第7話
貿易や外交を司る高官の一人である連翹は、この何日かを貿易で扱う膨大な量の積荷の内容が記されたリストの確認に追われていた。
ひとには書物と向き合うのが向いている者、他人と向き合って交渉するのが向いている者と様々いるだろうが、連翹はその二種類で分けるのならば圧倒的に後者の部類なのである。
書類仕事ができないという訳ではないが、すぐに肩が凝ったり頭が痛くなったりするのでたまったものではない。
彼が此処最近入れ込んでいると噂になっている文官長・春蘭には無論その多忙から会いに行くことも叶わず、連翹の常の人当たりの良さは随分と失われていた。
彼が配属されている部署のある王宮の棟を出たのは夕方頃で、その後に武官長である空木と会う為、武官長室へ着いた時には、もうすっかり日は落ちていたのであった。
空木と連翹は王宮へ一年違いに仕官を始めた。
先に仕官を始めたのは空木の方である。とはいえ空木は王宮温室付きの研究員、連翹は文官から間もなく高官へ取り立てられたから、さして昔から関わりがあった訳ではない。
彼らがこうして酒を呑むような仲になったのはごく最近──二、三年程前からのことで、即ち研究員から武官へ転身した空木が長期遠征の任を成功させて帰還し、武官長へと瞬く間に昇進してからであった。
文官から武官への転身など滅多にあるものではない。
専門分野が違うのだから当たり前であろうが、空木はそつなくこなす男であった。
上司部下の隔たりなく好かれ、情の深い、律儀な男である。ひとに好かれるのは無論大きな利点になるが、彼の情の深さは、連翹からすれば諸刃の剣にも思われた。
一人に入れ込みすぎては周りが見えなくなり、やがて破滅を招くことになりかねぬ。政に関わるのならば、事の全体を見回せなくてはならぬ。
連翹は自分が根っから政に関わる事が向いていると考えている。その連翹から言わせれば、空木ほど政に向かない男はない。
良い君主にはなれるかもしれないが、その下であれやこれやと物事をこねくり回す、そういうことには向いていない。頭が悪いわけではないが、情が深すぎる、優しすぎるのである。
その誠実で優しすぎる男は、約束の時刻から少し遅れてやってきた連翹を二つの杯と共に待っていたようであった。
「仕事が長引いてしまってね」
「貴方はお忙しい身だ。無理をして今日来なくても良かったのだぞ」
「酒がなければ、あんな忙しい仕事とうに投げ出しているところだ」
では、と言った空木が連翹の杯に葡萄酒を注ぎ、それから自分の杯に注いだ。
花や木、鳥、果実がふんだんにあしらわれた金色、鮮やかな模様が一面に描かれた杯の中に、葡萄酒がなみなみと揺れていた。
「おや、今日の葡萄酒は透明なのだな」
「珍しいだろう。貰ったのだが、どうせ一人では飲みきるまいと思ったから」
「葡萄酒は皆葡萄の色をしていると思っていたが、そうでないものもあるんだな」
「白葡萄酒というものらしい」
確かに、いつもの葡萄酒を赤とするならこちらは白にもなろう。
よく見てみれば、透明というよりは琥珀色の液体であった。
芳醇な葡萄の香りがするが、赤葡萄酒のそれよりも柔らかである。
「……乾杯しよう」
机を挟んで向き合った武官長と高官は、軽快な金属音を立て、どちらからともなく杯を付き合わせた。
連翹が文官長である春蘭にぞっこんらしい、などという噂はここ最近、空木の耳にも容易に届くほどである。
空木が小耳に挟むものは大抵余計な尾ひれ背びれがついており、やれ春蘭が怪しげな呪いなど使って若い連翹を拐かしているだの、連翹は春蘭にぞっこんと見せかけて実は政の盾として使うつもりらしいだの、聞くに堪えないものばかりであった。
