二
「空気が悪いね、
境内の上で横になっていた逢花は肩を震えさせ目を開いた。声を掛けてきた男の存在に気付かなかった。男は逢花を見て御浪人と言ったことから、女だと気付いていないようだ。
逢花はゆっくりと起き上がり境内の前に立っている男を観察する。
深くかぶった笠の陰で顔は見えない。艶のある長い濡れ羽色の髪を紫の紐で先だけを結び肩に下ろしている。さらに、美しい白肌の手足が袈裟から伸びている。
剃髪もせず、修行僧にしては綺麗すぎる肌に偽装か、と疑いつつも罠に嵌ってやろうと逢花は声を掛ける。
「あんた修行僧か?」
「ええ、まあ」
「ふーん、名は?」
「ああ、名乗らず失礼。寒い夜の月、名を
寒月の声は冷涼としている。やや作り物っぽさがあるが、だからといって人を寄せ付けないわけでもない。
身分を隠しているようだが、先ほど彼が口にした言葉。
――“鬼”、ね。
もしや、先ほど逢花を見ていたのだろうか。そうであれば寒月の言う鬼は透けた少女のことだろう。
確かに歌舞伎や怪談でたびたび耳にすることはある。しかし、江戸の者はもっぱらあれは‟幽霊”と呼ぶ。
ただ、少女が見えていなかったとしたら。もしかしたら、僧は柱に括り付けられた盗賊のことを言っているのかもしれない。仮にそうでも、同じく歌舞伎でもないかぎり、鬼など大層な言い方はしないわけだが。
逢花は寒月の身なり素振りを再度注意深く見つめる。
なるほどね。江戸のもんじゃないわ。それに話し方からして教養もありそう。
「寒月や 門なき寺の 天高し。蕪村が好きなのか?」
「ほぉ彼を知っているとはなかなか見どころのある御人だね」
逢花の返しに感心しているらしいのが寒月の声色から窺える。
「そらあ、あの人の絵と句は逸品だからな。俺は目が肥えてるんだ、あれはもうそろそろしたら花開く」
大坂藩の大名が一度座敷に上がってきたことがある。その時の贈り物のなかに与謝蕪村の絵があった。それから、大名がこっちに来るときには彼の俳句をまとめたものを持ってくるように頼んだ。
大名は絵が気に入っていたようだけれどね。
逢花は自分と同じ感性を持つ人と出逢い少しばかり、心が揺らいだ。が、その心を悟られないよう笑みを浮かべた。
「それで、雲上から降り立ったあんたはここに何用だ?」
「ほう、雲上――京の貴族であるとなぜわかった」
雲上、雲の上にあっても華やかに飾る月がそこにあるかは別よ。ただ、上から川の流れを見ていることしか出来ない囚われの籠の鳥。
逢花はくすりと鼻で笑った。顔には自嘲気味の笑みを浮かべて。
「なよっとした身体は江戸の男らしくない、遠国者特有の豪快な性質でもなさそうだ。まあ、なにしろ帯刀してない不用心な出で立ちときた。修行僧でもここらに寄る僧は薙刀か金剛杖を持ち歩くからな。僧の見た目をした相当な箱入り娘か」
その言葉に寒月は咳払いをした。
「ふむ。私は禅僧でな。争いを好まないのだ」
なにか癇に障ったらしく、寒月の声色が少しばかり変わった。
逢花は久しぶりに怪しさ満載の人間に会い、楽しくなってきた。
町民なら気づかないだろう腹あたりの歪なふくらみ。
袈裟の下の重ね着によるものじゃないわね。形からして刀、刀身の短い刀。
最近噂になっている短刀の辻斬り? まさか幕府に歯向かおうと? いや、それならわざわざ町人を殺さず武士を斬りつける方が幕府に打撃はある。それに男が辻斬りにわざわざ短刀を選ぶ? 可能性は低いわね。
逢花は疑惑と好奇心が相重ねって挑発するように尋ねた。
「へえ。じゃああんたの懐に隠されている短刀の言い訳は?」
「なかなか意地の悪い御人だね。だが、残念。これは木刀だよ」
「木刀?」
「ああ、見るかい?」
寒月はそのふくらみから短刀を取り出した。
逢花は渡された短刀の柄を握って鞘から抜く。
木だ。刀身は刀のそれだが、紛れもなく木で出来ていた。
刃先だろう部分に手で触れると、丸みを帯び人を殺すことも傷をつけることもできないのが分かる。
まあ、木だしね。
「なんでこんなもんを」
「丸腰でいるとそれこそ危ないからね。今の君の様に目が良い者は気づく。襲われないための護りだよ」
そんなもので、本当に襲われたらどうするんだ。逢花はどこか抜けてるこの男に呆れた。
「君の名を教えてくれるだろうか?」
――逢花、と口にするわけにはいかなかった。それは自分の名でまた花魁の時の名だ。変装している昼間、外を歩くのに名が必要になることはなかった。容姿は派手だが、身なりは着流し姿。刀は携えず町のごろつきと喧嘩して過ごすうちに、助けた町人に名を聞かれ昔は侍だったと話すと、皆「御浪人、浪人さん」と自分を呼ぶようになった。
そうね、名を教えるならこちらも偽名を使おうかしら。
逢花は心の内で嘲笑する。徳川幕府の顔、
『 菜の花や 月は東に 日は西に 』
芭蕉の俳句。一面、菜の花が咲き、月が東にあり、太陽は西にある景色を詠んだ。
ふん、西から太陽は登らないのよ。陽が沈む姿は寂しいものだね。
「俺はなばな。よろしく寒月さん」
「なばなか。ああ、よろしく」
今日ここに新しい名前が生まれた。そして新しい出逢い。大河の流れは誰にも止められない。ただ、過ぎ去る時の流れを生きるだけ。
しばらくして、岡っ引きの声が近くから聞こえた。
「おーい、御浪人ー! お待たせしやした!」
逢花は岡っ引きの姿を探そうと、寺へとつながる道のほうに出た。
着流しに紺足袋、白い鼻緒の雪駄、見慣れた顔の岡っ引きが息切れを起こしながら逢花に近づいた。
「遅くなりやした。すんません」
「それじゃ、後は頼んだぞ。ああ、そうだ。そこにいる僧は無関係だ」
「僧、ですかい? どちらに?」
「え?」
逢花は後ろを振り返った。しかし、そこには人の姿は無く、気配すらなかった。
逃げたな。まあ、いいか。
「いや、気にするな。それじゃ、俺は行くからな」
逢花は岡っ引きの肩に手を置き、横を通り過ぎた。
その顔はどこか楽しそうに笑っていた。
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