第8話

 王宮温室付きの研究員である檳榔が、日課となっている植物のスケッチを終え、凝った肩を回しながら温室の中心へ帰ってきたとき、筆頭研究員である金雀枝は相も変わらず柔和な笑みを浮べながら、さあお茶の時間とばかりに滑らかな手つきで準備をしていたのであった。

「檳榔の君、お茶にしよう」

 こうして金雀枝が日に何回も休憩時間をとるのはなにも珍しいことではなく、最初こそ遠慮がちであった檳榔も幾分慣れてきた節があった。

 硝子のドームの中にまた一つ、植物がドームを作るかのような温室である。しかし、植物同士が無為に絡み合うようなことはない。植物の伸びるままに、しかし整然と管理されている。それを日々行うのは金雀枝の役目であった。王宮温室の研究員になって日の浅い檳榔には到底それをできる自信はなく、また金雀枝もそれを檳榔に任せようとは言い出さなかった。

 植物の成すドームの中にぽっかりと空いた空間にカウチと大理石の机、それを挟んでソファが置いてある。

 それが金雀枝の“部屋“であった。

 王宮温室を訪れる者は等しくここに招かれ、金雀枝と向かい合って話をすることになる。

 幾ばくもない空間であるが、生来の体質から王宮温室を出ることができないという金雀枝にとっては充分すぎるほどであっただろう。

 金雀枝に言われるままソファに腰掛けた檳榔は、金雀枝の手によって用意されたお茶の香りがいつもと違うことに気がついた。

「今日は加密列茶ではないんですか」

「おや、分かったかい」

 ぱっと咲くような笑みである。

「石斛の君がいつも同じものではなんですからと言ってくれてね、違うものを用意してくれたんだよ」

 檳榔がいつもとお茶の種類が違うことに気づいたことに機嫌を良くしたのか、金雀枝は一層嬉しそうに笑った。

「まあ、ちょっと見ておくれ。加密列とはまた違っていてね」

 その言葉と共に二人分のカップにゆっくりと注がれていく液体をぼうっと目で追っていた檳榔であったが、薫りたった異国の香りに目を丸くした。

「金雀枝の君、これは」

「素敵な香りだろう」

 蔦や花の繊細な装飾が施されたカップの中に渦巻くのは柔らかな黄色であったが、金雀枝が愛飲している加密列茶のそれとはまるで別の香りであった。

「これは、その、お茶なんですか」

「れっきとしたお茶だよ。なんでも、茴香のお茶だそうだ」

 檳榔の前に白魚のような指がカップを置く。

 薫る異国の香りに、檳榔は恐る恐る口を近づけ、一か八かという表情で一口啜った。

 金雀枝は目を細め、反応を伺うようでもあった。

「……どうだい、檳榔の君」

「……!!金雀枝の君、」

 檳榔は飲む前の怪訝そうな表情など忘れたかのような晴れ晴れとした顔をしていた。

「とても、……爽やかですね。頭が冴えたような気がします」

「それは良かった。たまには変えてみるものだね」

 カウチの肘掛に頬杖をつき、金雀枝はその肩から文官の証である毛皮のストールを滑らかな手つきで下ろした。

 むき出しになった白い肌に巻きつく華やかな装飾品が光を反射する。

 硝子の壁から入り込むきらきらとした日の光が金雀枝の絹のような髪を、宝石のような瞳を照らし、金雀枝が呼吸をするごとに光のきらめきも少しずつ変わっていくようであった。

 檳榔は暫し、茴香茶を啜った口内に広がる甘みと爽やかさを味わっていたが、目を細めて自分を見守る金雀枝の視線に気づき、ばつが悪そうに問いかけた。

「金雀枝の君、……俺、何か変ですか?」

「いや、そうではなくて……美味しそうに飲んでくれるとうれしいなと思ってね」

「はあ」

 要領を得ない返事とともに、檳榔は何とはなしに気恥ずかしくなってうつむいた。

 金雀枝の瞳に見つめられると、どうしてもそれをまっすぐ見返すのは難しいのであった。

 金雀枝が苦手というわけではない。ただ、そのきらきらと光を得て宝石のようにきらめく瞳の奥に見える好奇心、優しさ、そういうものにまぎれて、悪意でもなく、かといって善意でも無いような、何か不可思議な意志を感じるような気もするのであった。

