第47話 誠実性
これは夢。
狭くぬめる坑道のような道だった。
人一人這いつくばるのがやっとなほど窮屈で、生臭く、べたべたして、ゴムの様に伸び縮みする、とても不快な感触。なんとかここから脱出して、外に出ようともがくが、行く手の不安を煽るように四方から絶え間なく何者かの絶叫が響いていた。
このまま外に出ていいのだろうか。だが、あまりに狭く振り向くことすらできない。それに、後ろはどこまでも深い闇が続いている気がした。私の目の前にこそ、求める光があった。ただ、その光の先に、近づくにつれて叫びは大きくなる。
うぎゃああああ――
ふんあああああ――
何故か、私は絶叫を聞けば聞く程、高揚していった。
もっとこの悶絶する叫びが聞きたい、全身で感じていたい、と。体を捻りながら光を求めて這い出ると、眩い光が全てを覆った。あの時、私の目は何も見えていなかった。そもそも、何かを見るという感覚すらなかったはずだ。
だが、今でもはっきりと覚えている。
私は確かに彼らを見たのだ。
母親の子宮から這い出た私を、祝福の瞳で出迎える無数の存在が。
おめでとう。
おめでとう。
これから、きっと楽しいことが起きるよ。
きみがこの世界を導いていくんだ。
まずは、このあと生まれてくる妹だよ。
そこをやり遂げるんだ。
瞬間的に、私はこの者達は人間ではない、と思った。
ただ、彼らは心から私の出生を喜んでくれた。
私は、なぜか自分が産まれた瞬間の出来事を覚えている。幼き頃の記憶や、大切にしたい思い出は全て消え去っていくのに、この記憶だけは今もずっと胸の奥に残っている。忘れるな、といつまでも頭の中で反響するのだ。
*
そして、夢は現実へとすり替わる。
私の目にはのどかな山間の風景が流れていく。日は傾き、タクシーの車窓から時折、西日が私の目を射す。もうすぐここは完全に夜の闇に包まれていくだろう。がたがたと整備が行き届いていない道を走り、別れ際の彼の台詞を思い出す。
――なんとかここで働いてます。慣れない仕事ですが、皆、自分と似た境遇です。
秋山君が働いているのは、新規原料の調達を目的として立ち上げた子会社。
阿場多新社長が子会社の社長も兼務しており、監査役として水野部長も名を連ねている。
表向きは、表向きは調達ルートの多様化へのリスクヘッジだが、その実態は境界線に汚染された原料の開拓、調達、そして「マーケティング」。
境界線に汚染された原料の調達の鍵となるのは、目利きだ。
見える者でないといけない。
そのため、この子会社に所属している者達は、秋山君と似た症状を抱えている。
つまり、秋山君のように見える人間で構成された組織が、調達して、まずは自社で「マーケティング」を行い、あらゆるルートに販売していくという恐るべき事実だ。
食品から医療用、果てはワクチンに自衛隊。
この国を丸ごと境界線に導こうと画策している。
この本質が異常な点は、いずれにしても証明は不可能であるということだ。
準拠性は問えず、見えないもの、品質上何も検知されないものはどうやっても不正を証明することができない。
準拠性による保証とリスクの不可視化がもたらす悪夢の罠。
更に言えば、ガバナンスも機能していない。この事業の推進者が阿場多新社長という業務執行を監視する内部監査の管轄外に置かれている聖域である事実に、歯軋りする。
この事実を誰に訴えればいいのだ。
仮に、経営陣を監視する監査等委員に内情を訴えたところで、彼らに証明できるものは何もない。不正を追及するということは、それなりの証拠が必要だ。そもそも、不正かどうかもわからない。当然、マスコミもだめだ。警察も。
何も証明できない。
「元々、阿場多新社長は既に何かに乗っ取られていた存在というわけか」
秋山君は姿を消してから、水野部長にこの仕事を紹介されたようだ。となると、彼はこの状況を初めから知っていたことになる。
監査と経営は共謀している。
ここから、脳裏に渦巻いていた疑念が発火するように結びつく。
異常な事業の推進者は、秋山君のような人間を見つけ出して確保した。次に必要となるのは、その保証だ。この事業の進捗は適切に行われているか。
そこを見れる人間が必要だ。
「だから、エミナのような人間を見つけ出しんだ」
侵された人間たちが業務を遂行していき、侵された人間が業務を保証する。
これからも秋山君たちの業務は止まることなく拡大していき、エミナのような者達が彼らのプロセスを保証すべく監査を遂行していく。
ここまでくると恐怖よりも怒りが勝り、バッグから、エミナがまとめあげた報告書の束を乱暴にめくった。
【対象先は業務に支障を及ぼす重要な問題点は認められなかった】
【対象先は業務に支障を及ぼす重要な問題点は認められなかった】
【対象先は業務に支障を及ぼす重要な問題点は認められなかった】
【対象先は業務に支障を及ぼす重要な問題点は認められなかった】
【対象先は業務に支障を及ぼす重要な問題点は認められなかった】
馬鹿げてる。
今年に入り、彼女は精力的に監査をこなし、次々と重要問題はないと合理的な保証を行っていた。彼女が保証するたびに、もう後戻りできない闇へと引きずり込まれ、平穏な日常を切り離す強力な封をされていくようだ。病原菌のように人が侵され、そこで成り立つ組織や会社が侵され、やがて日本、いや世界中に広がっていく。
だが、その全ては可視化できず、何も問題は検知されない。
私は彼女の報告書にどこか綻びはないか。
可視化できる証跡はないか。
データの山と戦っているが、その全てにおいて問題点となる証跡は掴めなかった。
そもそも、阿場多新社長はいつ、どこで感染し、このおぞましい計画を推進しようと思い立ったのだ。
その原因は、出元は、真相は――
この考えに及んだ時、再び「馬鹿げてる」と吐き捨てるように首を振った。
例え、阿場多新社長の感染原因が特定されたとしても、解決方法や、今度は社長に感染させた原因の出元を特定しなくてならない。その闇は当社だけでなく、食品、医薬品、あらゆる業界に及んでいる。どこまでも不完全な憶測だけが支配するのだ。
原因などは重要ではない。
ただ、リスクを可視化して、プロセスの是非を保証することこそが本質なのだ。
果たして、「問題ない」とはなんだろうか。
そこには誠実性が見事に欠けている。
見えない自問自答の闇に潜り込むと、急激に睡魔が襲ってきた。
そのまま深い眠りにつく前に、別れ際に秋山君が言った言葉を思い出す。
「小雪さん、僕のこと好きだったんですか?」
あの時、私はふっと脱力した声を出した。
妹と重ねただけよ。
彼にその声が届いていたかはわからない。
山肌から流れる風に搦めとられて、消えたのかもしれない。
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