第9話

 王宮内で出世し、高官ともなれば様々なものを手に入れ、優雅な生活を送り、宝石を愛でるもの、美食の限りを尽くすもの、美しい女を囲うもの、美少年を囲うものとその様には限りがない。美しいものを愛でるのも、食を好むのもむしろ趣味として高尚であろうが、そこを超えて地位にあぐらをかき、賄賂や悪政を為すのにひとたび足を突っ込んでしまえばあとは転がり落ちるだけだというのは目に見えている。しかしどうにもその転がり落ちる坂の途中の甘美な味には抗えないのもまた当然で、そうして高官となったもの達が味をしめて賄賂や悪政に手を染め、追放されていくのは決して珍しいことではないのである。

 先帝の代、王宮を揺るがせた大きな事件があった。

 貴族出身の高官、それも宰相達と並び特に政に強い影響を持つ男がいた。実際頭が切れる男で、その手腕を認めるものは多々在った。しかしそれが善政に傾くと限ったものではないのは世の常で、結果的に彼は多額の賄賂を受け取って──あるいは巻き上げて──更には自分に反感を持つものを何人も暗殺させていたなどと分かった時には大変な騒ぎであった。

 これを機に高官達、文官長、武官長などのみならず、文官武官までも広く賄賂を渡したり受け取ったりしていないか、そのような汚職に手を染めていないかが一斉に検分された大騒動になったというのは有名な話で、常々語り伝えられているものなのである。

 かの事件が先帝から帝位の交代があって尚噂として残り続けるのは、なにも高官のしていたことの悪辣さのみからではない。

 彼は幾人か選りすぐりの男女を手元に置いて可愛がっていた。その中でも特に彼に可愛がられていた男に、なんと送られた賄賂をそのまま下げ渡していたというから、その男も槍玉にあげられたのである。

 彼は男に官名も与えていた。文官でも武官でもない者に官名を与えていたことも問題だというのに、その男がなんでも男娼出身であるとわかったので、よりにもよって仕官の試験も受けぬ男娼に官名を与えていたのかと非難轟々であった。

 男娼は何も知らなかったのだと弁明したが、高官が受け取った賄賂を貰っていたのだから同じ穴の狢、と糾弾されたのであった。

 画して高官と男娼は王宮から追放され、これを受けて今では汚職に関する目もずいぶん厳しくなったのである。


「その、追放された男というのが実は王宮に戻ってきているらしいって噂だぞ」

「追放されたのに戻ってくるなんてことがありえるのか」

「なんでも改心をしたか、頭が良かったかなんかで──それを勿体ないって情けをかけた高官がいたらしい」

「それで、それは一体誰なんだ」

「それがわかっちゃ、今頃そいつのところに野次馬が殺到してるんじゃないか?」

「知ってる奴がいたって言うわけないよなあ。俺はちょっと気になるな」

「バカ言え、そいつ男娼上がりなんだろ?お前なんかあっという間にイチコロだよ」


「お前たち、根も葉もない噂をくっちゃべってる暇があったらさっさと仕事に精を出さないか」

 王宮に幾つもある武器倉庫のうちの一つ、その隅で与えられた仕事である武器の手入れもすっかり放り出し、噂話にふけっていた武官たちを叱りつけたのは、武官長補佐である蘇鉄そてつであった。

 突然響いた蘇鉄の声に驚いた武官たちは慌てて武器の手入れに戻る。

「武器の手入れを怠ればそれがそのままお前たちの身に返ってくるんだぞ」

「はっ」

 蘇鉄は武官長である空木の補佐役である。

 実際のところは空木よりも幾らか歳上だが、文官から転身した空木の目を見張る躍進ぶりに驚かされた一人であった。

 ある種空木以上に真面目で硬派な男でもある。

 実直な筋の剣を振るい、職務に忠実で、竹を割ったような性格なのである。

 蘇鉄を慕う武官は多く、彼に教えを請う者も多い。ただ玉に瑕といえば──彼を知る文官長に言わせれば「固すぎる」のであり、まるで剣が人の形をとったようだと言うのは誰の言であったか。

