第10話 影響の輪

「秋山君は水野部長から期待されているわ」


 次なる往査に向かう電車に揺られながら、隣に座る高城小雪さんはそっと呟いた。


「僕が、ですか?」

「一年かけて水野部長は全国の事業所、子会社、工場を行脚したの。その時、たまたま君を見掛けたらしい。良い人材がいるなって興奮していたわ」


 どうやら、僕と水野部長はどこかで会っていたようだ。社員なんて千人以上いるから一人ひとり覚えてはいないのだが。


「秋山君の異動が決まって、珍しく彼は喜んでいたからね」


 そう言われても思い当たる節がない。残念ながら、僕は特殊な技術や資格を持ち合わせている社員ではない。


「まあ……喜ぶべきなんでしょうか」

「素直に受け取ればね」


 棘のある言い方だった。

 まるで裏があるとでもいいたげで、暫し目線を外す。

 窓から流れる景色はどれも退屈なものだった。

 似たような雑居ビル。

 似たような戸建ての群れ。

 どこにでもあるマンション。

 都心から郊外へと移っても、そこに驚きや新しい発見があるわけではない。人の考え方、生き方は千差万別と言われるが、流れる景色だけを眺めていると、最終的に可視化されるものは大体似たようなものかもしれない。

 なんだか、自分がひどくつまらない人間に思えてきた。

 僕に期待するのは勝手だが、悲しいかな、自分はどこにでもいる人間だ。今さらモチベーションなど。


「これは私の勝手な憶測だけど、うちには内部監査以上のものが求められているような気がしている」


「内部監査以上? なんですかそれは」


「見えないものをどうするかってことよ」


「見えない……」


「見えないものって、その名の通り誰にも認知されない。でも、いつか重大な逸脱が起きてしまう。逸脱には兆候がある。ある日突然といったことは起こらない。でも、その兆候は見えないことの方が大半。むしろ、見えている方がラッキーと思った方がいい。天災や疫病、戦争であったり、それこそ人の悪意とかね。でも、運悪く遭遇してしまった結果、不幸な事態に巻き込まれる人もいるし、たまたま回避できた人もいるじゃない。その差は何? 残念ながら決定的な分岐点は誰もわからない。単なる結果論なのよ」

「そうだよね」

「じゃあ、どうすればいいのか。これはね、悲しいことにどうすることも出来ない。そもそもが可視化されないものは対処できない。だから、深く理解することもないし、理解しようと思ってはだめなの」

「そうだよね」

「秋山君は影響の輪って勉強しているかな?」

「そうだよね」

「自分が影響を与えられることのみ集中しなさいってことね。自分を取り巻く関心事は膨大で、そこに意識を向けても何も解決はしないってこと。これは自己啓発で有名な教えよ。つまり、あなたが遭遇した気味が悪い存在なんてものも全部同じなの。私たちに出来ることは限られている。対処でも防止でもなく、隙を見せないこと」

「そうだよね」

「潜在リスクを可視化して、マネジメントを徹底させる。内部監査っていう仕事は案外そういうものと相性がいいのかもね。だから水野部長は――」

「そおだよね」


 前を向いて、ぶつぶつと独り言のように語り続ける彼女の正面に、赤い女の子いた。


 そおだよね、そおだよね、と壊れたスピーカーのように喋り続ける少女は、文字通り壊れていた。


 明らかに人、ではない。


 姿形こそ人の形をしているが、この子の周りだけ空間が歪み、見えない重力が働いている。少女は不自然な程首を九十度に傾け、目だけは異常なほど光り輝いていた。未来もないのに未来を見据えて、瞳孔を見開く。


 そおだよね、そおだよね、そおだよね――

 そう囁く。


 きっと僕以外の人間は気付いていないだろう。

 このような存在がこの世界に紛れ込んでいることを、誰も理解できない。


 へらっと口元を歪ませて、僕と目が合う。


 咄嗟に下を向くが、まとわりつく生臭い吐息に気分が悪くなる。

 小雪さんは気付かない。ぶつくさと独り言を続けている。

 理解するつもりもないとは、なんて強いのか。

 最初、このような異常な存在を認識した時は、怒りを通り越して、ただただ恐怖でしかなかった。背筋は槍で背骨を突き刺されたように動かなくなり、吐き気がこみ上げた。だが、不思議なことに、彼女と一緒にいるとそこまでの緊張は起きなかった。彼女が持つ生身の熱というやつに随分と救われている。


 小雪さんは話飽きたのか、バッグからミックスフルーツのパックを取り出すと、「朝ご飯食べた?」と聞いてきた。

「いえ、抜いてます」

「よくそれで平気だね」

「そんなに食べる方ではないんです」

「朝食抜いたらいい仕事できないわよ」


 そんなどうでもいいやりとりを経て電車は目的地に到着する。

 僕たちが電車を降りるまで不気味な少女はしつこいぐらいに小雪さんに付きまとい、そおだよね、と繰り返した。


 そおだよね、そおだよね、そおだよね――


 こいつらは、誰かに害を成すまで決して諦めない。

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