第6話

 その日は朝から文官長たる春蘭が王宮温室を訪ねてきていたので、金雀枝は非常に機嫌が良いようであった。

 多種多様、大小長短も色も香りもさまざまな植物に囲まれた中に金雀枝の「部屋」のようにとられたスペースにはカウチとソファが大理石の机を挟んで置かれ、普段は羊皮紙の束で溢れる机の上は今だけ茶会の様相を呈していた。

 ソファに座る春蘭が朝日に象牙色のくせ毛をきらめかせ、細かな装飾が施された指輪をはめた白魚のごとき指を時折組みかえて、金雀枝の話に相槌を打つたびヴェールをあしらった髪飾りを揺らす様ははたから見ても常世のものとは思えない様子である。

 相対する金雀枝は友人の来訪に対する歓喜を隠すことなく、右目を覆う前髪の向こうの瞳はきらきらと子供のようにきらめいていた。透き通るような肌は朝日を受けて柔らかく映え、その長く手入れされた髪は宝飾品で丁寧に結われ彩られ、やはりそのような二人が向かい合って話している様は常世のものとは思われぬ。

 王宮温室付きの研究員である檳榔は、以前この温室を訪れた宰相・馬酔木のときにもおぼえた冷や汗が出るような緊張感を味わっていた。

 王宮温室付きの研究員でありながら、文官長や宰相、その他王宮の中にあって重臣である人々と多く親交のある金雀枝は彼にとって未だに不思議な存在であったが、それはきっと、ひとえに金雀枝の人柄の為すわざであろうとも思われるのである。

 植物の迷路の中で相も変わらず慣れぬスケッチを続けながら暇を見ては金雀枝と春蘭の様子を伺う檳榔であったが、些か浮世離れした組み合わせに目眩すらしてくるようなのであった。


「良い部下を得たのですね」

「まさか武官にあのようなひとがいるとは思わなかったからね、驚いたよ」

 にっこりと笑んで柔らかく言葉を紡ぐ金雀枝は、春蘭には視認できずともその声からも感情がにじみ出ているようなのである。

 盲目の春蘭が白く濁った目を細く開け、湯気の立つ加密列茶をゆっくりと口に運ぶ。

「あなたは良い上司だ、きっと大成するでしょうね」

「わたしもそう思う──尤も、まだ彼のことを殆ど何も知らないのだけど」

 金雀枝ははにかむように笑う。

「ええ、でも直ぐですよ」

 春蘭はそう言いながら、かつて金雀枝の助手であり──そして今は武官長である空木のことを思い返していた。

 王宮温室付きの研究員、つまり文官から武官へ転身し、急遽長期遠征の隊長へ任命された空木が見事遠征を成功させたあと、ほどなくして異例の若さで武官長の任に就いたのは王宮内では周知の事実である。

 事実空木は勤勉で堅実で硬派で優しい──優しすぎる男であった。

 文官長たる春蘭であるから、同じ地位にある武官長とは面識もあれば言葉を交わしたこともある。

 空木は「空木を忘れている金雀枝」を忘れられずにいる。

 彼が急な長期遠征へと赴くに際して、王宮温室から出ることのできぬという金雀枝は謂わば「置いていかれた」形になった。本来の帰国よりも数年長引いた遠征、それを知らずにいつまでも帰ってこないかつての助手を待ち続けた金雀枝は気が触れてしまった──というのは春蘭が直に見たことではないから詳しく知るわけではない──が、幾人かいる金雀枝の親友たる春蘭へ、つい最近になって彼の世話係から金雀枝が「正気を取り戻した」と知らされるまでは、目の前の天才が狂人に成り果てていたというのは確かなのである──そして、その狂人が天才へと戻ったとき、一番近くに在った筈の「空木のこと」がすっぽりと彼の中から抜け落ちてしまったらしいことも。

