ショートケーキとマイノリティ

羽衣まこと

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「なんで?」

 という言葉を、私はまた、曖昧な笑顔で流した。

 また。そう、まただ。

 今月でいったい何度目になるのか、数はもう思い出したくない。とにかくたくさんだ、たくさん。何回も何回も何回も。こういう目に遭うたびに、カミングアウトをしなければよかったと心から思う。しかし先日のランチ会で、同僚にパートナーと手を繋いで家に帰るところを目撃されていたという事実が判明したので、自分から言わなくても、いつかはバレて噂になっていたのだろうなとも考える。

「なんでって、えー、別にいいじゃないですかぁ」

 私はいつもよりも少しだけ高い、馬鹿っぽい声を出す。これは私が逃げたいときについやってしまう癖だ。私は無害です、というアピール。私はあなたよりも馬鹿で、何も難しいことは考えていません、だからどうか追求しないで、弾圧しないで、踏みつけないでくださいという卑屈な懇願。それをすれば逃げられると、私は子どもの頃から思い込んでいる節がある。大人になった今でもほとんど反射的にやってしまう時があるのだが、実際のところあまりいい方法だとは思っていない。その場だけは逃げることができたとしても、根本的な問題解決にはならないから繰り返されるし、しかも毎回心に引っ掻き傷みたいな小さな傷がついて残る。それにそもそも、逃げられないことだってある。そうなったら最悪だ。傷が残る上、逃げられなくてさらに深いダメージを被る。そして今日のはおそらく、逃げられないパターンのやつだ。

「いや別に悪いとかって意味じゃなくてね」

 上司は大きな声で笑う。笑顔が爽やかなところが不気味だと思う。

「次のライブさあ」と、私たちの隣の隣、一つ空けたテーブル席に座っている、おそらく女の子と思われる外見のふたりが話している声が聞こえてくる。

「珍しく配信オンリーじゃないから、絶対現地行きたいんだけど」

「だよね、私も。絶対行こう、二人で」

 ライブと同じく今時では珍しくなった、対面でのプレゼンの帰りだった。平日の午後四時のカフェには人が少なく、私たちとその女の子たち、それから一人ずつ座っている男が二人と、おそらくカップルと思われる男女がひと組みしかいない。それでもこういうところに来ると、この世には自分の知らない人間がたくさんいるんだと実感する。業務の七割近くがリモートで成立するので、自分と接点のない人間の存在を、生身で感じる機会が少なくなっている。

「今そういうの流行ってるしさ」と、上司は続ける。

 隣の隣で会話をしている女の子たちのどちらかが、あるいは両方が、私と同じ少数派の立場にいる、あるいはそうなる、あるいは身近な人物がそうであるという可能性が十分にある、ということを、私はぼんやり考えている。

「せっかく身近にそういう感じの人がいるならちゃんと知っておきたいなと思って。後学のためにも。俺の年齢だと、そういう人って周りにほとんど存在しないからさあ」

 今。そういうの。流行ってるしさ。せっかく。そういう感じの人がいるなら。ほとんど存在しない、から。

 些細な言葉のニュアンスに、いちいち傷つく自分がおかしいんだろうか。オープンにすればこういう発言を聞く機会は減ると思っていたのに、案外減ってくれないんだなと考える。減ってくれない、というか、減ったぶん別の方向に増えていくのだな、と。

「俺そういうのに偏見とか全然ないし」

 私はこの一ヶ月で、自分が偏見を持っていないと頑なに信じているような、「“自称”優しい人間」がこの世で一番厄介だということを学んでいた。価値観というのは本人の自己申告には関係なく、日々の挙動の節々に滲んで見えてしまうものだ。『“自称”偏見とか全然ない』この上司は、少なくとも私の目には、偏見まみれで下世話で無礼で無神経な、ただ時代的に運よくマジョリティに生まれただけの、傲慢な人間に見えていた。

「なんの話ですか?」

 どう返答しようか迷っていたところで、ショートケーキを買いに行っていた武田くんが戻ってきた。

 昨年入社したばかりのこの後輩は、表情や声に喜怒哀楽があまり見えないわりにケーキが過剰に好きという、ギャップのある特徴で他部署でも有名になっている子だった。先ほどメニューを選ぶ際も、真顔のまま「帰り道とはいえ業務中ですし」と生真面目に一度はケーキを辞退したのに、三人ともブレンドコーヒーを選んで席に戻ってきた時に私がふと、彼が買おうか悩んでいた苺のショートケーキが今日までの期間限定品だと気づいて伝えたところ、やはり真顔のまま「すみませんちょっと」と言って再びレジに並んでいたのだった。

