第32話 巣
監査は見えない答えを求めて、暗い森を彷徨うのによく似ている。
取引の適正、手続きの適正、教育の適正、システムのコントロールの適正――
手続きは適正でも、その必要性は、その根拠は客観的に正しいのか。
一度疑いだすとキリがない。
「先輩、そんなとこまで調べてるんですか?」
昼休み。
食堂から戻ってきたエミナは、興味津々とばかりに私のPCを覗いてきた。エミナはしきりにご一緒にと薦めてきたが、私は会議室に籠ってやることがあると断った。だいぶお腹は減っているが、工場の人間たちと顔を合わせて食事をしようとは思えなかった。
ここは、以前往査で訪れた時よりも何かが違った。
それは何かと問われれば、明確な回答はできない。
この感情を何と表現すればいい。
以前よりも私を受け入れていないような。
不快な視線がずっとまとわりついている。
「先輩もお昼ぐらいは仕事の手を止めればいいのに」
エミナとの距離が近い。
わざわざ椅子を傍に寄せてまで、私のPCを覗いてくる。流石に鬱陶しくなり、文句を言おうと顔を向けた時、彼女と目が合った。至近距離で目が合うと、思わず息を呑む。
似ていた。
誰にというわけではない。
ただ、似ていた。
「先輩、どうしたんですか?」
「え、いや。あなた――」
そのまま何かを伝えようとしたとき、思いっきり腹の虫が鳴った。
エミナはぷっと笑う。
私は私で、くそっと舌打ちする。
自分の内側を曝け出してしまったようで、屈辱を覚えた。
「そんなにお腹が空いているなら、わたしと一緒に食堂に来ればよかったじゃないですか」
「別にいいのよ。時間が勿体ないから」
「でも、お腹が減ったまま視察できますか? 売店で何か買ってきましょうか?」
「結構よ」と、間食用のクッキーをバッグから取り出し、二、三個口に放り込んだ。
「先輩、チャンスなのに」
「チャンス? 何が」
「食堂ですよ。ここの食堂って美味しいじゃないですか」
「別に有難がる程のものでもないわね」
「ええ~、先輩知らないんですかあ。ここの食堂って今までは経費を抑えるために、うちが発売している市販のカレーを提供していたんですが、味気ないので去年から一味加えたんですって。特注のハーブ? ウコン? ターメリック? 詳しいのはよくわかりませんが、すっごい美味しいんですよ」
「ユニバキッチンと同じね。流石に工場の食堂で、市販のものと同じの出されても士気は上がらないでしょ」
「しかも100円。100円ですよ、激安。やばすぎですよ」
「試してるだけじゃないの。社員を使ったコスパのいいマーケティングね」
こちらの気の無い返事に、エミナは黒目を光らせる。
「ですよねえ」
にこにこにこにこ――
彼女の笑顔が目に入る度に、喉もとを通る糖分が段々と味を無くす。
いつからだろうか。食事が味気ないと思い始めたのは。お腹だけは無性に減るのに、ただ食べるだけの作業に成り果てたのは。
「先輩、そういえばライン交換しませんか? 色々と教えて頂きたいこともあるし、もっと先輩のことを知りたくて。先輩ってスタンプとか集めてる派ですか? それとも――」
「私、ラインやってないの」
「ええ~、そうなんですかあ」
「あなた、そんなことより往査に遊びにきてるわけじゃないのよ。しっかり現場のこと勉強してる?」
「ええ、先輩の監査手法とか、着眼点とか、色々勉強してます」
「あのね」はあと溜息を吐く。「私のじゃなくてここの現場よ。ぶっちゃけ、あなたから見て、北関東工場はどんな感じなのよ?」
「どんな感じって言われても」
「率直にでいいのよ。ちゃんと組織運営してるかとか、緩んでるかとか」
試すような問い掛けに、エミナはうーんと首を捻る。
「問題ないと思いますよ」
「その根拠は?」
「だって、皆さん普通に仕事してますし、とりわけおかしな点は見つからないですから」
「ここの雰囲気はどう?」
「あまり歓迎されていない点を除けば、普通なんじゃないですか」
普通。
便利な言葉だ。
普通ってなに?
正直なところ私はここの雰囲気が好きじゃない。ここは単純に辛気臭い。場内ですれ違う誰もが、何も喋らず、ただひたすら業務を消化させているように思えた。
何を聞いても、問題ないですよとだけ返される。
そして、逆に何か問題ありますかと不敵な笑みを見せられる。
ああ、そうだ。思い出した。
入場した時から、ずっとつきまとう不快な視線の正体が。
巣だ。
彼らの縄張りに私が土足で踏み込んでいるのだ。
ここは、今年に入ってから離職が相次いでいる。一般的に工場は閉鎖空間かつ規則で雁字搦めにされるため、お世辞にも職場環境は良いとは言えず、トラブルが多い。それにしたって、入れ替わりの人数が多すぎる。
それに、不可解な労災まで認められた。
問題ない――のか。
問題ないなんて都合がよい言葉だ。
視点を変えれば事実がリスクにも変わる、危険な保証だ。
そもそも僅かな滞在で、職場の雰囲気など深いところはわからない。断片を集めて、総合的に判断するしかない。
あるのか、ないのか。
ただ、兆候や気配というものは時に、可視化されていく場合がある。
あらゆるものは必然。
細かな不備の積み重ねが不測の事態の引き金を引く。
見えないリスクに、私はずっと縛られている。
「最後まで確認してないのに、問題ないってことだけはないわ。今からでもいいから、現場は隅々までちゃんと見なさい」
ぽかんとするエミナを残して外に出た。
冷気に身を晒すと、私を縛り付ける赤い記憶を思い出す。
妹はバイト先の倉庫でパレットの下敷きになった。
あっという間の出来事だった。現場に居合わせた作業員はいなく、その場には妹しかいなかった。もの凄い衝撃音が響き、慌てて従業員が駆けつけたが、時既に遅し。血だまりのなか妹は身動きひとつしなかった。
駆けつけた従業員は私だ。
妹の死の第一発見者はこの私だった。
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