 王宮温室には金雀枝の古くからの友人たちが、地位や立場関係なく訪れる。文官長である春蘭、宰相である馬酔木、檳榔はこの数ヶ月の間にそういった不思議なひとびとを随分と目にしてきた。皆それぞれにその真意を薄布で覆い隠したような、真意をこちらには悟らせぬひとびとばかりであった。しかしその誰の瞳とも、金雀枝の瞳は違っているのである。

 とはいえ到底その瞳の奥の“なにか”を追求する気にはなれなかった。きっと、金雀枝にも何か思うところがあるのだ、だからあのような不思議な光をたたえた瞳をしているのだ――と、その不可思議さを無理やり自分に納得させてきた節があった。

 色の無い唇は口角を上げて僅かに笑み、檳榔を見ていた。が、やがてその唇が開いて、うつむいた檳榔に言葉を投げかけた。


「檳榔の君の生まれ育ったところは、どんなところだったんだい」


 ひどく優しい声だったので、檳榔は面食らって再び顔を上げた。

 金雀枝は相変わらず微笑んで答えを待っているようであった。

「あ、俺の……ですか」

 なぜ急に自分の出身地のことを聞かれたのか咄嗟に理解できず、檳榔は聞き返す。

「思えば、それを聞いたことはなかったなと思って」

「面白いことなんか何もないですよ」

 ここほど人がたくさんいるわけでもないし、とカップを大理石の机に置き、手振りをしてみせた檳榔に、金雀枝は彼が予想しえなかった好奇の光で目をきらめかせた。

「そういう話が聞きたいんだ」

 金雀枝は細く長い指を組み、カウチに深く腰掛けて続ける。

「私の友人たちには貴族出身の者が多くてね。幼少のときの話や、自分の生まれ育った話のことを聞いたところでみんな同じ話なのだよ」

「そういうものでしょうか」

「そうなんだよ。私は生来の性質であまり遠出はできない――どころかほぼほぼここから動けたためしが無い。幼い頃の思い出に大して面白いものも無いし」

「逆に――その、不躾な質問ですが……金雀枝の君は、どこのご出身なんです?」

「おや、私が質問される側になるとは」

 やられたな、と呟いた金雀枝は、あっけらかんとした様子で

「私も私の友人たちと同じ、貴族の出身だよ」

 と答えた。

「城下町から外へ出たことも無い。出身はと聞かれたら、この辺りと言うしか無い」

「金雀枝の君は、仕官し始めてからずっと王宮温室付きの研究員を?」

「そう、ずっとだよ。ずっと――」

 檳榔に向けた言葉でありながら、それは途中から王宮温室の植物たちに向けられたものにも思われた。仕官しはじめてからずっと王宮温室にいると言うのなら、ここの植物たちも愛おしく思われて当然だ。

 森や山の草木に慣れ親しんだ自分が未だに王宮温室の薬草や野草に親しさ、安心感を憶えるのと同じようなものなのだ、と檳榔は腑に落ちる思いであった。

「――それで、檳榔の君は」

 自分の出身のことをあっさりと語り終えた金雀枝は、やはり檳榔の出身のことが聞きたくて仕方の無い様子である。研究者じみた好奇心を宿した瞳が檳榔を捉えて離さない。

「本当に大したことないんですよ」

 と前置きして、檳榔は話し出した。


 俺の生家は本当に小さな村にあって、周りには大した街もないし道もないんです。

 この王宮に来るまでだって、相当掛かりましたよ。

 けど、人がいない分草木は元気な場所でした。少し行けば森ばかり、人よりも動物の方が多かったかもしれません。

 俺の母さんは薬草や野草に詳しいひとでした。

 学者や医者には及ばないけど、この傷にはこれが効く、この症状にはこれが効くって、俺がヤンチャして怪我するたびに自分で作った薬を塗ってくれました。

 病は気からとか言いますし、ほんとの効能はどれくらいかわかりませんけど、それでもよく治りましたよ。

 俺は母さんについて森の中に入ったり山の中に入ったり、草っ原の中で手伝ったり遊んだり、そうやって過ごしてました。勉強は嫌いじゃありませんけど、専ら友人と遊ぶか、母さんの手伝いか、それしかしてないようなもんでした。

