第23話 稽古

 バシンと激しく畳を叩く音が、夜の道場に何度も響く。その振動は放射線状に広がり、室内に充満する冷気と混じり私の胸を震わせた。


「今日はいつもより激しくない?」


 嫌味なぐらい顔がにやける早瀬小五郎さんを勢いのまま投げ飛ばす。彼は軽やかに受け身を取り衝撃を外に逃がすと、すぐに立ち上がった。道着から覗く彼の腕は筋肉質で毛深い。まるで熊のようだ。ぐぐっと力任せに腕を掴まれると、わかってはいるが一気に緊張が走る。


「つつつつ――極めすぎ」


 色々と腑に落ちない点が多く、ついつい熱が入り過ぎてしまった。

 負の感情に支配されそうになるほど、言いようのない喜びもまた沸き起こる。

生きている実感ともいえる薄暗い感情。

 そんな不思議な熱に覆われて、苦痛に歪む小五郎さんを一気に投げ飛ばした。

 再び、バシンと畳が振動する。


「痛っつ~。強烈」

「そうですか?」

「俺にだけ強くない?」

「いいじゃないですか。私より上段者だし」


 込み上げる高揚を抑えてそう返すと、小五郎さんは苦笑した。


 昨夜の人身事故によるダイヤの乱れは深夜になるまで解消されず、最終的に自宅に辿り着いたのは十二時を回っていた。事故が起きた場所は会社の最寄り駅から三駅離れたホームだった。確か、あの駅はホームドアがあったはず。ということは、轢かれた人はその柵を乗り越えたということに他ならない。


 どんなに安全対策、リスク防止を施しても、人の感情は制御できないのだろう。


 リスクマネジメントはどうやったら機能する。


 そして、制御できない感情は善も悪意も含まれる。


 人身事故が起きてからすぐに、ホームから飛び降りた瞬間を捉えた映像が拡散していた。最悪なことに人が撥ねられた瞬間が納められていたらしい。そのような悲劇ですら見世物にしてしまう、人の闇にぞっとした。


 いつからか、こういうことにはつい監査目線に立ってしまう癖がある。


 SNSは公序良俗に反する投稿は無秩序にできない。AIによる自動検索により、刺激的なものは自動的に削除される仕組みになっている。きっと、定期的に内部監査は実施され、システム、運用の保証はされているはず。だが、その網を潜り抜けて悲惨な瞬間が拡散してしまうということは、需要と供給が仕組みの網の目を抜けて、無尽蔵に沸くからだろう。


 怖いもの見たさへの需要。

 バズりたいという邪な短慮が産む供給。

 結局のところ仕組みというものに完璧なものはない。


 故意か無意識か、そんなものはどうでもよく拡散させた事実だけが正しい。


「これだけ激しく稽古すると、この季節でも大汗かくな」

「ですね」


 今夜の稽古は私と小五郎さんの二人きり。朝、駄目もとで『今日空いてますか』と用件を伝えると、二つ返事でOKと言われた。


 小五郎さんとの付き合いは随分長い。運命のあの日から、自分の身は自分の力で守ろうと決めた時から、ずっと。

 彼は都内のシステム会社でSEをしている。五十代。子供は上が高校生、下が中学生。一般的なサラリーマン家庭。出世には興味がないらしく、会社への忠誠度も低い。そんなところは私と似ている。急な誘いにも、テレワークだからいいよとフットワークは軽い。


「この後、どうする」

「帰って寝ます」

「いやいや、その前によ」

「そうですね……どうでもいいですが、今度は小五郎さんが『取り』です」


 受け身に回った瞬間、私より上段者の小五郎さんから目にも止まらぬ速さで投げ飛ばされた。四方投げ、回転投げ、呼吸投げ――私たちだけしかいない道場に、バシンと畳を叩く音が響く。乾いた心地良い響きが聞こえる度に、身体中を蝕む嫌な記憶が毛穴から外に発散される気がした。


 時を重ねて昇段し、強くなった――はずだ。


 でも、あの時、私は何も出来なかった。


 雨の中、男がこちらに害を成そうとしていたとは見抜けなかった。いつものように無視を決め込むはずだった。男が懐から包丁を取り出して、その鈍く光る切っ先をこちらに向けた時、体が硬直してしまった。


 気が付けば秋山君が肩から血を流していた。


「夜飯食べにいかないか?」


 強くなったはずなのに。


「昨日作ったカレーが残ってますので」


 いざ目の前に危険が迫ったら、体は竦んで動けなかった。


「カレーは三日煮込んだ方がもっと旨いだろ」


 情けないことに、自分の身すら私は満足に守れないのか。


「三日目は味が濃くなりすぎるので、二日がベストです」

「おいおい連れないね~。何かあったのか」

「何もないです。それに、小五郎さん奥さんいるじゃないですか。ご飯あるでしょ」


 まさか、時を超えて――


「そんなつもりで誘ってないんだけどな……って。いつも一人なんだから、たまには――」 

「余計なお世話ですよ」


 そう言いながら彼の腕を取る。重心を落として、梃子の原理のように一気に巨体に力を伝える。小五郎さんは、その反動によって空中で一回転した後、バシンと畳を打った。

 小五郎さんは私を見上げて、強烈~と苦悶の色を見せた。


 彼が苦しむ姿を見るたびに、不思議と頬が上気し、下腹部に湿った熱を感じた。


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