第6話 記憶

 僕は、いわゆる見える体質ではない。


 今までも、一度だってそのようなケースに遭遇したことはない。当然、危ない話には近づかなかった。だが、過度に恐れていたわけではない。ホラー映画や小説など、人並みにこういうジャンルも嗜み、それなりに恐怖で震え上がった。だが、それはあくまで創作物に対してだ。現実に、怪異と呼ばれるものに出くわしたことは皆無。テレビで見るような、急にノイズ、ラップ音が聞こえるなどといった、怪異の兆候すら感じたこともなかった。


 子供の頃から、霊感が強いと言われたことはなかった。


 僕は都心から大分離れた郊外に生まれた一般的なサラリーマン家庭の息子だ。公務員の父は、生活環境課から始まり、市民福祉課、地域振興課など一通り周り、最後は保険年金課で引退した。その時に、同じ役所で出会った母と結婚し、僕が生まれた。至って普通の家庭の育ち。


 母は若くして亡くなった。


 死因は事故死。

 買い物帰りに近所の横断歩道を歩いていた時、突然、前方からタクシーが突っ込んできた。そのまま跳ね飛ばされて、後頭部から地面に叩きつけられた。即死だったそうだ。


 飲酒運転だった。

 飲酒は昨今の悲惨な事故により厳罰化の流れだが、未だに過ちを犯す者が後を絶たない。当時、中学生だった僕は、いきなり母を奪われた憎しみに突き動かされて、その理由を追い求めた。


 なぜ、犯人はだめだと分かっている酒を飲んで運転をしたのか。


 タクシー会社は運転手に出発前のアルコールチェックを義務付けている。定時連絡は欠かさず、誓約書まで書かせている。当然、違反が発覚した際は会社をクビになる。それだけでなく、違約金まで課せられるという厳しいものだ。


 会社の仕組みは何も問題ないのに、なぜ愚を。


 深い喪失に沈む僕に対して、突き付けられた真相は思った以上に下らないことだった。


 母を轢き殺したタクシー運転手は、過重労働により心身共に病んでいたそうだ。

 不景気の煽りから利益配分が見直された結果、客を求めて慢性的な長時間勤務となっていた。犯人は休憩中にコンビニで酒を飲んで寝てしまい、そのまま運転を再開した。


 会社の仕組みだのなんだの、そんな大層な話ではない。


 どんなに仕組みが万全だとしても、人の心は制御できない、という事実だ。


 だが、そんな事情は遺族の僕らには全く関係ない。

 子どもながらに自分の無力さを痛感した瞬間だった。


 *


 僕が人成らざる者を認識できるようになったのは、最近のことだ。


 ――明は、わたしがいないと全然だめだよね。


 瑠香は常に自分が精神的に優位に立とうとした。


 彼女と出会ったのは、遊園地で清掃のバイトをしていた時だ。

母の死後、男手ひとつで育てられた僕は、男だけの家庭ということも相まって、自然と独立心が高くなっていった。皆が部活やサークルといった眩しい青春を謳歌するなか、僕は毎日、様々な家事をこなさなければならない。毎日が慌ただしく過ぎていった。


 そんな鬱屈した日々のなか、癒しと言える存在が彼女であった。


 園内は騒がしい。ジェットコースターから聞こえる絶叫。ヒーローショーで流れる子供たちの嬌声。遊具から流れる陽気なメロディ。客が散らかしたゴミを淡々と片付けていくなか、楽しそうだなと嫌味を胸の内に吐き捨てつつ、休憩室に戻った。


 休憩室で気だるそうにスマホをいじる瑠香も僕と同じ気持ちだった。


 瑠香は僕より7歳年上の所謂フリーター。

 勤めていた不動産会社を辞めて、それからここでバイトをしていた。


 大袈裟だが、共通の敵ともいえる幸せそうなカップルたちに毒づくことから始まり、様々な話をするようになり、いつしか自然と仲良くなった。


 ――わたしたちも楽しいことする?


 園内の公衆トイレの脇に位置する六畳程の小さな休憩室。僕らの他に誰もいない、粗末な空間で唇を重ねた。


 ――遊園地は子供たちにとって玩具みたいな理想の場所だけど、一歩裏に回れば、汚い場所や、いけないことをしている大人たちもいる。案外カオスだよね。


 瑠香は僕にとって初めての相手だった。

 あの日、交わした唇を境に僕は瑠香に急速に惹かれていった。


 恋人となり、やがて妻となり、そして一年前に死んだ。


 僕は二十九年という短い期間のなかで、二度も大切な人を失った。

 妻、そして母。


 母の死についてはもう既に悲しみは乗り越えている。

 だが、納得は未だにしていない。

 運転手のストレスなど知ったことか。そんなのが許されるならば、同情されるのならば、犯罪なんてものは永遠に無くなることはないだろう。現に、犯人は収監されたのち、刑期を終えて、今もどこかで別の仕事をしている。遺族からしてみると、交通犯罪というものは余りにも刑が軽過ぎる。


 長い時を経て、父は僕に何も言わなかった。だが、瑠香がこの世を去ってから、無性に犯人に腹が立ってしまった。煮えたぎる感情に身を任せて、タクシー運転手を殺してやろうと企てた。

 ホームセンターで人を殺せそうなものを物色しているうちに、猛烈な虚しさに襲われた。

 母が殺された原因は明らかにされ、罪は法律上償われた。もう何年も前に終わった話であるため、結局、そんな不毛な殺人計画は実行しなかった。


 だが、瑠香は別だ。


 今でもどうして瑠香が死ななくてはならなかったのか。


 理解も納得も、原因も何もかもがはっきりしていない。


 瑠香は死に至る前にずっと口ずさんでいたことがある。


 ――ここじゃない。


 あの日からだ。


 人成らざる者の存在を認識するようになったのは。



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