第34話 声

 午後二時。

 北関東工場の往査は、最終工程である製造ラインの視察へ移る。


 磯貝工場長の案内のもと、主力品であるカレー、シチュー等を作る製造棟へ入場した。流石に塵一つ落ちていない。相変わらず工員は目線を合わせない。会釈すらない。空気が重いなか試着室に入り、白衣の作業着に着替えた。


「先輩、髪の毛が背中についてますよ」とエミナが背後に回り、備え付けの粘着ローラーで私の背骨をなぞった。ぞわっとした感覚が背筋から首筋に突き抜ける。

「悪いわね」とだけ伝えると、「いえいえ」と微笑まれた。


 エアシャワーを通過して製造ラインに入場すると、強い香辛料の香りが鼻を突き抜ける。原料というのは形状、匂い、全てが剥き出しであり、ストレートに五感を刺激する。かぐわしいというものではなく、生産現場に慣れていない者にとっては目が痛いぐらいだ。工場視察は何度も経験しているが、一向に私はこの環境に慣れない。一方、エミナはまるで深呼吸するかのように胸を膨らませて、うっとりしている。こんな些細なことでも彼女とは相容れないと、胸のなかで難癖をつけた。


 製造工程は自動化されている。容器から容器へモノの流れはベルトコンベアで繋がれ、縦横にアームや大型ミキサーが稼働する。工員は専ら制御室で点検作業に従事している。


 制御室から眺める光景は、一言でいえば仕組みだ。


 仕組みが我々の口に入るモノを製造している。

 工程、時間、資源、その全てが決められており、例外は認められていない。

 機械も原料も人も、仕組みという括りで包括されている。


 仕組みは完璧であればあるほど美しいが、排他的でもある。


「今の人数で足りてますか?」

「代わりにロボットが自動でやってくれるし、そういう仕組みだからね。何の問題もないよ」


 仕組みか……と胸のなかで呟く。


「仕組み上は問題ないとしても、作業員はどうですか?」

「作業員……何が知りたいの? 何か問題あった?」

「人は機械ではありません。どんなに制度を構築しても、一定のキャパを超えるとヒューマンエラーの温床になります。ここ最近、労災が増えているようですが、その原因は何ですか?」


 磯貝工場長は馬鹿にしたように薄く笑った。


「単なる不注意。SOPは整備されてるし、教育もしてるし」

「必要な人員配置、時間配分は適切ですか。生産に追い立てられていることはないですか?」

「問題ない。計画的に実行しているからね。阿場多社長も知ってるよ」


 こっちの事情ぐらい分かれよ、とでも言いたげだ。


「では、コンプラはどうですか。職場環境は作業員が働きやすい雰囲気ですか」

「みんな満足してるなあ。今のご時勢、職があるだけいいからねえ」


 嫌味を交える磯貝工場長に、怯まず冷静にこう返す。


「今年の労災は不可解なものが多いです。なぜ、彼女は耳を切ったんですか?」


 今年、不可解な労災報告があった。


 契約社員の中年女性(相田京子)が右耳を切断してしまったのだ。


 工場はほぼ全てが自動化されており、ラインに作業員が入ることは緊急事態以外起こらない。一昔前なら、選別工程に人員が配置されていたので、指を切るといった労災は起きていた。選別工程だけでなく、今でも容器洗浄の切り替え時にヒトが入るため、極まれに指の裂傷が発生する。


 ただし――指、手、なら理解できる。


 耳、というのは何だ。


 労災報告書に目を通しても理解出来なかった。一応の結論として、作業中に帽子から垂れた髪を治す仕草をした際に、自ら傷付けてしまった、とある。担当者も報告書と同じ回答を繰り返した。


 自分の耳を調理鋏で切断する程の不注意などあるのか。


 ぐるっと周囲を見渡す。与えられたシステム通りに機械は動き、また、人の作業もそれと同じように動く。機械も人も、淡々と与えられた作業をこなす。ざく、ざく、ざく、ベルトコンベアから流れる玉ねぎをカットしていく。


