第17話 藤川

 雨足は強まり、いつしか大粒の雨が容赦なく地面を叩いていた。


 先程から寒気が止まらない。大して体は冷えを感じていないのに、小刻みに全身が震えてしまう。人の温もりを求めて、ジプシーの如く客入りが良い店を渡り歩く。お金を落とさない全く迷惑な客だ。


 一体、僕は誰と話したんだ。


 藤川? いや、藤川は女の子だ。


 あの後、小雪さんから履歴書を見せられた。

 じゃあ、藤川の兄弟? 

 もし兄弟ならば何故僕を知っている。

 やつの存在を確かめた方がいいのか。いや、そんなこと後で榊原店長に確認すればすぐにわかる。それに、訊いたところで、どうせ返ってくる答えなんて決まっている。


 ――藤川という男の子はいませんよ。


 頭のなかで榊原店長の下卑た笑みがまとわりつく。


 ――秋山さん、あたま大丈夫ですかあ?


 得体の知れない異物が全身を這いずり回り、胸のむかつきが止まらない。


 むだむだ、むだむだ、むだむだ、むだむだ――


 湿った風に乗って、人とも思えぬ誰かの嘲笑が聞こえてきた。

 小雪さんからいつものように憐れむ目を向けられた。


「一旦、冷静になった方がいいわ」


 この後も往査は続く。昼時のピークタイムを過ぎてから簡単な講評を行い、監査は終了となる。それまで、我々監査人は業務の邪魔をせず、店内のオペレーションが適切に機能しているか視察するのだが、今の僕では正常な判断は下せないだろうと小雪さんは判断した。

 対象先を保証する監査人が正常でなかったら、そもそもの前提が崩れてしまう。



「じゃあ、その監査人が正常であるかないかは誰が保証するんだろう」



 思わず声に出た。

 監査人を保証する人が正常か否かは誰が保証する。

 そもそも、保証というのはきりがないのでは。

 そんな疑問に囚われそうになると、小雪さんからお昼に誘われた。


「何食べる?」

「あの、食欲ないです」

「朝も食べてないでしょ。夕方までもつの?」

「まあ、大丈夫です」

「そう。食べないといい仕事出来ないわよ」


 彼女はモール内のモスバーガーで昼を過ごすといった。三時に事務所で待ち合わせることにして、僕はそのまま一人で当てもなく彷徨い続けることになった。


 雨の中、荷物を運ぶ業者。

 子連れの親子。

 ゆっくりウィンドウショッピングしていく高齢者。

 目に映る全ての人間は本当に生きている人間なのか疑心暗鬼に陥る。


 小雪さんは見えないものは理解する必要は無いと切り捨てたが、本当にそうなのか。もし、小雪さんの言う事が正しいなら、瑠香の死も浮かばれない。やはり、僕はそれを認めることができない。


「あっ――」


 頭を抱える僕の目の前を、本物の藤川(麗子)が通り過ぎた。今時とは違う、大人しそうな大学生。顔に特徴はないものの、小雪さんから履歴書を見せられていたのですぐにわかった。

 休憩時間かと思うと同時に、ぞくりと悪寒が走った。

 鼓動が早くなる。


 なぜ、やつは藤川と名乗ったんだ。

 まさか彼女に――


「すみません」

「え、はい」

 居ても立っても居られず、気が付けばその背中を追って、彼女に声を掛けていた。

「少し、お話出来ますか?」

「え、いや、あの」


 怪訝な顔を見せる彼女を安心させようと、すぐに名刺を出した。彼女も自分の存在はなんとなく理解していたようだ。警戒心は解かないまでも、無下にその場を立ち去ろうとはしなかった。学生から見れば、監査なんて仰々しい名前は警察と同等な存在に映るのだろう。