 金雀枝の君はご存じないかもしれませんね。武官、特に俺みたいな貴族出身じゃない武官なんて大体そんなものです。馬鹿じゃないけど秀才じゃない。俺だってここへ仕官を始めた時は一生剣を振り回して生きていくもんだと思ってました。

 ──俺の出身地の話でしたよね。

 さっきも言った通り、山と森くらいしかないところでした。でも、その中にすごく綺麗な泉があったんですよ。

 森も結構奥に入らないと辿り着けないような場所で、その泉の周りは薬草や花がやまほど咲き乱れてるんです。

 母さんは、「ここの泉は女神様の加護があるんだ」と言ってましたよ。女神様の名前も聞いたような気がするんですけど、何だったかな。お前も真面目に健やかに生きていればこの女神様の加護が受けられるんだなんてしょっちゅう言われてました。

 他には、何があったかな……ああ、獣もすごく多かったんですよ。と言っても猛獣みたいなのじゃなく、鹿や兎とか、そういうのですけど──俺、大きな鹿を見かけたことがあるんですよ。もしかしたら神様だったのかな、とか思いますけど、アイツはまだ生きてるのかな。

 あとで父さんや母さんに聞いたら、それは泉の女神様の使いだなんていうから驚きましたよ。ここの図書館には沢山、いろんな国や場所の話や言い伝えが書物になって残ってるでしょう。もしかしたら調べたら俺の住んでた所の話も見つかるかな、なんて思いますけど。

 ──え、父さんですか。

 父さんは猟師をしてるんですよ。父さんは弓が上手くって、俺にも教えてくれました。まあ、俺は器用じゃないし、ジッと的を定めて待つ、なんてことができなかったので、父さんは猟師をさせるのを早々に諦めたみたいでしたね。そういや、父さんも女神様っていうのを信じてたな。

 俺の出身地の辺りだけなのかもしれないですけど、きっと立派な女神様なんですね。

 ──そんなものですよ。貴族のひとの方が、こういうときの面白い話題には事欠かなそうですけど──


 檳榔がそう言って自身の出身地の話を締めくくったとき、金雀枝はその話を聞き始めたときよりもだいぶ前のめりになっていた。

「面白い話でもなかったでしょう」

「檳榔の君、あなたの話は王宮の貴族出身のひとびと皆が聞きたがっているような話に違いないよ」

 常より興奮した様子の金雀枝の瞳は、硝子の壁から入る光の為だけでなく、彼の心から湧き上がってくるような好奇心によるものであることは想像に難くなかった。

「森も山も、女神がいるという泉も、一目この目で見られたらどんなに幸せだろうね。しかも、その周りには花や野草が咲き乱れている」

 うっとりとした心地らしい金雀枝に、檳榔は気恥ずかしくなった。自分の出身地のことを改めて話したのも一因であったが、何よりも金雀枝の喜びよう、なにやら過度な期待を寄せられている心持ちは、どうもむずむずとする気がしてならないのであった。

「それにしても、檳榔の君の御母君は大変な才媛でいらっしゃるのだね」

「さ、才媛だなんて」

 今更自分の母のことを顧みようなどとは思ってもみなかった檳榔は、金雀枝の賞賛に狼狽える。

「ただ少し、薬草や野草に詳しいだけで──俺の村の女の人は皆そうでした」

「けれど、薬草を煎じて薬を作って、しかもこれに効くあれに効くというのが分かるというのならば、それはもう医者みたいなものじゃないか」

「そういうものですかね」

「檳榔の君はもっと御母君を誇ったほうがいい。そして、くれぐれも──狩人だという御父君もそうだよ。大切にして、決して卑下するようなことなどするものではない」

「は、はい」

 優しい口ぶりではあったが、それでいて反論を許さぬような言葉の一つ一つに、檳榔は気圧されて素直に返事をした。

「金雀枝の君の……御母君と御父君は、きっと立派な方なんでしょうね。金雀枝の君は貴族のご出身と仰ってましたけど」

「立派なひとだよ」

 金雀枝は滑らかにその言葉を返したが、その後に父母の説明をするわけでもない。

「俺、貴族のひと達に会ったのはここに仕官しだしてから──というか、王宮温室の研究員になってからなんです。でも、まだ貴族の女性には会ったことないな……きっと、綺麗で頭が良くて、みんなお姫様みたいな……そういうひと達なんでしょうね」