空木は連翹が春蘭を好こうと好くまいと自由にすべきだと思っているが、真実はともかく噂ばかりが一人歩きしているのをなんとかしないのか、とは思うのである。
空木は柔らかな口当たりの白葡萄酒で口を湿らせた後、思い切って切り出した。
「連翹の君、貴方は春蘭の君との噂を正そうとは思わんのか」
丁度白葡萄酒を口に含んだばかりだったらしい連翹は、一瞬目を見開いたが、どうやら空木の言葉の意味を理解して驚いたものか、非常に飲み込み辛そうな表情でなんとか酒を嚥下したらしかった。
「──……こ、これは、……お聞き苦しい噂が貴方の耳にも入っていたとは」
「さして聞き苦しいとは思わないが、有りもしない噂が一人歩きするのは貴方の評判にも、春蘭の君の評判にも関わるだろう」
杯をテーブルに置き、連翹は空木の真摯なまなざしから目を逸らすように口を開く。
「有りもしない、というか、僕が春蘭の君の処へ通いつめているというのは紛れもない事実だがね」
「それはいいが、やれ春蘭の君が呪いを使って貴方を誑かしているだの、逆に貴方が春蘭の君をいずれ政の盾に使うつもりだの──」
「少なくとも後者はあり得ないことだ」
食い気味に空木の言葉を遮った連翹に、空木は少々面食らった。
連翹は感情は豊かだが、感情的になることは少ない男である。ひとの言葉を最後までゆっくり引き出してから吟味するような男なのである。
それがやはり、春蘭との関係に言及されると多少なりともそういう感情的な部分が出てくるというのは、連翹は心底から相当、春蘭に入れ込んで──というか、恋をしているのであろう。
「空木の君、武官長である貴方なら春蘭の君が呪いなど使うひとでないことは分かっているだろうに」
「私は確かに知っているが、春蘭の君のことを詳しく知らない者からすれば、そのように見えるのは否定できないな」
「不思議なひとだが、僕はそういうところに堪らなく惹かれているんだ」
連翹のよく手入れされた赤髪に似た紅潮が、彼の顔にも徐々に現れていた。尤も酒のせいか、はたまた春蘭のことを想ってか、空木にはそれを見通すちからも無かった。
「貴方のような立派な家柄の方ならば許嫁などがいそうなものだが、そういうのはまるきり袖にしているというわけか」
「僕は長子ではないから、許嫁なんか当てがわれなかったけれど、結局年下の娘を紹介されたり、言い寄られたり、無いわけではないよ。でも、春蘭の君に勝てる娘なぞいるものか」
これは相当ぞっこんなのだなと、空木は内心声に出さずとも考えた。
連翹は人当たりの良い優男だが、それがこうも一人の相手、しかも年上の男へ入れ込んでいて、その他の女に見向きもしないとなれば、もしかすれば若気の至りと呼ばれることもあるかもしれないが、何にせよ本気なのであろう。
しかし、空木は春蘭が到底、連翹へ易々と心を許すようには思われなかった。
春蘭はつかみどころのない男である。
薄絹を重ねたような儚く妖しげな容姿、捉えどころのない性格、王宮図書館の本を全て暗唱できるというまことしやかな噂も確かと思われる頭脳、文官長である春蘭と同じ地位にある空木でさえ、その薄絹の向こうに腕を通し抜けた、そう思えたことは一度もない。
「連翹の君が春蘭の君へ想いを捧げているのは分かったが、春蘭の君から貴方へは素っ気ないのじゃないか」
「……春蘭の君は誰に対しても同じ態度だよ。そういうところもまた惹かれるが、しかし赤檮の君には他と違った言葉をかけるから、僕はどうにも悔しいんだ」
赤檮と言えば、若くして、どころか幼くして文官として仕官を始めたと噂の“神童“である。
その神童が天才を慕って、また春蘭もそれを気に入っていて、春蘭の在る処必ず赤檮がついて回るというのは有名な話だが、よもや連翹が赤檮にあからさまに嫉妬するとは、空木からすれば面白い話である。
