第37話 無視
「小雪さんも、もうすぐ試験か。今回は何段だっけ?」
「四段です」
汗だくの小五郎さんにそう応えると、「だから、こんなに熱心なのか――よ」と勢いよく投げ飛ばされた。内回転、外回転、何度も何度も投げ飛ばされては畳を弾く音が夜の道場に響く。彼の言う通り、このところしょっちゅう小五郎さんに稽古に付き合ってもらっている。定例稽古では、今の私には足りない。平日でも時間がある時、いや、正確には私がストレス発散したい時、彼に連絡を入れて、都合が良ければ二人で稽古するという流れになっていた。
「もうすぐ俺も抜かれちゃうかも」
「もし、そうなら悔しいですか」
「もうね、すっごい悔しい」
わざとらしく顔をくしゃくしゃにしてから、「冗談」と振りかぶった手刀を一直線に下ろしてくる。瞬時に反応して、肘から上を抑えると、そのまま腕を取り反転。独楽のように一回転しながら、小五郎さんが床に這いつくばる。
正直なところ、私は段を重ねてどこまでも強くなりたいという願望はない。どちらかといえば、何もかも忘れて、一心不乱にただ目の前の相手と対峙したいだけだった。相手を投げ飛ばし、こちらも同様に投げ飛ばされることで、胸に渦巻く嫌な記憶も汗となり放出していく気がした。
「そんな会社辞めちゃえよ」
小五郎さんがぶっきら棒に言い放つ。
自分でも気付かないうちに、つらつらと近況を吐露してしまったらしい。仕事のことなんか彼に話したことないのに。一人で抱え込むのは不安だったのか。いや、第三者と身に迫る危険を共有することで、何かあった時に自分を守ってもらおうとする、打算の防衛のためか。
「気色悪いものに巻き込まれようとしているな。あんまり、そういう環境に身を置くと、いつか何かが起きるから気を付けろよ」
「はい。肝に銘じておきます」
「相変わらず固い言い回しだね~。職業病?」
「ただの性格です」
「ごめんごめん、冗談だよ」
我ながら情けない。
弱くなるとかえって危ないのに。
しかも、こんなこと誰が理解できるって言うのよ。
言うんじゃなかった。
道場を出て、別れ際に彼は「SEなんかどうだ?」と暗に転職を勧めてきた。成り手は少ないし、引く手数多だし、ちょっと勉強すればあとは実践でなんとかなると肩を叩く。
「その情報は本当なんですか?」と訝しんだ目を向けると、「ほんとほんと」と嘘くさい笑みで返された。怪しい。
「今さら職は変えません」
「そうかあ、残念」
小五郎さんの自転車が路地の闇に消えていく様を見届けたあと、そのまま夜の住宅街を歩く。
夜風は凍てつくように寒く、まだ春は遠い。
「この仕事を辞める……か」
SEは一旦置いといて、私は今の仕事を辞めるつもりはない。
それに、転職しようにも、そう簡単にはいかない。伝手もない。ただ準拠性とリスクしな見てことなかったマニュアル人間が私だ。
刃のように頬を刺す風が、痛みとともに、過去の記憶を呼び起こす。
妹の死後、決めたことがある。
妹を奪った倉庫会社に何の未練もなく、あれからすぐに私は会社を辞めた。手元には両親同様に得た補償金。お金だけが私の生活を保証した。ヒトの価値を可視化させるのは、カネという無機質な数値だけだと突き付けられた気がした。そこに当人の感情や遺族の悲しみは考慮されない。
目に見えない領域は究極的に理解されない。
転職活動は可もなく不可もなく終わった。経理の経験と資格を持つ人間は一定の需要があるようで、そのまま今の会社に落ち着いた。経理で採用されて、一か月後には内部監査部に異動になった。
「君のような人間が欲しかったんだ」
そう言って水野部長は微笑みながら両手を広げた。
今思うと、私が内部監査をしていることは滑稽に思える。
自分に近い人間を全て労災で失った私が、リスクマネジメントを評価するとは。
これは何かの罰なのか。
「私が何もないと保証することに何の意味が」
そう闇夜に向かって呟いた。人気のない暗い夜道は答えのない迷路のように思える。コツコツと自分の足音だけが響く夜道は、否が応でも己の深淵と自問自答しなければならず、無暗に心を苛立たせる。
私は見届けなければならない。
そんな責務になぜか駆られている。
私は何かもが納得いかない。
全く意味がわからない。
生まれ変わる?
なにそれ。
彼女は即戦力?
問題ない?
一体、何が問題ないのか。
どうして問題ないと断言できるのか。
私がおかしいの?
こんなもの――ガバナンスの欠落そのものなんじゃないの。
その答えが、もうすぐわかる。
来週、エミナの初めての監査報告会が行われる。
全てはその報告を聞いてからだ。
憤りとともに、再び時は戻る。
ぐうと鳴った腹の虫が、私を強引に今に呼び戻してくれた。むかつくのはいつでもできる。まずは夜食を食べよう。腹の虫だけは、どんな時だろうがいつも正直だ。
商店街へと足を向ける最中、ふと思った。
そう言えば、なんで私ってこんなところで働いているんだろう。
「ああ、こんばんは」
ふいに何者かに声をかけられた。前方を見ると、路地の暗がりに男がいた。男は明滅する街灯の下で、静かにその場に佇んでいた。
「よかった」男は安堵の表情を浮かべた。「場所をお尋ねしたいんですが、どこが入り――」
「知らないわ」
言葉を遮り、冷たく返す。
男を無視して、足早に通り過ぎる。通り過ぎる刹那、男の悲しそうな目がまとわりついた。全身の筋肉が強張る。背中に視線を感じながら前だけを向いて、家路を急ぐ。路地を曲がり、男の視線が感じられなくなると、一気に緊張が解けた。
大丈夫。
私は大丈夫。
何も問題はない。
妹の死後、私が決めたこと。
それは――
理解できないものは理解する必要がない。
見えないものは、私はわからない。
それが自分を守る。
その事実だ。
でも――
「何もかも、嫌なことも全部見えたらいいのに」
冷たい風に吹かれていると、堪らなくそう思うときがある。
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