 夢想する檳榔を金雀枝は黙って見ていたが、やがてぽつりと、しかし淀みなく柔らかな言葉を吐き出した。

「実は、産みの母親のことはよく覚えていない。どんな女性だったのか、まるで知らないんだ」

 実の母親のことを“よく覚えていない“と言った金雀枝に、檳榔はその言葉を咀嚼するのに暫く要して──そして、なんと言葉を返すべきか、その逡巡にも暫く時間を要した。

「その、金雀枝の君──」

「気にしないでおくれ。話に聞けば、私の母は産後の肥立ちが悪かったらしい。私を産んで直ぐに亡くなったというから──そういうことはままあるだろう?私も今更これを説明するのに気分を害すなどということはないし、……どうかそんな顔をしないでおくれ」

 檳榔は今にも泣き出しそうな顔をしていた。

 表情豊かな彼の顔は、彼の抱いた感情に準じてころころとよく動く。金雀枝がこともなげに発した悲劇的な出生の話に胸を刺されたように、檳榔は涙すらこぼさないが、我が事のように辛い顔をしてみせた。それは到底、嘘泣きの類にも思われなかった。

「俺、……金雀枝の君がそんな、……」

 どう口にして良いかわからないというように、ぽろぽろと言葉を絞り出す檳榔を見かねたものか、金雀枝は笑って言う。

「もとより、哀しんでなどいないよ。私にとっては最初からいなかったようなものなのだからね。……貴方のようなひとには辛く感じられるかもしれないけれど、私にはどうにも──ないものはない、そういうものだよ」

 檳榔ははい、ともええ、ともつかない言葉を薄く開けた口からぽろりとこぼした。

 金雀枝はポットを持ち上げ、お代わりは?と聞きながら檳榔のカップへ差し出す。檳榔はなんとか頷いてみせたが、未だ心の整理がつかぬ様子であった。

 慣れた手つきでポットから茴香茶を注いだ金雀枝は、そんな檳榔をじっと見つめていた。

 薄絹を通すかのような下ろした右の前髪の向こうから、宝石の煌めきを擁する瞳が、目の前の男の感情の揺れ動くのをじっと見つめているのである。

 先に動きと言えるほどのものを見せたのは、金雀枝の方であった。

 カウチからつと立ち上がり、装飾品の擦れる音と衣擦れの音をさせて、ゆっくりと檳榔の座るソファの隣へ腰を下ろした。

「え、金雀枝の君」

 まさか隣に金雀枝が座るなどとは夢にも思わなかった檳榔は、素っ頓狂な声を上げる。

 きらきらと輝く瞳が、僅かに伏せられた憂げなまつげの向こうから檳榔を見ていた。

「貴方をそうまで悩ませるつもりはなかったんだけれど」

 白く細い指が、所在無く檳榔の膝の上に投げ出されていた手を包む。

 細やかな装飾が施された指輪が飾る、器用で白い指は冷えていて、ペンよりも剣を握ってきた檳榔の手に恐ろしいほど不似合いに思われた。

 あまりのことに檳榔は咄嗟になにかを言うこともできず、包まれるままに冷たく白い手を許容した。

「檳榔の君、──貴方は本当に、羨ましいほど感情が豊かなのだね」

「そ、……そんなことは」

「王宮で政を司るひとびとはね、皆貴方のような感情を持ち合わせていないのだよ。必要ないからと言って──私もどうして、ひとと話すのは好きだけれど、ここから出ることをしないから、はて喜怒哀楽など必要ないのではないかと考えたこともあった」

