第5話
王宮へ仕官する武官、
王宮内での身分の証である上質のトーガをごく庶民的なトゥニカへ着替え、本来は手首や足首を飾る煌びやかな宝飾品は外され、装飾といえば首元の黄金のずっしりとした首輪のみであった。
すらりとした、しかし武官ゆえに日々の鍛錬の為にしなやかな筋肉のついた脚は、トーガならばともかく、膝丈ほどしかないトゥニカでは到底隠しきれぬ。
生白い肌は滑らかで傷一つなく、肩ほどに伸ばしっぱなしにして編みこんでいる艶やかな明るい茶色の髪は妙に生々しく、彼の中性的な顔立ちをより一層それらしく見せるのに買っていた。
透き通った緑青の瞳は表情豊かに動き、人の良さそうな、快活な笑みを浮かべる口から零れでる言葉たちは、老若男女問わず数多を魅了してきたのであった。
軽やかに城下を歩く冬青を咎める者はない。
城下も繁華街の方へ来れば、むしろ彼を歓迎する者ばかりである。
王宮からはもう随分離れた繁華街は、酒場や食べ物屋が所狭しと並んで独特の匂いと喧騒を生んでいる。冬青はこの雑踏が、喧騒が好きであった。城下に住むひとびとの快活明朗なところを愛してやまないのであった。
冬青の足は止まらない。
繁華街も奥へ行きつけば、もう底の知れぬ歓楽街であった──白い石畳の道の傍に立つ娼婦と男娼が冬青を見やる。
娼婦や男娼と一夜を遊ばんとする者も、冬青を見る──実際、ひとの気を引く容姿を持った男であった。歓楽街の色硝子に彩られたランプで照らされた彼の顔はひどくなまめかしく見えた。得体の知れぬ甘い香り、危険なほど芳しい香り、それらが燻る中を歩く。
「よう、今日もえらく軽やかじゃあないか」
横丁からかけられた声に、冬青は髪を揺らして振り向いた。
「アァ、
決して大声で返事をしたわけではない。
低く、笑みを含んだ声であった。
雑踏の中から緑青の瞳はその「兄さん」を捉え、横丁に置かれた大きな酒壺の上へ腰掛けている精悍な男の体をなぞるように見て笑う。
「暫く見なかったけど、どこへ行ってたのさ」
「どこだと思う」
しなやかな足取りで音もなくひとの群れを抜け、歩き寄ってきた冬青のトゥニカの上からでもわかる締まった腰をぐいと掴んで、男はその身体を引き寄せた。
されるままに引き寄せられた冬青は、男の膝の上へ軽々と登って横坐りに座る。
鼻と鼻とが付くほどの距離で二人はお互いの腹を探るように見つめ合い──男と冬青との淫蕩な口吸いへと至るにさして時間はかからなかった。
冬青は奔放で快活で、そして底ぬけに明るく淫蕩な性格を秘めた男であった。
相手が女であろうが男であろうが構わず、溺れるように身体を重ねるのを好んだ。
王宮で武官として立っているうちは、彼はただただ明るく人当たりの良い好青年であった。
庶民出身の彼は、酒場を経営する両親の間に生まれた。それ故に少年のうちから酒場を遊び場にしていたし、酔っ払いや娼婦や男娼、それらの奔放な性格や「人をたらす」術を、砂に水が染み込むように自分のものにした。
──王宮に仕官しているヤツはとかく固いんだ。何にでもお上品に段階を踏まなくちゃならない。それでもってやけに湿っぽい。俺は直ぐに、そして開放的に、愛し合いたいときに愛し合うのが好きなんだ。
それが彼の持論であった。
であるから、歓楽街ではただただ人を寄せつけぬ──足枷にしかなりえない自分の身分を公にすることはしなかったし、ただ一人の男として居ることを望んでいるのであった。
日が落ちるのと同時に歓楽街へ行き、日が昇る前に寮へ帰る。
その夜の僅かな間を享楽に溺れるのを、彼は堪らなく愛していた。
今彼の隣で水タバコを気怠げにやっているのは、彼が「兄さん」と呼ぶ傭兵の男であった。
時折ふらりとこの歓楽街に立ち寄って、都合が合えば冬青と一夜を過ごすのである。