「あ、ケーキ買えた?」

 私は顔を上げて、ぱっと明るく微笑む。上司に向ける笑顔とは違う笑顔だ、と自分でも自覚している。武田くんは表情を変えずに「買えました」と言って私と上司の間の席にさっと座った。

「最後の三つのうちの一つでした」

「そうなんだ。よかったね。どうぞ食べて」

「はい。教えてくれてありがとうございました」

 武田くんは淡々と礼を述べたあと、いただきます、とショートケーキに向かって小声で囁いて、それからフォークを掴んだ。

 その一連の仕草を、上司はどこか白けた表情で眺めていた。以前、「あいつといるとなんかテンポ狂う時があるんだよなあ」とぼやいていたことがあったから、今もきっとそうなのだろう。

 武田くんは真っ白いクリームを口に運び、うまい、と小さく呟いた。相変わらずの無表情に見えるが、喜んでいるのがなんとなくわかるのが不思議だ。帰る時にもし残っていたら残りの二つを買っていこうかな、と私は考える。あの人もショートケーキが好きだ。ずっと昔からある定番のものが一番美味しいんだ、と以前言っていたことを思い出す。可愛い人だな、とその時に思った。

「で、なんの話をしてたんですか?」

 二口目を飲み込んだあと、武田くんが私と上司に向かって言った。

 変に誤魔化すのも変化なと思って、私は正直に自分のカミングアウトについての話だということを告げた。それを聞いて、「ああ」とさして興味もなさそうに頷いた武田くんは、また一口クリームを頬張ってから、「珍しい、みたいなことですか?」と言った。

「そうそう。なんで? って。流行ってるとはいえ実際身近にはあんまりいないだろ。だからインタビューしてたんだよ」

「いないですかね? 十一人に一人はいるって統計出てましたよ。俺の周りにも、二組くらいはいるし」

「へえー、今はそんななんだ。俺の周りはだれも『そう』じゃないけど。やっぱり価値観の違いかね」

 今時だなー、としみじみ言った上司に、武田くんは淡々と、どうですかね、と返した。

「本当はずっといたのかもしれませんよ。隠してただけで」

 話してもらえなかっただけとかじゃないですか、と武田くんは続けて言う。彼は時折こうやって、淡々と相手を言葉で刺すことがある。本人に悪気はないらしいところがすごいなと、私はいつも思っている。そのせいか一部の人間、特に上の年齢の人たちには、結構な苦手意識を持たれている。この上司は上と言うには年齢が若く、昨今の平均寿命から考えるとかなり若輩の部類に入る四十代前半だが、やはり苦手意識を持っているらしい。

「あの、この際だから言っておきますけど」

 と、フォークでクリームを掬いながら武田くんは言った。上に乗っていた苺のトッピングには手をつけず、その周囲を削るように食べ進めるところが、あの人と似ている。

「マイノリティかマジョリティかって、時代とか場所の限定的な文化だと思いますよ。先輩のことだって、少し前は普通のことだったわけだし」

「いや、それはわかってるけど」

 と言った上司は、ちょっと苛立ち始めている。

「でも少しって言ったって、制度が廃止されたのは百年も前だしさ。その頃俺は生まれてないし、純粋な興味はあるよそりゃ」

「百年も前、と考えるか、たった百年前、と考えるかの差ですね。僕の祖母はいま百四十歳なので、制度があった時代を生きていた人です。僕は祖母と仲がいいので、僕にとっては大昔ではありません」

「あーわかった、あれだろ、流行りの懐古主義だろ武田くん。この店もそうだもんな、今どき生身の人間の店員がいて、自分でレジ並んで取りに行って、なんて、珍しくて若い奴らは憧れるよな。昔ながら、みたいなのってカッコいいし、オシャレだし」

 にやっと笑った上司は、言ってやった、と言う顔をしていた。刺されたから刺し返してやった、どうだ、みたいな。俺の勝ちだろ、っていう。そういう価値観で生きている人間が、この世界には一定数いる。武田くんはたぶん、オブラートに包む話し方ができないだけなのだが、この人は戦いを挑まれたと判断したのだろう。そして負けてはいけないと思ったのだろう。大変だなあ、と思う。そんな生き方をしていたら大変だ。昔もこういう人はいたんだろうか。それこそ武田くんの言う、制度が廃止された百年前とかにも、やっぱりいたんだろうか。ずっといるんだろうか。

