第19話 歪み

 近くの病院で治療を受け、警察からの事情聴取を終えた頃には、既に日は暮れていた。


 土砂降りに近い雨は上がり、濡れたアスファルトから汚れた水煙が上がっていた。見上げても、分厚い雲は垂れ込めたまま。

 月明かりは拝めない。


「送ろうか?」

「いや、大丈夫です。それより小雪さんは平気ですか」

「私は大丈夫よ。何も問題ないわ」


 小雪さんに襲いかかった男は、通り魔として処理された。


 男はその場で死亡が確認された。誰かが警察を呼んで、野次馬に囲まれて、小雪さんは茫然と立ち尽くし、色んなことが多すぎて、今は頭が追い付いていない。警察は今のところ、この一帯で頻発している動物虐待と合わせて調査する方向のようだ。だが、この事件は何も解決されないだろう。


 結局、あの男は何がしたかったんだ。


 小雪さんを殺す? それとも僕を殺す?


 いや、それならば、なぜ自ら喉を突き刺したんだろう。僕らを殺したいなら、地面に転がった包丁を手に取り、そのまま襲い掛かってもよかったはずだ。

 今思えば、奇妙なことにあの男から殺意というものは感じられなかった。


 湿った夜風に当たりながら、あの時を思い出す。


 僕に突き飛ばされた直後、男は何が何だかわからないといった風に目を丸くしていた。あろうことか、血がついた包丁を見つけるや否や本来の目的を取り戻したように、声を出した。


 ――あなたがここ……ああ、やっとわたしは……。


 恍惚とした表情で、目をとろんとさせながら、自ら死を選んだ。

 もしかしたら、あの男の目的を僕が止めたから、包丁で切り付けられたのでは。


 元々、初めから死ぬつもりだったのでは。

 小雪さんの目の前で死にたかったのでは。

 僕は彼の目的を邪魔しただけだったのでは。


 それならば、あの男と小雪さんはどういった関係だったんだ。


 雨煙に霞むショッピングモールのなか、男の喉から噴き出る赤い血だけが鮮烈に記憶に残っている。大量の血を喉から噴き出し、天に祈りを捧げるように絶命した男。あの時は、あまりのことに痛みすら感じなかった。どこか他人事で、シュールなコントかとも思った。そっと僕の肩に触れた小雪さんの手の温もりが洋服越しに伝わると、自分が切り付けられた事実が戦慄とともにやってきた。


 当然の如く監査は中断、というよりも強制終了。小雪さんが水野部長に一報入れると、明日は休んでいいと言われたそうだ。ついでに労災の対象になるかもしれないと人事に確認中だ。


 痛みは悲しみと連動している。ずきずきと傷口が痛むたびに、なぜ僕がと胸のうちで呻く。自宅の最寄り駅で乗客を押し分けて降車すると、小雪さんも一緒に降りた。


「小雪さん、あの男と面識はないんですよね」

「警察にも何度も聞かれたけど、全くの赤の他人よ」

「そうですか……それならいいですけど」

「私は、知らない。何も」

「見えないものってリスクですね。対処できないし、血まで出ちゃいますから」


 そう自嘲気味に笑うしかない。


 彼女はじっとこちらを見つめながら「何かあったら連絡して」と言い残して、後からきた電車に乗り込んだ。人ゴミにまみれながら、「今日はちゃんとご飯食べなさい」と母親のような口調で、口を曲げた。


 どこか寂しい発車メロディが鳴りドアが閉まる。

 彼女を乗せた満員電車がゆっくりと遠ざかる。

 小雪さんと別れて一人になると、肩がじんじんと痛み出した。幸い深い傷では無いが、今更ながら包丁で切り付けられた事実が重く圧し掛かる。


 一歩間違えば殺されるところだった。


 それは「僕だけ」という意味ではない。


 小雪さんもだ。


 早く家に帰ろう。亡き妻の残り香が染みついた部屋の空気に包まれることが、せめてもの癒しであった。


 どういう人生を送れば、包丁で切り付けられる事件に巻き込まれるのか。


 改めて考えると、社会は危うい橋の上に立つ楼閣のように思えた。日本中どこでも安心、安全という漠然とした保証は、その裏付けとして、警察の存在や、赤の他人の性善説で成り立っている。


 だが――


 その裏付け自体が間違っていたらどうなる。


 社会のシステムが機能しなかったらどうなる。


 そもそも――社会のシステム(ガバナンス)自体が歪んでいたらどうなる。


 玄関を開けると溜まり溜まったものがどっと押し寄せ、敷きっ放しの布団に倒れ込む。体が泥のように重い。そのまま布団に際限なく沈み込み、見たことがない別の国にでも落下するのではないか。そう思えた。顔を埋めると、妻の残り香を感じた。

 そんなわけないのに。



 ――ここじゃない。



 ふいに瑠香の記憶が甦った。


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