当をつけた。
「うっ……」
四肢に残る疼痛に呻きながら、柔らかなベッドの上で体を起こす。
全身を包帯でぐるぐる巻きにされているが、すでに出血は止まっており、五体満足。
正真正銘、生きている。
(また、死に損なったか……)
諦念を胸にあらためて周囲を見回し──ベッドの側の椅子に座る鎧姿の少女と、目が合った。
「アラナ……」
ロンよりずっとはやく快復したらしい少女は、緋色の眼を見開いて彼を見つめたまま、固まっている。
「すっかり元気みたいだな。よかった」
「…………」
少女は、何も応えない。
見知らぬ者をみるような表情のまま、硬直している。
たちまち気まずくなったロンは、視線を逸らしてポリポリと頭を掻いた。
「その、君には、ずいぶんカッコ悪いとこ、見せちゃったな……。まったく、われながら情けないよ。みんながあの場に来てくれなかったら、どうなってたことか……」
苦笑まじりに、惨めっぽく呟く。
少女の瞳からぽろぽろと涙が溢れだしたが、ロンはそれに気づかない。
「まあ、とっくに引退した元勇者の実力なんて、所詮こんなも──」
言い終わらぬうちに。
ばっ! と、アラナがロンに抱きついた。
「うぉっ」
驚く彼の体を、強く強く抱きしめて、少女はわんわんと泣きはじめる。
「……よかったっ……ほんとうに……っ」
「アラナ……」
「わたし……あなたをっ……、うしなってしまったかと……っ」
少女の涙によって、ロンの胸に巻かれた包帯がたちまちぐっしょりと濡れていく。
「……死なないよ、俺は」
いって、おずおずと腕を回し、少女の真紅の髪をそっと撫でてやった。
「君たちを残して、死ねるもんか……」
「わたし……、わたしは……っ」
少女の胸に溢れた想いは、ほとんど言葉にならなかった。
窓の向こうから、子供たちの笑い声や男達の陽気な怒鳴り声、荷車の走る音や大槌が振るわれる音などが、かすかに響いてきた。
はやくもベイエルの町の復興がはじまっているのにちがいない。
「…………」
ロンは、少女の頭をやさしく撫でながら、ちいさな笑みを浮かべた。
今回に限っていえば、彼が誓いを破ってふたたび剣を取ったことは、間違ったことではなかったのかもしれない。
「…………先生」
アラナがおもむろに顔をあげて、潤んだ瞳でロンを見つめた。
想いを伝える方法は、言葉だけではないと悟ったのだ。
その時、とても強い衝動にかられた少女は、普段の生真面目な彼女からは想像もできない行動にでた。
背筋を伸ばし、熱っぽく切なげな眼差しで、その愛らしい桜色の唇をロンの顔に近づけていく。
「……っ」
ロンはひどく驚いて、戸惑ったが、それを拒絶はしなかった。
そして──ふたりのかすかに震える唇が、いまにも情熱的に重なり合おうとした、その瞬間。
「あーっ、先生おきてるー!」
部屋のドアの方から、エルフ少女の元気いっぱいの声が届いた。
『っ!?』
ベッドのふたりは仰天して、反射的に身体を離し──アラナは勢いあまって椅子に足をぶつけて、ガシャガシャと派手に転倒した。
「痛ったっ!」
「アラナ、どうしたの? だいじょうぶ?」
「だ、大丈夫よ……」
そばに近づいてきたウィナをみて、アラナはぎこちない笑みをみせながら立ちあがる。
「ふーん」
不思議そうな顔をしたエルフ少女は、すぐにベッドのロンのほうへ振り向いて、ニッコリと笑った。
「ねえねえっ、先生のケガ、ウィナが魔法でなおしたんだよーっ! スゴイでしょー。ほめてほめてー!」
宝玉のように澄みきった碧眼を細めて、無邪気を絵に描いたような顔で言う。
「そうだったのか……ありがとう、ウィナ。さすがは、ロナの森のエルフだ」
「えっへへー、ほめられちゃったー」
エルフ少女がぴょんぴょん跳ねながら喜ぶと、
「ウィナさんだけではありませんよ。後半は、この私が治療を担当しました」
ふたたびドアの方から声がして、いつものように少し不機嫌そうな顔の魔女と、ダルそうに宙を漂うサキュバスが姿をみせた。
「君たちも無事だったか」
「当然です。ちなみに、砦にいた人間たちにはひとりの犠牲も出していません」
