第四章 中途採用

第22話 失踪

 ――人身事故の影響でダイヤは大幅に乱れています。お急ぎのところ申し訳――


 帰宅ラッシュで人がひしめき合うホームに、うんざりするようなアナウンスが鳴り響く。事務的に振替輸送を案内されたところで、この路線以外、私が道場に向かう術はない。溜息を吐き、バッグからスマホを取り出した。


『今日の練習は参加できません@高城小雪』


 私が所属する合気道会の稽古は、毎週、金曜日に開催されている。この会に所属してから十年間、一度も休んだことはない。今日が、その初となる欠席になるのかと思うと、皆勤賞を逃したようで妙な悔しさに歯軋りした。

 乗客で溢れ返るホームを睨むと、すぐに返信がきた。


『小雪さんが欠席とは珍しい。どうしたの?』

『人身事故に巻き込まれました』

 そう短く打つと、

『それは仕方ないね。俺も小雪さんに投げ飛ばされなくて寂しいよ~』と、早瀬小五郎さんから冗談めいた軽口がぽんぽんと返ってきた。


 不満気にスマホを弄りながら復旧を待つ乗客たちで、構内の湿度は不快な程上昇している。このままここにいても仕方ないので、一旦駅を離れて夜ご飯を食べようと地上へ出た。


 もう季節は十二月になった。


 オフィス街の夜は乾いたビル風が吹き抜ける。身を切るような冷たさに、コートの襟を立てて肩を竦めた。街路樹の葉は既に大半が散っており、もうすぐ痩せた枝だけになるだろう。かさかさと断続的に軋む枝の音は、必要以上に私の心をかき乱すようで不快だ。


 人の流れに逆らい、そのまま適当なファミレスに入った。窓から目に映るショーウィンドはクリスマスムードに浮かれている。生憎、こちらは一人での外食が当たり前なので、この喧噪とは無縁の住人だ。今日は、一日中デスクワークだった。集中して、何万件ともいえる会計データと格闘していたため、糖分が圧倒的に足りていない。


 事務所に置き菓子が必要かしら。飴でもチョコでもクッキーでも。

 漫然と外を眺めながら、そう思った。


 そうこうしている間に頼んだハンバーグセットが運ばれてきた。熱々の鉄板の上で、じゅうじゅうと肉汁が音を立て食欲をそそる。すっとナイフを入れて、そのままソースと絡めて空腹に喘ぐ胃に放り込んだ。


 ハンバーグ。

 付け合わせのポテト。

 ブロッコリー。

 ライス。

 サラダ。

 コーンスープ。


 徐々にお腹は満たされ、一息ついたが――今日はだめだ。きっと家に帰っても余計なことばかり考えてしまうに違いない。


 何もかも忘れて、相手を投げて、こちらも投げ飛ばされて。汗とともに心の毒を排出しないまま、果たして今日は眠れるのだろうか。以前にも増して、叶う事なら毎日でも稽古に行きたいと思うようになった。そう思ったのはきっと彼のせいだ。



 秋山君が失踪してから、すでに一ヵ月が経った。



 ユニバキッチン往査を最後に彼の姿は見ていない。

 今思えば、秋山君が暴漢に切り付けられてからの帰り道、駅のホームで別れた時が最後だった。


 彼は――似ていた。


 私が見てきた者達や。


 あの子に。


 皆、最後は同じような表情をしていた。

 

 深く目を閉じてあの日の自分をイメージする。


 不気味に微笑む痩せた男。

 男は痩せた手で包丁を握り締める。

 悪意の塊のような鈍い光が私に迫る。

 咄嗟に私は重心をずらし、男の腕を掴む。

 そのまま手首の関節を極めると、回転運動の要領で振り子のように男を投げ、一気に地面に制圧する。再び立ち上がってくることのないように、包丁を取り上げて、勢いのまま腕を折る。

 息を切らせて、鼓動を激しくさせて、それから――


 よし。何も問題ない。


 問題なく強い自分がそこにいる。


 でも――


 そう思うという事は、裏を返せば、そうでない自分がいる。


 強さと弱さは常に表裏一体。

 弱い自分が強い自分にとって変わろうと機会を窺っている。


 私は強い。


 私は弱くない。


 私は強くならないといけない。


 そんな自分自身が揺れ動く感覚に酔いそうになった。




 第四章「中途採用」開始――


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