第18話 顕在化

 小雪さんはこちらを見向きもせず、カタカタと資料を作成しながら僕の話を聞いていた。全て聞き終えると、


「全部、聞いていたわ」


 だったら話す前にそう言ってくれという思いを寸前で堪える。


「このままで大丈夫なんでしょうか」

「衛生面のこと?」

「いえ、そうではないです」

「じゃあ、売上低迷のこと?」

 軽く手を振りながら「そちらでもなくて」と否定する。一瞬、息が詰まりながら、こう切り込んだ。


「彼女の身に危険が迫っているんじゃないですか?」


 彼女は神妙な面持ちでキーを叩くのを止めた。


「秋山君。これだけははっきりしたことがいいと思うからあえて忠告するわね。私たちは警察ではないからね。ただの内部監査。実際に、気持ち悪い事件だと思うけど、そこまで私たちは管轄していないし、カバーする必要もない」


 やっぱりな、という思いで「分かってます」と力無く頷く。


「それに、主観の域を出ないものは評価対象にはならない。単純に害虫の死骸が大量にゴミ置き場に捨てられていただけでは、私は何とも言えない。衛生面に関しては、もっと徹底してもいい。それでも、清掃業者を入れて対応したことは適切だと思う。秋山君が訴える、害虫をすり潰したものを調理時に混ぜ込む可能性はゼロではないけど、そもそも全てを疑いだすのは正しい職業的猜疑心とは違う。私たちはあくまで監査であって不正検査ではないのよ」


「まあ、そうなんですが――」


 ここまで言って、息を呑む。

 唐突に、僕の顔が青ざめたのは小雪さんには伝わっただろうか。


「今回の監査で私が一番気になるのは仕入れ差異。売上の割に仕入れが多すぎる。榊原店長は、横流しはしていないと言っていたけど、それならそれで杜撰過ぎる。従業員の教育もどうかしらね。ユニバキッチンはここ最近、バイトの入れ替えが頻繁に起きている。実際のところ内情はうまくいっているのかしら。外食産業で重要なのはやはり人の教育。どんなに優れたオペレーションでも、実際に動かす人で如何様に品質は上下するからね。はっきり言うと、彼は店長に向いてない。ヒトやモノの管理も現状分析もうまくやれてない。商品に対する愛情は人一倍みたいだけど、単なる出世欲かもしれないわね――」


 小雪さんの蘊蓄は続く。

 細かい点を挙げればキリはないが、共通するのは基本の徹底に行き着く。

 彼女はそう力説している。


「そおだよね」


 東京支店の往査の時と同じだ。彼女は何も変わっていない。基本の徹底が自分自身も守っていく。その全てが間違っているとは僕も思っていない。根本原因を取り除くことが不可能である以上、異常事態は防止のみに注力する。彼女の主張はこれにつきるのだが――


「そおだな」


 先程から、彼女の周りを得体の知れない者たちが取り囲んでいることを、彼女は知らない。


「そおね」


 カタカタとキーを叩き報告書を作成している彼女に彼らは見えない。

 認知できない。


「そおそお」


 だからこそ、理解もしないし、理解も出来ないし、心の隙間に入り込ませない。

 何故だ。彼女含めて多くの人が見えない存在が、なぜ僕の目には映っている。

 視界を汚すのは電車で遭遇した赤い少女と、その父親らしき男と、母親らしき女。

 赤い少女と父親は一切の感情を見せずに僕らを見下ろしている。穏やかな店内の一角で、ここだけ空気が重く澱んでいる。

 息が――苦しい。


「どうかしたの?」


 小雪さんは怪訝な顔をこちらに向けた。

 見えない、ということはこんなにも素晴らしいことなのか。

 こんな奴らと同じ空気を吸うだけで、自分は内から腐っていくように思えた。

 自分はどんな罰を受けて、こんな体質になってしまったのか。

 不可解な神の悪戯を呪うしかないのか。


 藤川麗子も、小雪さんもこのままで本当に大丈夫なのだろうか。


「まだ? ねえ、まだ?」

「もうすぐよ、もうすぐだから」

「そうだな、もうすぐだな」


 異形の三人は、ははははははははははははははと薄く笑っている。


 こいつらはいくら無視してもだめなのか。電車で遭遇した少女は新たな者たちを引き連れて、再び僕の前に現れた。何度でもしつこく、害を成すまで、こいつらは一体どこまで。

 このエリア一帯に起きている虫の死骸の塊。明らかに異常な前触れではないか。


 もう、ひょっとしたら取り返しがつかない事態まで進行しているのでは。



 見えないから、見えるへ。



 徐々にステージが上がっているのでは――



 居ても立ってもいられず、マウスを操作する小雪さんの右手をがっと掴んだ。一瞬、小雪さんはびくっと肩を震わせた。汗ばんだ熱い温もりが、掴んだ右手からゆっくり胸まで伝播していく。どちらの汗かわからない。