十歳以上歳のちがう相手に真面目に嫉妬の炎を燃やす年下の高官が、どうにも健気に見えて仕方なかった。
「春蘭の君から赤檮の君と同じ言葉をかけてもらうには何年あったって足りないだろう。──連翹の君が春蘭の君に弟子入りするというのならともかく」
「まあ、その方がいいかもしれないね」
そういう考え方もあったか、とさも軽やかにそう言った連翹に、空木は思わずため息をついた。お転婆の弟をたしなめる兄の気分であった。
「しかしね、空木の君、僕はこういう性格だし、決して貴方のように硬派な印象は持たれていない──それはそれで構わないが、春蘭の君へ向ける想いまでも軽いものだと──たかが一時のものであると思われるのは業腹だ」
どうしても惹かれるんだ、と連翹は続けた。
「何がきっかけだったか、どうしてそのように執着するのかと、詳しく聞かれてもあまり上手く答えられない。春蘭の君と出逢ったのも、何か正式な席が設けられていたというわけではなし、多分、廊下ですれ違ったとか──最初はあの容姿に惹かれたかもしれないが、官名を知り、様々に噂や評判を聞くうちにあのひとそのものに惹かれた」
「──貴方が随分と春蘭の君に執心で、それも一時の遊びというのではまたない、そういうのは私にも分かるが、貴方は政に関わる高官だ。少し前に言っていただろう、政に関わる者が一つのものに執心しては、やがて転がり落ちるように破滅すると」
連翹は空木の言葉に頷き、酒で口を湿らせてから、ひとの良さそうな笑みを浮かべて言った。
「確かに、僕にはそういう持論がある。広く物事を見渡せない者が政に関わるのは愚かであるとも思う。僕は、春蘭の君のことを自分の仕事や政に持ち込むようなことはしないと固く誓っている。それと同時に僕は春蘭の君に惹かれているし、あのひとに愛されてみたいとも思う」
若き天才高官が、その時ばかりはただただ、恋をする青年でしかなかった。名家の子として生まれ、地位も後ろ盾もある彼とどうにかして縁を結びたい、目に留まりたいと思う娘が決して少なくないことを空木は知っている。その彼がただ1人、こうして心を傾ける春蘭という男の捉えられなさ、儚さ、底知れなさを空木は思う。
「──僕は噂で流れているように、春蘭の君を政の盾にするつもりはない。地位も立場も無くても、あのひとに惹かれる自信がある。逆に、僕が自分を律しきれなくなって、あのひとしか見えなくなるのなら、その時は政を捨てるか、或いはあのひとへの想いを捨てるか、そのどちらかだ」
そうなったら、もしかしたら政の方を捨てるかもしれないな、と黄玉の瞳をきらめかせて、連翹は冗談とも本当ともつかぬ顔で笑う。
春蘭が連翹のことをどう思っているか、無論春蘭はそれを連翹本人に伝えるようなことはしないだろう。真意のわからぬ男、底の見えぬ男と散々いわれてきた春蘭のこと、このある種純真な若き天才高官を手玉にとることも容易であろうが、もしかすればその薄絹の向こうから手を伸ばし、情をかけることもあり得るかもしれぬと、空木は勝手にその先を夢想する。
再び白葡萄酒で唇を湿した連翹が、今度は空木へ問い掛ける。
「空木の君は武官長になってこのかた、特に色恋の話も聞かないが、さては密かに婚約者か、あるいは許嫁などがいるのかい」
再三こうして酒を飲み交わしてきた二人であったが、連翹が空木にこういう話題を振るのは珍しいことだった。
というのも、連翹はなにかと喋るのが好きな性格をしていたし、空木はひとが喋るのを聞くのも、その言葉の続きを引き出すのにも向いている性分だったからである。
珍しく連翹が聞き手に回るような質問をされ、空木は一瞬面食らった。
そして、その言葉を反芻し、どう答えようかと逡巡した。
連翹は空木の文官時代を詳しく知らぬ。
