第42話 逸脱

「小五郎さんが休みなんて珍しい」


 休憩中、道場の端で水分補給をしていると、誰かがそう言った。


 私が知る限り、彼が稽古を休んでいるのを見たことがない。私からの個別稽古にも二つ返事でOKを出すぐらいなのに。

 だからなのか。今日の稽古はどこか身に入らなかった。次々と組手を変えながら無心で投げて、投げ飛ばされて。いつもなら、流れ落ちる汗と共に嫌なことも剥がれ落ちていくのに、頭に蜘蛛の巣が張ったように雑念が消えていかない。


 午後八時。

 稽古が終わり、道場の埃を掃き清め、外に出る。

 生温い風が未だ稽古で火照った体に、不快にまとわりついた。


 家に帰る前にいきつけの中華料理屋を訪れた。案内されるがままにカウンター席に座る。注文したレバニラ炒め定食が来る前に、小五郎さんにメッセージを送った。


『皆勤賞記録は途絶えましたね@小雪』


 この嫌味に返事はない。いつもは送信と同時に既読になるのに。


 彼はあまり仕事のことを話さない。

 専ら話すことは奥さんのことだけ。

 それもあけすけに。

 もう愛情はない、とか。

 嫌味な女と結婚した、とか。


 何のアピールよ。

 馬鹿ね。

 そんな分かりやすくされてもこちらは無理。

 まあ、あっけらかんとして根が明るいから、言い寄られる分には悪い気はしてないけど。


 でもね、私はやめたほうがいいわよ。


 きっと、ろくなことにならない。


 妹は死に、秋山君は失踪し、西山支店長は車道に突っ込む――

 いや、それだけではない。


 同じ団地の幼馴染は駐車場の事故に巻き込まれて死に、中学で隣の席の同級生は首を吊り、高校生の時、帰り道が同じだった子は川で溺れて死に、大学で同じゼミの彼は海外で強盗に遭い死に、結婚した同期は、生まれたばかりの子を不注意によってベランダから転落死させ、憔悴した後マンションから飛び降りて死に、両親なんてとっくの昔に――



 どうせ、あなたもいずれ。



 気が付けば、深く泥のような内面に入り込んでいた。

 沼からもがくように、強引にレバニラ、ご飯、餃子、スープを次々と胃に放り込む。いつもそうだ。死の予感に近づけば近づくほど、闇に取り込まれまいと腹がシグナルを出す。


 命の残骸を食べて、己の命にしなくては。


 あの時、見えないものに苛まれる秋山君に忠告した台詞を思い出す。


 ――だめよ、負けちゃ。全ては君次第だから。


 あれは彼を励ましたのではない。本当は自分自身に釘を刺していた。


 闇に引き寄せられるな。

 そう己に強く言い聞かせている。

 目を閉じて深く息を吸う。瞼の裏側に光はない。

 腹の底に溜まった負の香りをゆっくりと吐き出すと、前を向き家路に着く。


 仕事帰りの会社員。

 こんな時間に何の用があるのかわからない女子高生。

 居酒屋の前で盛り上がる学生たち。


 思い思いの夜を迎える者達とすれ違うなか、暗がりから何者かに声をかけられた。


「小雪さん、いたいた、探したよ」


 見知った顔がそこにいた。


「柳生さん、こんな時間にどうしたんですか」いや、時間ではない。「なんで、こんなところにいるんですか?」

「今、ちょっと話せるかな」


 そう言って夜の闇から這い出るように、こちらに近づいてくる。


「えっと、長い話ですか」

「長い……そうだね、長いかな。短いといえば短いけど。別にここでも構わないんだけど、急いでるからさ」

「急いでいる? 私を探してるってどういう意味ですか」

「なんか説明しづらいんだけど、ずっと聞こえるんだ。朝も昼も夜も。酒飲んでる時もずっと耳元で俺に言ってるんだ。だからね、俺は日本中を旅して回った。上野から新幹線で東北を巡り、そのまま海を越えて宗谷岬まで」

「あの、すみません、一体私には何の意――」



「だめだった!」強い口調で私を遮る。「どこにいってもだめだった。もう、日本中いや世界中探したって見つからない。絶望した。俺はこの世界に居場所がないってわかった。痛い、ずっと頭が痛い。俺は、俺は」