冬青は「兄さん」の本当の名を知らなかった。「兄さん」も冬青の本当の名を知らなかった。お互い知ろうとしなかったのだ。ほんの一夜だけ、深く深く享楽に溺れるためだけの関係であるなら、必要以上に自分のことを教えるのは枷になる。
「ネムス」
男は冬青のことをそう呼ぶのであった。
この国の言葉で「緑」を意味する語であった。無論冬青の本当の名ではなく、それは非常に安直な理由で──単に冬青の瞳の色からそう呼ぶのである。
トゥニカも着ず、歓楽街の宿屋の窓から射す月光に青白く照らされる白い身体、しなやかに鍛えられた肩を抱く男のふしくれだって古傷が目立つのにしなだれかかってぼんやりしていた冬青は、ゆっくりと顔を上げて男を見た。
「なんだい、兄さん」
茶色の柔らかな髪が揺れて、冬青の顔の半分を隠した。
「お前はいつまでこうやってココで遊び続けるんだ。一生かい」
「なんでそんなことを?一生かな……わからないけど、俺が飽きるまでだよ」
「好きになった奴はいねぇのか」
「兄さんのこと好きだよ」
「そういうことじゃねぇ」
苦笑しながら大きな手が髪を掻き回すのを、冬青は大笑いしながら避けた。
「一人に決めちゃったら、ソイツとしか愛しあえなくなるかもしれないだろ。それは困る」
「それじゃダメなのか」
世の中の大半はそうだぜ、と言う男に、冬青は首を横に振った。
「毎度同じヤツと向かい合って愛し合うなんて、胸焼けしちまう」
「胸焼けねえ」
男の手から水タバコの吸い口をするりと奪い取って、冬青は一服する。煙がふわりと吐き出された。
「俺となんども“こう“してるのはいいのかよ」
「……兄さんとは時々だからいいんだよ」
「とんでもねぇ奴だな」
更けていき、やがて明ける夜の一時をこうして他愛もない会話で満たすのが冬青は好きであった。身体も心もこうして満たされる、ここから何かを変える必要はない。ずっとこうやって──一生をこうやって過ごすのはきっと幸せだ。王宮の武官という職を持ち、自分の身体を満たせるだけのもので満たしながら生きていけば良いのだ。
男の逞しい腕に抱かれながら冬青は思う。
王宮図書館は不気味なほど静かで、不気味なほど広大であった。
衣摺れの音、紙が擦れる音、装飾品が揺れる金属音、それらがそこの住人であった。
書物は日の光に弱い。明かりとりのためにとられた小さな窓は高い石造りの白壁の遥か上方にある。
冬青がここを訪れたのは単なる気まぐれであった。
武官は絶対に王宮図書館に来ないということは無かろうが、文官が来るよりは遥かに数が少ないというのは確かである。
冬青はただ文字ばかりずらずらと書かれている書物よりは図鑑のような──花や草木が図付きで表されているようなものを読むのが好きであった。兵法書や歴史書を読まぬわけではない。しかし、必要に迫られなければ手を伸ばすことをしなかった。
貴族出身の武官たちよりは難しいことを知らないし、他言語が読めるわけでもない。幼い頃から家庭教師をつけられて過ごしてきたであろう貴族出身の武官と教養や勉学で競えるほど、冬青は真面目に勉強などしてこなかった。
彼は他言語の読み書きはできなくとも話すことはできた。
それは彼が多くの旅人が訪れる酒場の息子であったからであったろうし、実際それらを読めなくとも書けなくとも、生活に苦労はなかった。ただ彼が彼の好む奔放な生活を送るにあたっては、少なくともそれらの言語を「話せる」必要があった。
書物がぎっしりと並べられた棚から、冬青は一本の巻物を抜き出す。
美しい植物の絵と、それに丁寧な説明が添えられている、謂わば図鑑であった。
説明文に関しては彼に理解が及ばない用語もあったし、それよりはやはり、美しい絵を見るのが好きなのであった。
