第10話

 王宮図書館にて古文書の解読を続ける文官、柏槙の元に、突如友人である武官が現れなくなってからひと月ほど経っていた。

 柏槙とその武官──冬青は、王宮図書館にて偶然出逢った仲である。

 冬青は王宮図書館に所蔵されている美しい植物図説を読みに、柏槙はこの国に遺された古文書を読み解く為に王宮図書館を使用していたが、武官どころか文官にも友人の少ない柏槙と、老若男女問わず人当たり良い冬青と、あまりに正反対な二人が親密な仲になることを誰が予想できたであろうか。

 とかく多く言葉を交わすことはなくとも、何とは無しに王宮図書館で並んで居る、そういうどこかちぐはぐな二人なのであった。

 柏槙が最後に冬青を見かけたのは、偶然にも王宮の中庭で彼がいくつかの書物を読もうとして、つい居眠りをしてしまった時──聞き覚えのある声がしてはたと目を開けた時、まさに目と鼻の先に居たのが冬青であった。

 幾ら灯りがあるとはいえ、太陽の元に比べれば尚暗い王宮図書館でしか冬青と会うことのなかった柏槙は、その時初めて彼の目の色をはっきりと見た。

 透き通った美しい緑青色だった。

 その整った顔立ちの眼窩に宝石が嵌っているのではないか、本気でそう疑った。

 無論その場で賞賛の言葉が口をついて出た。

 賞賛の言葉に戸惑ったものか、冬青は慌てた様子で駆け去っていったが、しかし美しいものを美しいと言って何が悪いのか、柏槙にはわからぬ。

 その後からぱったりと冬青が姿を見せなくなったわけも、やはりわからなかった。

 柏槙は良くも悪くも思ったことは誠実に相手に伝える性格であったが、これまでも冬青に対して幾つかの賞賛の言葉を投げかけたことがあった。

 冬青はそれらを受け取ることが上手い男であった。妙に驚いたり焦ったりせず、極めて冷静に、かつ常の笑顔や愛想の良さを絶やさずにありがとう、と言って返した。

 考えてみれば、そんな冬青が今更柏槙からの賞賛の言葉に戸惑うだろうか、そう考えはしたが、そこから先へと道が拓けた訳でもなかった。

 ほんの一ヶ月ほど前まではよく王宮図書館に訪れ、言葉少なながらも様々なことを語らっていた男が現れないのは、寂しい、悲しいというよりは「物足りない」のである。

 これまで柏槙には目立って友人と呼べるような者は片手で数えるほどしかいなかった。それでも会わないからといって「物足りない」などと思うことは無かったのである。王宮図書館の大机の目の前に陣取って、鮮やかに美しい絵が描かれた植物図説を繰る表情豊かな武官がいないと、集中すらできないような気がした。

 それは、彼にとっては大変な非常事態であった。

 雪が降ろうが槍が降ろうが研究に没頭できる、そういう筈だったのに、なぜ武官一人──たった一人、冬青という男に、これほど気持ちをかき混ぜられるのか?

 冬青がいなければ気持ちがおぼつかぬ。気持ちがおぼつかねば研究や解読も進まぬ。研究や解読が進まぬとなれば、自分が王宮に仕える意味もない。まして、生き甲斐もない。

 柏槙は数える程しかいない友人の幾人かに会う手筈をつけた。

 人付き合いに関してはこれ以上ないほど消極的であった柏槙が、この時ばかりは驚くほど──まるで彼が古文書を読み解く時のように迅速であった。


「枸杞(くこ)の君、忙しいところをすまない」

「お前から急に声がかかるなんて、明日は槍が降るな」

 笑って軽い冗談を言いながら、柏槙の数少ない友人のうちの一人──枸杞は手をひらひらと振った。

 枸杞は柏槙と同じ古文書解読や研究をする部署に属する文官である。

 濃褐色の巻き毛に文官にしては珍しくやや日焼けした肌、鳶色の瞳と精悍な顔立ちで、文官の纏う毛皮のストールがなければ武官にも見える。この国に幾つか存在する民族のうちの一つである証、その紋様の刺青が巻きつくように右肩から右腕にかけてちらちらと見えていた。

 柏槙と同じ年に仕官を始めたこともあって、頻繁に話すことはなくとも顔見知り、研究に関して意見を交わすこともある。柏槙の人付き合いに向いていない性というのも理解していて、要は「柏槙という男との付き合い方を知っている」数少ない男であった。

 幾つかの古文書を王宮図書館から持ち出して特別に保管している小部屋で二人は向かい合っていた。

 人に会うのには極めて向いていない部屋であったが、それ故に他人による邪魔も入らぬ場所である。

「それで、一体どんな用なんだ」

「ひとを探している──いや、探しているというより、会いたい」

「まさか女官か」

 生憎だが逢引の手引きは、と言いかけた枸杞を、柏槙は慌てて遮った。

「武官だ」

「武官?」

 まさか柏槙のような人付き合いのない文官が武官と会いたがるとは、といった表情で枸杞は鸚鵡返しに言葉を返す。

「金でも貸したのか」

「取り立てでもない」

 文官は武官をあまり良く思っていない、というのが大概の認識であった。

 武官は書物や古文書の重要性を理解しておらず、脳みそまで剣や盾が詰まっているのだ、あんな荒々しく文化的でない奴らと好んで付き合う必要はない──というのが文官の武官に対する意見であり、武官もまた文官をなよなよしい、自分の身も自分で守れぬ臆病者だと言うので、これはもうこの国の歴史に文官と武官という制度が生まれて以降の長い長い確執であった。

