第24話 失望
十二月二十九日、業務最終日。
隣で漫然と書類を眺める柳生さんがそわそわしながら大きく伸びをした。
「今年も色々ありましたね~」
私は私でキーの入力作業を止めずに、「そうですね」と返した。
今、この部屋には彼と私、二人しかいない。空のデスクが四つ。デスクの主の一人は打合せで席を外している水野部長。そして、秋山君。彼のデスクは私と向かい合う場所に位置している。残りは元々誰も使っていなく、荷物置きと化している。一時、内部監査部は定年を待つ人間の追い出し部屋と揶揄された時期もあったそうだ。どうやら、無人のデスクはその名残のようで、今は監査資料が積み上がっているのみ。誰かが片付けても、どうせすぐに膨大な資料で山となる。
「まだ予備調査してるの?」
「ええ、まあ気になるものもありますので」
「最後の最後まで小雪さんは偉いね~」
内部監査部はその担当業務の広さ、深度からいって慢性的に人手不足だった。
実務上では、一件の監査を報告書にまとめるまでに要する根拠資料は、文字に換算して十万字を超えることも珍しくない。何かの情報で、この文字数は文庫一冊と同じ分量だと聞いたことがある。つまり、監査の数だけ、小説を作っているのと変わらない計算になる。だが、それだけ証跡を集めても絶対とは言い切れない。監査人が評価を下した氷山の一角をもって合理的な保証を行う。
内部監査は膨大なデータと格闘しても、絶対的な保証ができない。
絶対というものは定義やプロセスも実現できない。
「水野さんは社長のところかな? あっちも年末まで忙しい人だ」
水野部長は生え抜きではない。十年前にヘッドハンティングで当社にきてから、監査の地位を高めようと奔走している。阿場多新社長や役員たちの間を行ったり来たり。そのため、普段は全く顔を見せない。
「今年も終わりですね……」
結局、最後まで秋山君は姿を見せなかった。社内的には、慣れない業務に耐え切れず引き籠っているという建前になっているが、実情はそう単純ではない。
秋山君は自宅にいるわけではなかった。
理由は分からないが、彼は一年前に奥さんを亡くしている。独り身になってからも実家に帰ることなく、そのまま二人で生活していたマンションに住んでいた。実家に確認を入れたが、どうやら実家に帰っているわけでもなかった。
傷害事件の後、忽然と姿を消したのだ。
最悪なケースを想定して、警察に連絡を入れたが、その後の行方は知れない。
秋山君の失踪と犯行は無関係。全ては闇に包まれた。
あの日から今に至るまで連絡は取れない。一応有給休暇扱いになっているが、もうすぐ全てを使い果たそうとしている。そうなれば、彼はこの会社にいられなくなる。
いや、仕事なんかこの際どうでもいいのだが。
「そろそろ、いつものに行こうか」
「ええ、そうですね」
柳生さんに促されて部屋から出ると、社員全員その場で起立していた。皆、固唾を呑んである人物の登場を待っている。私と柳生さんも適当な場所に立ち、静まり返るフロアを眺めていると、やがて待ち人が来る。誰が合図するでもなく、社員が頭を下げていく。
年末恒例の社長巡回だ。
一年の締め括りとして、普段顔を見せない阿場多新社長が各フロアを挨拶していく。そのままフロアの前列中央に立ち、傍らにいた水野部長がマイクを渡す。
「――今年も社員全員の努力により何事もなく、一年を終えることができて感謝申し上げます。主力の食品事業は国内だけなく海外へ――」
業績は横ばい、利益減であった。これは、主力の食品事業で稼いだ利益を新事業が食い潰しているという意味である。
指摘する人間は誰もいない。
「何事もない……か」
「そういうことだねえ」
社長が形式的な挨拶を終えると、一堂から割れんばかりの拍手が起こる。その後、水野部長に先導されて退場すると、再びお見送りのため、皆、頭を下げた。まさに現代の大名行列。頭を下げなくても打ち首にならないだけ、自由は利く。
だが、私は形式的にも頭を下げはしない。
阿場多新社長の姿が見えなくなるまで、薄く微笑むだけ。
恒例行事が終わると、休憩室に自然と人が流れていく。テーブルに、缶ビール、おつまみが用意され、既に酒を飲んでいる社員もいた。嫌な気分になるとお腹が減る。一切れのピザを摘み、その場を後にしようとすると、次から次へと頭を下げられた。経理部長、人事部長、なんとか部長になんたら部長。その下の誰それ課長など。
普段、人は寄り付かないくせに、年末年始になると、各部署が挨拶周りにやってくる。
「来年もお手柔らかによろしくお願いします」
にこにこにこにこ――
嘘くさい笑みに気分が悪くなる。彼らは私に挨拶をしているのではなく、背後に控える阿場多新社長に挨拶をしているのだ。これも、毎年恒例。機械的に挨拶をして、踵を返して部屋に戻るのも毎年恒例。摘まんだマルゲリータが心なしか急速に冷めていくのを感じた。
「あ、いたいた」
振り向くと、水野部長がすぐ傍にいた。
「小雪さんに紹介したい方がいるんだ」
その紹介したい人と思われる人物は水野部長の真後ろにいた。促されるように、その人物が一歩前に出た瞬間、なぜか言いようのない嫌悪感が全身を覆った。
「初めまして、来年からお世話になります。乞田エミナです」
二十代後半だろうか。白い肌、胸元に流れる絹のような黒髪。自分が言うのもなんだが、甘ったるい顔とは裏腹に、生意気そうな女という第一印象を持った。定型文の挨拶をして立ち去ろうとするが、水野部長に苦笑されて呼び止められる。どうやらただの年末の挨拶ではないらしい。
「彼女は一月から内部監査部に配属になるから、OJTをよろしく」
「増員予定なんてあったんですか」
この問いに、彼は遠い目をした。
「結果として欠員補充だね」
その一言は重く、暗い。足元がごっそり抜け落ちる奇妙な感覚に襲われた。
「小雪さん、懇親も兼ねてあそこのテーブルでお酒でも飲みませんか?」
水野部長の提案に、彼女の瞳が光る。
「お願いしますっ。先輩はビール派ですか? 日本酒派ですか? あ、ワイン派ですかね。チューハイもありますよね」
にこにこにこにこ――
いきなり先輩。
この距離の詰め方はなかなか。
生憎、自分は納会なんて経費の無駄とさえ常日頃思っている人間だ。
それに――
「私、お酒あまり飲まないんで、ごめんなさい」
「そうですかあ、残念ですう」
にんまりした作り笑顔が妙に白々しく、生理的に好きにはなれなかった。
彼女に背を向けて、内部監査部の小部屋に戻る。複雑な感情に突き動かされて乱暴に席に腰を下ろすと、作りかけの報告書の仕上げに取り掛かる。
それは、ユニバキッチンの内部監査報告書だ。
3ページあまりの報告書に現状とそれに対応する準拠性を簡潔に説明し、見慣れたいつもの結論を打ち込む。
最後の文字をキーで打ち込む刹那、ぐっと誰かに背中を押された気がした。
行け、行け、何も考えずやってしまえ――と。
【業務に支障を及ぼす重要な問題点は認められなかった】
高い視点に立てば、足元の枯葉は目に入っても問題にされない。
あの出来事を自分でそう結論付けたが、そんな自分自身に強く失望した。
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