鮮やかな花を咲かすもの、太い根を伸ばして他の植物の栄養を奪うもの、葉に毒があるもの、虫に好まれる実をつけるもの──見たことがないような遠国の植物から、彼でも道端でみたことがあるようなものまで。
資料を置いて読むために図書館の何箇所かに置かれている大理石の大机に巻物を置き、冬青は椅子を引いて幾分上品とは言えぬ姿勢で座った。尤も、辺りにひとがいないと思っての行動である。
全部で三巻の巻物を、少しずつ繰りながらゆっくりと鑑賞していると、遠い国や東の外国へと行ったような気分にでもなるのであった。
これを書いたのは一体どんな人物だろうか。
高名な植物学者かもしれない。
植物だけを研究し続けるなんて、なんと忍耐のいることだろうか。相当植物を愛していなければできないだろう。
きっと、自分が愛し愛されることを愛するように、これの著者も植物を限りなく愛しているのだろう。
──見たこともない巻物の著者に思いを馳せながら巻物を繰っていた冬青は、すっかり辺りの様子を伺うことも忘れていた。
「……失礼」
失礼と言いながら返事を待たず、声の主は冬青が巻物を広げていた机へ積み重ねた書物を置いた。
自分以外の者がいるとは思っていなかった冬青は、肩を跳ねさせてすぐさま顔を上げた。暗に抗議のつもりであった。
目が合った先にいたのは、長身の文官であった。
白い毛皮のストールにトーガを纏い、背の中程までもある射干玉の髪にはあちこちへ小さな装飾品が編み込まれている。長い髪ではあるが、髪が命とばかりに手入れする者たちのそれに比べれば大分無造作で、あまり気にかけていないことはわかる──伸びてくるから伸ばしているというように見て取れるのである。装飾品の数からしてそこまで高位の文官でないことはわかるが、それにしても自分と同じほどの位であろう。
腕や手首に嵌められた装飾品はどれも宝石や硝子玉が目立つようなものではない。あまり派手好きな性格ではないのかもしれぬ。
身につける宝飾品の多さが位の高さをも表すことになる王宮内においては派手好きの輩が非常に多いし、現に冬青も派手な出で立ちは嫌いではない。しかし、ここまで最低限の装飾品や、派手さというものに無頓着な様子は珍しいように思われた。
文官の暗い海の底のような瞳は、冬青ではなく彼の読んでいた巻物へと向けられているようであった。
「失礼しました」
と、文官は再度謝意を述べた。
別に自分だけの場所でなし、冬青は謝られる所以はない。寧ろ勝手にこの大机を武官たる自分が占領していた方が悪いのだと思い当たり、冬青は
「いえ、俺こそ」
と巻物を軽く丸め直し、どこか別の場所で読もうと立ち上がる。
が、文官の言葉で再び椅子へ腰を下ろすこととなった。
「不躾なことをお聞きしますが、それは……植物図説ですか」
「え、あ、ええ」
「稀に見る美しい図説です。……この王宮の王宮温室の筆頭研究員が描いたものだとか」
「へえ」
そう言われて、冬青は手元の巻物へ目をやった。
「その、これを描いた人は今もこの王宮にいるんですか」
「そう聞いていますが」
これを描いたのはどんなひとだろうと、ぼんやりと顔形も思い浮かばないようであった想像が、一気に現実味を帯びるようであった。
王宮温室とは、それがあることしか知らないような場所だ。自分には縁がない。
会いに行こうとは思わないが、こう身近にいる者が描いているとわかればまた別の思いも湧くというものだ。親近感と言えようか。顔も知らぬ王宮温室研究員に、冬青は内心でなにやら友人であるかのような念を抱いた。
冬青が顔も知らぬ人物に思いを馳せている間に、文官は冬青の向かいに陣取って巻物を広げだしていた。
「あの」