 暗褐色の髪を短く刈り上げ、日に焼けた肌に精悍な顔立ち、その瞳はともすれば夕焼けのような煌々とした紅緋色である。

 武官達を叱りはするが、励ますこともするし宴も開く、とかく若い武官達のみならず、彼よりも年上である古参の武官達にも一目置かれているのが蘇鉄という男であった。

 武官達が武器の手入れに戻ったのを確認した蘇鉄が倉庫の外へ出たとき、目の前から歩いてきたのは同じく武官長補佐のはしばみである。

 榛は蘇鉄よりも一つか二つ年上という程度だが、そうとは思えぬほど、どうも“それらしく”見えない。

 蘇鉄と相反するようにいい加減な男であるが、剣の筋は確かだからなかなか文句を言う者もない。

 日に焼けた肌に無精髭が生え、一見すれば一仕事終えた傭兵と勘違いされかねぬ容姿だ。例えるならば猛獣のような男で、女官じゃないんだから手入れなんてしてどうするんだと伸ばしっぱなしの燻んだ金髪は、まるで獅子のたてがみの如しである。鼠色の瞳も獰猛な眼光を含んでおり、挙句その容姿と豪放磊落な様から「獅子の君」というあだ名もついたが、当の榛にはそれなりに嬉しいようであった。

「榛の君、何か御用か」

「いや、あんたを見かけたから立ち寄っただけだ。武器の手入れしてる連中を適当に見張りながらな」

「それは何よりだ」

「なんだかなあ、変な噂が流れてるじゃねえか」

 なあ?と不機嫌そうに言う榛に、蘇鉄は先ほど聞いた噂のことかと考える。

「それはあの、先帝の代にあったという賄賂事件のことか」

「そうそう、それだよ」

「根も葉もない噂を流す者がいるものだな。こればかりは俺にも対処ならん」

「それが根も葉もないって訳じゃないらしいんだよ」

「なんだと?」

 派手に血相を変えた蘇鉄をまあ聞けよと近くの大きな柱の陰に押し込み、榛は神妙な顔で語り始めた。


 噂自体が流れ出したのはごく最近だ。しかも若い奴らの間でだから、まあ真偽は分からない、若い奴らの想像を煽るちょうどいい噂話ってんで広まってんだろうよ。

 だがな、俺が最近古参の高官どもから聞いた話じゃ、どうやらあながち間違いじゃあないらしい。

 件のヤツってのを呼び戻したのは今はもう死んじまった高官だが、その高官ってのはヤツが追放先で勉学に目覚めたって聞いたそうだ。

 まあそりゃそうだよな、元の主人は失っちまったし、追放された身じゃあ、大手を振って街を歩きまわるわけにはいかねえ。

 行き場もなくてふらついてたところを、どうしてか知らねえが子供らの通う学校に行き着いた。最初は子供に混じって話を聞いてるだけだったが、これが段々興味が湧いてきて勉学に励むようになったってんだからひとってのは分からねえもんだよなあ。

 囲われてた時にゃ湧いて出てくるような賄賂や貢物で頭がとろけるような生活してたのが、子供に混じって学問学んだらシャキッとしたらしい。

 元から手先は器用でできることも多いってんだから、その高官はヤツをすっかり整えてやって、仕官する為の試験を受けさせた。そしたらビックリだ、これが受かっちまった。そんなわけで文句なしに再び王宮に仕官させたってわけだ。

 その変わりようにはほとんど誰も気づけなかった。それを知ってたのは、その高官の周りのほんの一部だけだった。

 官名も変わってるからも気づかねえ。そもそも、あの事件から何年も経っちまってた。高官が手を回したからってのもあるかもしれねえが、ともかくヤツは「別人」として王宮に仕官してるってワケだ。

 ──こんな噂が流れて、ヤツの耳に届いたらどうなるか──まず良い方にゃコトは運ばねえだろ。

 これがどんどん尾びれ背びれがついたらえらいことだからな。ヤツだって今更過去のことに触れられたかあないだろう。実際、問題起こしたなんて話は聞かねえからな。ホントに改心したんだろうよ。