 空木は帰国して直ぐ、金雀枝が狂人と化してしまっていたことを知った。そしてそれを自分の責であるとひどく悔いたのだという。

 春蘭は空木に責が無いとは思わぬ。しかし、金雀枝を忘れることも彼の一つの選択肢であろうとも思うのである。

 空木は金雀枝に会うことはできないと言う。

 金雀枝が正気に戻ったと知らされて尚──尤も金雀枝は空木のことを「知らない」し、彼はそれを知らされていないらしい。結果的に会わぬ方が良いのかもしれぬ。

 目の前の天真爛漫な天才を忘れることのできぬ、切り捨てることのできぬ哀れな男のことを考えながら、春蘭は加密列茶を飲み干した。

「そういえば、春蘭の君」

「なんでしょう」

「話は大分変わるんだけどね──黄鶲きびたきの宮の皇子のことを知っている?」

 金雀枝の予想だにしなかった発言に、象牙色のまつげの下に覗く白く濁った瞳は見えぬはずの金雀枝を見た。

「黄鶲の宮の?」

「ええ」

「有名ではありませんか」

 ひとくちに王宮と言っても、その敷地は広大である。

 王が暮らす孔雀の宮──通称には主宮ぬしみやに始まり、それぞれに鳥の名前をあてられた宮が幾つも存在する。それらには王の妻達やその子──皇子皇女達が暮らしているのであるが、その中でも黄鶲の宮というのは何かと話題に事欠かぬところであった。

 こうして王宮温室から出ることができぬ金雀枝が、植物のこと以外で外界の話をするのはなんと珍しいことかと春蘭は内心舌を捲く。

 黄鶲の宮には第五皇子とその母──つまりは王妃や姉妹達が暮らしているのであるが、この皇子が特に端麗な容姿であると評判であった。

 盲目の春蘭には見ることが叶わぬ容姿であるが、聞くところによれば、上級貴族出身の母譲りの美しい黒髪に玉のような肌、鮮やかな葡萄色の瞳を持つ聡明な青年という。

 第五皇子であるから王位継承には遠いのだが、その聡明さと美しさは周囲のあらゆるひとびとの心を射て、後継争いはさておいても、上の四人の兄達から大層可愛がられ、下の弟達からも慕われているというのだから、こと政に深く関わる高官達の間でも注目の的であった。いずれ彼がどこかで兄達を抜いて王位継承争いに出てくるのはまず間違いがない、王位継承は遠いと言われているが案外わからないものだな、などと言っていたのは知り合いの高官・連翹であったなと春蘭は考えを巡らせる。

「そう、有名だ──実は、殿下は最近植物にご興味があるらしくてね」

 金雀枝は立場上、高官ではない。

 地位から言えば文官たちと変わりはないし、文官長たる春蘭と仲良くしてはいるが、立場の上では上司と部下である。

 しかし彼の気が触れてしまう前は、文官のみならず王族にもその知識や博識ぶりが買われていたのを春蘭は知っているし、王族が王宮温室に訪れることもあったらしいというのは専らの噂であった。