冬青は朗らかな笑みを浮かべながら話しかけた──つもりだった。実際彼の顔は半分苦笑しており、それは目の前の文官のお世辞にも器用であるとはいえない行動ややりとりから出たものであった。
さっき急に話しかけてきたかと思えば、もう人も寄せ付けぬような体で書物を読んでいるのである。
勝手に話しかけてきて勝手に会話を終わらせるというのは、人との会話、やりとり、そういうものを上手く運ぶことに長けている冬青にとってはひどく不器用であるようにも思われた。
文官にそういう──研究に一生を捧げるような者が少なからずいるのを冬青は重々承知していたし、また彼が属する武官にも鍛錬や武芸に一生を捧げて生きるような者はいた。
実際のところ、王宮内で成り上がっていくには人との関わりは不可欠であったし、冬青のような人当たりが良い者は様々なところに顔が効いて、不自由なく過ごせるのであった。しかし、そもそも成り上がりたい、出世したいという欲がないのであれば、人との関わりなぞすっかり絶って研究や武芸に死ぬまで打ち込むことも、また可能な世界なのである。
目の前の長身の文官は、きっとそのようなひとなのだろう──と冬青は勝手に想像した。
冬青が声をかけたあと、文官はだいぶ間を置いてからゆっくりと顔を上げた。
「はあ」
「お名前を、伺っておきたくて」
ほぼ社交辞令的にすら聞こえる朗らかな冬青の言葉に、文官はその深海の如き瞳で緑青の瞳を見返し、王宮図書館の静けさに溶け込むような低い声で名乗った。
「……
「柏槙の君」
そう呼ぶ冬青の声は、王宮図書館には不釣り合いなほど明るかった。
「俺は冬青といいます。……その、もう暫く目の前をお借りしても?」
文官──柏槙は、一瞬その言葉の意味を飲み込めなかったらしく、重そうな瞼をはたとあげて目を見開いて見せた。が、すぐにええ、だかああ、だかわからないような声を上げ、冬青が植物図説を置くことができるほどの場所をあけようと自分の書物を避けた。
「ありがとう」
冬青は座り直しながら、柏槙をちらと見た。
柏槙はもう書物へとのめり込んでいて、冬青もそっと巻物を開けて遠国の植物たちへと思いを馳せるに至った。
柏槙はここ最近、数日毎に王宮図書館に現れるようになった武官の纏う香りが毎度違うことに気がついた。
柏槙は人付き合いと呼べるものをしてこなかった男であった。
研究への熱意と鋭敏な頭脳と感覚を引き換えに、口数と表情が失われてしまっているかのようであった。
同じ年に文官として仕官しだした仲間の中に友人がいないではなかったが、彼が王宮図書館へ通い詰めて熱心に研究しているところをわざわざ酒を呑みに誘ったり、夜を徹して語らうのに誘ったりすることは無粋と思われたのは必然であっただろう。
彼はこの国に遺された膨大な古文書の解読と研究に勤しんでいた。文官の中から幾人かが選ばれ配属される古文書解読の研究部署のうちの一人であったが、部署の中でも柏槙は特に熱心な部類であった。
昔から書物を読むのが好きであったからか、一日中未知の言語や歴史を解読せんと、膨大な文字と向き合うのは全く苦ではなかった。読み解けば読み解くほどに自分の生まれるよりも遥か以前の人々の息吹や生活の様子がありありと伝わってくるのが、たまらなく柏槙の好奇心を刺激するのであった。
仕官し始めてから数年、そうやってのめりこむように研究を続けてきたのだが、つい二週間ほど前、突如王宮図書館で柏槙が常より使っている大机に巻物を広げ、無遠慮にそれらを読みふける武官が現れたのである。