 わかったか、と付け足した榛に、蘇鉄は神妙に頷いた。

 蘇鉄の眉間にはしばらくしわが寄っていたが、やがて口を開く。

「分かった。俺からもその噂には注意を払うようにしよう。榛の君も例外ではないぞ」

「わかってらあ。じゃあな」

 それで立ち話は終わった。

 幻の「戻ってきた男」を胸に秘めて、蘇鉄は職務へと戻っていった。



「またいらして下さったんですね」

 射干玉の短髪がやわらかく吹く風に揺れ、髪と同じ射干玉の瞳は時折陽光を得て美しくきらきらと輝いていた。

 武官の自分のそれとは違う、滑らかな白い手には、銀の精巧な細工が施された鋏が握られている。

 王宮温室付きの世話係であるという石斛が、こうして王宮温室以外の所属の者と会うことが叶うのはごく僅かな時間である。

 しかし、蘇鉄は王宮の敷地の端にあるこの王宮温室にまで足を運び、その僅かな時間で他愛もない話をするのがひどく好きであった。

 老いから若きまでともかく無骨か血気盛んか、そういう輩ばかりを相手に日々仕事をしている蘇鉄にとって、石斛のような物腰柔らかな男は大変貴重な存在であった。王宮内で文官に会わぬわけではないが、文官は武官を「力任せの無粋な輩」だの、「書物の扱いを理解せぬ横暴な者共」と称して、自ら近寄ってくることはまず稀である。かたや武官達も、大概が文官を力のないひ弱な奴らと形容するか、或いは興味すら持たぬ者ばかりである。水と油とはこのことで、蘇鉄も好き好んで文官と話をすることなどない。

 石斛と出会った──というより、遭遇したのはほんの一年程前のことである。

 王宮温室の名こそ知っていたが訪れたことはなかった蘇鉄は、見回りがてら王宮温室へと足を運んだことがある。

 絢爛な王宮の装飾を見慣れている蘇鉄には物足りないようにすら思われる、装飾も多くない白壁にまとわりつく蔦を、ぱちんぱちんと慣れた手つきで切っている石斛と鉢合わせ、当たり障りのない挨拶があり、そこから時々折を見ては他愛もない話をするようになった。

 石斛と蘇鉄のそれは、ほんの僅かな立ち話だ。

 今日の空は、とか、この花が美しく咲いていて、とか、そういうものばかりであった。

 決して饒舌ではない蘇鉄も、石斛との語らいは幾らか弾むのである。

 石斛は蘇鉄から見て、非常に教養ある者であるように思われた。蘇鉄は書物を読むことや勉学が嫌いというわけではない、むしろ剣を振るうことと同じくらい書物を読むことも好んでいたが、その蘇鉄をもってして、深い教養を感じさせる立ち居振る舞いであった。

「精が出るな」

「ありがとうございます。……蘇鉄の君こそ、王宮の端から端まで見回りをなさっていらっしゃって、さぞ大変でしょう」

「疲れなど」

 首を横に振り、短く否定した蘇鉄であったが、石斛は「少しお待ちください」と言い、白いトーガを翻し手足の装飾を僅かに鳴らして、真白の柱の向こうへ消えた。

 石斛の意図を汲めず棒立ちになっていた蘇鉄は、いくらもしないうちに戻ってきた石斛を見て、彼が「世話係」の名を冠する所以を考えさせられずにはいられなかった。

 石斛の手には小さな蔦の意匠が施された杯があった。

 銀の杯になみなみと注がれた水は、疲れなどないと言ったはずの蘇鉄の喉に否応なく渇きを実感させた。

「こう日が照っているものですから、喉がお渇きではないかと」

「……かたじけない、頂こう」

 石斛の白い手から差し出されたそれはひんやりと冷えており、それも手伝って蘇鉄は一息に杯を干した。

 子供のように喉を鳴らして水を飲み干した蘇鉄から杯を受け取りながら、石斛は諭すように言う。

「蘇鉄の君が武人として、お体もそのお心も大変お強いことはよくよくわかっておりますが、あまり無理をなさってはなりませんよ」

 うむ、と口の中で明瞭でない返事をした蘇鉄は、王宮温室の庇の作る陰のもとにいる石斛をやや後ろめたく見た。

 心地よい日陰のうちに在る石斛は、柔らかく、儚く笑んでいた。

 蘇鉄には夢想に耽る趣味はなかったが、この王宮温室付きの世話係の為す現世ならぬ気配は、表情は、身のこなしは一体どこから来たものだろうかとふと思った。

 立場上貴族出身の武官や文官と接する機会がないではないが、しかし石斛のそれは出身から身につく品の良さ、身のこなし、そういったものとはまた一線を画しているように思われた。