「もしや、殿下があなたにご相談を?」

「春蘭の君、私より先に言ってしまっては困るよ」

 苦笑いする金雀枝に、失礼、と春蘭も笑って返事をした。

「博識な方と聞いていたが、まさか植物にも興味がおありとは思わなかった」

「確か動物にもお詳しいのでしたね」

「そう、黄鶲の宮には鳥や動物をたくさん飼っていると聞いたことがある──それでね」

 黄鶲の宮の世話係からつい最近言付けがあったのだという。

「殿下が私に会いたいと──そう仰るそうだよ」

「出世の道が拓けてきたようですね」

 冗談めいて言う春蘭に、金雀枝もまた笑いながらとんでもないと手をひらひらと振った。

 春蘭は少し声を潜めて言葉を続ける。

「しかし、そのようなことを私に話してよいのですか?内密のご用事なのでは?」

「いや、それがね……殿下は私と春蘭の君が友人同士であるとご存知らしい。それで、もしも春蘭の君さえ良ければどうか同席して欲しいとの仰せなんだよ」

「二人して左遷の仰せかもしれませんよ」

「それは困る」

 くすくすとどちらともなく笑い出した金雀枝と春蘭であったが、やがて春蘭は首を縦に振って肯定の意を示した。

「殿下がお望みとあらば私も同席致しましょう。──それに、評判の黄鶲の宮の殿下にお会いできるなんて、なかなか無いことですから」

「ありがとう、春蘭の君──また追って文を出すよ」

 まだお茶があるよ、とポットを差し出した金雀枝に、春蘭はではとカップを差し出す。

 そのあとはなだらかな雑談が続くばかりであった。


 王宮温室の巨大な扉の傍で金雀枝と何故か文官長──春蘭と身を縮めて待つ檳榔は、先ほどから脇をつたう冷や汗を抑えられそうになかった。

 文官長である春蘭が来たというだけでも充分緊張していたところへ、あの重々しい扉が開いて、数人の供を連れた美しい黒髪の青年が入ってきたのを見たときは目の前が真っ白になるようであった。

 今日は殿下がいらっしゃるから申し訳ないけれど檳榔の君は温室の外の小部屋で植物の手入れをしていてくれないかい、と金雀枝に告げられた時には耳を疑った。

 殿下ということは王族である。

 この王宮温室付きの研究員となってからそろそろ一月ほど経つが、宰相やら文官長やら気軽に現れるのにもなかなか慣れぬというのに、王族まで来るとは!

 いつもは金雀枝が行っている植物達の細かな手入れを任されたことも充分冷や汗ものだが、まさか王族に会うことになるとは、到底一月前には予想だにしなかったことである。

 冷や汗を流しっぱなしの檳榔とは打って変わって、金雀枝と春蘭はまるで常と一片の変わりも無いようであった。

 金雀枝がこのようなことに動じないであろうというのはこの一月で徐々に知れてきたことであったが、あの盲目の文官長もやはり金雀枝と同じく不思議な胆力を持つ男なのであろうか。

 葡萄色の瞳をした黒髪の美しい青年──「殿下」が、ついてきた数人の供の方へ少し振り返ると、音もなく供の男達は頭を下げ、踵を返して整然とした身のこなしで温室を出て行った。

 そうして温室内は金雀枝と、春蘭と、「殿下」と、檳榔のみになった。

 金雀枝や春蘭も地位に合わせて多くの装飾品を身につけているが、「殿下」はそれ以上であった。王族とあらばそもそも高官や宰相たちよりも上の位であり、国を治める王の血を継ぐ高貴な存在である。平民出身の檳榔などであれば、本来一生会うことも無いのは間違いない。改めて目の前に在るひとの高貴なことを思い知った檳榔は、思わず小さく唾を飲み込んで、そっと「殿下」の様子を伺った。

 滑らかな黒髪を飾る、美しい宝石が嵌められたステパノ《冠》に加え、腰のあたりまで伸びるその髪の編まれた房に、そして耳、首、腕、手首、指、足首、そのどれにも様々な趣向を凝らした美しい装飾が在って彼を彩っている。上質な白いトーガの上には金糸銀糸で美しく刺繍が施された裾の長い素色の上着を羽織り、細やかな彫金がされた金具がついた細いベルトにはまた美しい宝石が幾つも並んでいるのである。

 髪色と同じ黒く長い睫毛の奥に葡萄色の瞳を伏せた「殿下」は、ひとつ息をついて深々と金雀枝と春蘭へ礼をした。

「……この度は、貴殿らにお会いできて──心から嬉しく思う。宮にも貴殿らの噂は届いている。如何せん自由に出歩くこともままならぬ身である故、このような訪問になったことを許してほしい」

 甘やかな声であった。

 誠実そうで、それでいて若く、好感の持てる声なのであった。

 もしかしたら、自分と同い年くらいかもしれない。

 勝手に「殿下」を伺いながら考えていたところへ、その葡萄色の瞳が檳榔を見遣ったので、檳榔は慌てて深々と礼をした。

「貴殿も王宮温室付きの研究員か。こうして場を騒がすことをどうかお許し頂きたい」

「あ、いえ、そのような」

 緊張にかすれた声は、慌てて下げた頭でよく聞こえなかったかもしれぬ。隣に立つ金雀枝が柔らかな笑みを浮かべて冷静に立っているのが未だに信じられぬのである。生まれて初めて王族に会い、言葉を交わす者が冷静に立っていることなど到底できるわけがあるまい。