「もう行きませんか」

「まず、手を離してよ。びっくりしたじゃない」


 小雪さんは仏頂面で席を立つが、僕らを取り囲む異様な者たちはその場から動かない。暗く沈んだ眼窩がいつまでも、僕らを追っている気がした。どこまでも見ている。最後のその時まで。胸が苦しい。早くここから出なくては。


 急かすように外に出ると、雨足が更に強まっていた。庇から撥ねた雨粒が頬を濡らし、彼女は鬱陶しそうに眉を顰めて立ち止まる。


「傘ぐらい差させてよ」

「僕が差します」

「いいわよ、そんなの」

「いや、僕が」

「どういうことよ」


 彼女はわかってないんだ。

 外に出ても、店内と同じ状況であることに。

 ぼうっと青白い顔をした者たちでモールが溢れかえっていることに。


 じっと息を潜ませて、僕らの行く手を阻んでいる。絶対に逃がさないという強い意志が感じられ、一気に緊張が走る。そのどれもが禍々しい。まるで僕らをあちら側へと歓迎しているようだ。あまりの光景に目を逸らす事が出来ない。


「秋山君……あなた、もしかして」


 その時、まるでモーゼの海のように異形の群れが割れ、スーツ姿の男がゆっくりとこちらに近づいてきた。


 なんだこいつは。

 こいつは人間なのか。

 ただのモスバーガーにやってきた客なのか。

 小雪さんが前方からやってくる男を避ける素振りを見せたことから、この男は実在する人間だということがわかった。

 この男はモスバーガーに入ろうとしている客。人間。普通のサラリーマン。


 いや――違う。


 全身の臓器が危機に震えて激しく脈動し、その考えを拒絶する。

 恐らくこの男は人間なのだが、そうではない。

 何かがおかしい。こんなに雨が降りしきる中、傘も差してもない。びしゃびしゃとスーツを濡らして、それを気にするでもない。真っ直ぐにこちらを見て笑っている。

 事ここに至り、僕は理解した。

 こいつらは僕の前に現れたのではない。


 本当は小雪さんに付きまとっていたのでは。


 小雪さんを狙っていたのでは。


 その距離二メートル。


 男は不気味な笑みを絶やさない。異形の群れから包丁を受け取ると、そのまま直進してきた。


 距離一メートル。


 迷いなく包丁を手に。


 彼女へ。


「だ、だめだ」


 ばしゃっと激しく水が弾ける音が周囲に響いた。

 何が何だかわからず、尻餅をつく男。


「うわっ、冷たい。え、何、どういうこと」


 肩に鋭い痛みが走る。

 男の足元には、血が付いた包丁が転がっていた。

 小雪さんに襲いかかろうとした男に無我夢中で体当たりをした時、どうやら肩を切り付けられたようだ。

 地面に転がる包丁の切っ先の血液が雨で滲む。


「あなたがここ……ああ、やっとわたしは……」


 突如、男は奇声を発すると、転がった包丁を手に取った。攻撃に備えて咄嗟に身構えたその時、ぴしゃっと何かが頬にかかった。


 それは生温く、異様な鉄錆の匂いがした。

 触れるとぬるりと指にまとわりついた。


 僕の目に映るのは、悪趣味なショーだった。


 血が噴き出している。

 男の喉から。

 噴水のように。

 大量の血が。

 男は膝をついたまま自分の喉を包丁で突き刺し、そのまま天を仰ぐ。


 この異状な光景を何と言ったらいい。


 ああ、そうだ。

 見たことがある。

 あの映画だ。

 プラトーンだ。


 天を仰ぎ、空から降り注ぐ大量のナパーム弾に絶望する、あのシーンだ。

 一つだけ違うのは、

 目の前で両膝をつき天を仰ぐ男の表情だ。


 それは歓喜に似ていた。


 男はどこか嬉しそうに、喉から大量の血を噴き出していた。

 悪ふざけのように血が止まらない。


 視界の全てが赤く染まる。

 気が付くと、いつの間にか異形の群れは消えていた。


「痛っつ」


 見えてはいけないものは消え去り、代わりに顕在化したのは、痛みとともに現れたおぞましい現実だった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る