「石斛の君のように細々と気が利く世話係が居られれば、筆頭研究員殿もさぞ快適だろう」

「勿体ないお言葉です」

 蘇鉄は王宮温室の研究員というものには会ったことがない。彼等は王宮温室が出来た頃から、王宮の表舞台には姿を現さない文官達であったと聞いている。

 しかし彼等がこの国に為した功績は大きく、当たり前のように使われている薬草、薬、それらの効能や正しい調合法を確立したのは歴代の王宮温室研究員であるという。

 武官として、当然ながら傷だらけになることもある。気力で治せぬものについては薬を使わねばならない身としては、王宮温室には大きく世話になっていると言って過言ではないのである。

「筆頭研究員とは、どのような方なのだ」

「お優しく思慮深い方ですよ」

 石斛はそれ以上詳しいことを語るつもりはないらしかった。言葉は柔らかく優しげな笑みであったが、だからと言って軽薄で口が軽いわけではない──主人のあれこれをすぐに話してしまうような者は世話係には向いていない。「きわ」を分かっている男なのだ──と蘇鉄は一つ息をついて、話題を変える。

「石斛の君は──その、身のこなしや心遣い、礼儀作法、どれを取っても王宮の中でも五指に入るだろうと俺は考えているが──どこか、貴族の出か。それとも良き師が居られたのか」

「蘇鉄の君、王宮の世話係の方に失礼でございます。私よりも気の利く方は山程おられます」

 石斛は柔らかく謙遜をし、

「……生家は没落してしまいまして──幼い私を引き取って下さった方が、様々なことを教えてくださったのです。その方を師と呼ぶなら師でございましょう」

 と、また儚げな笑みを浮かべて言った。

 蘇鉄はすっかり感心していた。

 恐らく自分よりも年下であろう石斛が短く語った生い立ちも手伝って、蘇鉄はだいぶ石斛に心を寄せていた。

 生家が没落、しかも幼い頃に没落してしまったとあれば、大層な苦労をしてきたことは間違いない。後ろ盾のない貴族の子を引き取ることは決して容易いことではなし、引き取った側には得も少なかろう。幼い石斛を引き取ったという貴族も、また石斛も、見上げた心根だと蘇鉄は心中深く頷いていた。

「沢山苦労をされてきたであろうに、石斛の君、貴方のような方はなかなかおるまい」

「大袈裟でございますよ」

 石斛が目を伏せ短い言葉を口にしたとき、ぱっと雲が流れて日を覆い隠した。曇り空は王宮温室の彩度を幾らか落とした。

 それが区切りとなって、蘇鉄と石斛は短い挨拶を交わし、小さな語らいは終わりを告げた。


「蘇鉄の君、……優しい方」

 真白い柱の並ぶ王宮温室の廊下をゆっくりと歩く石斛の口からこぼれ出た言葉を聴いた者はいなかった。



 幾つか報告をする為に武官長である空木の執務室を訪れた蘇鉄は、結局のところその報告の枠を大きく外れた会話をしていた。

 空木が元王宮温室の研究員であったことは武官長補佐である蘇鉄も知るところである。無論、そのようなことで武人の在り方の是非が問われるわけではないが、問題はそこではなかった。

「蘇鉄の君が石斛の君と知り合いであったとは」

 空木の厳しい光を宿す青い瞳は、いまや緩く笑んでいた。

「だが私とて、石斛の君に関して何か詳しいことを知っているというわけではない」

 すまないな、と苦笑する空木に、蘇鉄は真摯な表情で首を横に振ってみせる。

「否、そのような……根掘り葉掘り聞きたいと言うわけではないのだ──そのように見えるか、俺は」

「常の貴方よりは随分とこう──前のめりであるようには見えるな」

「そうか……」

 蘇鉄は唸り、その眉間に深く皺を寄せた。

 実際のところ、彼は自分の心の変化というものにいまいち追いつけていないのであった。

 石斛の儚げな容貌、自他の多くを語らぬ姿勢、なによりもその細やかな気配りは、確かに蘇鉄が非常に気に入っているところである。では更に石斛の生まれ育ちや何やらを事細かに知りたいかといえば決してそうではなかった。