「王宮図書館で知り合ったのだ」

「図書館に武官が?」

 ますます怪訝そうな顔をする枸杞に、柏槙は続ける。

「そういう武官もいたということだ。……ともかく、それなりにその武官とは仲良くしていた。それがここ一月、姿も見せない」

「事情があったんじゃないか。ひとにはそれぞれ事情があるだろ。そんなにその武官が気になるのか」

「気になるというか、その武官がいないとどうも気が落ち着かないのだ」

 枸杞は柏槙の言葉に随分と驚いたようであった。

 柏槙は研究への熱意、天才的な集中力と洞察力の代わりに他人に対する感情など投げ打ってしまったかのような男であった。

 それが、枸杞達の知らぬところで武官と知り合い、「いないと気が落ち着かない」とまで言うようになるとは!

 名も知らぬ武官のことはともかく、柏槙のそのような変化に見て見ぬ振りをする訳にはいかなかった。

 枸杞は大変気の良い男である。どうか、お前のつてでその武官に言付けを頼むことはできないだろうかと深海のような瞳を伏せて言う目の前の柏槙の気持ちを無碍にする男ではない。

「わかった」

「枸杞の君……!」

「俺だってそんなに交友関係が広いわけじゃないが、幸い武官につてが有りそうな奴が友人にいる。聞いてみるから、その武官の名前を教えてくれ」

「……!ありがとう、枸杞の君。必ずこの礼はする」

「水くさいこと言うなよ」

 そんなこといちいち借りだなんだって言うな、と枸杞は柏槙の背中を勢いよく叩いて笑った。

 柏槙も、どこか安堵したような笑みを浮かべてありがとう、とまた繰り返した。



 王宮図書館へ行くことを避けはじめて一月、こんなにも文官と言葉を交わす機会というのはなくなるのかと冬青は遣る瀬無い気持ちを抱えていた。

 老若男女友人が多い冬青であったが、王宮内で好んで文官と関わろうと思ったことはなかった。

 文官の柏槙、彼だけが冬青の友人の枠の中に入ることのできる、唯一の文官であった。

 居眠りをしていた柏槙に声をかけようとした時、冬青は自らの中にいつのまにか芽生えていたらしい、恐ろしい感情にそこで初めて気がついた。

 きっと、また柏槙に会ったら自分は「武官の冬青」の貌を保っていられないだろう。

 冬青は自らの好青年めいた貌と、その奥に秘める淫蕩な性を上手く使い分けながら生きてきたのである。日の上っているうちは武官として、日が落ちれば歓楽街へ、一夜限りの奔放な繋がりを求めて往く。

 柏槙は良い友人である──あってほしかった。柏槙は冬青のことを友人と思っているだろうが、冬青は彼のその淫蕩な性で以って柏槙を捉えんとしていた。

 柏槙に抱かれたいわけではない。抱きたいわけでもない。

 奔放で淫蕩な一夜を過ごす為の相手として柏槙を捉えたくはない。

 彼の頭はそう望んでいたが、彼の性はその反対を望んでいた。

 それに気付いたその日から、夜な夜な逃げるように歓楽街へ向かった。

 庶民的なトゥニカを纏い、王宮内での官位をあらわす豪華な装飾品を外し、緑青の瞳を持つ「ネムス」として酒場に出入りし、旅人や傭兵と一夜限りの繋がりを持つ。

 柏槙へ向けられたそれを歓楽街で消費するかのように、彼はそれまでよりもより情熱的に、より淫蕩に熱を求めた。

 柏槙のことなど忘れてしまった方が良い。

 あの幾月かの語らいは無かったことに。

 美しく色鮮やかな植物図説も、薄暗い王宮図書館も、射干玉の黒髪も、書物を扱う節だった指も、太陽の元で見れば整った顔立ち、深海のような瞳も──

「ネムス」

 緑色を意味する名を呼ばれ、冬青は柔らかな茶色の髪を揺らして声の方へ見遣った。

 酒場の隅で壁に寄りかかり、空になった杯を手のひらで弄んでいた冬青のすぐそばに逞しい身体が居た。

「兄さん、……また随分埃っぽいね」

 彼が「兄さん」と呼ぶ傭兵であった。

 戦帰りか、華やかな酒場には幾分無骨な土埃の匂いが酒の香りに混じって冬青を取り巻いた。

 冬青は幾度となく「兄さん」と夜を過ごした。

 どちらも過去や仕事のことを深く探ろうとしないのはお互い都合が良かったのである。冬青の淫蕩な性を充たすのにも、傭兵の戦帰りの昂ぶりを静めるのにも、お互いの過去も本当の名前も必要なかった。

「暗い顔してるな」

「そうかな」

 そう見える?と明るい声で聞き返したが、「兄さん」は眉間に寄せた皺を緩めることはない。

「ねえ、兄さん、今夜どうかな」

 もしも冬青に初めて接した若者なら、或いは誘惑された経験のない若者なら、その蠱惑的な言葉に惑わされずにはいられなかっただろう。

 この傭兵に対して幾度となく誘惑の言葉として用いてきた台詞であったが、傭兵は応えを返さなかった。が、酒場の喧騒を背景にした長い沈黙のあとに、うむ、だかよし、だか判別がつかぬ声を発すると、

