第二章 監査人

第9話 オリエンテーション

 十月一日。時は配属初日に遡る――


 内部監査部は新しく配属された僕含めて四人の社員で構成されている。

 高城小雪さん、元経理部で定年間近の柳生さん、そして、責任者たる水野部長。


「きみ、シャツがいい匂いがするね」


 水野部長は、物腰が柔らかくとても紳士的であった。


「あ、ありがとうございます。安物の柔軟剤なんですが……」

「いい匂いだね。若い人がくるとやはり違うね。フレッシュ感があるよ」


 柳生さんはにこにこと笑っていたが、端に座る小雪さんは仏頂面で肩をぴくりと動かした。心なしか、小雪さんの甘い香水の香りが、嫌味のごとく強く漂ってきたような気がした。


「きみはここでキャリアを全うするのが適している」

「全う……ですか」

「ああ。我々はエリート部隊だから、きみに適しているよ」


 僕は自らをエリート部隊と断言する人に初めて出会った。

 選ばれし存在であることがさも当然かのように、水野部長は表情一つ変えずに口元を歪ませた。


 内部監査は部署の特性から秘匿情報を多く扱うため、情報を外部から遮断する必要があり、小さな個室を与えられている。基本的に内部監査の人間しか出入りしないので、ここはオフィスの喧騒とは無縁の離れ小島と化している。

 他部署の声は聞こえない。

 同様にこちらの声も漏れない。

 彼らからしてみれば我々はなんとも不気味な存在に映っているのだろう。

 選ばれた者達で構成された不気味な組織が、ここなのか。


「きみは内部監査にどんなイメージを持っているかな?」

「会社の警察というイメージです」

 この回答に水野部長はにんまりする。どうやら、彼が求めていた正解のようだ。

「30%の正解かな。私たちは何も悪人を逮捕するわけじゃないからね」

 期待通りに間違ったという意味で。

「内部監査はね、二つの機能がある」水野部長は、それは――と一呼吸を置いて、「アシュアランスとコンサルティング」


 直訳すると――保証と提案。


「内部監査っていうのは究極的には組織に価値を与える」

「価値、ですか」

「きみはうちの会社の価値とは何だと思う?」


 急に問われてしどろもどろになる。なにせ、今まで現場の売上のことしか考えたことがなかった身だ。思いつくままに、自社商品の魅力、売上や利益、株主配当といったありきたりなフレーズを口にした。


「それもある。しかし、それだけでは価値としては弱いんだ」

 続けて水野部長はこう言った。


 目に見えるものが正しいと保証することこそが価値を生む、と。


「どんなに立派な数字やモノでも、それが偽りであった時には全てが瓦解する。同時に、どんなに利益を生まず無価値に思えるようなものでも、将来に対して価値を生むものと保証できれば途端に輝きを増す。そのために、組織のリスクマネジメントやガバナンスが機能しているか、それを構成するプロセスの有効性を評価するのが、我々の活動だ」


 カタカナの羅列になんだか頭が痛くなった。

 内部監査というものは、もともとの発祥が世界恐慌後のアメリカである。概念そのものを輸入した経緯があるため、やたらと横文字が多いのだという。内部監査の歴史は古い。 それはアシュアランスという概念そのものだといっても過言ではない。


 そもそもが、何をもって「保証」とするのか。

 複雑化する組織体の財務報告が正しいかどうかを、どう評価するのか。

 0にはできないリスクを回避するために最適な行動は。

 透明性の向上がもたらすステークホルダーの利益。

 いざ不祥事が明るみになった時に、巨額の訴訟を回避するための自己防衛という打算。

 本音と建て前が表裏一体となり混ざり合うことこそがアシュアランスの本質だという。


「アシュアランスというのは、いったいどんな活動なんでしょうか?」

 水野部長は机の上を眺めると、新商品のサンプルを手に取る。

「モノには賞味期限という仕組みがある。ようは、この期間内では美味しく頂けますって消費者に保証しているんだが、じゃあ、そもそも商品を生み出す組織はちゃんとしているのかって思わないか?」

「そう、ですね」

「当たり前だが、商品一つとってみても基準があり、プロセスがあり、それを動かす人がいる。商品を生み出す組織は工場だけじゃないわけだ。例えば、仮に商品は適切に生産されても、商品を売る営業はどうだろう」

「営業……ですか」


 瞬時に、古巣の上司の顔が浮かび、吐き気がこみ上げた。


「得意先と癒着して不正なリベートを渡していないか、無理な売上目標を立てて強引に数字を作っていないか、とかね。不適切な活動というのは、リスクの塊なんだよ。いつかどこかで重大な違反をしてしまうかもしれない。こういった内部事情は手遅れになった時点で、内部告発や様々な形で世に出るだけだ。それでは遅い。我々のような存在が業務全般の適正を俯瞰して確認することが重要なんだ」


 つまり――と水野部長は目を据えて、


 対象先は、

 我々が問題ないと責任をもつ。

 この保証が利害関係者に安心を与え、価値を生む。

 そういう意味だと断言した。


 にこりと微笑む水野部長の目は全く笑っていなかった。


 単なるオリエンテーションのはずが、妙に圧倒されてしまった。


 保証という言葉の持つ意味が、鎖のように重く心を縛りつける。うまく説明することが難しいのだが、見えない強固な仕組みにがっちりと組み込まれた気分だった。奇妙な息苦しさを感じて、胸が苦しくなる。酸素が薄い。


「ずっと、きみのような人間が欲しかったんだよ。社長がわたしの希望を通してくれたみたいだ」


 期待してるよ、と鋭い眼光が僕を捉えた。


 物腰柔らかな態度なのに、やけに身震いしてしまった。



 第二章「監査人」開始――

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