 檳榔は金雀枝の瞳から、語る色のない唇から目が離せなかった。

「けれども、貴方が来てからというもの会話は明るく感じられるし、喜怒哀楽は見えた方が尚良いのだね」

 にこ、と金雀枝は笑って見せたが、無邪気でいて、その奥に不可思議な光を湛えた瞳が在った。

「だから、どうか私のする話で哀しむのはこれきりにしておくれ」

 諭すような、慰めるような、柔い声音が檳榔の耳になめらかに滑り込んでくるのを、言葉の意味を噛み砕くのを、そう時間はかからかなかった。

 金雀枝の冷たい指先が、檳榔の人並みの体温を得て少しばかり血の巡りを取り戻したかのようであった。

 ね、と檳榔にしか聞こえぬような声が、音が、沁み渡って硝子のドームのどこかへと消えていった。

「金雀枝の君、……その、ありがとうございます」

 この場にふさわしいであろう言葉をなんとか絞り出したらしい檳榔は、へら、と溶けるように笑む。

 その笑みを得た金雀枝もまた、溶けるように笑んだ。


 白壁の王宮温室の建物すべてを、その世話係として取り仕切る石斛は、王宮温室が王宮温室たる所以である硝子ドームの側から一日の僅かな時間を除いて離れることはない。

 金雀枝が狂気に侵されていた時、万が一の際に金雀枝を鎮静させる役目は常に石斛であった。金雀枝が「正気に戻った」今でも──日中は研究員である檳榔が金雀枝の側にいると分かっていても、彼はかの日々の習慣を変えることはしなかった。

 王宮温室は決して大きな建物ではない。

 王の住まう主宮に比べれば、ごくごく小さな建物に過ぎない。訪れる者も滅多にいないが故に、彼は未だにその習慣を続けられるのであった。

 彼が硝子ドームの入り口の側から離れるほんの僅かな間、彼は白亜の柱が幾重にも並ぶ廊下をゆっくりと歩きながら建物を労わるように手入れをし、或いは考え事をし、そうして過ごすのである。

 王宮温室を覆うようにその白壁に這う青々とした蔦は、建物の中にまで入り込む。

 それを細かな装飾が施された銀製の鋏で断ち切って手入れするのが今日の石斛の仕事であった。

 常々、石斛は「王宮温室付きの世話係」という肩書きは真に文字通りであると考える。金雀枝の世話係というのもまた間違いではないが、自分以外にこの建物を手入れできる者がいないとなれば、この建物の掃除、手入れ、それをするのもまた石斛である。

 ぱちん、ぱちんと白亜の壁に無遠慮に伸びてくる蔦を切りながら石斛は思う。

 無論、今の世話係という任に文句があるわけではない。上司──金雀枝からの厚い信頼を受け、多忙とは程遠い、このなだらかな日々を半永久的に続けるのは、きっと幸せだろうと思うのである。

 金雀枝は石斛に対して世話係というよりは弟か何かのように接する。檳榔が来てからは檳榔もその範疇であるらしいが、金雀枝のあやつる柔らかな言葉と、まるで時を忘れるかのような王宮温室の時間の流れの中で、本当にそうであるかのように思われてくるから不思議である。

 切り取った青々とした蔦を無下に捨てるのは勿体ない、金雀枝へ届けようか、そんなことを考えながら石斛は歩く。

 石斛が王宮温室の世話係になったのは、金雀枝が筆頭研究員ではなかった頃──つまり、「先代」の筆頭研究員がいた頃であった。尤も、だからといって先代のことをよく知っているわけではない。そして、その頃から金雀枝は今となんら変わらぬ性格をしていた。捉えどころがなく、植物をこよなく愛し、しかしその腹の底に薄布でくるんだ鋭い真意を秘めている。

 石斛は金雀枝のその捉えどころのなさ、教養の深さ、そういうところを慕っていた。

 であるから、金雀枝が狂気に侵されたときはそれが二度と戻ってこないのではないか、この金雀枝の「抜け殻」が永遠にこの世を彷徨うだけになってしまうのではないか、そう恐れた。

 空木が悪いわけでも、自分が悪いわけでも、金雀枝が悪いわけでもない。誰も悪者など存在していない。そう分かってはいても、自分を責めたこともあった。金雀枝の王宮温室から出ることができないという体質を、我が事のように憂いたこともあった。