 石斛が多くを語ろうとしないところを、わざわざ人の口まで回り道をして知りたいとは思わないのである。それは彼の誠実さの現れであった。

 蘇鉄は石斛との和やかな語らいを好んでいた。二人の間にある、お互いに踏み込み過ぎない距離こそがその語らいを支えていると考えていたのである。

 であるから、空木に何とは無しに石斛の話題を出した時、「自分が石斛のことを深く知りたがっている」と察せられたのは意外であった。

 空木から──というより、他人から見た自分はそのように見えているのか、と蘇鉄は妙な後悔に襲われた。

 先に言葉を切り出したのは空木であった。

「──石斛の君は教養深いひとだ。蘇鉄の君、貴方も武官としては非常に教養深いと私は思っている。きっと、様々な語らいができるだろう。文武に身を置く貴方なら、石斛の君のようなひととは良い関係を築けるだろうな」

 そう気を揉まぬでもな、と空木はまた笑った。

「そう思われるか」

「ああ」

 蘇鉄の心中の靄が全て晴れたというわけではなかったが、幾らか彼の声は明るさを取り戻していた。

「武を以って心を通わせるのは簡単だが、言葉を通して心を通わせることには慣れていないのだ。

 ──だが、俺のしてきた勉学や読書が少しでも役に立つと言うのなら、きっとそうなのだろう。いや、すまなかった、空木の君」

「貴方の眉間の皺が取れたのなら何よりだ」

 軽口めいた空木の言葉に、その性根を表すような律儀な礼を返した蘇鉄はやや急ぎ足で踵を返し、その執務室を出た。

 蘇鉄は大股に、背筋を伸ばしながら歩く中で大きく息を吸い込んだ。

 美しい装飾が施された窓からは曇り空が見えていた。



 ここ数日間降り続く雨は大地を潤し、また王宮温室の壁を覆う蔦の葉を瑞々しく濡らしていた。

 柔らかな下草は蘇鉄の足元を擽り、彼の足首を飾る重々しい金属の装飾に水滴をつけた。

 雨だからか、はたまた別の仕事があるのであろうか、ともかくその日は石斛の姿は見当たらなかった。

 まかり間違っても、彼は──少なくとも彼の思惑としては──石斛を目当てに、王宮温室まで見回りの足を伸ばしているわけではなかった。

 霧と水滴の間を彷徨うような雨粒がトーガを濡らすのも気にかけず、蘇鉄は王宮温室の大きな硝子ドームを見上げた。

 白い壁に這う青々とした蔦、天を仰ぐ硝子ドーム。

 石斛と言葉を交わすまで、彼にとってそこは彼の歩む道と全く無縁の場所であった。

 結局、蘇鉄は石斛を非常に良い友人であると位置づけていた。

 尤も、榛と蘇鉄のような友人関係とはまた一線を画していただろう。蘇鉄は王宮温室に踏み込まず、石斛は大きく王宮温室を離れて外へと出歩くことはない。

 ごく細やかな境界線を超えぬ淑やかな友人関係に、蘇鉄は満足していた。

 約束を取り付けて会うわけではない。こうして会えぬ日もある。それを悔しい、寂しいなどと思ったことは無かったはずであったが、ここ最近の蘇鉄にはどうも、今まで抱いたことのない妙な靄が心の隅にあるようであった。

