第21話 誘い

「今日はちゃんとご飯食べなさい」「そんな女が好きなの?」


 二つの声が左右の耳から同時に聞こえた。


 その瞬間、はっとなり目が覚めた。

 部屋は薄暗い。

 どうやら、うつ伏せの状態でスーツも脱がず、そのまま意識が飛んでいたらしい。涎が唇の端から垂れていた。今さらながら嫌な生臭さを感じた。


 徐々に暗闇に目が馴染み、着けっ放しの腕時計を見ると、深夜三時。窓のカーテンからぼんやりと月明かりが差している。まだ夜は明けていない。


「こっち」


 再び聞き覚えのある声がした。

 同時に何者かの気配も感じた。ほんの僅か、人ひとりぐらいの空気の塊が動いた気がした。半身を起こして部屋を見回す。闇に向かってあの名前を口にした。


「瑠香?」


 当然のことながら、呼び掛けに対する反応はなかった。この部屋は独り身になった後も、彼女の遺品がそのままの状態になっている。瑠香の洋服、瑠香が好きな本、瑠香が使っていた歯ブラシ。汚れも含めて、その全て。心なしか彼女の残り香が濃く香った気がした。


「こっち」


 再び声がする。

 不思議なことに、その声は直接耳に響いているようだった。


 今思えば、気が狂うほど、日常的に人成らざる者を目にしていたが、一度だって、瑠香は僕の目の前に現れなかった。決して瑠香は化け物なんかではない。だが、もう既にこの世にはいない。だから、僕の目の前に現れてもいいはずなのに。


 コンコン――


 逡巡を断ち切るように部屋がノックされた。

 しんと静まり返り、思わず息を呑む。

 こんな未明に、どう考えても訪問客なんてありえない。


 人、ではない。


 そうに違いないのに、何故か僕は彼女から呼ばれていると思った。化け物への警戒心もなく、ふらふらと立ち上がるとそのままドアの前まで近づいてしまった。

 激しく心臓が脈打つ。乾いた喉で唾を飲み込み、そっとドアアイを覗き込んだ。


 誰もいない。


 自宅は二階の角部屋であり、通路の先に広がる闇に包まれた住宅街が見えた。

 鼓動が止まない。段々と息が苦しくなる。

 誰も映っていないのに、ドア一枚隔て何者かが僕と対峙している緊張感に晒される。


 何故、僕は得体の知れない者の誘いに乗ってしまったんだ。


 この場から一歩も動けない。だって先程から背後にも気配を感じている。安全かと思われた室内に、いつの間にか入り込まれた。


 何者かが。

 すっと直立して。

 僕の背後で息を殺して佇んでいる。


 直感的に瑠香ではないことがわかった。

 恐ろしく禍々しい圧が背中に張り付いているからだ。がちがちと歯を軋ませ粘っこい汗が染み出す。逃げなくては。

 だが、体が――


「こっち」


 瞬間、硬直した体が動くようになり、叫びながら一気に部屋から飛び出した。

 ここから先は何も考えられなかった。外に飛び出し、廊下を走り、階段を駆け下りた。


 逃げる――ただその一心で深夜の住宅街を走る。


 気が付けば、少しでも灯を求めていたのか、いつの間にか最寄り駅まで来ていた。


 ここは東京都郊外の小さな駅だ。

 商店もなく、降りる客はほぼ住人だけという何の特色もない駅。それなのに、続々と人が駅に向かって歩いてくる。

 一人、また一人。

 路地から、マンションの影から、その奥から、人が現れる。


「明も乗るんだよね」


 すぐ横に瑠香がいた。


「ああ、そうだよ」


 己の意志とは関係なく勝手に口が開いた。

 何故、僕はこんな状況を当たり前のこととして受け入れているのか。


「もうすぐシャッターが開くから、ホームに急ごう」


 彼女の言う通り、閉まっていたシャッターがゆっくりと上がり始める。


 きいきいきいきい――


 シャッターが耳障りな金属音を軋ませる。電灯に無数の蛾が舞うなか、続々と人がやって来る。シャッターが上がり切ると、彼らはそのまま静かに改札を潜っていく。


 奇妙な光景だった。

 薄暗い構内、まだ始発には早いと言うのに。

 それに――


「早く。乗り遅れちゃう」


 前方で瑠香が手招きする。

 ふと足元が冷たいことに気付いた。よく見ると、靴を履いていなかった。あのまま慌てて外に飛び出したので、靴を履く余裕すらなかった。くるぶしまでぐっしょり濡れていて気持ち悪い。ここまで走ってくる最中、水溜まりにでも浸かったのだろう。


 ホームへと向かう者たちを眺めると、皆、身なりこそしっかりしていたが、どこかしら変であった。

 バッグを持たない会社員。

 化粧っ気のない女性。

 手の汚れた老人。

 皆、慌ててこの場所へ向かったように思えた。

 ホームに着くと突風が吹いた。どこかへ連れ去ろうとするような、纏わりつく風だった。

 気が付くと、横にいたはずの瑠香がいない。


 おーい、瑠香、どこにいるんだ。


 声にもならない叫びで周囲を見渡すと、ホームの先に広がる暗闇から声が聞こえた。


「こっちこっち」


 声の出元に誘われるように前に進むと、どうやら声はホームドアを越えた線路から聞こえてきた。


「もしかして、転落したのか」


 焦って闇の中に呼び掛けると、


「違うの、こっちなの」


 まるで幼児のような声が返ってきた。

 闇が吹き溜まる線路の上に、薄っすらと瑠香の下半身だけが目に映る。

 何が何だかわからずその場で立ち止まると、背後から現れた会社員がすぐ横に並び、そのままホームドアを乗り越えて、線路の上に降りた。

 唖然とする僕の背後から、再び別の会社員がやってきて、隣に並ぶと続くようにホームドアを乗り越えた。どすんと落下した音が響く。


 困惑する僕を無視して彼らは続く。

 まるでそうすることが正しいと云わんばかりに、平然とホームドアを乗り越える。 


 足腰が弱そうな老婆なんかは、上手く柵を乗り超えられなかったため、背後から現れた者達が協力して老婆を抱え上げて、強引に柵を乗り越えさせた。老婆が無事に線路に落下すると、周りから歓声が起こり、一種の感動すら覚えた。


「明も早く、こっちこっち」


 異常な事態に僕は気付けなかった。

 いや、気付いていたのだが、心も体も拒絶しなかったとでも言うべきか。


 体が勝手に動き、両手を柵にかけて、気が付くと線路の上にいた。降り立った瞬間、さっきまで僕を呼んでいた瑠香の姿はいなくなり、代わりに目の前に強い光が現れた。


 きらきらと、宝石箱を散りばめた光景が目に焼き付く。



「明はあの女じゃない――」



 光は強さを増していく。脈打つ心音とシンクロするように加速度的に眩さは増し、目も明けられないぐらいに全てを覆った。


 絶叫のような金属音が周囲に響き渡る。



 ぎぎぎぎぎぎぎぎいいいいいいいいいいいいいい――



「明は私が」



 闇夜を切り裂く光と線路を軋ませる車輪の音が撒き散らされるなか、何故か僕はこんなことを考えていた。



 そう言えば、小雪さんは僕のこと好きだったのかな。



 再び声が聞こえた。



「やあ、お疲れ様」




 物語は第四章へ――

 可視と不可視の境界線を彷徨うなか、物語は第二幕へと歩を進める。

 見える人間の恐怖、もう一方の見えない人間に迫る恐怖。

 高城小雪の物語が始まる――

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