 立ち話では何なので、奇しくも小雪さんが休憩しているモスバーガーで話を伺うことになった。

 入店すると資料を作成している小雪さんに気付かれた。一瞬だけ鋭い視線を向けられたが、彼女はすぐに目の前のノートパソコンに視線を戻した。

 少し離れた場所に藤川麗子と座る。この子には食べたいものをごちそうした。ある程度、世間話を交えて、藤川麗子の緊張を解した後、躊躇することなくこう尋ねた。


「ユニバキッチンで何かおかしなことは起きてませんか?」


「おかしなこと……ですか?」

「何でもいいんですが、気になることがあれば」

 一瞬だけ表情を曇らせたが、「特にありません」と言われた。


 ほっとしたような。

 何も起きなくて残念なような。

 複雑な感情が交錯する中、藤川麗子は腕時計を確認して、「そろそろ戻ります」と席を立とうとする。付き合ってくれたお礼を伝えると、なぜか彼女は店に戻ろうとせずその場に立ち止まったままになった。

 見上げる横顔は、何か言い澱んでいる。


「どうされましたか?」

「あの、うちではないんですが。気になるというか最近変なんです」

「変?」

「よく死んでいるんです」


 死という単語に、思わず顔が強張る。


「死ぬ……?」

「少し前なんですが、外のゴミ置き場でゴキブリが死んでいたんです」


 その答えに拍子抜けする。何かと思えばそれか。

 だが、力が抜けた僕に畳み掛けるように彼女は訴える。


「ゴキブリなんてゴミ置き場で死んでいてもおかしくないと思うんですが、数が凄かったんです。今思い返しても気持ち悪いんですが、一面真っ黒になるぐらいでした。後で店長に相談したら、清掃業者を入れることになり綺麗にしたんですが、その後も、定期的に大量の死骸が見つかりました。それに、ゴキブリだけじゃないんです。芋虫とか、ムカデとか、足が沢山ある気持ち悪い虫がよく死んでいるんです」

「店内から発生したわけじゃないよね」

「違いますっ。毎日ちゃんと清掃してるし。見つかるのは全部、ゴミ置き場ですから。それに、皆、全然そのことを気にしないし。むしろゴミ置き場なんだから当たり前じゃんって。私、飲食店のバイト初めてだから、そうなんだって。あ、別に私たちがちゃんとしてないって意味じゃないですよ。皆、ユニバ大好きですし、友達とか家族にも声掛けて新メニュー食べてねって呼び込みまでやってるんです」

「大丈夫ですよ、別にあなたを疑っていませんから」

「え? 監査って警察じゃないんですか?」

「いやいや、ただの会社員ですよ。名前からして誤解されがちなんだけどね」


 藤川麗子はへらっと微笑む。

 自分が警察ではないとわかると、安堵したようだ。


「でも、最近この辺りで動物虐待? 虫虐待? 気持ち悪いのが流行ってるんです。自分の家の前や学校の校門前でも、最近密集して死んだ虫やカラスの死体をよく見かけるし」

「それって警察には通報した?」


 藤川麗子は、そこまではしてませんと首を振る。


「でも、これってお店には関係ないですよね」

 無数に蠢く節足動物や害虫が脳裏に焼き付き、吐き気が込み上げる。


 ――死んだ害虫をすり潰したものを、こっそり混ぜてるんです。


 まさか、藤川と名乗った男は本当に何かを混ぜ込んだのでは。

 そんな不安が錯綜する僕を横目に彼女は饒舌になる。


「そうそう、監査のお二人も新メニュー食べましたか? イチジクカレー。あれ、すっごく美味しいんで食べにきてください。うちのは格別ですよ。なんたって特注スパイス使用ですから市販のものとはダンチです。あ、これって私たちより監査の方が詳しいですよね。私もこれにはまって、バイトが休みの日もわざわざ食べにきてるんですよ。この前とか皆で集まって自分たちも新メニューを考案しようって。あれ、やだ。私どうしたんだろう、あなたにまで宣伝しちゃって。最近どうも私ってば――」


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