 金雀枝が突然正気を取り戻し、檳榔が王宮温室研究員として連れてこられたとき、石斛は檳榔へ約定させた。

「空木の君の名を出さぬこと」「金雀枝の君を置いていかないこと」感情豊かな若き武官は、涙を流さん勢いで一も二もなく約束した。

 金雀枝と檳榔を見ていると、石斛はどうしても金雀枝と空木の様を思い出すのであった。

 もう一度、あのようなことがあったら。

 もう一度、金雀枝が信じた愛しい友人に置いていかれたら。

 もう金雀枝はこちらへ戻ってこれまいと、石斛は身震いする。

 美しく脆い天才が二度打ち壊されるのが恐ろしかった。

 片手に持った切り口もみずみずしい新緑の蔦を握りつぶしそうになり、石斛は慌てて深く息を吸い込んだ。

 王宮温室の入り口、精巧な装飾が埋め尽くす巨大な金属の扉のノッカーを叩く。

「金雀枝の君、石斛でございます」

 はいっておくれ、と朗らかな金雀枝の声が聞こえて、石斛は無性に安堵する。

 金雀枝の安寧を願う彼には、それは何よりの証であった。

 重たい扉を開け、もはや通い慣れた植物の迷路を往く。

 上から垂れ下がる鮮やかな緑色の蔦、赤や白の斑が入った大ぶりの葉、裏側も透けて見えそうな繊細な葉、華やかな芳香を放つ小さな花、それらが石斛の行く道を埋める。

 金雀枝が「部屋」と称する、植物の迷路の中にぽっかりと空いたほんの小さな空間には、カウチと大理石の机、それを挟んで来客用のソファが置かれている。

 カウチに座った金雀枝の向かいには、相も変わらず表情豊かな檳榔が座っている。

 数時間前に自分が用意した茴香茶が入ったカップを持つ二人に、石斛は控えめな声で、

「お邪魔でしたでしょうか」

 と声をかける。

「とんでもない。何故貴方がここへ来るのを拒む理由があるんだい──第一、入ってと言ったのは私だよ」

 柔らかく朗らかに笑う金雀枝に、石斛はそれではと言って軽く頭を下げる。

「──ここの外壁の蔦を手入れしたのですが、そのまま捨てるのも如何なものかと思ったものですから、折角なら金雀枝の君にと」

「ああ、ありがとう──檳榔の君、空いた水鉢があっただろう」

「は、はい」

 檳榔が立って、植物の迷路をかき分けて水鉢を探しに行く。

 石斛の手から、白魚のような指が蔦をとる。

「蔦は生命力がとても強いからね。水をこまめに換えてやりさえすれば、あっという間に伸びるんだよ」

 青々とした蔦を見る金雀枝の瞳は、ひとを見るより柔らかで慈愛に満ちている。──と石斛は思う。

 心の底から植物を愛するひとなのだ。

 このひとの前では、何物も植物には勝ち得ないのだ。

 戻ってきた檳榔が差し出した小さな水鉢に、金雀枝はそっと蔦を浸ける。

「檳榔の君、二日に一度はこの鉢の水を換えてやっておくれ」

「わかりました」

 そう言って水鉢を元の場所へ戻しに行く檳榔を目で追いながら、金雀枝は石斛へ語りかける。

「……武官長殿は、本当に良いひとを選んでくれたね」

「ええ」

「石斛の君もそう思う?」

「ええ」

「それは良かった」

 金雀枝が檳榔を見る瞳は、かつて金雀枝が空木を見ていた瞳であるように思われてならない。

 今度こそは、と思う。もしや今度も、とも思う。

「石斛の君?」

 金雀枝の横顔を見つめてぼうっとしていた石斛に、金雀枝の声が問う。

「あ、……いえ、失礼致しました。そろそろお暇致します」

「そうかい?いつもありがとう、石斛の君」

 勿体ないお言葉ですと頭を下げ、石斛はゆっくりと踵を返した。

 石斛はこの鮮烈な緑と生命に満ちた硝子のドームで、金雀枝がただ、平穏な暮らしをすることだけを願っている。

 そして、かつて金雀枝の身に起こった悲劇が二度と起こらないよう、もし万が一にも再びそれが起ころうものなら、自分の手を汚してでも止めるのだと誓っている。

 緑の迷路を抜けてゆく石斛の頭上から、昼下がりの陽光が優しげに降り注いでいた。

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