第8話 準拠

 東京支店――往査二日目。


 昨日に引き続き、快晴。


 清々しい秋風が頬を撫でていく。

 風に流されるままビルに向かうが、思わず息を呑む。昨日、遭遇した人の姿をした得体の知れない者がエレベーターの傍で佇んでいた。しきりに首を動かして、にやにやと行き交う人を物色している。

 それは、獲物を狙う狩りにも似ていた。周囲の空間を歪ませて、ぶつぶつと細かく唇を震わせている。


 この異様さに、誰もが気付かない。


 スマホをいじりながらエレベーターを待つ会社員も、荷物を運ぶ運送業者も。

 すぐ傍に、得体の知れない存在がいるとも気付かずに、エレベーターに乗り込んでいく。


 やつの視線が止まった。


 咄嗟に目を逸らして瞼を閉じるが、暗い眼窩が瞼の裏に焼き付いて離れない。闇に引きずり込まれる恐怖に怖気が立ち、その場で足が止まる。引き返した方がいいのでは。いつまでもここで対峙しては。

 足が竦む僕の耳元で声が聞こえた。


 もうすぐだよ。

 今はきみぐらいだけど。

 もうすぐみんな気づいてくれる。


「手を握った方がいい?」


 小雪さんが固まる僕に声をかけた。

 冷たい目をしていた。その言葉にどういう嫌味を込めているのか。その瞳の奥に何の感情も読み取れなかった。


「大丈夫ですよ」


 何だか無性に腹が立ち、自動ドアを潜ると黒い影は消えていた。守衛室の小窓から眠そうに欠伸をした年老いた守衛が見えるだけだ。

「行こうか」という合図とともに、往査二日目が開始された。


 小雪さんの監査は昨日にも増して激しいものだった。


 やれこの書類に不備があるだの、この通達を支店内に周知したのかだの、傍から見ていてもその口調たるや、まるで警察そのものだった。彼女から指摘されるたびに、西山支店長の顔が曇っていく。

 彼女のこういった姿勢は、一部で強い反感を買っているらしい。


 いくら何でもやり過ぎ。


 そういった文句、クレームが大半。

 監査人の拠り所は法令および規程にある。この基準から逸脱するものに対して、基準を守るよう指摘をしていくわけだが、モノには限度がある。

 なぜなら100%完璧な人間など存在しないからだ。

 完璧を求めるほど軋轢だけが増していく。

 だが、そんな心配をよそに、彼女の指摘は勢いづく。


 会計から労務、契約書に金券類、業務手順にあらゆる現物管理――と数え上げればキリがない。


 特に執拗に追及しているのが、事務所の入退室管理だ。


 あれはどうですか? こちらはどうなんですか?


 延々としつこいぐらいに細かな確認後、最後に浴びせる台詞が――

 基準から逸脱しています。


 当然、向こうは憮然とした表情で「わかりました」と顔を顰めた。

 監査は警察ではなく、犯人を探しだすことが仕事ではない。これでは、行く先々で軋轢だけを生むのでは。これを今後、自分の生業にしていくのかと思うと眩暈がした。だが、奇妙なことに、小雪さんの指摘が激しくなればなるほど往査初日に感じた空気の澱みは消えていった。事務所の中も外も、得体の知れない者は姿を見せなかった。


 往査帰りに食事に誘われて、歩いてすぐにある川沿いのマクドナルドに入った。

 互いに会計を済ませて、窓側のカウンター席に座る。特に食欲もない僕はコーヒーだけ注文したが、小雪さんはテリヤキバーガーとアップルパイを頼んでいた。大きな口を開けて、むあっと食らいつく。あれだけの熱量で往査をしたら、当然腹も減るだろう。混雑する店内で一心不乱に彼女は腹を満たしていく。


「今日の監査の感想はどう?」


 彼女は外の景色を眺めながらそう言った。ここからだと、夕日に沈む東京支店が拝める。全ての窓に明かりが灯り、皆、思い思いの経済を回している。その中で、誰しもが小さな間違いを犯し、何事も無かったように夜は更け、臭い物を覆い隠していく。