王宮温室で研究員をしていた、ということくらいで、空木と一緒に仕事をしていた研究員が誰か、そしてその研究員がどのような境遇であったか、それらを細かく説明するのは気が引けた。
空木はその研究員──金雀枝を数年の間、狂人へと変貌させてしまったと今でもその責を忘れずにいたし、それでいてつい最近、金雀枝が急に正気を取り戻したと聞いて尚、到底王宮温室を訪れて許しを乞うこともできないのであった。
空木は金雀枝を唯一無二と言えるほどに──深く慕っていたし、許しを乞うこともできぬ、会うことも許されぬと思ってはいても、その心の底から金雀枝を忘れ去ることはできないのである。
金雀枝を忘れることのできない空木は、結局のところ武官長としての任に一身を捧げた。それはある意味、罪滅ぼしであったかもしれぬ。王宮温室付きの研究員であったときの日々を片時も忘れたことはないし、金雀枝のことも忘れたことはない。だからこそ、彼は仕事に打ち込んだ。何度か彼を好く女性が現れなかったわけではないが、空木の心に金雀枝が未だ在る以上、血の繋がらぬ者がどうやっても空木の心の中に入り込むことも、空木に心底から愛されることもできないのであった。
空木が他人にそのように言いふらしたことなど一度もなかったし、つい最近、金雀枝が新たな研究員を求めているからと言われて急遽選んだ武官にさえ、肝心な自分の気持ちのことは告げずに事のあらましを話しただけである。
そういう訳であったから、空木には恋人も、許嫁もないのであった。
長い逡巡の末、空木はやっと、
「今のところはいない」
と言葉を選びながら答えた。
今のところ、と付けたのは保険のようなものだった。
「噂には、女官たちの間でも空木の君はそれなりに人気があると聞くがね」
「それは知らなかったが」
連翹は相変わらず快活な笑みを浮かべ、言葉を続ける。
「文官から武官に転身するというのは珍しいし、空木の君は武官にはない品があるとかなんとかでよく小耳に挟むよ──女官ならば武官長たる貴方にも相応しかろうと思うが、今はそれどころでないというわけだな」
「まあ、そんなものだ」
空木はその言葉で話題を終わらせようかとも考えたが、一呼吸置いて連翹へ問いかけた。
「ときに、連翹の君。……王宮温室というのは知っているだろう」
「知っているも何も、貴方が文官として居た部署だろう」
「そこの、筆頭研究員というのは」
「筆頭研究員?」
連翹は顎に指を当てて一瞬考え込んだが、ああ、と直ぐに声を上げた。
「生憎、詳しいことを知っている訳ではないが――この王宮の図書館にも彼の描いた植物図説があるなどという話も聞いたことがある。かなり優秀なひとなのだと……それが、どうかしたのかい」
「いや、知っているかと思って聞いただけなんだ。気にしないでくれ」
「言われてみれば、本当に詳しいことを聞かないな。まあ、なかなか足を運ぶ機会もない、公に姿を現す機会もない部署だな」
実際のところ、筆頭研究員である金雀枝の存在どころか、王宮温室の存在すら知らない者が多いのが現実である。
王宮の敷地内にあるとはいえ、王宮温室は特に離れた場所にある。空木が研究員をしはじめたばかりの時も、その遠さに辟易したものである。
金雀枝に言わせれば、『ひとがあまり近いと、植物がそれによって傷つくこともあるからね』ということなのであるが、では金雀枝や空木という研究員の存在はどうなのかと問えば、『ひとが一人もいないとなれば、今度は植物たちは限度もなく伸びていってしまう。ほぼほぼ、暴走みたいなものだ。だから、私たちがいて時折は世話をしたほうがいいんだ』という。
ひとと植物が共存し続けること、それでいて植物が限りなく自然に生き続けること、それが金雀枝の願いでもある。
「なんでも、植物が所狭しと並べられた硝子のドームなんだそうだね」