 金雀枝や春蘭のように肝の座っている方が珍しいのだ──と思っているうちに、口を開いたのは金雀枝であった。

「殿下にわざわざこの様なところまでおいで頂き誠に申し訳ございません。殿下のお心遣いいたみ入ります」

 流れる様な礼のあとに続いたのは春蘭である。

「金雀枝の君との面晤へのご同席をお許し頂けたこと、大変光栄に存じます。殿下のご厚情に心より感謝致します」

 金雀枝と春蘭の挨拶に僅かに笑みを浮かべ、静かに頷いてみせた「殿下」は、ゆっくりと顔を上にあげ、王宮温室の中にぎっしりと広がる緑に息を飲まれている様であった。

「ご案内致します、殿下。──“応接間”へ」

 先立って歩き出した金雀枝に続いて、「殿下」はゆっくりと歩き出した。それへ春蘭と、檳榔が続いた。

 どこをどう通ったかわからないような道──それが応接間、即ちぽっかりと作られたカウチとソファ、それに大理石の机が置かれたスペースへ続く道なのである。

 檳榔は幾度も通った道であるからわからぬ訳はないが、前を行く春蘭が迷いなく歩くのは奇妙であった。

 盲目のはずである。

 視力を失った代わりに、何か鋭敏な感覚を得たのであろうか。

 まるで戸惑うこともなく柔らかな植物の屋根をかき分けて進む春蘭をじっと見つめていた檳榔を、一瞬、春蘭が振り返った。

 濁った白い瞳が、笑んで檳榔を見ていた。

 あ、このひとはただ目が見えぬわけではないのだ。

 そう思って、思わずぴたりと足が止まった。

「びろうのきみ」

 ざざ、と植物たちをかき分ける音に混じって、足が止まってしまった檳榔の耳へ春蘭の声がした。

 その声に押されるようにして檳榔は慌てて歩きだす。

 ──程なくして、金雀枝はいつもよりも幾分片付けられ整えられた“応接間“へ「殿下」を導いた。

 ここを片付けている時の金雀枝は、檳榔へ何も言わず──ただミステリアスな笑みを浮かべているだけであった。

 早朝の日を受けて美しくきらめく金雀枝の瞳は、ただ美しかったが、それ以上を察することはできなかった。

 今なお金雀枝はその時と同じ笑みを浮かべている。

「素晴らしい“応接間“だ」

 ほう、とため息をついてこぼれでた「殿下」の言葉に、金雀枝はにっこりと笑う。

「恐れ入ります」

 そして、所在無げに立ちすくんでいた檳榔には、

「すまないが檳榔の君、今日だけはこの席を外してもらえるかい」

 と柔らかく、しかし反抗の余地など凡そ無さそうな言葉を投げかけた。

「承知しました」

 と答えた言葉は緊張で固く、金雀枝は再度すまないね、と静かに繰り返した。

 王族、文官長、そして王宮温室の筆頭研究員、その三人が如何な会話をするものか、聞きたくないわけでは無いが、同時にこうも口が乾き、背や脇を常に冷や汗が伝うのは耐えられない──今だけは、かのミステリアスな会合への魅力よりも、言葉を発さぬ植物の手入れをする安心感がずっと勝ち得たのである。

 カウチとソファに腰掛ける三者三様の麗人の図は、檳榔には幾分、眩しくも見えたのであった。


「……して、殿下の御心を悩ませるものは一体何でございましょうか」

「王宮温室の研究員と文官長とは、殿下も珍しい組み合わせをご所望なさいますな」

 盲目の春蘭の目がちらと開いて、「殿下」──皇子のいる方を見遣ったようであった。春蘭は口を開く様子がない。目に見えるもの、それを失った代わりに得た鋭敏な感覚を張り巡らせているかのようである。