武官というのは柏槙にとって縁のない存在であった。というよりも、王宮へ仕官し始めてからというもの、彼らと一度も話したことなどなかったのであった。他の文官に言わせれば、やれ粗野な者が多いとか、我々の研究を理解しようとしないとか、書物をまともに読むことをしないのだとか、そういうことらしいのである。しかし、柏槙の前に突如現れた武官は、行儀こそ些か悪いものの、到底「書物をまともに読むことをしない」とか、そんな風には思われなかったのであった。
美しい挿絵と詳細な解説が記された植物図説を、まるで子供のように瞳をきらめかせて読んでいる様は、不思議と親近感すら沸いたのであった。
柏槙はそのときどう声をかけてよいものかわからず、自分が山と積んで持ってきた資料だけは机に置かねばと無難に呼びかけたのであったが、こんなに熱心に図説を読むひとも珍しいと、口数少ないながらに言葉を続けるなどしたのであった。
武官は柏槙の言葉に一瞬怪訝な顔をしてみせたが、その後の反応からして悪い男ではなさそうだ、というのが彼の見解であった──悪い男ではなさそうだというのは柏槙にとって性根云々の問題ではなく、書物を大切に扱いそうだとか、勉学に対する熱意がありそうだとか、要は「同類であろう」という判断基準なのである。
彼の人となりを詳しく知ろうなどという気は毛頭なかったが、数日毎に王宮図書館に現れ、決まって柏槙のいる大机に巻物を広げて読んでいるのを見ていると、研究熱心な文官としての血が騒いで、彼に幾つかその巻物の著者が記した図説を紹介したりもした。
武官──冬青と名乗った武官がまぶしいほどの快活な笑みを浮かべてありがとう、と言ったときは、普段ぴくりとも動かぬ柏槙の顔も、若干固くはあるが笑みを浮かべるに至ったのであった。
──その冬青は、柏槙の人並みはずれた鋭敏な感覚の中に、たびたび彼には縁のない香りを持ち込むのであった。
なんの香りかといわれると詳しいことは柏槙には到底思い当たらないのだが、あるときは甘ったるく、あるときはスパイスのような癖のある香りのことも、またあるときは上品な──王宮の女官の使う香の様な香りがすることもあった。
柏槙はそういうものに凝るほうではなかったし、香を使うことはあっても、あれこれ試してみるようなことも特にしなかった。
そういうことであったから、柏槙は冬青に問うた。
「なぜ、いつも違う薫りを纏ってくるのか?」
と。
柏槙と冬青は幾度かの会話を経て、大分親密な関係になりつつあった。特に前置きもなく、柏槙は巻物を繰っていた冬青へ話しかけたのだが、冬青はその言葉を聞いた瞬間、大層驚いたような顔をした。
「違う、薫り?」
と鸚鵡返しに聞き返した冬青は、自分のトーガの香りを嗅ぐようなしぐさすらした。
「俺、その……薫りがする?」
「……ああ、甘い薫りや、スパイスのような薫り、女官が使うような上品な薫り……」
「わ、も、もういいよ」
冬青は椅子に座っていたのをあわてて立ち上がり、頭一つ低い背を伸ばし、手を伸ばして柏槙の口を塞ごうとした。
「ごめんよ、その、柏槙の君は……鼻がいいんだな」
気に障ったかい、と苦笑いする冬青に、柏槙は彼が何をそんなに焦ることがあるのかと首をかしげる。
「いや、気に障るようなことはないが、……随分香に凝っているのだなと……」
「え、あ……そ、そうなんだよ、俺、香が好きで」
「そうか」
洒落たものやそういった類のものに興味関心の薄い柏槙には、そういう者もいるものなのだ、そして冬青もそういう類の者なのだというくらいの認識であった。
だが、冬青は予想外に動揺している様子であった。
「そんなに気にしなくても、悪い薫りには思わん」
「うん、……いや、ありがとう」
結局、冬青はその日ばかりはいつもよりも早く王宮図書館を去っていった。
柏槙はなにか彼の気に障ることを言っただろうかと思い返してみたが、別段思いつくことはなく、いまいちわからずじまいなのであった。
まさか、あの文官が薫りに気づくとは!