「女将、部屋を貸せ。それに酒もだ」

 と甘い煙の香りを纏い漂わせる女将に大声で呼びかけた。

 呼びかけた時にはもう冬青の細腰はその大きな手に抱かれていて、冬青が何か言う前に、他の客と緩慢な会話を交わしていた女将がつけぼくろも妖艶に

「あいよ」

 と笑んだあとは、傭兵に連れられるまま足を運ぶしかなかった。


 まるで説教であった。

 否、まるでではなく、正に説教であった。

 冬青と傭兵は埃っぽい空き部屋の椅子に座って向かい合い、肝心の酒には一切手をつけずにいた。

「お前は確かに器用な奴だから、心底でどう思ってようがツラでは幾らでも装えるだろう。だけどな、俺でも分かるくらいにお前が心底で考えてることが顔に出てきちまってるんだよ」

 傭兵は常喋る時と変わらぬ口振りだったが、冬青は叱られている子供のような気持ちになった。

 静かな追求から逃れようとするように緑青の瞳を伏せ、俯いて黙ったままの冬青に傭兵はため息をつき、やがて静かに切り出した。

「……誰か、どうしても忘れられない奴がいるんだろう。違うか」

「え、」

 喉の奥から、声とも音ともとれないものがこぼれ出た。

 思いもかけぬ場所を突かれた。

「お前は奔放な男だ。そうやって生きてえ、ひとところに留まりたくない。杭を刺されたくねえ。そう言ってたな」

「……うん」

 これもまた、喉の奥から絞り出したような声だった。

「俺は毎日お前を見てるわけじゃねえ。だが、さっきお前を見た瞬間思ったね。お前は“杭を刺された”んだ」

「……」

 自分は“杭を刺された”のか。

 柏槙という名の杭。自分で自分のトーガの裾に、無様な杭を刺してしまったのか。

「その相手が誰かとか、そんなこたあ俺はどうでもいい。だが、その杭を抜くか、杭を杭じゃなく、柱にしちまうか、そりゃお前次第だ。そして、それがお前がやらなきゃならねえことだ」

「杭を……柱に」

「杭から離れよう、杭に刺されたまま自由になろうたって無茶だ。そんなことするのは馬鹿もんだ」

 分かるだろ、と傭兵は言う。

「トゥニカを杭に刺されたまま走ってみろ。トゥニカはボロボロ、お前は素っ裸だ」

「うん」

「素っ裸で外を走り回りたいってんなら好きにすりゃいい。でも、それは奔放なんじゃない。狂っちまってるんだ」

「うん……」

「お前がその“杭”に刺されたままこの街で夜な夜な違う奴と寝る、そりゃいずれ、お前がぶっ壊れることになる」

「……でも、その“杭”はさ、俺にとって、本当に……その……友人なんだ。いい奴なんだ。“杭“を抜きたくない。でも、“柱”にも出来ないよ」

 緑青の瞳は潤んで、柔らかな茶色の前髪の奥で傭兵を見つめて揺れた。

「俺、俺はあのひとと関わるべきじゃなかったんだ」

 柏槙を“柱”に──拠り所にすることはできない。

 友人のまま、友人として接し続けることはできない。

 自分の本能が、淫蕩な性が柏槙を捕らえようともがいている。自分の理性でそれを抑え続けることには限界がある。

 そして、柏槙を自分の本能が捕らえればそれが最後、自分の地位も瓦解する。

 思いもよらぬ柏槙という“杭”を刺された冬青は、一進一退ならぬ状況にただ狼狽えていた。

「俺が……俺が俺じゃなかったら、あのひとに全部話して──嫌われようが好かれようが、構わなかったのに、こんなに苦しまなくて済んだのに」

 子供のように、今にも泣きそうに瞳を潤ませ、声を震わせて冬青は言う。

 理性と本能、約束された地位と奔放な人生、それらのどちらかをすぐに捨てることは、凡そ冬青にはあまりに荷が勝ちすぎた。

「……俺はその“あのひと”とやらが誰で、どんな奴か知らねえから大したことは言えねえがな」

 傭兵は息を吐き、その目で冬青の目を捉えた。

「けど、俺はお前のことは知ってる。──本当の名前は知らんが、そんなことじゃない。お前がずぅっと生きている間苦しみ続けないためには、その“杭“と向き合うしかねえんだ。ここに戻ってくるか、“あのひと”の元にいるか、それはその後決めることだ」

「……兄さん」

 震える声で、冬青はその前に飲んだ酒に背を押され、ぽろぽろと涙をこぼしながら傭兵を呼んだ。

 傭兵はもうなにも言わなかったが、ただ冬青の柔らかな髪を大きな手でぐしゃぐしゃと二回ほどかき回したのであった。



 枸杞の手引きは的確だった。

 枸杞に冬青を知る武官へ繋ぎをつけてくれと頼んだ数日後には、もう柏槙はそれを知る武官と顔を合わせていた。

 多く言葉を交わしたわけではない。

 柏槙、武官、枸杞の間で僅かなやりとりがあった。

『冬青はここ暫く──もう二日ほど、王宮に上がっていないようだ』

『寮にも戻っていない。まだ大事にはなっていないが、いずれ上にも報告が行くだろう。あんたが探しだして連れ戻してくれるならありがたい』

 柏槙は丁重に礼を述べた。

 やりとりはきわめて円満に終わったと言えるだろう。

 ──そして、武官と別れ、枸杞と別れたその後も、武官の言葉を幾度も幾度も反芻してみた。

“王宮に上がっていない”