 そういった悩みにはおよそ無縁であった彼にとって、その変化はただただ制御しようのない困惑の呼び水であった。

 ぼうっと王宮温室を見上げていた蘇鉄であったが、

「蘇鉄の君!」

 突如耳慣れた声がごく近くで自分の官名を呼び、蘇鉄ははたと向き直る。

 かと思えば、王宮温室の回廊の白い柱に片手を添えて驚いたように蘇鉄を見る姿があった。

「石斛の君、」

「こんな雨の中にいてはお身体を冷やします」

 回廊の白い床から、濡れた下草に一歩二歩と白い足を踏み出した石斛が手首の装身具を揺らして蘇鉄の手を確と掴んだ。微かに金属が擦れる音がした。

 幾ら蘇鉄が歴戦の武人と言えど、このような不意には対処しかねた──このような、というのはその相手が石斛である、というところにある。

 何か言う暇もなく、せめて屋根のあるところへお入りください、とその細腕に引かれて、蘇鉄は白磁の回廊へと濡れた足で踏み込んだ。

「女子供でなし、これくらい濡れたところで大したことはない」

 と言えば、

「何を仰るのです、そう言って己の身体の強さに慢心していては、いつどこから病を得たかすらわからなくなってしまいます」

 と即座に言葉が返ってきた。

 石斛の口振りは、子を諭す母のようであった。

 蘇鉄はなにか言い返そうかと思ったが、まだ王宮へ士官を始める以前、故郷の母の記憶が蘇り、まるで少年だった時のままのように妙にしおらしい気分で石斛の為すままにされるしかなかった。

 石斛は蘇鉄へここで待つように言い置いて回廊の向こうへ消えていった。

 トーガの裾を絞ると白亜の床にあっという間に水たまりができ、蘇鉄は石斛が戻ってくるまでの間をトーガの裾を絞ることに費やした。

「まさかこのような雨の日にも王宮温室までいらっしゃるとは思いませんでした」

 そう言いながら石斛は細やかな刺繍がその四方に施された柔らかな布を手慣れた様子で広げ、蘇鉄の濡れたトーガをくつろげるように促す。

 幾ら王宮温室の世話係とはいえ──いやだからこそ、蘇鉄は石斛にそのような──下男のように体を拭かせるような真似はできぬと慌てたが、柔らかくも強い意志を秘めた射干玉の瞳に射られては大した抵抗もならず、大人しくトーガをくつろげ、トゥニカも幾らか袖を捲り上げる。

 重い剣を振り回す無骨な筋肉のついた腕を、武人らしく逞しい首を、下草に触れて濡れた脚を──石斛は丁寧に拭い、蘇鉄はその様をまるで自分の身体ではないかのような心持ちで見ていた。

「……王宮の敷地内の見回りは武官の務めだ」

 雨音と沈黙とを破るため、蘇鉄は間をおいて石斛の言葉に返事をする形になった。

「このようなところには蘇鉄の君のお手を煩わせるような不審な輩も、厄介な問題も現れることはないでしょう」

「石斛の君は」

 やや食い気味に、蘇鉄は呼びかけた。

 石斛は蘇鉄の足元にかがんで水滴を拭っていたが、驚いたような表情でゆっくりと顔を上げた。

「石斛の君は、ここに、王宮温室にひとが訪れるのは好まないのか」

「いいえ」

 するりと足元から立ち上がった石斛は、蘇鉄の胸元ほどまでしか背丈がない。しかし、その射干玉の瞳に見つめられるとまるで真正面から向き合っているかのような気分にさせられた。蘇鉄はやり場のない焦燥感にかられ、もたれかかっていた白亜の柱に手を滑らせた。柱はしんと冷えていた。

「蘇鉄の君がこうして王宮温室を案じていらっしゃってくださるのは大変有り難いことです」

 王宮温室を案じて?自分は本当に王宮温室を案じたから来ているのだろうか?

 蘇鉄は自問する。

 自分は石斛に会う為に王宮温室を訪れているのではないか?

 射干玉の瞳から目を離すことができず、蘇鉄はごくりと生唾を飲んだ。

「せ、石斛の君、俺は」

 軽く上ずった声は、到底彼が言いたいことを全て吐き出すには向いていないらしかった。

 自分は王宮温室が心配だから、義務だから訪れているわけではない──石斛に会いたいが為に訪れているのだ、猛烈な勢いで湧き出てきた、本能的で明快な答えは、芯から生真面目な彼にとってはあまりに不真面目すぎる、恐ろしい結論であった。