冬青は到底、王宮図書館で柏槙に指摘された香の薫りのことが信じられずにいた。
冬青はその前の夜も歓楽街に足を運び、遠国から来たと言う踊り子と一夜を共にしていた。
更にその前の夜は顔見知りの男娼と。更に前には、「兄さん」と呼ぶ傭兵の男と。二度続けて同じ相手と夜を共にすることはない。それは彼のポリシーでもあった。
そのどれもが、彼らの過ごしてきた環境や好みに応じた香の薫りを纏っていた。
異国情緒感じるものや、歓楽街でよく用いられるもの、女性が好んで使うもの──冬青も香にはこだわる方だったが、それとは別にそうして一夜を共にした相手の香の薫りが夜から朝までの僅かな間に自分の身体を支配するのがたまらなく好きなのであった。
もちろん、歓楽街から帰ってきて王宮へ向かうまでの間に身体は清めるし、相手の香の薫りが残らぬように気を遣う。もちろん着ているものも変え、自分がいつも使っている香を焚き染める。現に今まで、薫りについて特に指摘をされたこともなかった。
指摘されたとき、咄嗟に無作法とはわかっていながらもトーガの薫りを嗅いではみたが、自分の使っている香の薫りしかしなかった。
もしも本当に柏槙が自分を夜の間に侵していた薫りに気づいているのだとしたら、──言い方は悪いが、まるで獣の嗅覚だ。
ここまで念入りに薫りを消しているはずなのに、それに気づくなど!
あの柏槙がこの薫りから察して自分が夜な夜な歓楽街へ赴いて淫蕩な遊びに耽っているようですと、まさか上の者や仲間に告げることはなかろうが、さすがの冬青にも、そう告げられれば自分の立場は少なからずよろしくないことになるということは想像がついた。
それがわかっているからこそ自分の身分や名前を明かさず歓楽街へ行くのであり、こうして公私を分けて過ごしているのである。
自分の性を今更変えようという気もない。
自由で淫蕩、快活で情熱的──それが自分の深いところを支配する性なのだ。
そしてそれが明るみに出れば、王宮内で根も葉もない噂がささやかれることはまず間違いがない。現に女を派手に買い遊んでいた武官がその行動の是非を問われて非難された事例があることを冬青は聞いて知っているし、この国ではひとを一途に想う事が美徳であるというのが通念である。
疑いたくはないが、万が一にも柏槙がそれに気づき、そのような噂が流れるとも限らない。
冬青はうまく公私の性を分けながら一生を過ごして行くつもりであった。
確かな地位を持ちながら、一方では溺れるように自由に淫蕩に様々な者と愛し合うこと、それを両立することが難しいということ。難しいが、やってできないことはない。
柏槙から離れるのは簡単だ。
文官と武官、もとより親しく話すようになったのは最近のこと、なんとか理由をつけてこれ以上の接触を断つことは容易である。
しかし、王宮図書館にしかない植物図説や──何より、冬青は柏槙を気に入りはじめていた。
口数は少ないし、「不器用」ではあるが、あそこまで研究や勉学に真摯な「良い人」は珍しい。この様々な思惑や欲が煙のように蔓延する王宮内で、王宮図書館に籠って、どこまでも純粋に自分の知りたいことを追い求める様を見ているのは、冬青にとっては新鮮で心地よかった。
きっと、良い友人になれる。
冬青は柏槙に対してそういう感情を抱いていた。
一夜だけの関係、深く溺れるように海の深くへと沈んで、朝には水面へあがってくるかのような、そんな関係を好んできた自分が、王宮内でこれほどに「友人」という関係を持っても良いと思いはじめていたことに、冬青は驚いた。
そして、よりによってその相手に自分のもう一つの性に感づかれたやもしれぬということに、底知れぬ不安を感じてすら居た。