“寮にも戻っていない”

 何かあったのではないか。

 あの日、自分の前から逃げるように立ち去った冬青の心の変化を細かく読み取れたなら、あの場にふさわしい言葉が他にあったのなら、それを投げかけることができたなら、冬青が姿を消すことはなかったのではないか。

 一体どこへ。

 慌ただしく整理の追いつかぬ頭を抱えたまま、柏槙は幾日も煩悶しながら職務に努めた。

 だが、元より冬青がいなくなり落ち着かぬ心に、追いかけるように事実が突き刺さる。

 どこへと言うが、この国は広大だ。

 王宮のあるこの城下町のみでも十二分の広さを誇るのは言うまでもない。そこを超え、この国土のどこかへもしも既に去ってしまっていたら、自分では到底追いかけることなどできぬ。

 冬青が無断で職務も地位も──沢山いるであろう友人も放り出してどこかへ行ってしまうなど考えられない。

 実はずっと前から病を得ていて、療養のため止むを得ず秘密裏に暇をとったのか。そのようには見えなかったが、自分が気付いていなかっただけだろうか。

 或いは、

(何か、王宮内か、王宮外で揉め事に巻き込まれたのではないか)

 冬青のことを語った武官は、冬青はよく城下に遊びに行っていたようだとこぼした。とは言っても適度に酒を飲んだり食べたり、そういう程度で決して喧嘩をしたり悪酔いしたりはしなかったという。

『冬青の君は自分の中に酒瓶を持ってるのさ。その酒瓶が溢れるまで飲んだりはしない。いつだって八分目だ。周りをよく見てるし、──自制心が強いっていうんだろうな』

 柏槙は武官の言葉に偽りはないと思った。

 自分が感じていた通りの、明るく友人の多い、人好きのする武官だ。

 先程自分の心の中に棘のようにぷつりと生まれ出てきた疑念を、柏槙は払いきれずにいた。

 もしも揉め事に巻き込まれていたら?

 彼にとって友人は柏槙のみではないだろうが、しかしこのような疑念を抱いて彼を探そうとするのは自分のみかもしれない。

“まだ大事にはなっていないが”

 武官の言葉が頭の中に反響する。

 大事になってしまってからでは遅いのだ。

 城下を歩くことも──まして酒を飲んだことなど片手で数えられるほどしかない柏槙であったが、今日この日だけは、自分の心が冬青がいる“かも”しれない城下へと逸っているのを感じていた。


 常より他の同じ地位の文官よりも地味な装飾しか身につけていないのは十二分に理解しているつもりであったが、城下を歩くに際していくつかの装飾を外し、文官の証である毛皮のファーを外してしまうと如何にこれが身軽であるかを実感できるのであった。

 何分、装飾を外すのは床に就く時くらいのものである。

 加えて常よりこうして外を歩くこともないから、柏槙は自分の体に染み付いた「王宮務めの文官」としての生活の長さを実感した。

 城下は酒場の立ち並ぶ通りは人も灯りも騒がしい。

 柏槙の長身はその中にあっては些か目立つらしく、幾度も酒場の客引きが柏槙を「背の高い兄ちゃん」と呼んだ。

 最初は客引きの声など耳に入れていなかった柏槙であったが、このまま城下を歩いていてはただの散歩にしかならないと気付いたのは娼婦らしき女性が目の前を通りすがり、その薫りに気を取られたからであった。

 どこかで嗅いだことのある薫りであるような気がして、ハッと人混みを探したが、到底追いつけもしない。雑踏の中で足を止めた柏槙を、通りすがる人々が怪訝な顔で見上げた。

 この城下に詳しくない自分では、無闇矢鱈に歩き回ることしかできないだろう。口軽く自分へ声をかけてくる酒場の客引きへ冬青のことを聞けば良いのだ、と思い当たる。

 相も変わらず、「背の高い兄ちゃん」と呼ぶ酒場の客引きへ柏槙は人混みを分けて歩み寄った。

「オイ、ほんとに随分デカい兄ちゃんだな!酒はよく呑むかい!寄ってきな!」

 よく通る声の客引きの言葉を丁重に──極めて丁寧な言葉を以って断り、柏槙は肝心の冬青の君のことを見ていないか、と聞こうと口を開いた。が、

(──冬青の君は、と言ってもここでは通じないのだ)

 あの武官を冬青の君と呼ばないのなら、なんと呼べばいいのだろう?