「──訳があるのだ。供を付けられぬわけも、貴殿方でなくては相談できぬわけも」

 絞り出すようにそう口にした皇子は、は、と息を吐いて、改めて言葉を投げかける。

「どうか、力を貸していただきたい」

「殿下のお頼みとあらば、無論臣下たる私達がそれを拒む道理などございますまい」

 金雀枝は常の人の良さそうな笑みを浮かべ、未だ固い面持ちの皇子の瞳を射止めた。

「……畏れながら、殿下は官名をお持ちでいらっしゃいましたね」

「嗚呼、持っている──それの方が都合が良いというのなら、その名で呼んで貰っても全く構わない」

「では、……茴香ういきょうの君」

 黄金の花を咲かせる木の名を冠する官名であった。

 金雀枝の色のない唇が皇子の官名を紡ぐ。

「あらためて、私が金雀枝でございます。──こちらは、文官長の」

「春蘭でございます。私でお役に立つことがあれば、喜んでお力になりましょう」

 軽く頭を下げて礼をした春蘭に、茴香は安堵の笑みを浮かべ言う。

「貴殿と金雀枝の君が知己であると聞いたときにはひどく安心をしたものだ。……是非に、頼む」

 そう言った茴香は、トーガの腰を留めている精巧な細工のベルトとトーガとの間から、布に包まれたほんの小さな瓶を取り出した。

 美しい細工の瓶である。

 その側面には一回りするように硝子細工の花の蔓が巻きついて、その蓋は花が咲いている様子の硝子細工なのであった。

 色鮮やかな青色の硝子の中には、透明な液体が半分ほどまで満たされて揺れていた。

「これは?」

 金雀枝は、茴香が慎重に大理石の机に置いた小瓶を手に取った。

「蓋を開けてもよろしいですか?」

「ああ、構わない。だが、あまり深く吸い込んだりすると──」

 そう言われた時には、金雀枝はもう小瓶の蓋を開けてその液体の香りを嗅いでいた。

「金雀枝の、」

 慌てたように身を乗り出した茴香に、横からゆったりとした口調で春蘭がそれを制した。

「ご心配召されますな。金雀枝の君は“そういうもの“にはお強いのですよ」

 目の見えていない筈の春蘭がなぜその場のことを良く分かっているものか、茴香はそれにも混乱したようであったが、実際目の前の金雀枝が何ともないことを分かって、またソファへと座り直した。

「随分……甘い香りですね。花の蜜──いえ、蜜は蜜でも、これは香りづけでしかないようだ」

 金雀枝は好奇心に満ち溢れた瞳をしていた。しかし、れっきとした研究者の冷静さもまた、その好奇心に宿っているようであった。

「茴香の君、これは鳥兜の毒ですね?」

 茴香は金雀枝の言葉に葡萄色の瞳を一瞬ハッと見開いて、肩を落としながら頷いた。

 春蘭はそれを聞いて尚、何も言いはしなかった。

「しかし、何故これを茴香の君が?誰方かの暗殺にでも使われるのですか?少し、香りが立ちすぎると思いますが」

「そうではない、私が誰かを暗殺など──考えたこともない。命じたこともないのだ」

「では、この毒は茴香の君の持ち物では無いのですね」

「……詳しく話せば長くなるが、聞いてもらえるか」

 茴香は姿勢を正し、ゆっくりと語り出した。


 ──貴殿らもご存知だろうが、私には四人の兄と下に一人、弟がいる。

 皆腹違いではあるが、同じ血が流れる一族、家族であるには違い無い。

 兄上達は大変に私を可愛がってくださるし、兄弟同士の仲も良い──だが、兄弟の情と名誉や地位は別物だ。王位継承順位の遠い私は日々呑気に暮らしていられるが、一番上の兄上と二番目の兄上は常にお互いを意識して争っておられる。

 それが先日、兄上達が兄弟皆を集めて剣術を競おうと言い出された。

 まだ剣の持てぬ幼い弟──第六皇子を除いて対戦が行われたのだが、やはり最後に残ったのは一番目の兄上と二番目の兄上であった。無論真剣ではなく、訓練用の剣を用いた対戦であったが、何しろ遠征へ出たこともある兄上達の剣技とあらば見ている方にも熱が入る。私達の声で兄上達もまた熱が入ったか、訓練用の剣でも双方傷がつくほどの闘いになった。

