揺るがぬ信念
「なんですか、それは?」
「まずはさしあたって、このセーヨンの街をどう治めるかということです。知っての通り、リブニッツとモートンが親類になることでセーヨンの政治は次の段階に入ります。街をより大きくするために、徴税、軍備、貿易……課題は山積みです」
「でもわたし、そのへんの知識はあまりないですよ」
あるいは前世で経済学や歴史学でも学んでいたら別だったのかもしれないが、シャルの前世、野乃は社会の科目が苦手。丸暗記が性に合わなかったのだ。
「心配ありません。先程も言いましたが、必要な知識はうちの教育係が教えます。それを元に、シャルリーヌさんには有効な手立てを考えていただきたいのです。それだけではありません。セーヨンを含む我がリブニッツ家の領地は、周辺の領地との境界が未確定なのです」
境界の未確定問題については、シャルも聞いたことがあった。この王国では、さして珍しいことでもないらしいが。
「その問題を解決し、領地を拡大するためにも、シャルリーヌさんに協力してほしい。ベース法という、いつ成立するかもわからない空想みたいな法案より、ずっと大切なことです」
「待ってください。ベース法は決して空想ではありません。確かに明日成立するようなものではありませんが……」
シャルにとってここは譲れない。
ベース法を広めるための歩みを止めることなんてあっちゃならない。
「しかし、王都でもベース法に反対している有力貴族は多数いると聞きます。私としてもあれには反対だ。国王陛下は推進しているようですが、さすがに民衆を無視しすぎている。あんなのが成立したら街は大混乱ですよ」
「確かにスムーズに行くことはないでしょう。ですが、ある程度の強制力を持ってやらないと、国中の単位を統一するなんて永遠に無理です。そして、大惨事が起きてからでは遅い」
単位を間違えると、人が死ぬのだ。
何度でも言うが、洒落にならないのである。
「では、ベース法がたとえ成立したとて、それが民衆に普及するまでどれぐらいかかるというのでしょうか? おそらく私の生きているうちには無理でしょう。もしかしたら、シャルリーヌさんの生きているうちでも……」
「だから、今のうちから学校で教えているのです。少しでも慣れてもらうために」
「しかし、そんな利益の出ないことに時間をかけるよりも、シャルリーヌさんの能力を有効活用できる場はいくらでもあります。……妄想よりも現実を見ましょうよ」
「……ベース法は、空想でも妄想でもありません。必ず成立させなければいけないし、必ず普及させなければいけないのです。たとえ時間がかかったとしても」
駄目だ。ここをないがしろにする人には、わたしは協力したくない。
シャルの信念は、揺らぐことはない。
「他のことに関しては協力いたします。ですがベース法に関しては、わたしの自由にさせてください」
「そうですか。でも、夢物語に付き合ってる暇は無いのです。シャルリーヌさんも10才、いやもう少しで11才……そろそろ身を固めることとか、そのための練習とかも考え始めなきゃいけない年でしょう。ですよねペリランドさん?」
「ああ……ただ、娘がやりたいことの応援をするのも、親の仕事というものでしょう」
モーリスは、エリストールとシャルを交互に見比べる。そして目の前に置かれた金貨。
シャルにはいい暮らしをしてほしいし、シャルがいなくなる分の補償はしてくれると言う。それに何よりリブニッツ伯爵家が商会の顧客になってくれるかもしれない、という大きな利点。
でも。娘であると同時に、優秀なスタッフであったシャルがいなくなる痛手はやはり大きい。
書類作成にかける時間がまた増えるだろう。自分が計算を間違えたときに隣でそっと訂正してくれることも無くなるのだ。
……それに、モーリスは、リブニッツ伯爵家を完全に信用しているわけではない。
商人の世界を生き抜いてきたモーリスの経験が、疑いを捨てきれないでいた。
「……シャル、どうしたい? これはお前の問題だ」
「駄目です。学校でベース法について教えることを続けさせてください。ここは譲れません」
「……駄目ですか?」
そう言うとエリストールは、自らの左裾に手を入れる。
……再び取り出した手には、金貨が1枚握られていた。前世で見慣れていた100円玉ぐらいの大きさの、輝く光沢を帯びた金貨。
それを革袋の中の金貨に追加して、少しシャルへ向けて押し出す。
「……いくらお金を積まれても、駄目です」
今の相場だと、金貨1枚は銀貨57枚分ちょっと。ペリランド商会のような大きな商売をしてない限りは、平民はなかなかお目にかかる機会のない金貨。
それをポンと差し出すあたり、さすがセーヨン最大の貴族だ。今目の前に積まれている金貨の合計は……日本だと1000万円ぐらいの価値になるのだろうか……シャルはそんなことを考える。
いやしかし。
シャルは別に金儲けしたいわけではない。
「わたしの目標は、ベース法を広めて、全ての人を面倒な計算から解放することです。どれだけお金があったところで、それが達成されない限り意味はありません」
商会を大きくしたいというシャルの想いももちろんある。
ただ、ここは野乃として、単位の統一を果たしたいという気持ちのほうが上だった。
「そこに同意できないのなら、わたしは動きません」
……少しの沈黙。
ややあって。
「……わかりました。では、この話は一旦終わりとしましょう。心変わりがありましたら、いつでも言ってください」
リブニッツの召使が、金貨の入った革袋を回収する。
同時にエリストールの射るような冷たい視線が、シャルに突き刺さった。
当然エリストールの方が身長も高いので、テーブル越しとは言えどシャルは見下されるような格好になる。
……なによ。わたしを買収できなかったことが、そんなに不満なの?
その視線に、シャルは並々ならぬ嫌悪感を覚えた。
……立場的に、敵にはしたくない。が、味方にはなりそうもなかったのである。
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