「そうか……さすがだよ。君たちふたりに任せて正解だった」
ロンが大きく頷きながらいうと、
「ロンちゃぁん? まさかひと言ほめて終わりだなんて、考えてないわよねぇ?」
エロウラが思わせぶりな口調でいいつつ、ロンの下半身に目をやって、妖艶に舌なめずりをしてみせた。
「ロンちゃんがビンッビンに元気になったらぁ……今回の仕事の報酬を、たぁっぷり貰うつもりだからぁ♡」
「うっ……」
ロンが仰け反りながら露骨に顔を引きつらせた時。
「ケッ! クソ雑魚のオークどもをチョット片付けたくらいでエラそーなこと言ってンじゃねーよッ!」
いきなり喧嘩腰のオリガと、彼女に続いてカイリとキヤが部屋に姿をみせた。
「敵の四天王をブッ倒してアラナを助けてやったのはオレらだぜ? ロンからゴホービもらうのは、コッチが先だろ」
「そ、そうですね……わたしも、そう思います……」
「そうだな。マスターより与えられる報酬……真先に受け取る権利を有するのは、このワタシだ」
カイリとキヤがもっともらしい顔でいう。
「はぁ? なーにが四天王よぉ。こっちはオーク三千匹よ、三千匹ぃ。すっっごい大変だったんだからぁ。ねぇ?」
エロウラが同意を求めるように隣の魔女を見やると、
「私はそれほどでもありませんでしたね。正直、楽勝でした。しかし……たしかにエロウラさんは、オーク如きにかなり手こずっている様子でしたねえ」
イルマは控えめな胸の前で腕を組んで頭を反らし、皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「っ!? アンタッ! いまはちがうでしょっ! いまはアタシの味方するとこでしょぉっ! 馬鹿なの? アンタ馬鹿なのっ?」
「ダァーハッハッ! エロウラ、テメェオークごときに手こずってやがったのかよ。ダッセー、ヨエー!」
「……あーもう、アッタマきたわぁ」
ふいに、サキュバスの全身から禍々しい闘気が立ち昇る。
「じゃ、こうしましょぉ? いまココで全員で戦って、最後まで立ってたオンナがロンちゃんのすべてを手にするの。それで文句ないわよねぇ?」
まったく道理に合わない提案だったが、意外にも、少女たちは皆それをすんなりと受け入れる。
「先生のすべてを? ……わかったわ。みんなは恩人だけど、そういうことならわたしも戦わないわけにはいかない」
「ふっ。いいでしょう。目障りな存在をまとめて始末する絶好の機会です」
「わー面白そーっ! ウィナもがんばっちゃおうかなー」
「ハッ! 上等ッ! 全員まとめて地獄へ送ってやンよ」
「どうやら、避けては通れぬ戦い……わたしも、参戦させていただきます……」
「愚かな。マスターの身も心も、すでにこのワタシのモノだ。誰にも奪わせはしないっ!」
七人の少女が放つ七色の闘気が部屋の中で嵐のように荒れ狂い、窓ガラスが一斉にビリビリと悲鳴をあげはじめる。
「ちょ、ちょっと待て! みんな、落ち着けっ!」
恐ろしすぎる急展開にロンが慌てて止めにかかるが、
「覚悟はいいわねぇ……死んでも恨みっこなしよぉ……」
『とーぜんっ!』
戦闘態勢に入った少女たちは、もはや彼のことなど眼中にない。
「それじゃ……そのうち地獄で会いましょうねぇっ!」
その言葉を合図に、七人が同時に跳躍し──、すぐに魔王もひと目みて逃げ出すような壮絶な大乱闘がはじまる。
「やめろぉぉおおっ!」
必死に叫んで、すぐさま争いの渦中に飛び込んだロンは、その直後、ドンッ! と何者かの突進をまともに受けて、
「ぐぇっ!」
呻いて、勢いよく宙を飛んだ。
運悪く、その先には窓。そしてここは四階である。
──ガシャアンッ!
ガラスを派手に突き破ったロンは、中空に放り出され、そのまま地上へと真っ逆さまに落ちていった。
「うわぁぁぁああ───げぎゃぶっ!」
ふたたび瀕死の重傷を負った彼が、さらにもう一日、回復魔法による集中治療を要したことは言うまでもない。
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