第3話
ぼくの友人に古美術商をしている風変わりなお店がある。店の看板名から『古井』さんと呼んでいる。古井さんの店はいつもガラガラと人が来ているところを見たことがない。繁盛しているようにも見えない。いや、繁盛してしまったら…きっと――ぼくは冷静にその話を留まった。
古井さんが店の片付けに追われていた。いつものなら、師匠と一緒にいるはずだが、今日もいない。
「ひとりで熱心ですね」
「そう見えるのなら、お茶でも飲んでいくか」
「いいんですか?」
「自分でやってね。あ、俺にも頂戴ね」
この人は、というのも我慢し、お茶を汲みながら古井さんの前にもっていった。古井さんはお茶をゴクリと一飲みすると「苦いね、甘くしないとダメだよ」とダメだししてきた。ぼくは黙って自分で入れたお茶をごくりと一飲みした。うん、苦くもなければ甘くもない。古井さんの味覚はぼくとは違い甘いのがお好きなようだ。
「甘いお菓子がほしいな」
さらにねだるというのだろうか、「どこにあるんです」と尋ねると「今は切らしているから、買ってきてほしいやね」と答えてきた。この人は、なんというかだらしないというか、いや、師匠さんも同じような感じだ。似た者同士というわけか。
しかたがなく、甘いお菓子を買ってくることとなった。幸いにも近くの商店街で和菓子店があったから四つぐらい買ってきた。ヨモギの葉を包んだような見た目をした和菓子で中にはつぶあん入っている。昔からの好物で古井さんも喜んでもらえると思い、自分の分も含めて四つ買ってきた。
そういえば、店の店主が妙なことを言っていた。
「あんた、大丈夫だった。あそこは変。だって、みんな逃げていくよ」
古井さんの見た目を見て怖いと思って逃げて行っているのだろうか。だとしたらそれは古井さんのことを外見からしか見ていない。古井さんはああ見えて、繊細で優しくて何よりも変人であることを誰もわかっていない。うん。今度、訂正しておこう。きっと、古井さんに対する考えも変えてくれるかもしれない。
「戻りましたー」
ぼくは店に戻ると古井さんの姿はなかった。
「古井さん、お菓子買ってきましたよ」
シーンとぼく以外の声は帰ってこなかった。おかしいな、すれ違いになったのだろうか。ぼくは、古井さんが出かけていると思い、少しの間だけ待つことにした。
すると、どこからともなく「ねえ、ちょうだい」と声がした。最初は空耳だと思った。だけどまた声がした。それもすぐそばで「ちょうだい」と、その瞬間ぐにゃりと視界が歪んだ。まるで車酔いにでもなったかのように立ってはいられないほど感覚が歪んだ。どれくらい立てずにいたのだろうか。ぼくは息をするだけでせいっぱいだった。
少し気持ちが軽くなった。立てるほどではないが、息を吸いつばを飲み込みぐらいは回復した。「いっぱいあるんだから、ひとつぐらいちょうだい」と耳元から聞こえてきた。顔が動けない。この状況で、隣に誰がいるのかわからない。だけどその得体も知れないものがこう続けていった。
「ひとつぐらい、いいよね」
その瞬間、ぼくは「うわあああああ!!」と悲鳴を上げた。足が反対の方向へ曲がっていくかのような鋭い関節の痛みを感じた。それはじわじわと蟹の足をもぐかのようにゆっくりと捻じ曲げていくようだ。ぼくは悲鳴を上げ、「たすけて、たすけて」と助けを呼んだ。だけど、返ってくる言葉はぼくの声しかなかった。
ぼくはもうダメだと思った。そのとき、買ってきていた和菓子のことを思い出し、こう叫んだ。
「甘いお菓子はいかがかな。ぼくよりも甘くてふわりとした感触がまた、もう一度食べたいっと思うんだ。きっと足よりもおいしいはずだよ」と必死に説得した。すると、足の痛みは少しずつ消えて行き、まったくしなくなったと思うとふと体が軽くなった。
立ち上がり、周りを見渡すと買ってきてあったはずの和菓子がすべて消えており、代わりに宝石箱のような外見をした箱が置かれていた。
「……箱?」
「箱やないよ。寝室やね」
古井さんが血相抱えて玄関にいた。
「古井さん!」
「やー遅くなったね。そっかそっか泣くほど怖かったんだね」
ぼくはいつの間にか涙を流していた。いつ泣いていたのだろうか。だけど、あれは、生きた心地がしなかった。死ぬんじゃないかと思った。だからきっとこの涙は古井さんの声が聞こえて安心したとき、生きた心地よい感動だったのだろう。
「ちょうど友達が来ていたから話していたんだ。ごめんね、悪いタイミングだったね」
そう言って古井さんは箱を拾い上げ、人差し指で箱の側面を小さく2回叩いた。
「失礼します」
箱に向かってそう言ってから、静かにふたを開けた。
箱の内側は真っ赤な布が張られていた。見るからにその赤色は黒く変色したものもあればまだ塗り立てなのか綺麗な赤色のものもあった。そして、風が吹いたわけでもないのに赤色の布はユラユラと揺れ、中身が一瞬だけ見え、思わず鼻と口を閉ざすほど強烈な吐き気を催した。
先ほどまで忘れていたはずであろう足の痛みが急に痛くなりだした。足の関節を逆方向へ曲げようとする痛みだ。あれば夢でも幻でもない。本当だった、現実だった。
「そんなに食い意地を張ると、せっかくの美人が台無しだよ」
古井さんは箱に向かってそう囁いた。すると、ピタリと痛みが治まった。さっきまでの痛みがまるで嘘のようだったかのように。
箱をそっと閉じて、玄関近くの古井棚の上にそれを置くなり、どこから持ってきたであろう和菓子を置いていった。貢物を捧げるかのように古井さんは一歩退いてパンっと手を叩いてお辞儀をした。ぼくもなんだかやらないといけないような気がして古井さんを見習ってやった。
「ふーやっぱり君はどうも気に入られているようやな」
「気に入られているってなんですか」
「あの子、とても臆病でね。早々、人に危害を加えることはしないいい子なんや。だけど、一度でも気に入るとああして、もがいていってしまう」
古井さんはぼくの手を引っ張り「そう、足なり手なり頭なり、彼女はいい子なんだけど、見境ないんや。だけど、お供え物はちゃんと食べる」そう言い終えるなり、ぼくはゾッとした。
お供え物はない。ないから食べる。奪う。それってつまり、ぼくは危うく贄になりかねたということか。ぼくは古井さんの頭に向かって引っ張叩いた。
「死にかけたんですよ! そんな悠長なことよく言えますね」
古井さんは頭部に手を当てながら強面を見せた。ぼくは言葉を失った。古井さんは強面。怖くて恐ろしくて何も言えなくなるほど怖い人。だけど、そのときの顔は薄ら笑った顔をしていた。まるで別人のようだった。
その日から、ぼくは古井さんがいる時だけ店に顔を出すようにした。きっと、和菓子の店主が言っていた通り、お客さんが帰っていくのはあの箱があるからなんだ。古井さんはあの箱をとても大切そうにしていた。きっとわけがあるんだ。だけど、あの時の顔を思い出してしまう。その真相、永らく聞けなくなってしまった。もし、もう一度、あの時のことを口にしたら、そのとき、本当にすべてを失ってしまいそうで怖くて怖くてならない。
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