第5話 異質
「――以上が監査の流れになりますが、何かご質問はありますでしょうか?」
全てを話し終えると、小雪さんが周囲を睥睨する。本人にそのつもりはなくとも、監査のもつ威圧感というのは相当なものだろう。いや、この人だからなのか。
皆、ありません、と口を揃えた。
一連の説明のあと会議は解散し、支店の社員がぞろぞろと出ていった。
小雪さんは書類の端をとんとんと整えながら、僕を一瞥する。
「監査っていうのは言い方を変えれば、『無限』だからね。監査権っていう会社のなかで唯一与えられた権限は、杓子定規に言っちゃえば、どんな情報にもアクセスできるってこと。でも、それは諸刃の剣で、どんなものも対象になっちゃうと、やることが無尽蔵に広がってしまう」
そのため重要になるのが、何をもってリスクとするか、リスクの高いものはなにか、コントロールされていないものは何か、という残余リスクの選定だ。この視点の立ち、どこを監査するかが決められている。
「ということは効率的に進めるという意味ですか」
「まあ、基本はね」そう言ったあと、「ただし、私はやるからには細かく見ていくから」
中途半端なことはしない、と目を据えた。
彼女は有言実行だった。
僕を引き連れて事細かに確認していく。
例えば、資産管理。
台帳の有無。資産番号の適正、実物との突合、私物化されていないか、必要に応じた購入か、などなど。一つの項目の準拠性を確認するだけでもキリがない程だ。
業務を監督する立場になると、全ての作業、工程に規定やルール――つまり、仕組みが存在していることに驚く。それは何も会社員に限った話でない。普段、意識していなくとも、見えない仕組みのなかに皆が閉じ込められているといっていい。
小雪さんはどれか一つでも不備があれば、容赦なく指摘していく。指摘される西山支店長は、薄っすらと額に汗を浮かばせて、防戦一方に回っていた。
「う、えっと、その」
終始こんな調子だから、必然的に彼女が事務所を動く度に緊張が走った。金魚の糞のようにくっ付く自分にも同様の目が注がれた。彼らからして見れば、若造の僕でさえも得体の知れない監査人の一人に映っているのだ。
僕はこのやりとりに不毛さを感じていた。
彼女は、口では「無限」の危うさを説きながら、自らの発言とは裏腹に重箱の隅を突いているように思えた。細かな不備というものは必ず起きる。人間ならば誰しもがうっかりしてしまうものだし、いちいち挙げればキリがない。
そこまで注視するものなのだろうか。
こんな規程の遵守よりも、もっと重大なリスクがあるのでは。
内部監査の意義や目的が理解できないまま、いつの間にか僕は立ち止まってしまった。
それは答えの無い疑問符に体が追い付いていない、という理由だけではない。
あるものに気付いてしまい、脳みそが瞬時に凍り付いたからだ。
嫌なものが目に入り、鼓動が早くなる。
それは影だ。
事務所の入り口に黒い影が見えた。
その影はぼんやりと揺らめき、通り過ぎる社員を眺めている。何をするでもなく、ただ、入り口付近で事務所の様子を窺っている。
誰もがこの存在に気付いていない。
雑談しながら黒い影を無視してそのまま通り抜ける者すらいる。
恐らく、いや、確実に僕しか気付いていない。
当然だ。誰もこんなものには気付かないのだ。
黒い影の周囲だけ空間が歪んでいる。
空気が濁っている。
意識すればするほど、黒い影は朧気だった輪郭をより濃くしていき、はっきりと人の姿へと変わっていった。人へと姿を変えた何かは奇妙に首だけを動かして周囲を眺めると、標的を捉えたのか、その視線が一点に止まった。
「あ」
間違いない。やつは僕を見ている。
その存在の異様さに視線を逸らすことが出来ない。
十分な距離を取っているにも関わらず、尋常ではない圧迫感を覚えた。
「やあ」
耳元でそう言われた気がして、一気に胸が苦しくなる。全身が粟立ち、すぐ近くに、人成らざる者がいるように思えた。
「入ってもいいのかな」
声は続く。
無視しても無駄だった。虚空の眼窩がずっと僕を捉えている。どこまでも、どこまでも、闇に引きずり込もうと狡猾に段階を踏んでいる。
こいつは、僕を認識しているのだ。
「どうなんだよ。答えてくれないとわからないよ」
やめろ。
耳を塞いでも、隙間風のように闇が忍び込む。
「聞こえているよね。どうなんだよ。入っていいよね? 入っていいよね? 入っていいよね? 入っていいよね? 入っていいよね? 入っていいよね? 入っていいよね? 入っていいよね? 入っていいよね? 入っていいよね? 入っていいよね? 入っていいよね? 入っていいよね? 入っていいよね? 入っていいよね? 入っていいよね? 入っていいよね? 入っていいよね? 入っていいよね? 入っていいよね? 入っていいよね? 入っていいよね? 入っていいよね? 入っていいよね? 入っていいよね? 入っていいよね? 入っていいよね? 入っていいよね? 入っていいよね?」
ねえ。
肺取っていいよね?
ばさばさばさ――
書類が床に散乱した。
無意識のうちに後退り、デスクに積まれた誰かの書類の束を落としてしまった。皮肉にも自分の落ち度によって、現実に舞い戻ることができた。
「秋山君、どうしたの」
その取り乱した様子に、小雪さんが気付いた。
「い、いや」
怪訝な顔を他所に、再び視線を入り口に向けると、黒い影は消えていた。
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