柏槙と話している間は、いちいち気を遣わぬでも良いような気がするのだ。
その深海のような瞳は一見何を考えているのか察することもできないように思われるのだが、実際その奥は恐らく真摯で、純粋な思惑で満たされている。
あんな男は今日日珍しい。
柏槙と王宮図書館で無駄な言葉も交わさず、ただただ巻物を読み──彼は研究をする、その時間が、今更なかったことにするなど遅いとばかりに冬青の生活のうちにしっかりと幅を取りだしている。
どうか、何事もなくこのまま過ごせますように。
子供じみた願い事を胸中に秘めて、冬青は今日も歓楽街へ行く。
「やだ、ヤケ酒なんてして」
喧騒、酒の香り、それらが心地よく蔓延する歓楽街の酒場──その言葉と共に手から奪い取られた酒瓶を、冬青は恨めしそうな目つきで見返した。
「あんたらしくもない、ひどい顔だよ」
遠国の生まれだという顔見知りの踊り子は、褐色の肌の妖艶な身体つきを重ねた薄布で覆い隠してはいたが、なまめかしい、しなやかな身体のラインはどうしようもなく他の男の目を引く。──尤も、彼女は今酔っ払いの知り合い──冬青を宥めるのにかかりっきりであった。
指先まで舞踏に支配されたかのような手つきは優しく冬青の顎を持ち上げ、冬青は否応にも彼女と目を合わせないわけにはいかなくなった。
「どうしちまったんだい。あんた変だよ」
「……なんでもないよ。気にしないでくれ」
踊り子の手を引き剥がそうとしたが、彼女の手は何故か武官であるはずの冬青の力を持ってしてもぴくりとも動かないのであった。
「そんなに呑んでたらあっという間に御陀仏だよ。まだ若いんだろう」
「知ったことかよ」
「ネムスったら!」
ぱあん、と乾いた音が響いたかと思うと、冬青は直ぐに頬へじんじんとした熱さと痛みを感じた。
踊り子の平手は女の腕とはいえ、舞踏で鍛えられたそれによって男を怯ませるほどの勢いであった。
「しっかりしなよ!あたしに声をかけといて付き合わせるのがヤケ酒かい」
冬青は無言で僅かに揺らいだ体勢を立て直し、それからもう石造りのテーブルへと突っ伏してしまったのであった。
「まあ」
踊り子は呆れてものも言えないという風であった。
あれから、冬青は前と変わらぬ日々を送ってはいたが、柏槙に指摘された香の薫りのことはずっと、喉に刺さった魚の小骨のようにつっかかっていたにちがいなかった。
冬青は突っ伏したまま、踊り子に言う。
「……友人を失いたくないんだ」
「友人?どうして失うなんてことになるのよ」
「俺がさ、こうして夜な夜な……していることを知られたら、きっと離れて行っちまう」
冬青が自身で気づいていたかいなかったか、彼の恐れは凡そ、「安寧な日常を失う」ことへの恐れではなく、友人──「柏槙を失う」ことへの恐れへと変化しつつあった。否、たしかにこれまで過ごしてきた安寧の日常を失うことは恐ろしかったが、その中でも特に、あの稀有な性格や性根を持つ柏槙を失うことが恐ろしいのに違いなかった。
「……ま、確かにあんたは遊び人で奔放でいい加減だわ」
少し間を空けて、踊り子は冬青の隣の椅子に腰かけながら言う。
「けど、“良い人”よ。なにも悪いことしてるわけじゃなし、本当に友人と思うのならこうやって酒に逃げてあたしらに愚痴るんじゃなく、向き合うべきじゃないの」
「……うん」
冬青の小さな返事は、直ぐに酒場の喧騒に消えた。
「柏槙の君」
王宮には所謂中庭と呼ばれる場所が幾つもある。
職務を終えた文官や武官、或いは政に深く関わる高官達の密談がちらほらと見受けられたが、冬青はその中に柏槙を見留めた。