「蘇鉄の君?」

 雨音に紛れるほどささやかな呼びかけに、蘇鉄はどうしようもなく狼狽えた。

 彼が空木との会話で確信を得たはずの「教養があるもの同士ならば良い関係が築けるだろう」という考えは、いまや塵同然であった。

 生真面目な自分のどこにそのような想いが隠されていたのか、蘇鉄自身も扱いきれぬのであった。

「俺は、石斛の君、王宮温室を案じて訪れていたわけでは、」

「……」

「貴殿に──会いたいからと、そのような理由で、……」

「……」

「貴殿と良き友人でありたい、もっと貴殿のことを知りたいと、口には出さずともそう思い王宮温室に、」

「例えそうして通って頂いても私のことを深く知ったところで何の得もございません」

 今まさに空から降り注ぐ雨粒と変わらぬように、石斛の声は冷えきっていた。

「なぜ……」

「私のことを深く知れば知るほど、蘇鉄の君は不幸せになられます」

 蘇鉄の体の水滴を拭った布を持ったまま、石斛は一歩二歩と後ろへ下がった。そっと伏せられた睫毛は微かに震えていた。

「私のような者と蘇鉄の君は、こうして間がなくてはなりません」

「同じ王宮に仕える、王に仕える者同士ではないか、何故にそうして──」

 弾かれたように一歩踏み出した蘇鉄を、石斛は、

「いけません!」

 と、今まで蘇鉄が見たこともないほど声を荒らげて制した。

「私は王宮温室付きの世話係です。王宮に仕え、王宮温室に仕え、──王宮の方々との関わりは、“仕えること”それだけで十分なのでございます。私のことを深く知ろうとすること──友人と呼ばんとすること、全て、全て無為でございます。蘇鉄の君の身へ良いことを招くことは決してありません」

「石斛の君……」

「……私はこれで失礼致します」

 白いトーガの裾を翻し、石斛は早足に回廊の向こうへと歩み去っていった。

 それを追うのは簡単だっただろう。

 しかし、蘇鉄の足はぴくりとも動き出さなかった。

 知られたくない、近づかれたくない、友人という関係はふさわしくない──石斛の言葉は、蘇鉄を打ちのめすかのようだった。

 日々他愛もない会話を交わしていたのは、「付き合い」であったか。或いは「あしらい」であったか。

 身を乗り出し、手を取ろうとした自分が浅はかにすら思えた。石斛はそれを望んではいなかったのだ。

 武官長補佐と王宮温室付きの世話係、地位など気にしたこともなかったが、石斛はその間にある上下を固く守らんとしたのではないか。

 また、「不幸せになる」その言葉の意味が蘇鉄には分かり得なかった。石斛のことを深く知って、何故不幸になるのか。災いか、呪いか、そんなものに蝕まれているとでも言うのか。

 蘇鉄は己がそのようなものへの造詣のないことを悔いた。

 自分が石斛の何の支えにもならぬこと、深く知ることのできぬことを悔いた。

 雨脚は徐々に弱くなって来ていたが、蘇鉄はどうしてもそこを去ることが躊躇われた。

 今ここで去ってしまったら、永遠に石斛に会えぬ気さえした。どうして知ってはならぬのか。なぜ不幸になるのか。せめて理由さえ分かれば、躊躇いも消えると言うのに!