「そうだな、まるで本物の森にいるような気分にさせられる」
「そう言われると一度見てみたいという気持ちになるな。稀代の天才筆頭研究員にも会ってみたいものだ――空木の君、貴方は会いに行くことはないのか」
金雀枝と空木をめぐる一部始終を知る者はごくわずかだ。金雀枝と親交があった者だけがその真実を知っているし、王宮に仕官する者の大半は、そんなことを知る機会すらない。
「ああ、――忙しいのでな。それに、私はもうあそこの研究員ではない。王宮温室はあまり外部の者が足を踏み入れる場所ではないと私は思っている」
「いかにも、空木の君らしい理由だな」
連翹は笑い、王宮温室か、と一言呟いて白葡萄酒を呷った。
そのあとは他愛もない会話が続くばかりであった。ささやかな酒宴は夜が更けた頃に漸く終わりを告げたのであった。
「空木の君」
ひどく聞き覚えのある声が背後から自分の官名を呼ぶのに、空木はどうしても振り返ることができなかった。
振り返ろうとすると、身体がこわばるのである。
「空木の君」
もう一度、呼ばれる。
「空木の君」
三度呼ばれる。
振り返ることのできぬ強張った身体の中でなんとか唇をこじ開けて、空木は冷や汗が伝うのを感じながら、そっと声の主の名を呼ぶ。
「金雀枝の、君」
片時も忘れたことはない、想わなかったことはない、その男の官名を呼ぶ空木の声は震えていた。
空木が最後に目にした金雀枝は、空木を見ていなかった。空木の名前を呼ぶその目も声も、金雀枝の中の幻を見ていた。
しかし、この金雀枝はどうだ。
確かに、私を呼んでいる!
空木はもう一度、金雀枝を呼ぶ。
「金雀枝の君」
「ね、空木の君」
えもいわれぬ柔らかな花の香りが、空木の鼻をくすぐった。金雀枝の使っていた香だ。そう思った次の瞬間には、空木は――否、空木と金雀枝は二人、光がきらきらと差し込む硝子のドームの中にいた。
ミステリアスで美しい瞳が、隠した右の前髪の向こうから空木をじっと見つめている。
透き通る白い肌、日の光を受けて輝く絹糸のような長い髪、揺れる髪飾り、かつて空木を見て微笑んだ色のない唇は、空木がどれほど見たい、触れたいと願ったものだっただろうか。
「ずっと貴方に会いたかったよ」
「嗚呼、私も」
「戻ってきてくれるのかい」
「嗚呼、嗚呼、今すぐにでも、」
「本当に?武官長殿」
金雀枝の口が、『今』の空木を呼ぶ。
「本当に、武官長の地位も、なにもかもを捨てて、私の元へ帰ってきてくれるのかい」
「……」
柔らかな光の中に在る金雀枝は、まるで諭すような優しげな口調で空木に話しかける。
空木の上には、背後の大きな植物によって長い影ができていた。
「貴方は、全てを擲っても私の元へ帰ってこれるのかい」
「かつてそう想っていたように、私だけに何もかもを捧げられるのかい」
空木は一歩後ずさる。
どん、と背に感じたのは、足元に陰をつくる植物の幹だ。
「金雀枝の君、私は、」
「空木の君、いいえ、“クウィントゥス”」
まるで雷が落ちたかのようであった。呼ばれた名の耳懐かしさに身体は震えたが、その名は枷のように、空木の行き場をふさいだ。
「クウィントゥス、またこうして貴方の名を呼びたいのに」
「金雀枝の、」
「私の名を呼んで」
金雀枝は色のない唇で空木へと乞う。
クウィントゥス、王宮内で空木をそう呼ぶのは今や金雀枝ただ一人である。
それですら、十数年前に呼ばれたきり金雀枝の声音で聞いたためしはないのである。
背に当たるざらりとした感触、冷たい木の幹が背を塞ぎ、眼前には冷たい手でそっと空木の手を握る金雀枝が在った。
「クウィントゥス、私の愛しいひと」
甘美な響きであった。
そう呼ばれたのは遠い昔であるのに、初めてそう呼ばれたときの心持さえはっきりと思い出せるほどである。
