第7話 仕事帰り

「もしかして秋山君は見える人なの?」


 キンキンに冷えたビールが、急にぬるくなったように感じた。

 不味い。


 往査帰り、彼女から飲みに誘われた。


 流されるように、適当に見つけた中華チェーンに入った。最近では、家に帰っても自炊する気力も湧かず、こういった店で夜を簡単に済ますことが多い。食って寝るだけ。妻の死によって強制的に独身にさせられたので、余計に虚しさに包まれている。


「往査の後はお腹減るでしょ。一回目は奢ってあげるから、好きなもの頼んでいいわよ」


 そう言うと、小雪さんはカウンターに置かれた注文パネルを操作して、こちらのリクエストも聞かずに、次々と料理を注文していく。

 まあ、奢ってもらうから文句もないけど。

 満席のテーブルを縫うように注文が運ばれた。ジョッキをカチンと合わせて、二人同時にビールを喉に流し込む。ぷはっと息を吐き、彼女はじっと僕を見つめる。


「どうなの? 秋山君は見えるの?」

「すいません、一体なんのことですか」


 そうはぐらかせてみたら、「会計は秋山君持ちでよろしく」と冷たく突き放された。誘ったのはどっちだよと突っ込みは堪えた。


「あの時、ずっと顔色悪かったじゃない。風邪じゃないよね。急に、だよね」


 何て言ったらいいのかわからないが、「はい」とだけ答えた。

 小雪さんは、そっかと気の無い返事をして、一気にジョッキを空にする。彼女は合気道の有段者。酒も強い。仕事も厳しい。冗談はほぼ通じない。このキャラクターで彼氏はいるのかな、という馬鹿な考えまで及ぶ。


「いつから?」

「最近ですね」

「そう。何か切っ掛けがあるの? 思い当たる節は?」


 その問いは僕にとって禁句であり、誰かに土足で侵されたくない領域でもあった。わかっているのだが、どうしても態度に現れてしまう。仏頂面で黙って静かに首を振るだけだ。


「私はね、見えないの」


 彼女はシンプルにそう言った。


「私は秋山君が感じている恐怖というものを理解することができない」だから教えて、と再び鋭い目つきで瞳を射抜かれた。「どんな奴がいたの」


 豪快に酒飲んで、もりもり餃子を食べる、この先輩に少しだけ色気を感じた自分は、相当に人恋しいのだろう。

 ジョッキはもうすぐ三杯目に突入する。餃子は二皿目。

 ぐびぐび、ばくばく。彼女はよく飲み、よく食べる。

 東京支店で遭遇した悪意の塊がずっと背中に張り付いているようで気が滅入っていたので、この人の持つ生身の肉体の熱というものに案外救われてはいる。


 あれから往査を終えるまで、事務所に黒い影が現れなかった。


 見間違え――ということはないだろう。不幸にもこんな体質になってから、その境目だけははっきりと理解できるようになっている。本能が危険を訴えているのだ。


 ああいう存在には近づいてはいけない。


 ただし放っておいてもいけない。


 アルコールに浸かった脳が、往査の記憶を思い出させる。

 一連の管理事項の指摘を受けて縮こまる西山支店長を背に、事務所を後にしようとした時、通路の奥に奴がいた。

 僕を待ち構えるように、へらへらと笑っていた。


 だめ? だめ?

  肺取っちゃだめ?

   肺取っちゃだめ?

    肺取っちゃだめ?


「秋山君」


 強い口調で呼び掛けられて我に返る。

 気が付くと、ジョッキを持つ手が小刻みに震えていた。

 震えはなかなか収まらない。

 くそっ、何だって言うんだ。

 僕の報告を聞き終えて、小雪さんは暫し箸を止めた。うっと込み上げる炭酸を喉元で押さえて、注文を再開する。今度は唐揚げを追加し、「わかった」とだけ言った。

 もしかして、彼女は東京支店に染みつく得体の知れない者の正体を知っているのでは。

 それに――今まで、こんな悩みを他人に打ち明けたこともないし、そもそもが、聞かれたことや心配されたこともなかった。

 彼女はこういう現象に詳しいのでは。

 淡い期待を込めて、そう問い質すと、答えは期待通りにはいかなかった。


「知らないし、理解もできない」


 黙って下を向き、暗い相槌を打つ。


「無視するしかないわね」

「無視、ですか」

「ええ。それしかないわよ」

「ですが、何かお祓いした方がいいんじゃないでしょうか」

「そんなものは気休めよ」

 気休め。

 自分自身が拒絶されたように感じた。突き放した言葉に少しだけ苛立つ。

「何かあっても遅いんじゃないですか」

「遅いもなにもないわね。秋山君は、何で、そんなに気持ち悪い存在が東京支店に巣食っていると思うの?」


 逆に質問されて、暫し頭を捻るが返答に苦しむ。

 ビルが建設された土地そのものが穢れている。

 東京支店に配属された誰かが既に何らかの理由で呪われている。

 単純な地縛霊などなど。

 思い付く限り口に出すが、彼女はその全てに納得しない。


「要はね、どこまで突き詰めたところで正解なんて誰もわからない。得体の知れない存在なんてさ、千差万別よ。神サマだったり、幽霊だったり。人間が勝手にカテゴリーしているだけ。それに、人間同士だって理解し合えない場合が多いのに、なんで、そいつらのことを理解できると思うのか、私はわからない。だからお祓いなんてしても気休めだって言っているのよ。それに、秋山君にしか見えない存在をどうやって西山支店長に説明するの? 秋山君が変な奴だと思われるわよ」


「まあ、それはそうなんですが」

 ただ、このままではいずれ、東京支店の誰かに死が訪れる予感だけが根拠もなく強まっている。知ってしまったのに、このまま放っておいていいのか。これは余計な正義感なのか。


「そもそもが、こんなのをどうするかなんて内部監査の範疇じゃないですね」

 忘れて下さい。ぽつりと漏れたため息に、小雪さんは黙って首を振る。

「案外そうでもないのよ」

「そうなんですか?」


 内部監査と怪異はどのような接点があるのか、さっぱりわからない。ただ、僕は自分が見て感じて、危険と判断したことを彼女に伝えただけなのに。


「私も興味があるのよ。見えないものは見えないものとして、マネジメントって便利な言葉は万能なのかって」


 気のせいだろうか。

 気丈な振る舞いを崩さない彼女の声が僅かに上ずった気がした。


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