第38話 相容れない
ある一点を除いて、実に気持ちの良い朝だった。
澄んだ空気。
突き抜けるような青空。
陽は昇り、太陽はこの大地に生きる全ての生命に等しく光という恵みを降り注ぐ。
こんな気持ちの良い一日が始まるというのに。
いつもと違うルートを選ぶんじゃなかった。
昨晩は妙に寝付けなく、変な時間に目が覚めてしまい、珍しく二度寝をしてしまった。そのまま、いつもより遅い通勤電車に乗り込み、大通りから一歩入った近道を選んだ。
なんでこんな場面に遭遇する。
高笑いが聞こえる。
突き抜けるような陽気な笑い声。
会社に向かう大通りから脇に逸れた路地の真ん中で、エミナが陽気に笑っていた。
「やばいっ。うける――」
この女は何がそんなにおかしいのか。
足元に、体が捻れた血まみれの男が横たわっているのに。
こんな異常な光景を前に、この女はなぜこんなにも明るい表情をしているのか。
「あ、先輩。おはようございます」
エミナが私に気付いた。
彼女は目に涙を浮かべている。
心の底から楽しいと云わんばかりに、未だ笑いが止まらない。
「……一体、何があったの」
「え、ああ、これですか。ただ男の人が死んでるだけです」
自然と後退る。
「あなたがやったの?」
エミナは目を丸くした。
まるで、なんで?と言わんばかりに。
「とんでもない。わたしはただ目撃しただけですよ。この人がいきなり屋上から降ってきたんですよ。ただの自殺ですよ」
「……あなた、何がそんなにおかしいの」
「え? だって。いきなりなんですもん。わたしもびっくりするじゃないですかあ」
「……こういうのが笑えるようなことなの」
「だって――」
再びエミナはぷっと噴き出す。堪えられないように。お腹を抱えて。まるでコメディ漫画のように、くの字になって。
嫌な出来事が起きた日には決まってよく晴れる。
秋山君が失踪した日や妹が死んだ日も、眩しいぐらいの光が大地に降り注いだ。
ああ、そういえば思い出した。
両側を雑居ビルに囲まれたこの路地は、日が当たるのを見たことがない。
目の前に広がる血だまりはどこまでも黒く、世界の淀み全てを煮詰めた色をしていた。
「――合わない人はこうなっちゃうんですよねえ。あっちでも、こっちでも。どこの世界でも。先輩もそう思いませんか?」
あーおかしい、とエミナは笑い続けた。
この女はおかしい。
傍から見れば誰もこんな異様な存在だと気付かない。下手したら、外見から判断してこの女を好きになってしまう男だっているかもしれない。姿形こそ年頃の甘ったるい女の恰好をしているが、その実体は、異常なものに魂を乗っ取られた人間だ。
あれから彼女は何も変わらなかった。
いつも通り私に、先輩、先輩、先輩、先輩、先輩、先輩、先輩、先輩、先輩、先輩――と五月蠅くつきまとう。こっちは神経がかき乱されて、どうしようもない。時を見計らい、改めてあの一件を問い質すと、「わたしは正直に全てを見せましたよ。見えないからって信じてくれないんですかあ?」と、逆にこちらを試すように口元を歪ませた。
「先輩、わたしにそういうので揶揄ったり、馬鹿になんてしないって言ってたじゃないですかあ。あれはあの場で適当に言った言葉なんですか?」
エミナが言うことに、一定の理があるだけに、何とも言えない違和感だけが澱の様に胃の底に積もっていった。
何がなんだかわからない。
自分はこんな不気味な存在ですと、堂々と自ら宣言するものなのだろうか。
北関東工場の往査帰りに、わたしに嘯いた不気味な告白は嘘ではないのだろう。
私は確かに感じた。
この女から脱皮するように、本体とも呼べるものが首から生えたことを。
*
内部監査部は扱う業務の機密性の高さから、別室で仕事をしている。部員以外、ほぼこの部屋には立ち入らない。既に柳生さんは定年に備えて有給休暇の消化中であり、姿はない。つまり、こんな状況になっているのは、全社員の中で、私と水野部長しか知らない。
あの日以来、常に無用な緊張を強いられている。
いつかこの女は私に危害を加えるのでは。
そう警戒している。
「先輩?」
「ん、なに」
「どうしたんですか。なんか上の空ですよ」
「私のことはいいから今日の報告の準備を始めなさい」
「本日は、お手柔らかに頼みます。緊張してたどたどしくなっても許してください。先輩、そういうの気にする派ですか? 中身があればいい派ですか? それら含めてプレゼンって重視する派ですか?」
「そんなのどっちでもいいわ」
あと一時間もすれば、エミナの初めての監査報告会が開催される。水野部長と私、たった三人の密室会議。一体これから何を聞かされるのか。この女は何が目的なのか。複雑な感情が交差するなか、あっという間に定刻となった。
「それでは、資材調達部の監査報告をさせて頂きます」
「乞田さんの監査デビュー戦だね。報告楽しみにしています」
水野部長はにやりと頬を持ち上げた。それに応じるように、エミナもにんまりと口角を持ち上げる。彼らは何をしようとしているのか。一挙手一投足に目が離せない。経営陣にどんなレポートを提出するのか。まさかと思うが、この部署には悪霊が渦巻いてます、とでも報告するつもりじゃないわよね。
その時、水野部長は「おっと忘れてた」と立ち上がると、部屋に鍵をかけた。
予期せぬ事態に私は焦る。
「わざわざ鍵をかけるんですか」
「ん? だって監査の報告ですよ」
「もともと部屋は閉め切っているし、今までだって突然部屋に他の部署の人間が入ってきたことなんてありませんでしたよ」
「まあ、そうですね」
水野部長の了解を得るまでもなく、さっと立ち上がり鍵を開けた。こんな状況で密室を更に加速させるなんてありえない。一体、何を考えてる。
「先輩、始めてよろしいですか?」
エミナが薄く微笑み、そう言った。
焦りを悟られまいと私は憮然と応える。
「ええ、始めて」
固唾を呑んで見守るなか、プロジェクターからスクリーンへと徐々に報告書が映し出されていく。
ぼんやりと青白く映る、いつもの見慣れた定型書式。
無機質な冷たい文字。
【対象――
【対象先は――
【対象先は業務――
【対象先は業務に支障――
【対象先は業務に支障を及ぼす重要な問題点は――
霞む文字が徐々にクリアになっていく。
息が苦しくなる。
手汗が止まらない。
そして、はっきりと映し出された結論は。
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