蝋で固められたように開かない、色を失った自分の唇を漸くの思いでこじ開けて、空木は金雀枝のきらきらと光る瞳を見据えてその名を呼ばんとする。
「……愛しい、ひと、」
――空木はその名を最後まで呼べなかった。
正確に言えば、呼ばんとした名の最初の一音は確かに音になっていたはずであった。しかし、次にはもう金雀枝も、王宮温室も、柔らかな光も皆無くなっていた――彼がいたのは、ただ二人分の杯と空の酒壷が残された、暗い武官長室であった。
夜風で満たされて冷え切った部屋から、酒宴の相手を送り出したのは大分前のはずである。
まさかうたた寝をしたのか、夢を見たのかと、空木は行く当てもなくよろめきながら立ち上がった。
「とんだ悪夢だ」
先ほどまで夢の中で流暢に滑りよかったはずの声は嗄れていて、自分の喉から発せられた呟きのしゃがれ声に空木は苦笑いした。
「……金雀枝の君」
まぶしいほど黄金色の花の名を冠する官名はするりと呼ばうことができるのに、かつて自分にだけ呼ぶことを許された名前はどうやっても簡単には呼ぶことができないのであった。
武官長室の窓から見えるわけもない王宮温室を想って、空木は冷え切ったソファに腰を下ろした。
恥も外聞もなく、たった今王宮温室へ駆けつけて、呼び慣れたはずの名で彼のひとを呼べたらどれほど楽であっただろうか。
若い恋人同士のような真似が許されていた時間は、大分前に終わりを告げたのである。
武官長と王宮温室の研究員、かつての関係を知らない者からすれば、今その間を結びつけるのは容易ではない。
狂人となってしまった金雀枝を見たあの日から、空木は金雀枝のことを忘れずとも、心の奥底にしまい続けてきた。自分の責を問い、自分が遠征へと旅立った日を悔いた。金雀枝のことを夢に見たのは、以来初めてのことであった。
よくよく考えれば、あの日以来金雀枝を見ていないのである。
記憶の中の金雀枝に、都合のいいように自分の名前を呼ばせた夢を見て、その癖自分では金雀枝の名前を呼ぶこともできぬ。空木は深く息をついた。
春蘭を想う連翹のまばゆさに当てられたか。
政か、想い人か、必ずどちらかを選んで生きてゆくと言い切った若き天才高官の純真さに当てられたか。
あの男は己と、己が選ぶべき選択肢を殺さないやり方を知っているのだ。そして、きっと連翹ならば春蘭を選ぶだろうと空木は思う。
彼ならば選択に揺らがないだろう。
かつて功を焦った結果、何もかもを失った空木には連翹の朗らかな意志は眩しかった。眩しすぎるほどであった。
遠征へ行って功を立て、遠征から帰ってきたなら金雀枝とまた仲睦まじく過ごす、それが自分にはできると何の疑いもなく信じていたときがあったのだ。金雀枝も武功も、どちらも手に入れようとして焦った自分への罰のような悪夢だった。
空木はそっと自分の唇へ指をあて、夢で呼べなかった名を呼ぼうとした。
声に出さなくても、息の音だけでも口にしておかねば、やがて自分の中から消え去ってしまうのではないかと無性に不安になったのであった。
誰にも聞こえることのない息の音で、空木は自分の中の金雀枝を確認する。
王宮での職を辞するまで、否、辞したあとですら、もしかすれば金雀枝に会うことも、その名前を金雀枝に呼びかけることもないかもしれない。
自分勝手な記憶の中に閉じ込めて最後、もう二度と呼ぶことのない名前であるかもしれない。
それでも尚、空木は何度も指先に金雀枝の名を呼んだ。
むなしく指からこぼれた名前は、宙に広がってどこかへ行ってしまう様であった。
その行く先も見えぬほどの、ただただ月の無い夜であった。
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