 なにこれ。

 絶望って。いや、もしかして彼は――

 困惑する私を前に、彼は発火したように「気付いてしまったんだあああ!」と叫ぶと、おいおいと泣きじゃくった。


 大の大人が路上で大声をあげて。

 ヒステリックに。



「俺はこの世界からはみ出してしまったああ!」



 絶叫にも近い叫び。

 温和な姿しか知らない私は強い違和感に震えた。

 彼は、彼は、今までの者達と――


「で、どうすればいいのよ。君が決めるんだろ?」

「し、知らない」


 困惑する私を馬鹿にするように、柳生さんは口を尖らせる。


「何だよそれ。全っ然話が違うじゃない。皆、言ってたぞ! 四六時中。酒飲んでる時も、うんこしてる時も。しこってる時も。小雪さんだって。君が――」

「知らないわ!」


 彼は狂っていた。


 不気味なほど目が欄欄として、大量の唾を吐き出し、意味がわからないことを捲し立てる。やがて、興奮が最高潮に達したのか、そのまま私に掴みかかろうと手を伸ばした。


 こういう事態に備えて、何年も自分の身を守る稽古をしてきた。

 瞬時に警戒態勢を取り、半身を取る。


「皆、そう言ってる!」


 異常な手がこの身に迫る。

 今だ。

 この身に迫る悪意を、鍛え上げた心身でもって振り払う。

 そのまま勢いよく投げ飛ばし、一ミリたりとも間合いに入り込ませない。


「皆、そう言ってる!」


 そう。

 思っていたはずが――

 なぜ、私は彼をそのまま投げ飛ばすことが出来ない。

 なぜ、私は背を向けて逃げることしか出来ない。


 夜道を駆けるなか私は痛烈に理解した。



 理解できないものとは、どれだけ鍛錬しても、真正面に向き合うことは出来ないということに。

 理解できないもの、見えないものは、とても恐ろしいものだと太古の昔から本能に刻み込まれているからだ。



 誰も抗えない。

 あの時と同じだ。秋山君に助けてもらった雨の日と同じ。

 私はどこまでも、私なのか。

 前だけ向いて、夜の大通りを駆け抜ける。

 掴まれたら私は死ぬ。そう覚悟して、何も考えずに息を切らす。

 だが、不運なことに信号に捕まった。


「他に逃げる場所は」


 純粋な狂気を背中にひしひしと感じながら、必死の形相で左右に首を動かす。ない。どこにもない。前には信号、後ろに異常。


 どうすれば。


 絶望にこの身が覆われようとしたその時――猛烈なクラクションのあと、何かが爆発したような轟音が後ろから響いた。


 身の危険を感じ、咄嗟に体を屈めた。

 何が起きたのかと振り返ると、爆発の中心から何かがやってきた。


 咄嗟に両手で前方を覆うと、柳生さんがこちらに向かってもの凄い勢いで吹っ飛ばされてきた。


 彼はその勢いのまま何度も地面にバウンドして、私の一メートル手前で土下座するように止まった。足や手が不自然な方向に曲がり、肘から骨が皮膚を突き破っている。ぴゅーと至る所から血が吹き上がり、ぴくりとも動かない。あまりの惨状に何も考えられず、ただ茫然と立ち尽くした。


 ここだけ世界が切り取られたように固まっている。


 彼は撥ねられたのだ。


 衝突したのは軽トラック。見ると、急停車をしたタイヤ跡がくっきりと浮き出ていた。恐らく、急に車道に飛び出した柳生さんを避け切れず、そのまま後ろから激突したのだ。


 大変なことが起きた。

 これから救急車を呼び、その後警察へ、いや待って、まず先に――


 震える手でバッグからスマホを取り出すと、ラインのアイコンがメッセージアリを表示していた。

 そうだ、こんな時こそ小五郎さんに。

 粘っこい汗が頬を伝い、ぽたぽたと画面に落ちる。藁にも縋る思いで、メッセージをクリックすると、予期せぬ事態に思わずスマホを落としそうになった。

 目に映るのは、完全に意識外からの呼び声。




『小雪さん、お元気ですか?』




 このメッセージから始まる、想定外の人物は。




「秋山君、あなたどこにいるの……?」




 かろうじて絞り出したその声は驚く程弱く、夜風で簡単にかき消された。

 柳生さんが顔面から地面に叩きつけられる刹那、ほんの一瞬だが、確かにこう聞こえた。


 ――ありがとう。連れていってくれて。


 今はもう、誰の目にも息絶えたことが明らかな柳生さんが、土下座をするように血塗れで地面にひれ伏している。

 眩暈でよろけそうになるなか、妹の最後の言葉を思い出す。


 ――お姉ちゃんが決めて。


 理解できないものは、理解しなくてもよい。


 ――みんな、そう言ってる。


 理解する必要もない。


 そういって、自分を安全な位置に置いていたが、見えないものは、やがて具現化していき、その全貌を顕わにしていく。


 ――早く連れていって。


 自分なりのロジックというのは実に陳腐で脆い。

 気が付けば、私の世界が大きく歪み始めていった。




 物語は終章へ――

 可視と不可視の境界線のなか、巧妙に仕組まれた不可視が故の負のガバナンスが明らかになる。

 高城小雪と秋山明が目にする新時代の幕開けとは――


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