第三章 不可視
第15話 職業的猜疑心
翌週の月曜日。
往査二日目。
分厚い雲が空を覆う。
藤川が座った席に、今日は小雪さんが座っている。藤川の内部告発を共有するため、少し早めに待ち合わせた。彼女から一緒にモーニングでも食べようか、そんなお誘いを受けて現在に至る。
小雪さんは目の前のシュガーワッフルを一気に平らげると、コーヒーを啜りながら
「昨日は晴れていたのに残念」とぼやいた。食欲旺盛な彼女と比べて僕の食欲はない。
「小雪さんの言う通りでした」
「ん? 何が」
透き通るような黒目が僕を捉える。瞬間、よくわからないが脳が浮遊したように少しだけ揺れた。そう言えば、僕はなんで十歳も上の先輩を馴れ馴れしく下の名前で呼んでいるのだろう。彼女とは内部監査に配属してからの付き合いだが、初めて会った時から、奇妙な安心感を覚えた。大人の魅力というやつか。いやいや、なんだそれ。
「大丈夫?」
「あ、ああ、大丈夫です」
「そう、ならいいけど」
怪訝な顔をした小雪さんと藤川の不穏な笑みが重なり、往査初日に言われたことを思い出す。
――ヒューマンエラーというのはどこの場面でも起きるから。人の感情は特にね。
あれから藤川は喜々としてこちらに不正の実態を喋り続け、話し飽きると、じゃあまたといつの間にか去っていた。裏で横行されていた非道な行いに怒りを禁じ得ず、その晩はよく眠れなかった。目覚めると吐き気を催した。あの時、榊原店長は僕らにこう言った。
――お、お二人も新メニューを食べてください。味は最高なんです。
小雪さんは冷たく断ったが、今思うと、新メニューとやらには藤川の告発通り、害虫の死骸が粉末として混ぜられていたかも知れない。そう思うと、胃の中で不快に這いずり回る害虫が、そのまま粘膜を突き破る悪夢に魘され、深夜二時にトイレで吐き出した。胸のえぐみは今も取れない。
全てを小雪さんに報告し終えると、再び気分が悪くなった。
口では、しっかりやってますなんて大口叩いているくせに、実態とはえらい違いだ。
「確認した?」
「裏取りですか? 一応ネットや動画を確認しましたが、それっぽい動画は無かったです。きっと、彼らも流石に犯罪の度が過ぎるのでそこは躊躇したのでは」
小雪さんは「そう」とだけ言うと、残ったチョコワッフルを手に取り、たったの二口で片付けた。彼女はよく食べる。胃は丈夫なのかな。
「規程も万全ではないようですね。食品安全法に代表される法令や仕組み、体制が整備されても、見た目だけ適切なだけで、実際に動かす人の悪意は制御出来ない。今回のがいい例なのかと思いました」
「なるほどね」
「段々と腹立たしく思えてきました」
「どうして?」
「だって、組織的な不正じゃないですか。下手すれば集団食中毒事件に繋がっていたかも知れませんよ」
バイトは全員クビだ。
思わず声が強まる。
続け様に、会社は法的措置をするべきだとも捲し立てる。
だが、興奮気味の僕の感情と相反して、彼女は決して歩調を合わせない。
「秋山君は職業的猜疑心って知って――ないか」
「知ってますよ」内心小馬鹿にされたのが癪に障り、食い気味に反応した。「オリエンテーションで水野部長から教わりました」
職業的猜疑心とは、監査で得た証拠をそのまま鵜呑みにせず、それが虚偽ではないか注意を払う――つまり、監査人は正しく疑ってかかるという姿勢だ。
内部監査部は業務を監督する立場として、社長の目となり足となる懐刀の役目を担う。そのため、会社の『中』にいながら、会社の『外』にいなければいけない。
常に客観的であれ、そういう戒めも職業的懐疑心は兼ねている。
「もう一度、原材料管理や調理方法の視察、清掃記録、5Sの実施状況など衛生記録を確認しようと思います」
こうなると、榊原店長の全てが胡散臭く思えてきた。
実態は、バイトも管理できず彼らに言いように舐められているだけなのでは。
そんな為体で、売上なんて上がるわけがない。
いや、売上どころの話ではなく、犯罪そのもの。
「やってやりましょう」
僕は、怒りの感情が好きだ。
怒りは生そのものであり、怒りに身を任せると、嫌な記憶も全て塗り潰される。
その時だけ、瑠香を忘れる事が出来る。
小雪さんは淡々とコーヒーを飲みながら、「あ、雨」とだけ言った。
空から零れ落ちた水滴が一粒、筋となって窓ガラスを伝う。
一粒、もう一粒――沢山。
あっという間に本降りへと変わった。
雨が、視界に映るユニバキッチンを歪ませていく。
小雪さんはふうとため息をこぼした。
「ま、せっかくだし別の観点から、榊原店長にもう一度聞いてみようかしらね」
第三章「不可視」開始――
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