 口を開いて黙ってしまった柏槙を、客引きは心底怪訝そうな目で見つめる。

「どうしたんだよ兄ちゃん、腹でも痛えのか」

「いや、──いや、その、人を探している」

「人?どんなんだい、これでも俺ァココを通る奴らは老若男女よく見てる。分かるかもしれねえ。聞いて見な」

 色好い返事に、ほ、と柏槙は息を吐く。

「名は……訳あって言えないのだが、明るい茶色の髪をした若い男だ。

 髪は肩につくほどで、色が白く──」


 美しい瞳をしている。


 柏槙は冬青の容姿を語っていたが、はたとその瞳が鮮明に思い出された。

 あの日差しの強かった日、王宮の中庭で見た冬青の瞳。

 太陽の光を得て、宝石のようにたえずきらきらと光るそれが、柏槙の目に焼き付いていた。

「──色が白く、緑青の……宝石のような、美しい瞳をしている」

「そりゃいい。兄ちゃんの恋人かい」

「恋人?」

「ヒトの目のことをそんなにうっとりしながら話すってのは、そういう気持ちがあるからってもんだ」

「いや、恋人ではないのだ。ただの友人だ」

「そうかい」

 真摯な気持ちで訂正した柏槙の言葉を受け流すかのように、客引きは腕を組んで考え出した。

「思い当たる節はあるのか」

「生憎茶髪の男、しかも若い男ってのは山ほどいる。ありふれてるね。色が白いのも、ここじゃあ男娼がいるからな。大して珍しくねえんだ」

「色が白いと男娼なのか?そんなことは聞いたことがない」

「俺ァ男に興味はないから知らねえが、なんでもそういうのが流行りなんだと」

 男娼というものにも接したことのない柏槙にはそういった流行りはさっぱりわからなかったが、美少年や美男を好んでいる貴族がいる、ということは小耳に挟んだことはあった。

「そンで、ろく……なんだって?目の色は何色だって?兄ちゃんが難しい言葉使うもんだからよ。もう少しわかりやすく言ってくれ」

「……ああ、緑青……いや、緑色だ。夏の、青々とした葉のような」

 それを聞いた客引きは、はあ、と言ってまた腕を組み直した。

「兄ちゃん詩人か何かかい」

 文官だ、と言おうとしたが、わざわざ王宮務めであることを城下町のひとびとに振りかざすような真似はしたくなかった。

 王宮務めと聞けば、王宮の庇護の中にある城下の人々が萎縮することは容易に想像ができるというものだ。いつかその地位を利用しなくてはならない時も来るかもしれないが、少なくとも今はその時ではない。

「……詩人だ」

「やっぱり!」

 そうだと思ったぜ、と頷く客引きに、柏槙は何も言えず口を閉じた。

「明るい茶髪に緑色の目ねえ。背丈はどんなもんだい」

「背丈、」

 あの明るい青年の背丈はどれくらいだっただろうか。

 思えば、王宮図書館で椅子に座り、書を繰る冬青しか見たことがないような気がした。

 いや、幾度か共に歩いたこともある。立った姿を見たことがないわけでもない。しかし、どうにも思い出せなかった。

(こんなに思い出せないものだろうか)

 常にはしないようなことまでして人を探しているのに、肝心の特徴が思い出せない自分に苛立ちさえ覚えた。

 見ているようで見ていなかったのかもしれない。

 あの明るい武官がいないと仕事もままならない程なのに、その姿を思い出そうとしても詳しい容姿はちっともわからないのであった。

 あの陽射しの下で見た美しい瞳、そしてかろうじて自分にはない明るい髪色、つややかな肌、そんな断片的で主観的なことしか思い出せないのである。

「背丈は、……私よりも、低いことは確かなのだが」

「兄ちゃんより背の高い男なんて早々いねえと思うけどなあ」

 まぁいいや、と客引きはひらひらと手を振った。

「見当がつかないわけじゃねえ。そういう男は何人か知ってるが、まあ今一番ココにいるって分かる奴を連れてきてやらぁ。ちょっと待ってな」

 そう言うや否や、柏槙が何か言う前に客引きはパッと雑踏の中へ潜り込んでいってしまった。

 酒場の前に残された柏槙は、雑踏に押し流されないように酒場の外壁へ背を押し付ける。

 ここに本当に冬青がいるのなら、ここは確かにあの武官の居場所に違いないだろう、と柏槙は思った。

 あの明るく人当たりの良い男なら、酒場で酒を飲み、時には見知らぬ人々と騒ぐのも好むだろう。

 王宮にも数多ひとがいるが、しかし王宮はこの城下町のように庶民が集う場所ではない。酒盛りもどんちゃん騒ぎもできぬ王宮は、もしかしたら冬青にとっては酷く堅苦しい世界だったのかもしれぬ。

 堅苦しいといえば自分のような文官もそうで、冬青はもしや自分から逃げたのか、と水が小川を走るように柏槙の思考は肥大する。

 だとしたら、自分が探しにきたのは果たして迷惑であったやも。

 揉め事に巻き込まれていようがいまいが、少なくとも王宮と自分のあれやこれやが堅苦しくて逃げ出したとするならば、これは悪手だったかもしれぬ。

 柏槙は酒場の壁によりかかり、俯いて眉間に皺を寄せていたが、幾分聴き慣れてきた客引きの声がどこからかしてはたと顔を上げた。

 相も変わらずひとが濁流のように流れる雑踏で、先程無意識に避けた歓楽街の方から客引きが歩いてきたのを見てやや目を見張る。と同時に、この酒場の並びに入った時にもやはり嗅いだことのある薫りが近づいてくるのを感じた。

