第35話 残念

 往査を終えて工場から立ち去る際に、場内の至るところから、容赦なく冷めた視線が注がれた。


「重箱の隅を突くしか能がないのかね」


 監査は因果なものだ。

 僅かな時間と日程で対象先を保証するが、何か問題が発生した際には、監査が機能していないと矢面に立たされる。成果が表に出ず、マイナスが出た時だけ脚光を浴びる。


 帰りの新幹線の車中、労災の報告書を眺めながら事件当日をイメージする。


 制御室で監視業務にあたっていた契約社員(相田京子)が、突如、奇声を上げて工具に保管された調理鋏を取り出して、自ら耳を切り落とした。周りにいた作業員も一瞬何が起きたか理解できず、一時騒然となった。辺りは血塗れで、当然、生産ラインは緊急停止。一堂唖然とするなか、彼女は再び何かを叫び、もう片方の耳を切り裂こうとしたが、周囲に止められて、そのまま病院に連れていかれた。


 労災の後、彼女はそのまま復帰することなく退職。工場側も退職した人間のその後は把握していない。把握する義務はないと言えばないが、工場の安全配慮義務は怠っていたとしか思えない。


 明らかに彼女は精神を病んでいた。


 人はいきなり精神を病むことはない。

 必ず、その前兆がある。

 何か挙動がおかしかったり、ミスが増えたり。

 小さな違和感の積み重ねがやがて沸点を超える。

 それに、危険物の管理も杜撰だ。調理鋏が簡単に出し入れできるなんて粗末極まりない。


 自分で耳を切り落とすほど精神が追い詰められたのは何なの。


 うちの工場?


 それとも家庭環境?


 次々と脳内に浮かぶ疑惑に被せるように、北関東工場のコンプライアンスアンケートが沸騰した湯気のようにぼこぼこと湧き出る。


 「まだですか?」

  「まだ」

   「まだですか?」

    「ま」


 奇妙に並んだ備考欄の文字が、頭の中でじゅくじゅくと命を得たようにうねり、写真でしか見たことがない相田京子を形成していく。狂ったように、自分の耳を切り落とす。その狂気染みたイメージが細菌のように頭の中を支配しそうになり、慌てて頭を振る。


 彼女だけではない。ここ最近、離職が相次いでいる。

 そのどれもが職場のアンマッチ。


 ――合わなかったんですよ。


 合わないってだけで済まされるのか。

 本当にガバナンスの欠落はないのか。

 

 耳って――


 何かが聞こえたの?


 やはり、これだけははっきりさせないといけない。



 読みかけの書類をバッグに戻して、飲み終えた缶コーヒーを手に席を立つ。寝ている乗客たちを横目に通路奥のドアを開くと、トイレの前に求める人物がいた。


「あ、先輩。今日はお疲れさまでした。トイレですか? それともゴミを捨てにですか? やっぱり座りっぱなしで体を動かしにですか?」


 がたがたと揺れる車中、その振動に合わせてエミナの体が不規則に揺れている。

 私たち以外、誰もいない。

 人ひとりすれ違うのもやっとの狭い通路で、少し距離を取って対峙する。


「先輩、同じ新幹線なのに席は別々だし、色々と話したいことがあったのに、わたし暇してたんですよ」

「私は暇じゃないから、単刀直入に言うわね」

「え、何ですか。往査の感想ですか」


「あなた、嘘ついたでしょ」


「ウソ? 何の事ですか?」


「生産ラインの時よ。あなた、本当は何か見えてるんでしょ」

「何かってなんですか?」


 エミナはにこにこと嘘くさい笑みを絶やさない。往査の後、彼女とは一切口を聞かなかった。だが、こちらが無視を決め込んでも、帰りの新幹線は同じだったため、座席だけを変えた。単純に鬱陶しかったのと、どこか気持ち悪さを覚えたからだ。


 何でこの女はいつも楽しそうなの。

 何で私をそこまで慕うの。


「あなたって本当は見える人なんでしょ。何で私に隠すの? 何か理由があるの。言っちゃあ何だけど、そういうので私は揶揄ったり、馬鹿になんてしないわよ。私はね、そういう人たちを見てきたの。だから、あなたも素直に教えてくれない?」


