第41話 社長報告
「――以上が、昨年度の監査結果になります」
水野部長は社長室の応接ソファに腰かけて、眼鏡を妖しく光らせた。
社長はふうんと鼻を鳴らす。
「小さな報告はいいんだけど、要は問題ないってことでいいの?」
「はい。昨年度、実施した監査対象先は特に問題は認められませんでした。当社の事業は正常に機能していると言えます」
この結論に社長は「問題あっても困るしね」とだけ淡白に言った。
この人が阿場多新社長か。
年度末の定例会などで何度か顔を見掛けたが、直接面と向かって話すのは初めてだ。
阿場多新社長は先代の急死から外部招聘された存在だ。
代々オーナー企業であった梶原家以外で初の社長。先代は一種の浪花節的なオーナーであったが、この阿場多新社長は過去のしがらみが一切なく、利益のためにドライな改革を推進している。
しかし、その新規事業はどれも不調に終わっている。
問題があると困るのは、本音の部分なのだろう。
ついでに、些末なことは無視をしたい、というのも本音だろう。
水野部長の隣に座る私は、一連の報告に歯がゆい思いで臨んでいた。ここで口を挟むべきか悩んだ。仮に、私が内部監査部に問題があると声高に叫んだところで、今の状況では分が悪い。
人間でないものが監査を遂行しています。
その根拠は? 証跡は?
証跡はありません。根拠は私の第六感です、なんて弱い。
だが――
社長は一通り報告書に目を通した後、静かな足取りで窓の傍に立つ。内部監査部は置物に過ぎない。問題ないというのは社長にとっては当然の結果。少しでも問題があっては困る。まるで、そう云わんばかりに物言わぬ背中を見せつける。
「採用が決まったよ」
「ああ、例のですか」
水野部長の目が怪しく光る。
「うん。最近では自衛隊にも決まった」
「それは朗報ですね」
「そうだね。軌道にのってるね」
水野部長は小さな声で「いよいよですか」と呟く。
「まあ、今年度もよろしく頼むよ。今年は件数を多くして、より早く、より網羅的に色々なことを見て欲しい。私はね、問題ないって報告を聞きたいんだ」
「ええ、それは重々理解しております」
水野部長と私はそのまま席を立ち、一礼して社長室を後にした。
社長室に隣接する秘書室、経営企画室、取締役会事務局といった会社の中枢部署を抜けて、お互い無言のままエレベーターに乗り込む。
二人きりになったところで、気になるところを聞いた。
「先ほどのお二人のやりとりですが、自衛隊とは何のことですか?」
「ん? ああ、あれだよ。新事業」
「新事業? ユニバキッチンですか?」
「ユニバキッチンにも卸されている特注スパイスのことだよ」
ああ、そう言えばユニバキッチンの目玉として、市販用とは別に特注品を調達しているんだっけ。
自衛隊にはカレーの原料に卸されることになるそうだ。
確か、あれはユニバキッチンや北関東工場といった自社専用だったはずだ。いや、自社専用ならばわざわざ子会社にする必要はなかった。つまり、設立当初から外部ルートへ販売することを目的としていたわけか。
「スパイスやハーブといったものは面白い原料でね。食品だけでなく医療の原薬にもなったりする。将来的には予防接種の原薬メーカーにも卸していく方針だよ」
新規開拓先として水野部長が挙げた会社は、誰もが知る大手医薬品メーカーだった。
まさか、この新事業がそこまで長大な目標を掲げているとは思わなかった。
話題性だけを目的とした、小さな、取るに足らない事業の一つだけだと思っていた。
なぜだろうか。
この計画に言いようのない不安が付きまとうのは。
ただの赤字を垂れ流す事業だけで止まらない。
それはきっと――
「阿場多新社長は先代と随分違いますね」
「そう? どの辺が」
「先代なら、何かしらの不備を報告したら何十分もそのことについて、うちの部室にまで押しかけて聞いてきました。社長は忙しくても現場のことを気にかけているんだなって。でも、阿場多新社長は報告を聞いているのか聞いていないのかわからない。問題ないって報告だけを知りたい」
「まあ、社長なんてあんなものですよ。先代の話が長いってだけじゃないかな」
「そうですか。まるで問題ないことは受け入れないとでも仰っているようにも聞こえます」
「考え過ぎじゃないですかね」
顎をさすりながらそう答えられたが、何だか妙に喉に引っかかる。
そう言えば、私は社長報告に同席したことがなかった。今まで水野部長が一人で報告していた。
この人は――きちんと全てを報告しているのか。
「水野部長」
「ん? どうしましたか」
「社長には伝えているんですか」
「伝える? 何をですか」
「我々の組織のことです。新体制について。新しく生まれ変わる監査人について」
「もちろん伝えてますよ。我々は社長の直属。社長の承認もなく出来ませんからね」
「では社長はなんて――」
ここでエレベーターのドアが開く。
「おっとごめん」
水野部長はそのまま外出するといい、私だけフロアに降りた。
強制的に話を切り上げられ、釈然としないまま一人で部室に戻ると、エミナが目を輝かせて待ち構えていた。
「課長、社長から何かありましたか? この項目は追加確認とか、よく調べられてるとか、それとも――」
この女を見ると、余計に心配が募る。
彼女が笑えば笑う程日常が奇妙に歪み、不穏な何かに搦め捕られていくようで不安に駆られる。
今年度の監査計画では、エミナが全面的に往査を行い、現場のアシュアランスを遂行していく。いくら私が、彼女の監査報告をチェックしたところで限界がある。
やはり、今の組織の状況を社長に直訴した方が良い。そう思い、フロアを駆け上がるが、踊り場を抜けたところで思わず足が止まってしまった。
目の間に奇妙な光景が広がっている。
社員の様子がおかしい。
皆、立ち上がり、一点を見つめている。
視線の先には誰もいない。
デスクとデスクの間に広がる奇妙な間隔と壁、取ってつけたような経営理念パネルが掲示されているだけ。
まるで朝礼でもしているように、見えない何かに向かって直立している。
誰も言葉を発しない。
誰も身動きしない。
ただ、ぼうっとその場で直立している。
異様な光景だった。
このフロアだけ重力が歪んでいるような居心地の悪さがまとわりつく。
誰も私に気に掛ける風でもない。一体、彼らは何を見ている。
不穏な何かを感じてこのまま後退ろうと考えたが、意を決して社長室目掛けて足を踏み出した。彼らと極力目を合わさないように、社長室のドアに手をかけた時――
「社長は応接中です」
急に後ろから呼び止められた。乾いた事務的な声音だった。
驚いた様子を悟られまいとゆっくり振り返るが、呼吸が止まる。
全員が私を見ていた。
一人、二人、三人、四人――無数の目が私を射抜く。
異物を見るような冷たい目。
その目は秘書室、経営企画部、取締役会事務局、いや社員だけではない。
フロアを埋め尽くすほどの何かが、私に悪意を向けている。
いや――
向けているのではない。
目に見えない何かが悪意を向けているように感じただけだ。
錯覚。
これは錯覚なのだ。
見えない。
どうして私は何も見えない。
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