三
遊女の容姿は逸品。教養は武家の娘にも引けを取らない。価格は他の妓楼に比べれば安価で、水揚げもそれほど金がかからない。しかし、それができるのも楼主のお目に適った者だけ。そこらの庶民が手にすることが出来ないのは他の妓楼と同じであった。
その中でも格別な花がいる。それが、
吉原一の美貌と教養を兼ね備えた花魁。その気位の高さはこれまた他の妓楼の花魁と同じで客を取るのは自分の心向くままに、のはずだったのだが。
今夜客を取るつもりが無かった逢花は、吉原を盛り上げる花魁道中を終え金月楼に戻ると楼主にそのまま座敷に客が上がることを知らされ、座敷の支度を急かされている。
「逢花準備なさい!」
「あいよ!
「逢花花魁! はやくはやく」
逢花が面倒を見ている禿の水仙と梨花は、小さい身体で一生懸命座敷の片づけをしている。
水仙は鏡の前で身を整えている逢花の
「逢花花魁! 簪の崩れを直しましょう」
そう逢花に一言声を掛けてから頭に触れようとした。
その時、「水仙!」と逢花は名を呼び咄嗟に水仙の手を受け止めた。
「姉さん?」驚いて目をぱちりと開く水仙に逢花は優しく笑みを向ける。
「自分で直すから梨花の方を手伝っておくんなんし」
水仙は頷いて、お盆を持ってきた梨花から受け取り座敷に必要なものを並べていく。
逢花は鏡を覗き、簪の位置を確認する。
座敷の準備が終わり、後は客を迎えるだけ。
「二人ともありがとうござりんす」
「今日も姉さんが一番綺麗!」
「うんうん! 輝いています!」
逢花は微笑みながら水仙と梨花の頭を撫でる。
「それじゃあ、後は頼みんす」
二人は待っている客の迎えのために座敷から出た。
「さあ、一度で私の座敷に上がるのは誰かしら?」
格子窓から見える煌煌と輝く満月を睨みつける。
少しして、今夜の客を座敷に案内する禿が部屋の外から逢花に声をかける。逢花は紅を差した唇の端を上げる。
座敷の襖を禿が開けて、逢花は
「今夜の出逢いは前世の御縁でありんしょう」
ふんだんな金糸で模様を織った
顔を上げるのは客から指示があるまで。これは自分に大金を叩いた客への誠意、それが出来なければ吉原の花魁などにはなれない。
しかし、自分の一晩を買った男の顔をはやく見たいという好奇心は抑えられない。
「顔を上げよ」
品を感じる男の声に逢花は身構えた。これまでも武家や紅毛人、南蛮人、黒船の賓客を相手にしてきたが、それとは格が違う、高貴な身分だと肌で感じた。
ここで、怯えては名が廃る。花魁は従順に、しかし華やかに堂々としていなければならない。
「今世の名は
逢花は顔を上げ、艶やかに微笑んだ――がその顔は一瞬時が止まった。
小汚い修行僧のような出で立ちに対して不釣り合いな見目麗しい容貌。
袈裟姿に色白の肌と毛先を紫の紐で束ねる長い髪。そして袈裟の懐あたりの歪なふくらみ。その出で立ちは昼間寺で会った修行僧に偽装した男 寒月。
笠は肩に掛け、昼間は笠の陰で見えていなかった顔が露になる。彼の妖光放つ切れ長の目が逢花を見据える。
ど、どうしてあんたがここに。
その言葉は喉元でひっこめた。逢花の気持ちを知らずに隣に座った寒月を逢花は警戒する。
「どうかしたか?」
「い、いえ主さんがこれほど色男だと緊張しちまいまして」
「嬉しいね。昼間は悲しいことを言われてしまってね。なよっとした身体は江戸の男らしくはないってね、まあ江戸の男ではないけれどその言葉が心に留まっていてね」
いつもであれば、客が入れば自信に満ち溢れていた逢花の口元が引きつる。
「へ、へえ。なあに、男の色っぽさは江戸の男だけじゃありんせん」
「ははは、君は良く分かっているね。彼に教えて欲しいもんだ」
彼という言葉に心臓が跳ね上がる。分かって言っているのだろうか。逢花の心拍と警戒心は増すばかり。
「そうそう、あちきほどの女の目に適う男なんてそうそうおりんせん。ほら主さんもっと酒を呑みんしょう」
「うん。いただこうか」
「ささ、どうぞ」
酒瓶を取るために逢花が身を捩ると、男は逢花の脇に腕を潜らせ顔を近づかせた。逢花は驚いて男を見上げる。
「やはり、近くで見ると美しい花だな」
「え?」
「花に逢えば花をたし、月に逢えば月をたす」
花に逢ったらその花を一心に観賞しよう。月に逢ったら月を一心に観賞しよう。
花と月は人、人と逢うたときはその人と真剣に向き合うのだ。人の価値観を自分の偏見の心で見るのでなく、語り合い、寄り添う心が大事なのだという禅の教えだ。
たしかに、空にかかる満月よりも、美しい月が逢花の目の前にある。寒月が言った月は自分自身だろう。自分の容姿が美しいとよく知っており、それは自分を観賞しろと言っているもんだ。なんと、気位が高い。
逢花は嘲笑を心に留め、相手が求めるものを汲んで恥じらう姿を見せる。――が、
「なるほど、美しい花だ。なら良く味わうことにしよう、
寒月に教えた偽名を彼は満足気な顔で言った。逢花の顔から血の気が引く。
「
逢花はついに彼の名を口にしてしまった。隠しきれない。そう直感し諦めたわけは寒月の瞳に閉じ込められた自分の姿を目にしてしまったからだ。
粉を塗った白肌で青ざめた顔色を隠せても、戸惑う顔色は隠せない。さらに、これほどまで男が纏う高貴な雰囲気に怯えているとは思わなかった。
「吉原の花
笑みを浮かべたまま寒月の美しい顔が逢花に近づく。彼の手は固く、どうやら逢花を離す気はなさそうだ。
どうする。異能を使う? いや、駄目ね。気絶させてもその後の片付けはどうする? ああ、もうこの男は金月楼の女の売り方を知らないのかしら!
どうすれば腕から抜けられるか、そう頭で考える。拒否の意を込めて眉根を寄せできるだけ頭を後ろに引くと、顔の前から寒月の笑い声が聞こえた。
「ふふ、そういえば、金月楼の花たちは身体を売らないんだったな」
するりと寒月の腕が脇から離れた。その手は固まっている逢花の手元酒瓶を取り、自分の盃に注いだ。彼はいまここでは何事もなかったかのように盃を傾けた。
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