「えっと――」


 エミナは困ったように口ごもる。


「いつも私には色々と訊くくせに、私の質問には答えないの? 卑怯じゃない」

「先輩だって、あまり答えてくれないじゃないで――」

「ゴミ捨て」彼女の逃げ場を無くすように遮った。缶コーヒーを乱暴にゴミ箱に投げ込む。「さっきの質問に答えたわよ」

「偶然ですね。さっき、わたしも缶コーヒー飲んだんですよ。先輩はブラック派ですか、それと――」

「いや、そういうのはいいから。答えてよ。あなた、工場で何を見たの?」


 いつものようにはぐらかそうとする態度に業を煮やして、そのまま一歩踏み込もうとした。




 が――なぜか。




 この足が一歩も前に進まない。体は彼女に詰め寄ろうとしているのに、脳内が強烈にストップをかけている。ここから一歩も近付いてはならない。

 なぜか、全身の細胞からそう命令されているような気がした。


「先輩――」


 足元から視線を前に移すと彼女は笑っていた。


 それは、文字通りの意味だった。口を開けて、声も出さず、張り付いたような笑みで、無音で笑っていた。

 ただならぬ気配を感じて、無意識のうちに、右足を前に突き出して半身の構えをしていた。何が起きても大丈夫なように。自然と間合いを取っていた。

 彼女はその作り物の笑顔のまま、奇妙に舌だけを動かす。



「先輩、見えないんですよね」



「何が」

「何って、先輩が聞いてきたんじゃないですか。わたし、てっきり先輩もそっち側かと思ったんですよお」

「何……そっち側って」

「そっち側って、あっちに決まってるじゃないですか」


 彼女が口を開く度に、車両が振動に合わせて、空間ごと歪んでいくようだった。

 異常な空間に身体がもっていかれないように、ぐっと足元に力を込めた。


「先輩って凄いですよね。規程規程、準拠性準拠性って。確かに、そういうのもいいと思いますよ。規則正しく、自分自身を律して、仕事に邁進するって。でも、先輩は見えない。色んなものが見えない。見えないものは理解出来ないって、ある種の逃げですよ」


「ええそうよ。私は見えないの。だから、あなたが感じているものは理解出来ない」

「ですよねえ。だとしたら、わたしの世界が共有できるんですか?」

「そうね、出来ないわ」

「そうですか、残念です」

「だから教えて。工場で何が見えたの」


 そう言うと、彼女はひどく落胆したように俯いた。


「ですから、そういうのでは無いんですよ」

「ごめん、よくわからないわ」


 そう応えるのが精一杯だった。

 汗が滴り、顎を伝う。


「まだわかりませんか。先輩って、本当は無視したいだけなんじゃないですか? 臭い物に蓋をするみたいに。本当は見えてるんじゃないですか」


 私は何か根本的に間違っていたのでは。


「工場の人たちに臨む、厳しい監査の姿勢とは大違いですよ」


 そもそも、この女は何かが見えるという生易しいものではなく――


「わたし、今、先輩にありのままの姿を見せてるんですよ。でも、先輩は見えないんですよねえ。ほんとうに残念ですよ」


 がたがたがたがたがたがた――


 彼女は電車と一体化するようにゆらゆらと体を揺らし、声も出さずに、ただ笑っていた。


 目を背けることが出来なかった。

 同時に、その場から動くことも出来なかった。



「初めまして、ですよね」



 瞬間、押さえつけていた理性が一瞬の内に細かい粒子となり、消え去ったのがわかった。


「誰……なの、あなた」

「わたしはわたしですよ。見えますか?」

「見え……」


 私は見えない。


 だが、見えないからこそ、強烈なイメージだけは出来た。


 目の前にいるのが、人間の皮を被った異形の存在であることを。


 傾けた彼女の首元から、別の存在が剥がれ落ちるようにずるりと現れた。

 ガワだけ人を真似た、禍々しい人ではない別の顔。

 こちらを見て、笑っている――




 ――ように思えた。




 そうだ。


 これは何も見えない私がそう思ってるだけ。

 これはあくまで私が生み出したイメージ。

 それも鮮烈に本能に訴えかける歪んだイメージ。


 私は見えない。

 彼女の本当の姿を。



「残念ながら、先輩は何も見えないんですよね。工場でたくさん働いてますよ。先輩が見えないものたちが目的をもって――」



 そう言って、彼女は恐るべきことを語りだした。

 静かに、ゆっくりと、心を汚染するように。


 噓か真か。


 根拠なき妄想か。


 だが、耳を傾けずにはいられない恐るべき内容――



「先輩、もっと色んなものを見てください」



 狂おしく。

 どうしようもなく。

 求め続けるものたちを――




 物語は第六章へ――

 見えない人間に迫るのは、見えないが故に強固に張り巡らされた社会の歪み、悪意の罠。それはどこまでも完璧な仕組みで、誰もが見破れない。

 物語は最終工程の第三幕へ。

 小さな違和感から始まった兆しは、新たな世界の幕開けとなる。

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