 白亜の回廊に立ち竦む蘇鉄は、弱くなって来た雨脚をただただ見つめていた。

 ──その背後に、かつて武官だった男が丁度近づいていたのは幸か不幸か、あまりに偶然であった。

「あ、あの、どうかなされたんですか」

 若い、だが酷く困惑した声であった。

 しんと静まりかえって雨音のみを拾う中に突然その声がしたので、蘇鉄は勢いよく振り返る。

 常の彼ならば、その声の主の足音や衣擦れの音を察知することもできただろう。しかし、今の彼は非常事態であった。

 振り返った蘇鉄を見た声の主は更に驚いたようで、固い声音で挨拶をした。

「俺は檳榔といいます。……この王宮温室の研究員です。その、武官の方──ですよね?」

「ああ、」

 蘇鉄は檳榔と名乗った文官にのろのろと向き直った。

「俺は蘇鉄だ。武官長補佐をしている。……雨宿りをしているだけだ。どうか気にしないでくれ」

「武官長補佐?!」

 何故そんな地位の武官が、と檳榔は慌てた様子を見せた。

「武官長の──空木の君には以前大変お世話になりました。どうか、よろしく伝えてください」

「ああ」

 蘇鉄は未だ、上の空であった──が、はたと目の前の文官の可能性に思い当たった。

「……いや、待て、檳榔の君と言ったか」

「はい」

「檳榔の君、ここの世話係──石斛の君と会う機会は?」

「石斛の君ですか?ええ、毎日お会いしてますが……」

 それが何か、と言う前に、蘇鉄は檳榔の手を確りと握り、生気を取り戻した目で彼の瞳を見据えた。

 檳榔はあまりに急なことに身を震わせ、それと同時に蘇鉄の手の力強さにも驚いたようであった。

「……石斛の君に、言付けを頼みたい」

 握った逞しい手と、その逞しさに反した言葉の弱々しさに檳榔は戸惑っていたが、否とも言えずただ「はあ」と頷くのみであった。


 武官長補佐の好意がひどく恐ろしかった。

 あのひとはきっと、私の過去を暴いて晒すような真似はしない。悪いひとではない。硬派で無骨で優しいひと。

 だからこそ恐ろしい。

 純粋な好意、友人になりたい、貴方のことを知りたいという気持ちが恐ろしい。

 絢爛豪華な王宮の中にあって、否が応でも肚の中で幾つも秘密を隠れ持つ者はどこにでもいる。到底一人ではなし得ないような計略を繰る者もいる。ある日突然、その秘密や計略が白日の元に晒されることもまたある。

 あのひとが白日ならば、私の存在そのものが「秘密」だ。「計略」なのだ。

 あのひとが私のことを知れば、友人になればその純粋さ、優しさで以って深く傷つくだろう。

 私もまた、王宮温室の世話係として得たささやかな安寧を失うことになるかも知れない。

 これ以上近づき合わないことがお互いの為になる。

 金雀枝の君も檳榔の君も、私を邪険に扱うことは決してしないが、世話係と研究員の垣根を超えて情をかけることはない。

 私もまた、「世話係として」「仕える者として」彼らを尊敬し、慕うことはあっても、それ以上の感情は持ち得ない。

 それが私が「再び」王宮に仕える上での約定だ。

 私は生まれ変わったのだ。


 幸運──結局は不運だったのかもしれない。

 最初はしがない男娼だった。日々を不自由だと思ったことはなかったが、金持ちの貴族に憧れない訳ではなかった。

 実に偶然だったと思う。「目に留まった」それが正しく出会いであっただろう。

 王宮で貴族のような暮らしをさせてやる、お前のように美しい男は見たことがない、ともかく王宮仕えの高官にそのようなことを囁かれ、浮かれた私は愚かだった。

 高官から何が何やらわからないままに使い切れないほどの金、宝石、装飾品を受け取っては目を輝かせて喜び、毎夜酒と肉欲に溺れた。宴を毎日のように開き、美の女神の再来だと煽てられた。

 貴族として扱われ、中身の伴わない官名を与えられ、高官の隣を肩で風切って歩けることがただただ楽しくて仕方なかったのだ。

 だが上り詰めるのと同じくらい、転げ落ちるのはあっという間だった。

 王宮を追われ、それまでとは一転した抜け殻のような日々を送り、後ろ盾を失って途方に暮れていた私を変えてくれたのは学問だった。

 またありとあらゆる欲に溺れた過去、王宮を追放された過去、ただただ無知であった過去、それを無かったことにはできなくとも、やり直すことはできると諭してくれたのは、深い教養を持った老高官だった。

 かつては貴族の姫君もかくやと思われんばかりの装飾品で飾り立てた長い髪を切り、白いトーガを纏って「石斛」の官名を得て再び王宮へ仕えた。

 その瞬間から、かつての欲も無知であった自分も、何もかも捨てたのだ。

 王宮温室に来る者は少ない。金雀枝の君が正気に戻られてからはその友人という方も多く来られるようになったが、皆私のことなど気にも留めない。私は世話係であり、王宮温室の研究員ではないからだ。この身が朽ちるまでそう在るべきだと、そうしておいてくれると思っていたのに──過去を繰り返さぬ為にも、私の過去を知らしめぬ為にも。

 だが、あの武官長補佐はあまりに簡単に境界線を越えてきた。

 あのひとの熱が恐ろしい。

 純粋に私に近づこうとする好意が恐ろしい。

 私がどのような過去を持ち、どのような秘密を持っているか知らないから、そのようなことを言うのだ──私はただ一介の世話係だというのに!

 どうか、もうあのひとが現れませんように。

 これ以上、あの熱で、純粋さで私を乱しませんように。


 鈍重な雲から霧のように、雨は細やかな音を立てて降り続いていた。

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