 勝ったのは二番目の兄上であった。

 一番目の兄上もそれを讃えておられたし、二番目の兄上もまた勝者の驕りなど見せない素振りで、私達兄弟はひどく感心していたのだが、その数刻後に二番目の兄上が急に苦しみだしたのだ。

 その場に六人が揃っていたから、一番目の兄上が介抱をして、一番下の弟は残して私と四番目の兄上、三番目の兄上は王宮医師を呼びに走った。

 医師が言うには傷から毒が入ったのだと、剣術勝負の際に剣に毒が塗られていたのでは無いかと言う。

 即座に剣を調べたが、確かに剣に毒が塗られていた──しかも、一番目の兄上の使った剣だった。

 私たちは卑怯なことを嫌う兄上がこのようなことをするわけは無いと言ったが、毒が塗られていたのは事実だ。

 幸い二番目の兄上のお命に別状は無く、お話もできるというが、まだ床から起きることはままならぬ。一番目の兄上は大変落ち込んでおられるし──何よりこれが外部へ知れれば兄上は兄弟殺しを目論んだと思われかねない。

 一番目の兄上は剣に毒など塗っていないと自らも言っておられる。そのようなことをする暇はなかった筈だ。

 二番目の兄上は一番目の兄上と五人分の剣を用意しに行かれたが、二番目の兄上の仰るにはその間も一番目の兄上が何か変な素振りをしていたようには見えなかったと言っておられた。

 剣は対戦を行った王宮の庭で私達五人によって分けられた。一人一人が地面に置かれた剣を一斉に一本ずつ取ったのだ。至極公平な分け方であった。そこから先は誰もその場を離れたり、不審な素振りを見せてはいない。

 毒は、今金雀枝の君が持っている小瓶に入っているものと同じものだ。後から庭の隅に転がっているのを三番目の兄上が見つけられた。

 医師は使われた毒は鳥兜だろうと言っていた。恐らくその小瓶の毒が使われたと考えて間違い無いだろう。

 その小瓶は勿論兄弟全員に見せ、確認をしたが、誰もその小瓶を見たことが無い。

 珍しい飾りの小瓶であるし、よくよく調べればこれを持っていた者も分かるかもしれないと言って私が預かってきたのだが、そもそもその飾りの小瓶はどうやら遠国でよく作られるものなのだそうだ。

 その場には私達六人、それも供の者も連れていない皇子しかいなかった。その後何か不審なことをしていたということでもない。見知らぬ舶来の小瓶をその場で初めて見たという者しか居らぬ──嘘をついている者がいるか、或いは私達が剣を取る前、兄上たちが剣を持ってきた際、既に毒が塗られていたか──しかし、それならば誰が毒が塗られた剣を手に取るかわからぬまま対戦に臨むことになる。

 誰がどの剣を手に取るかなど、先にわかるわけもない。

 しかも、剣の細工や見た目は全て同じだった。毒に色は付いていないから、毒が塗られていても直ぐには解るまい。

 このような──私達兄弟の仲を裂くような真似をする者がいるのだとしたら、私は許しておけないのだ。それが兄弟の中の誰かなのだとしたら尚更、このようなことは許されないだろう。

 ……それが、王位継承権を理由としたものであっても、やはり許されるべきでないと思っている。蹴落とし蹴落とされるのが皇子として生まれたからにはどうしても宿命づけられているだろうが、しかし、殺し合うようなことだけは避けたいのだ。

 この度のことは皇子しかいない場で起こったこと、私達六人の他にはごく僅かの者しか知らぬことだ。これが広く知れれば、一番目の兄上も二番目の兄上も王宮どころか国中で有る事無い事を囁かれることとなろう。