 客引きの後ろにいるらしい男はしきりに客引きに文句を言っているようだったが、人混みが邪魔をしてその顔はなかなか見ることができなかった。

「おうお待たせ兄ちゃん、コイツじゃないかい」

「さっきからコイツコイツって何だよ、俺には詩人の友達なんかいないよ」

 ご丁寧にもその男の手首をしっかり掴んできたものか、客引きは不平たらたらの男を柏槙の前へ押し出す。

 男の髪は確かに明るい茶色をしていた。

 強い酒の香りが鼻をつく。自分の方が随分背が高いことに加えて男が顔を上げないのでその瞳の色は分からなかったが、しかし相変わらず流れるように文句を言った。

「詩人だかなんだか知らないが、俺はそんなヤツに探される謂れはないよ!どうせここらのこともロクに知らねえのに来たんだろ、この世間知ら……」

 ず、と言おうとした口は、その啖呵と共に勢いよく柏槙を見上げたのと同時に音を発するのをやめてしまった。

 肩ほどまである柔らかな明るい茶色の髪は、酒場から漏れ出す光に当たって黄金にも見えた。

 白い肌は幾分酒のせいか赤みを帯びていたが、欠け落ちることのないつややかさを保っていた。

 庶民が纏うごく普通のトゥニカの裾から覗く長い脚は無駄のないしなやかな筋肉がついていることが窺えたし、首元の大きな黄金の首飾りがその庶民的な衣服に釣り合わぬ華やかさを添えている。

 そして何より、一対の宝石の如き緑青の瞳が柏槙を見上げて釘付けになっていた。

 きらきらと光を得て輝く瞳は、その中に柏槙を映していた。

「あ、」

 何か言おうと言葉のわずかな切れ端を零した彼にかぶせるように客引きは言葉を投げかける。

「よお、間違ってなかったみてぇだな!兄ちゃん、コイツで間違いねえだろ?」

「あ、ああ」

 なんとか声を絞り出した柏槙に、客引きは「上手くやれよお!」と場の空気を察さぬ声をかけて酒場の中へと消えていった。

 雑踏の傍、酒場の外壁の前で向かい合った長身の“詩人”と濃い酒の香りを纏った男は対峙したままなにも言えずにいた。

 それは間違いなく冬青であった。

 冬青であったが、柏槙は「冬青の君」と呼びかけることは憚られて、その機を逸していた。

「なんで、ここに、」

 最初に声を発したのは冬青であった。

 彼にとっては庭のような場所、この雑踏の中へ姿を隠してしまうことは簡単だったが、柏槙の深い海の底のような瞳に見つめられては逃げる事は到底できないのだった。

「……二日も戻っていないと聞いて」

「どうして……」

「貴方が、城下で酒を飲むのが好きらしいと聞いたから」

 冬青は何も言えずに口を噤んだ。

 濃く甘い酒の匂いが、ただ向かい合うことしかできぬ柏槙と冬青をくるみこむ。

「あの、……少し話そう。それで、」

 柏槙のトーガの袖を武官らしい強い力が掴んだ。

「そよ、」

「俺のことはネムスって呼んで」

 思わず“冬青の君”を呼んだ柏槙の口を、冬青が──否、ネムスが制する。

「あんたにも名前があるだろ」

 緑青が柏槙を見つめて問う。

 は、と口を開けた柏槙は官名ではなく生まれ持った自分の名を告げようとした。だが、目の前にいる男の名乗る名は恐らく彼が親から与えられたそれではないのだろう。

 それならば、自分もそうあるべきだ。

「……では、私のことはスコラと呼んでくれ」

 咄嗟に口から出た単語に、ネムスは訊き返した。

「それがあんたの名前?」

「貴方がネムスである限りは」

 その答えを聞いたネムスは、緑青を宿した目を細めて笑う。

「わかったよ、スコラ」


 酒場はごった返していた。

 この酒場に落ち着くまでの間、果たして先程の酒場からどこをどう通ってここに来たものか、柏槙──スコラは見当もつかなかった。

 自分よりも背の低い、雑踏に紛れ込むのも容易なネムスはただの一度も人混みに流されることもなく酒場へ辿り着いた。

 ネムスがこの城下の人混みに慣れていることは言われずとも分かったが、彼が想像以上に酒場の人々と仲が良いこともその時初めて知ったのであった。

 城下で、どころか酒を飲むことすらいつぶりかわからないスコラにとっては自分から何か口出しして注文するなど出来るわけもなく、ただただネムスが何か酒場の奥へ言葉を投げかけているのをぼんやりと見ていることしかできなかった。