 言葉に詰まっている僕の機先を制して、彼女が口を開く。


「やりすぎって思ったでしょ」

「いえ、僕は監査のことなんてあまり分かりませんから」

「いいわよ、私が先輩だからって言葉を濁さなくても。私自身がやり過ぎだと思ってるから」

「そうなんですか? では、お言葉に甘えて。規程通りに実務を遂行することは大切かと思いますが、杓子定規にやり過ぎてしまうと皆も困ってしまうのでは、と」

「秋山君」

「はい」

「言い過ぎよ。当たり前だけど、君より歴も長いし、なにより先輩だからね」

「すみません……」油断した。

「でもさ」と言いながら、ぺろりとテリヤキバーガーを平らげて、すぐさまアップルパイに取り掛かる。「私が見ているのは、そこじゃない」

「そこじゃない?」


 見てごらんと指を差す。その先に、東京支店のフロアがあった。窓が西日を反射して、時折ちかちかと鋭く目を刺す。まるで、こちらの目を潰そうと攻撃しているかのようだ。


「見えるの?」

「見えます」

「何が見えるの」

「人です、遠くて誰かはわかりませんが、多分うちの社員です」

「それだけ?」

 唾を飲み込み、「はい」と答えた。

「じゃあいいわ。一定の不備はあるけど、業務手続きにおいて問題はないわね」

「問題ない……ですか」

「ええ、そうよ」

「あのビルから撤退して、どこか別の場所に事業所を移した方が良いんじゃないですか」

「なんで?」

「小雪さんは見えないかもしれませんが、僕は見たんです。東京支店に入り込もうとするものを。へらへらと笑う不気味な存在を」


「残念だけど、可視化できないものは誰にも証明できないの」


 窘められるように、にべもなくそう返された。


「それに、経済っていうのは、思い付きだけで簡単に動かすことは出来ない。仮に事業所を移転するにしても、資金面、管理面、人事面、数え上げればキリがないぐらいに煩雑な作業が起こる。どんなに早くても賃貸契約の解除など諸々の手続きを終えるまで最低二年はかかるわ」


 簡単に人は逃げられない、と小雪さんは言った。


 その言葉は棘となり胸の奥に突き刺さった。


 小雪さんは一気にアップルパイを平らげると、「これは独り言だけど」と前置きして、静かに口を開く。


「ルールってものは自分を縛るためにある。それは同時に自分の身を守ることでもある。人は僅かな綻びから逸脱へと導かれていく。逸脱っていうのは、何も不正だけじゃない。まさしく基準から外れてしまうことよ。見えない何かに惹かれていくことだってある。そういうものは人の弱さ、油断、綻びを見つけてすっと入り込むの。理由や原因を探しても無駄。きっと答えのない沼にはまるだけよ」


 ここでふと思い出す。

 小雪さんが異常に事務所の入退館管理に拘っていたことを。

 なぜ、業者が簡単に出入りできるの?

 なぜ、入退館記録を残さないの?

 なぜ、扉は常にオープンにされているの?


「可視化されたものは準拠する。可視化されないものは無視をする。それが最終的には正しい」


 彼女はそう言うが、僕は納得していない。


 だって――それは付け焼刃の指摘に思えたからだ。得体の知れないものの真相は端から考えることすら無価値と決めつけ、効果があるかもわからない準拠性を徹底させているだけに思えたからだ。


「いつか何か起きそうで怖いんですが」

「何かって、何が?」

「いや、それは……」

「絶対的な保証はできない。あくまで、私たちは合理的な保証を与えるの」


 果たして、これはアシュアランスと言えるのだろうか。


 彼女は僕が感じている未来への不安に対して、肯定も否定もしなかった。

 彼女なりに言えば、それはリスクマネジメントの対象外である、ということか。

 根本的な解決は不可能であると、彼女は諦めている。

 心なしか、遠くに見える東京支店の窓が薄っすら黒ずんだ気がした。

 ほんの僅かな黒い染みは窓という窓全体を覆いつくす程に膨張して、東京支店のフロアを覆いつくす。


 経済の営みである明かりは見えなくなり、アシュアランスが溶けていく。


 再び声が聞こえた。


 もうすぐだよ。

 今はきみぐらいだけど。

 もうすぐみんな気づいてくれる。


 異形と東京支店の攻防は、僕の目から見て、どちらが勝者となるか一目瞭然に思えた。





 物語は第二章へ――

 二人は可視化されるものと可視化されないものの境界線に迫る。

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