 どうか、王宮でも随一の知識人である貴殿らに力を貸してもらいたいのだ──。


 茴香はひどく緊張し、憔悴した面持ちで語り終えた。

 言葉運びさえ落ち着いているものの、その心境が大きく乱れていることは盲目の春蘭にさえ察せられるほどであった。

「茴香の君」

 口を開いたのは金雀枝である。


「それは、弟君の手によるものでしょうね」


 まるで世間話をするような風であった。

 そして、それが当たり前であると確信して疑わない口ぶりでもあった。

 それを到底吞みこめそうにない茴香の顔は蒼白になっていた。

「そ、れは、どういう」

 身を乗り出し、半分ソファから腰を浮かせた茴香の長い黒髪は滑らかな軌道を描いて肩から落ち、額へ乱れ髪が張り付く。

「弟君は御歳五才になられましたね」

 静かな口ぶりで問いかけたのは、茴香の隣に座っていた春蘭である。

「人の言葉を聞いて、そのいうことを聞くことができる──そういうお歳ではありませんか。企み自体は弟君の意思でなく、周りの人間の企みでございましょう」

「しかし、腹違いとはいえ兄を殺すような──そのようなことを──」

「聞くわけがない、と?それはその通りでございます。子供相手なら幾らでも嘘がつけます。おおかた、剣の手入れに使うものだとか、そのようなことを言って唆されたのでしょう」

 春蘭は如何にも他人事といった様子であった。

 まるで遠い国の出来事を話しているかのような口ぶりである。

「弟君は一番下の皇子でいらっしゃる。下がいないのなら上を落としていくだけではありませんか」

「……」

「茴香の君は毒を塗った剣が誰に渡るかわからないと仰った。誰でもよかったのです。弟君は幼いので剣を持たない。即ち、剣を持つ五人──絶対に間違いなく“上の誰かが消える“ことになる。王位継承候補を消すのには大変安全な手立てです」

 茴香は色を失った唇を震わせながら、ソファに倒れこむように腰を下ろした。

 その兄弟思いが故に、より一層衝撃は大きいようであった。

「……今回は人こそ死ななかったが、ご兄弟の仲違いを招きかねなかった。茴香の君、次の機会にご注意なされませ。──きっと次は必ず、皇子のどなたかが斃れることになります」

 金雀枝の言葉に、茴香は微かにああ、と返事をしたようであったが、秀麗な顔は血の気を失って紙のように白く、葡萄色の瞳は困惑と衝撃に未だ揺れていた。

「幼い弟君の後ろには必ず、それを弟君に命じた者がいるでしょう。糸の先を切ってしまうべきだ」

 小瓶を茴香の前まで滑らせた金雀枝は、茴香を見据えて言う。

「一介の文官の身で差し出がましいことを申し上げることをお赦し下さいませ、茴香の君」

 金雀枝の色のない唇がゆっくりと、しかし常よりも確固たる意志を持って茴香へ語りかける。

「その糸の先を切り、幼い弟君を陰謀に巻き込むことを防ぎ、そして兄弟の信頼を得るべきはまさしく茴香の君──いえ、第五皇子たる貴方です」

「私は──」

「貴方は他の皇子様が追求しようとしなかったことを、こうして一人で追求しにいらっしゃった。弟君へ疑いの目を向けないのは当たり前です。どうして幼い血族に兄弟殺しの疑いの目を向けることがありましょうか」

 硝子の天井を経て彼の瞳を照らす光が、きらきらと揺れて茴香の瞳を捉える。

「貴方は聡明でお優しい。きっと王に──」

「金雀枝の君」

 金雀枝の言葉を遮ったのは春蘭であった。

 いつになく鋭い口ぶりであったが、金雀枝は動じた様子もなくゆっくりと身を引いて、

「失礼」

 と柔らかく笑って見せた。

 金雀枝の言葉を引き継ぐように春蘭が言う。

「……茴香の君、金雀枝の君も仰ったように、弟君の身辺、その背後にあるのが何者なのかを探る必要がありましょう。もしもその糸を切らんとするならば、そこへ踏み込まねばなりますまい」

