第16話 違和感の棘

 雨にやられて足元が濡れた。冷たく湿った靴下が実に不快だが、気持ちを新たに踏み込む革靴に力を込めた。


 通用口から入店すると、店内に僅かな緊張が走った。


 バイトたちも表情が硬い。純朴そうに見えるフロントの子も裏では不正に手を貸しているのだろか。自然と彼らを見る目が鋭くなる。未だ藤川の姿は見えない。今日は休みか、はたまた午後、夕刻の出勤か。


 ふと思い出したことがある。それは奇妙な実験のことだ。

 その名をスタンフォード監獄実験という。


 刑務所を舞台として、普通の人間がそれぞれ看守役と囚人役に分け、役割を与えられた。時間が経つにつれ、看守は看守らしく、囚人はより囚人らしくなった。始めはフラットな関係であった看守役は必要以上に役に入り込み、統制を強めた結果、最終的には暴力行為にまで及び実験は中止された。


 人は役割によって人格が変わるのだそうだ。


 役割が人格を作るといっても過言ではない。


 では、監査を何年も続けると、僕はどうなるのか。

 小雪さんは。

 彼女も元々はこんな冷たい印象を与える性格ではなかったのではないか。


 事務所に入ると、榊原店長が背中を向けてデスクで入力作業を行っていた。事務作業に追われているようで、顔だけ僕らを向いた。


「ああ、高城さん、ちょっと発注終わるまで待って下さいい」


 小雪さんは、狭い室内に所狭しと貼られた各種連絡事項をしげしげと眺めている。


『挨拶の徹底』

『整理整頓をしよう!』

『元気に明るく楽しみながら』


 POP字体の標語と売上進捗表に出勤表がべたべたと貼られており、今更ながらごちゃごちゃしている印象を受けた。きっと彼は本社で働いていた時も、デスクやパソコン周りはファイルだらけで、整理が下手だったのだろう。


 何故か、その雑然さに妙な違和感を覚えた。何か重大な見落としをしているのでは。そんな小さく尖った針が胸に刺さりながら、インタビューが開始された。

 いつも通り淡々とした口調で小雪さんが口を開く。


「職場関係は良好ですか?」


「特に悪くないと思いますよ」

「普通、ということですか?」

「いやいやいや、何か棘がある言い方ですが、皆仲良くやってくれてます。皆、自分より若いけど、おじさんの私とも馬が合うし、和気あいあいとしていると思うし」

「コンプラに関しては本社の統制下とは別の管理になりますが、情報だけは別です。情報セキュリティの教育は実施していますか?」

「あ、いや、そ、そこまでは。何か問題ありましたか?」


「匿名掲示板にこの店の不評が書かれているようです」


「え! うちのバイトが何か書いているんですかっ」


「いえ。理由も出元も不明なので実態は分かりませんが、今はSNSの時代です。従業員へ不要な情報発信は控えるように、まずは教育を徹底し、記録することが重要です」


 この指摘に、榊原店長は「失礼」とスマホで匿名掲示板を開き、「なんか嫌がらせみたいなことが書かれているなあ」と渋い顔をした。


 それは本当に嫌がらせなのか。

 純粋なクレームではないか。


 まるで取り調べを受けているようで居心地が悪いのだろう。店長は終始口をへの字に曲げていた。内心もっとやれと思ったが、僕の期待に反して、小雪さんは職場の状況を根掘り葉掘りすることはなかった。いつも通り淡々と口調を変えず準拠性に話題は移る。


「資産管理は適切ですか? この資料では売上の割に食材の仕入れが多いようです」


 そう言って小雪さんは発注データを差し出す。榊原店長はばつが悪いように、言い訳を重ねた。


「あ、いや、料理を失敗したり、仕入れより回転が悪かったり、どうしても余って廃棄しないといけないケースもあったり、飲食ではよくあります、はい」


「失礼ですが、横流しはしてませんよね」


「いえいえいえ、全く問題ありませんっ。だいいち、うちなんかの食材を誰に横流しするんですか? 単純な仕入れ差異です」


「廃棄処理業者との契約は?」

「フードロスはそれでなくても多いので、まとめて出してますっ」


 相手にとっては、感情を交えないロボットからチェックを受けているようで気持ち悪いのだろう。現場との軋轢を生む要因であり、小雪さんは対象先からの批判も多いが、彼女は一切気にしない。

 その後も淡々と準拠性を問いかけ、最後に小雪さんはこう質問した。


「この仕事にやりがいはありますか」


「もっちろん!」と榊原店長は目を輝かせた。「お客様に喜んでもらったら、単純に嬉しいし、私たちが当社のファンを開拓していますし、新メニューがここで受け入れられたら、製品化に繋がりますし。私はこんなに美味しい新メニューを多くのお客様に味わってもらいたいんですよお。本当に美味しいですから」


 小雪さんは、そうですかと小さく頷き、私の質問は以上ですと締め括った。

 すっと席を立つ彼女に、焦って目配せをした。


 このままでいいんですか、と。


 だが、彼女には僕の焦りは伝わらなかった。「お店も忙しくなるからいくわよ」と逆に退出を促される始末。


「阿場多社長によろしくお伝えください!」


 深々と頭を下げられ、釈然としないまま事務所を出ると彼女に問い詰めた。


「なぜ、榊原店長の不正を追及しないんですか?」

「ああ、あれね。もう理解したから大丈夫よ」

「理解?」 


 一体、小雪さんは何を言ってる。


「職場が良好とか、仕入れ差異の追求で不正の実態がわかったんですか?」


 思わずそう食って掛かると、小雪さんは遠くを見ながらため息を吐いた。

 そして、こう問われた。



「藤川って誰?」



 一瞬、息が詰まる。


「だ、誰ってこの前僕に――」

「出勤表見たけど、藤川麗子の今日のシフトは〇だったわよ」

「え! いたんですか?」

「ええ、藤川麗子は朝から働いているわ」


 この何気ないやりとりが妙に引っかかった。

 事務所で感じた違和感の針が、肺を突き破る程鋭さを増していく。


「彼女、ホールの子よね。ネームプレートも確認済よ」

「え、いや……」

「初日に雇用契約書を確認したけど、藤川っていう名前は彼女一人しかいない」


 なんだ。

 なんだこれ。



「秋山君がこの前会った藤川って若い男は誰なの?」



 その瞬間、途端に胸が苦しくなり、かはっと濁った息を吐き出した。

 自分の周りだけ酸素がごっそり無くなった気がした。


 ああ――あの時感じた違和感の正体はこれだったのか。


 ごちゃごちゃに貼られた出勤表の中で藤川の名前を僕は確かに見たんだ。


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