 生産増に追われた帰結なのか。休憩が満足に取れない、連続出勤が続いた疲労が成せる焦りなのか。


 それとも、何か――



「合わなかったんですよ」



 ごうんごうんと機械が唸るなか、聞き取れない程小さな声だった。

 エミナがすぐ近くにいた。周囲を眺めているようで、ぼうっと遠くを見ているようで。マスク越しからも、彼女がうっとりするように、頬を緩ませているのがわかった。


「合わなかった……」


 何気ないその一言が引っかかった。

 妙な違和感だけが残る。


「ねえ、合わなかったってどういう意味?」


 エミナは自分に話しかけられたことを気付いていなかった。


「ねえ、聞いてるの?」


 この催促に、やっと目の焦点を私に合わせた。


「今、何て言ったの?」

「ん? えっと。その方は、うちに合わなかったってことですよ。もともと、工場に向いてなかったんですよ。労災も起こさず、まじめに規定通り作業している人も沢山いますから」

「仕事がマッチングしないと、自分の耳を切るの?」

「これだけ多くの人が働いてたら、一人ぐらいは。わたしも教育記録見ましたが、ちゃんと工場側もやってるじゃないですか」

「そういう問題じゃないの。あなた、もしかして誰かかばってるの?」

「かばってないですよ。ただ、色んな方がここで働いてるし、人数だってこんな大勢いたら、一人ぐらいはおかしな言動を――」

「人数? ここは自動化された工場で制御室に数人配置されているだけよ」

「ああ、そっかあ、そうですよね。いないですよね」


 なんなんだ、この女は。

 まるで相手に忖度して、不都合な事実を隠蔽することに加担しますよって、初日に公言して。あの時は、私のために雰囲気を良くしたいなんて嘯いていたが、それもこれも何もかも違うのか。


 彼女は――ここの利害関係者なのか。


 だとしたら、どんな関係なの。


 資本関係? 親族? 


 その刹那、一気にいいようのない不安が脳を圧迫してきた。


 この労災はSOPの不備。

 ガバナンス上の欠落。

 いや、そもそもこれはそんな話ではないのか。


 意を決して、彼女の耳元まで顔を寄せ、小さな声ではっきりとこう問い掛けた。



「あなた、何か別なものを見てるの?」



 エミナの目元が笑う。こちらに応じるように彼女は私の耳元にそっと唇を寄せてきた。その声は限りなく小さく、注意しなければ聞き取れない程であったが、耳の奥に残り続けるような嫌な何かがあった。



「先輩、今さらそこですか?」



 瞬間、全ての空気が凍り付いた。

 いきなり肺が潰されたように、息が出来なくなる。


「う、かっ」

「先輩?」

 聞こえる。それは、直接的な声ではなく、心の中から染み出すような誘いだった。


 ……け……を……が……


 私は知っている。

 この声を。


 ……け……を……が……


 永遠とも思える苦しみの後、一気に大量の酸素が喉に押し寄せた。

 頭を下げて、かはっと息を吐き出す。

 ゆっくりと頭を上げると、エミナは薄く微笑んでいた。

 直感的にわかった。


 彼女は嘘をついている。


 しかも、ずっと。


「先輩、何か変ですよ」


 耳元でそう言われた後、思わず叫んだ。



「今すぐラインを止めて!」



「う、え? 何」

 突然のことに困惑する磯貝工場長。

「ラインを止めた方がいい」

「いや、そんなの無理だよ」

「緊急停止が出来るじゃない、それを使えば出来るわ」

「いやいや、そういう意味じゃなくて、なぜ止めなきゃならないのさ」

「休憩よ。作業員の疲れが見て取れる。それに、労災の注意点をどこにも掲示してない。事故0の意識を摺り込まれずに作業している。事故のリスクが高まっています」

「そんな無茶な。機械は休憩しなくていいんだって」

「いいから止めて」


 結局、生産ラインは止まらず、そのまま稼働し続けた。


 エミナはこのやりとりに終始口を挟まず、黙って成り行きを見守っていた。


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