「分かっている」

 茴香は幾分気を取り戻してきたようであった。

「貴殿らに教えを請うたのは間違っていなかった。このままでは再び惨事が起こるところだったかもしれぬ。例え既に糸が切られていたにしても、探ることは無駄にはならぬ筈だ。──感謝する」

 聡明さを宿す葡萄色の瞳が真正面に座る金雀枝の瞳を見る。

「金雀枝の君、この恩は忘れることはないだろう。内密の訪問故此度のことに関して派手な礼はできぬが、必ず礼をしよう」

「ありがたきお言葉でございます」

「春蘭の君、貴殿の噂はかねがね聞いてはいたが──本当に噂通りであった。礼を言うぞ」

「私はこの場にただ居合わせただけでございます。もったいなきお言葉」

 茴香は大理石の机の上へ手を伸ばし、小瓶を慎重にしまう。

 それを見た金雀枝は、失礼を承知で申し上げますが、と制した。

「先ほど礼をと仰られましたが、もし茴香の君さえ宜しければ、その小瓶を──全てが解決した暁には、その小瓶を私に譲っていただけませんでしょうか」

「この小瓶を?」

 僅かに甘い毒が揺れる小瓶と金雀枝を交互に見やり、茴香は一瞬躊躇ったようであった。が、すぐに口を開く。

「分かった。此度のことが全てが解決したならば、貴殿の元にこれを届けさせよう」

「ありがとうございます。……もう少し、それを研究してみたいのです」

 端々に研究者の好奇心を覗かせた金雀枝に、茴香は微かに笑って見せた。

「私はもう行くが──また此処へ訪れても良いだろうか。今度は、植物の話をしに」

「無論でございます」

「春蘭の君、貴殿も是非また同席してもらいたい」

「いつでも参りましょう」

 見えぬ目を細めて、春蘭は髪飾りを揺らして笑う。


 金雀枝と春蘭に見送られ、硝子の天井から植物たちを照らす陽光がちらちらと揺れる中、茴香──第五皇子は王宮温室を去っていった。


「金雀枝の君、第五皇子に肩入れするのですか」

「そんなつもりはないよ」

 茴香が去った大理石の机を挟んで、金雀枝と春蘭は世間話のような柔らかな言葉を交わす。

 言葉の纏う空気すら柔らかだが、その言葉自体は何重にもくるまれた綿の中に鋭利な切れ味を秘めた真意が隠れているようであった。

「このような内密の場であったとはいえ、“王に“とは……ご贔屓なのかと思いましたが」

「私は政に興味はないし、関わるつもりもないよ。春蘭の君もそうだろう」

「私は勿論そうですが」

 細い指輪がはめられた白い指を組み替えて、春蘭は盲目の瞳を薄く開いて笑いながら言う。

「それに、例の小瓶も」

「どういう風に鳥兜を調合したのかなと思って──私はこれでも研究者だから」

 そんなことは重々わかっていますと春蘭が返すと、金雀枝は愉快そうに笑った。

「私は肩入れをしたいんじゃなく、ただ聡明なひとが好きなだけだよ。茴香の君然り、……春蘭の君、あなたもそう」

「……お世辞なぞ貴方には似合いませんよ」

「お世辞じゃない、本当にそう思うよ──聡明なひとは話していて気持ちが良い。頭が冴えるから」

 春蘭は金雀枝の言葉に少し肩を竦めたが、小さなため息をつき、大理石の机へ手をついて身を乗り出した。

「檳榔の君も?」

 今は別室で植物たちを一所懸命に世話をしているであろう若い研究員の名を出され、金雀枝は一瞬考え込んだ。

「うーん、檳榔の君は……無論、馬鹿とは言わないけれどね」

「まあ、随分辛辣ですね」

「面白いんだよ──優しくて、誠実で、素直だ」

 陽光を受けて柔らかく笑う金雀枝の瞳は、これまでになく優しい色をしていた。

 声音しか分からぬ春蘭にすらなんとはなしにそれが察せられて、なるほどと呟いて、やはり肩を竦めたのであった。


 硝子の天井の真上、中天から少しだけ落ちた太陽が、文官長と王宮温室研究員の密やかな会話を明るく照らしていた。

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