 二人がようやく言葉を再び交わしたのは、鈍く光る銀製の杯がそれぞれの前に置かれてからであった。

「乾杯」

 喧騒に消えることのない軽やかで明るい声につられてスコラは杯を挙げる。一口口をつけて、久しぶりの酒の味で腹が一杯になった気がした。

 ネムスは旨そうに杯を煽ったが、その瞳は酔いのせいか、酒場の灯りか、ともかく蕩けるような光を宿していた。

 スコラは口を開かなかった。

 それは癖でもあった。加えて、目の前のおしゃべりな男にわざわざ先手を打つ必要はないだろうと思ったのであった。

 果たして、先に口を開いたのはネムスであった。

「……驚いた、あんたが来るなんて。こんなところへ」

「自分でも驚いている」

 ネムスはその言葉に少し笑って言葉を繰る。

「一人でちゃんと戻るよ」

「そうしてくれ。皆心配していた」

「そう」

 スコラの言葉は半分もネムスに届いていないように見えた。

「俺、……このことは王宮の仲間には言ったことないんだ。スコラ、この秘密を永遠に持ったまま、俺と友達でいてくれる?」

 ネムスの胡乱な瞳と舌遣いから放たれたその言葉の意味は一瞬では図りかねた。

「秘密?」

 そんなものがなくても、いつまででも友人で。

 そう言おうとしたスコラの眼前に、ネムスは身を乗り出した。鼻がつくほどの距離、まつ毛が瞬く音が聞こえる距離。

 陰になった緑青の瞳が、スコラの深海のような瞳を射る。


「俺、非道い男なんだ」


 囁く声は潤んでいた。

「俺、毎夜毎夜ここへ来て──いや、ここよりもっと奥まったところには歓楽街がある。知ってるかい」

「……それが存在することだけは」

「そこで毎夜、違う男とも、女とも、老いていても、俺より年下でも、……毎夜寝てるんだ」

「……」

「あんたが来なければ、あんたにはきっとバレなかったのにな」

 一生王宮の人間には言わないつもりだったのに、とネムスは身を引いて椅子に座りなおした。

「俺は自分ではそうだと思ってないけど、あんたや他の文官は俺のことを男娼って呼ぶだろう」

 男娼。

 その言葉はスコラの中にずっしりと響いた。

 元よりそういうものには興味を示さぬスコラ──柏槙だが、度々そういうものに関する噂を小耳に挟むこともあった。いくら流行りや噂に鈍感な柏槙でも、それらがおおよそ王宮内であまり良いように捉えられていないということは明白に分かった。

「俺は誓って王宮の武官や文官に手を出したことはない。俺は居心地がいいから、据わりがいいから、本能がそう欲するから、こうやって毎夜ここへ来ては誰かと一夜だけ床を共にする」

 柏槙には冬青への軽蔑だとか、汚らしいだとか、そういう感情は湧かなかった。それは彼の色事への興味が極めて薄かったからということもあったかもしれない。

 冬青の君がそれでいいのなら。

 そう思いはしたが、寡黙な口は開かれなかった。

「あと、もう一つあんたに言っておかなくちゃ……いけないことがある」

「何だろうか」

 ネムスはここまで随分思い切った気持ちでいたようで、酒を煽った割には硬い表情をしていたが、一向に気に留めないようなスコラの口振りを聞いてやや力が抜けたかのようだった。

「や、……これは、聞いたあとすぐに忘れて欲しい」

「努力はしよう」

 真摯ではあるが見当違いの返事に、ネムスは少し笑う。

「俺は王宮の武官や文官には手を出してないって言ったよな」

「そうだな」

「それは俺が“冬青”である為の防壁なんだ」

 王宮の武官であり続ける為に、“冬青の君”であり続ける為に。そして、この街で“ネムス“であり続ける為に。

 スコラは目の前の好青年が自分の中に高い防壁を築いていて、明確に線を引いていて、その中には二人分の“彼“がいることを知った。

「この街で誰かを抱いたり抱かれたりして寝ている間、俺は冬青じゃないんだ」

「……」

「冬青は……そんなことをしない。冬青は明るくて人付き合いが良い、少し酒に強い武官だ」

 自分が今まで見ていたこの好青年の顔は、全て冬青の顔だったのだな、とスコラは考える。

 今自分の前にいる、濃い酒の香りをさせるトゥニカの男は、王宮仕えの武官たる冬青ではない。

「……けど、冬青も……やっぱり俺だった」

 ネムスの手は震えていた。

 銀の杯を取り、震える手で僅かに残っていたらしい酒を飲み干したが、それで落ち着いたという様子ではなかった。

「冬青は、……図書館で出会った文官にすっかり惚れてしまってた」

 図書館で出会った文官。

 冬青が図書館で出会った文官というのは、つまり、


「俺は、そのひとにネムスとして抱かれたらって……」


 考えてしまった、という言葉端は、彼の唇からこぼれ落ちて消えた。

 俯いたネムスの前で、スコラもまた何もできはしなかった。

 幾ら人の心の機微に疎い方とはいえ、かなり遠回しに──言葉足らずに述べられたネムスのそれが何を示すのか、実行するかしないかはさておいても自分に何が求められているのか、それくらいはスコラにも分かった。