「流行りとかオシャレとかは関係なく、ここのケーキは美味しいって今知ったんで、俺はまた来ようと思います」

 真顔のままそう返した武田くんは、またクリームを口に運んだ。

「何の話? それ」

 上司は馬鹿にするように笑って、それから話題を変えることにしたらしかった。まあいいや、と呟いて頷き、さっきのプレゼンの話だけどさ、と仕事に関する話をし出した。私のことを蒸し返す気はないらしい。そういう空気ではないと思ったんだろう。私はほっとする。面倒臭いと思われたかもしれないと考えるとひきつるような気まずさを感じたが、これならば傷にはならないとも感じた。

「……あのさ、隣の人さ」

 私たちが仕事の話を始めた直後、隣の隣の女の子たちがひそひそと話をし出した。その会話は私の耳に入っていたが、聞こえないふりをして前を向く。そういう風に注目されるのはよくあることだった。左手が見えたのだろう。

「左手の薬指に指輪してる。“既婚者”だ」

「えっ……あ、ほんとだ」

 オープンにしてる人初めて見た、という声はさらにひそめられていた。先ほどの上司ほど下世話は感じはしなかったが、やはりセンシティブな問題だという認識があるのだろう。そういえば先日も、結婚制度の復活を求める大規模なデモが行われたというニュースを見た。リアルな身体でひとつの場所に集まって座り込むという古風な方法で行われたそれは、やり方も含めて賛否が分かれていた。

「あっ! ちょっと待って」

 突然、女の子の一人が大声を出した。私はびっくりして、ぱっと顔をあげて彼女たちの方を見た。武田くんと上司も同じようにそちらを見ていた。女の子は私たちの方に小さく会釈して、「すみません」と小声で言った。それを聞いた二人はすぐに仕事の話に戻っていったが、私は戻ったふりをして、彼女たちの会話に聞き耳を立てていた。

「どうしたの突然」

「ライブ、これ再来年だ」

 二人の話の続きが指輪に関することではないと知って、なんだライブの話か、と私は落胆した。だけど同時に安堵するような、複雑な気持ちでもあった。“私たち”のことを取り上げて欲しいけど、取り上げて欲しくない。ライブよりも重要な話題であって欲しいけれど、同等に軽く扱って欲しくもある。いっそどうでもいいと簡単に言えてしまうくらいに日常の、例えばどのケーキが好きかくらいの問題になって欲しい、と切に願っている。昔からあるショートケーキが好きなあの人と、流行に乗ってころころ変わるよくわからない名前のケーキが好きな私が時々喧嘩するみたいに、些細なことであってほしい。

 再来年だ、と告げられた方の子が、「うわ」と落胆した声を出した。

「ほんとだ、2154年って書いてある……めっちゃ先じゃん!」

「なに“めっちゃ”って」

「とてもって意味。先週の授業で習ったでしょ」

「ほんとに? その授業“めっちゃ”寝てた」

「合ってるかなその使い方」

「アーカイブ見返しとく。“てかさ”」

「あ、そっちはわかるんだ? 同じ授業だったと思うけど」

「読んでた名作集に出てたの。その頃の学生の喋り方」

「“めっちゃ”は出てなかったんだ?」

「なかった。けど」と言った彼女は続ける。

「私が読んでた作品風に言うと今の気持ちはこう。“てかマジ、再来年とか遠すぎんだけど!”」

 妙に芝居がかった口調に、私はふっと吹き出しまう。なに急に笑ってるの、と上司に咎める視線を向けられたが、私はなんでもないですと言って、それから「ちょっとケーキ買ってきてもいいですか?」と聞いた。

「ケーキ?」

「はい。武田くんが食べてるそれ、あと二個しかないみたいなので。私の夫、ショートケーキが大好きなんですよ」

 だからお土産に、と微笑むと、上司は小さく口を開いて間の抜けた表情をした。その口が余計なことを喋り出すのを待ってあげずに、立ち上がってレジへと向かう。会計の際に端末にかざすのはいつも右手にしていたが、今日はあえて左手にしてみた。右手と左手で別の機能を搭載している人も多いが、私は使いこなせないので、どちらも同じに設定している。

 ピッ、という音がして会計が完了する。端末から手を話す時、左手の薬指にある指輪が、一瞬きらりと光って見えた。その光を、私は愛おしいと思う。今や何の法制度もない、ただの口約束のためのこの金属が、私にとっては重要だ。誰が何と言おうとも。今の時代と場所にとって、どんなにマイノリティだとしても。

「どうぞ!」と、人間の店員が微笑んで、丁寧に梱包された箱を渡してくれた。私はふたつのショートケーキが入ったそれを受け取りながら、愛する彼の喜ぶ姿を想像して微笑んだ。今日は早く帰ろうと思う。




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