「ネムス、」

「……俺はそういう性質(たち)の男なんだ。それを今まで後ろめたく思ったことはなかったし、王宮仕えの武官である俺は、その性質を持っていない“ことになっている“」

 へら、とネムスは笑う。

「けど、いざ……あんたを前にしてみるとダメだ。どうしようもない」

 ネムスは杯を震える手で玩びながら、自嘲めいて零れ出る言葉を止められずにいるようであった。

「俺、あんたに会うのが怖くて出仕しなかった。あんたに会ってしまったら、俺はあんたの前で“冬青の君“でいられないと思った」

「……」

「あんたがこっちへ探しに来るなんて思いもしなかった。──すごく驚いてるんだ。……驚いてるし、やっぱり会いたくなかった」

「私は貴方に会いたかった」

 ネムスの言葉を遮るようにスコラの言葉が飛び出したのに、ネムスはひどく驚いた顔でスコラを見返し──口を閉じた。

 スコラの切れ長の目、深海のような瞳は酒場の灯りを得てそれそのものが生きているようにネムスを捉えていた。

「貴方が王宮図書館へ通ってくるのが楽しみでならなかった──貴方と交わす言葉もやはり楽しかった、これが貴方でなければ、私はここまで貴方を追ってこなかった」

 常より口数少ないスコラの濁流のような言葉の渦に、ネムスはまるで溺れるような心持ちであった。

「貴方が会いたくないというのならそれでも構わない。──私には貴方を拘束する権利はない」

「ま、待って」

 スコラの口を塞がん勢いでネムスは立ち上がった。卓が揺れ、杯から酒が少し溢れて卓に染みをつくる。

「俺、あんたに抱かれたいって、そう言ったんだよ」

 立ち上がり、声は荒らげずともネムスの言葉に内心の乱れは確かに現れていた。

 スコラ──柏槙とはもう接しない方が良い、あの傭兵の忠告も胸の片隅に置いて、そう自分に言い聞かせるつもりで零した言葉は、思いも寄らぬ返事を引き出してしまった。

 柏槙は自分に会いたいという。

 この無口な男に、濁流のような言葉の波を作らせたのは自分なのだろうか?本当に?

「あんたは俺に会うだけで良いかもしれないけど、俺は、」

 纏まらぬ言葉は後先考えず口からこぼれて、卓の上を転がるようであった。拾いきれない感情は言葉になってぽろぽろとこぼれ落ちていく。

 無口で真面目な学者肌の男に、自分の望みは明らかにつりあわぬ、汚らわしいものに思えた。

「ネムス」

 戸惑いと混乱に満ちた目を伏せるネムスに、スコラはこの上なく静かに名前を呼びかけた。

「私は貴方にこうして会いに来て、貴方に話してもらわねば、貴方の……到底その願いは理解が及ばなかっただろうと思う」

 スコラが口元に少し笑みを浮かべているのを見留めて、ネムスは泣き笑いのような顔をした。

 優しく低い声がネムスをあやすかのように、ネムスが想定もしなかった言葉を紡ぐ。

「私は貴方がいなければ仕事にも集中できない男だ。貴方と過ごす時はそれ程魅力的だった」

「……」

「貴方は私に……抱かれたいと言う。貴方の中の貴方がそう望むのなら、そうしてやりたいと思う」

「……」

「冬青の君、貴方が私を求めるように、……私も貴方を求めている」

「柏槙の君、」

「ネムス──冬青の君、貴方が欲しい」

 深海を宿す瞳が、ネムスの中の冬青を射ていた。

 雑踏と酒の匂い、一夜の歓楽を愛する男の中に在る、人を愛する為に生まれたわけではない男を、柏槙は欲していた。

「俺、」

「貴方と、ずっと友人でありたいと願っていた」

 薄い唇がゆっくりと言葉を紡ぐ。

「だが、貴方の言葉を聞いて──私はまごうかたなく、貴方が欲しいのだと──貴方を欲しいという感情は、きっと友人という柵を越えてしまっている」

 へたり、とネムスは椅子に腰を下ろした。

 目の前の男の言葉に正しく打ちのめされた心持ちであった。

 ずっと、欲しがっているのは自分ばかりだと思い込んでいた。

 この文官を──真面目で無口で色事などには関わりもしない文官を欲しがる自分を欲しがる男が目の前にいる。

 一夜の火遊びで瞬間的に燃え上がる熱と快楽に身を焦がすことを楽しんできたネムスの身は、身体よりもさらに深いところ──心までをも求められて、想定外の事態に怯えていた。

「俺、……俺、あんたを、あんたにそんな風に思われてるなんて、」

 高揚し、戸惑ったネムスの緑青の瞳は潤んで雫を生んだ。

「俺、こんな男なのに」

 目の前の男が一筋涙を流したのに驚いたのか、スコラは所在なく触れようのない手を伸ばす。

「俺さ、あんたを“柱”にしたいよ」

「……柱?」

「なんでもない」

 ネムスはスコラから伸ばされた手をそっと握った。

 書物を繰り、向き合い、研究する節立った指が戸惑っていた。

「あんたが望むように、──俺が望むように、あんたの側に」

 酒と戸惑いで高揚した頰を、ネムスはそっとその手に寄せる。

「……ああ」

 笑んだ声が、短くそれに応えた。



 程なくして、冬青は何事もなかったかのように王宮へ戻ってきた。

 あれやこれやと仲間から心配されるのを、冬青は悪かったなあ、ごめんよといつも通りの好青年ぶりであしらって、それが三日程続いた。

 冬青は度々王宮図書館を訪れた。

 大概は色鮮やかな植物図説を子供のように目を輝かせてひっそりとめくっていたが、その側には必ずあの研究熱心な無口な文官──柏槙がいた。

 何を話すわけでもないが、まるでお互いが柱にもたれかかるような、それが当たり前であるかのような、そんな風なのであった。


 書物を繰る文官と武官を、明り取りの窓から射し込む陽光がほの明るく照らしていた。

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閉鎖的楽園温室のアルカヌム @onrzsk

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