柏槙は中庭の端に生えている大きな月桂樹の木の下に座っていた。軽く声をかけてはみたが、どうにも動きも返事もない。
白いトーガの裾は柔らかな下草の上に無造作に広がり、地面に座った彼の膝の上にはいくつかの書物が乗っていた。
そして肝心の柏槙はといえば、目は閉じられ、規則的な呼吸を繰り返していた──つまりは完全な居眠りであった。
冬青は柏槙の目の前に仁王立ちに立ってはみたが、一向に目を覚ましそうな様子はなかった。
「柏槙の君」
顔を近づけて呼んでみたが、やはり反応はない。
相変わらず無造作に伸ばしっぱなしの射干玉の髪と同じ射干玉の睫毛が、目を閉じているせいかいつもよりも際立って見えた。
いつも自分を真摯に見つめてくる深海のような瞳が見えないのは新鮮であった。
憎らしいほど安らかな寝顔である。
木漏れ日が落ちる不健康じみた生白い肌、ちょうどよく吹いてきた柔らかなそよ風に射干玉の髪が揺れて、時折その肌に陰をつくるのであった。
なかなかどうして、良い見目なんじゃないか。
際立って美丈夫という訳でもないし、長い前髪のおかげで表情も顔立ちもすぐには察しづらいが、しかし精悍で、整った顔立ちである。
ともすれば童顔だ女顔だと揶揄される冬青にとっては、柏槙の顔立ちは羨ましいものであった。
いつも書物を繰っている指は節だって長く、飾りのない指輪や腕輪がそれらを強調する。長身を折り曲げて座り込んで居眠りしている様は、やはり王宮図書館で見る柏槙とは随分違って見えるのである。
見目も良く背も高い、羨ましい限りだ。
もしも柏槙が王宮仕えの文官でなかったら俺は──
「おれは?」
思わず口をついて問いかけがこぼれ出た。
王宮仕えの文官でなかったら、それはきっと「歓楽街で出会っていたら」とあってはならぬ妄想を重ねて、今自分は一瞬何を考えたのだ?
冷や汗がつうと背中を伝った。起きるまで見張っていてやろうかなどと思っていたが、自分の中の恐ろしい芽生えに気づき、冬青はもつれる足を引きずり立ち上がって後ずさりをしようとした。
が、
「……冬青の君」
呼びかけるために前のめりになって顔を近づけていたのは結果的に失策であった。
幾ばくもない距離に、眩しげに薄く開いてこちらを見る紺碧の瞳があった。
低く自分の官名を呼んだ声に、冬青はすぐに応えを返すことができなかった。
「あ、あの、柏槙の、」
「……ああ、つい居眠りを──いつからここに?」
「いや、」
要領を得ない声を上げる冬青をじっと見つめて、柏槙は口元へ珍しく笑みを浮かべ、
「常から思っていたが、やはり貴方のひとみは不思議に美しいな」
とゆっくり、静かに口にした。
それは思ったよりも静かで、きっと冬青にしか聞こえなかったであろうと思われた。
肝心の冬青はといえば、焦っているところへ柏槙から発せられた言葉を飲み込むのに随分な時間をかけていた。
「え、俺の?」
なんとか絞り出した言葉は掠れて上擦っていた。
「こうして屋外で、こんなに近くで貴方を見ることはないものだから」
「そ、」
ありがとう、と上擦った声を投げつけ、冬青は縺れる足で勢いよく立ち上がり逃げるように踵を返した。
走るのは武官として品がないからとこんな時まで変な気を遣って、早足に中庭を後にした。
なにか柏槙が声を後ろからかけてきたように思われたが、とても振り返ることはできなかった。
瞳を褒められた。
常から笑わない男が笑って。
まるで──まるで生娘へする口説き文句ではないか。
あんなことを言う男だっただろうか。
それとも、あの不器用さ故の素直な言葉だったのだろうか。
──なんにせよ、冬青の脳裏には柏槙の低い言葉と笑み、そして何よりも一番、抱いてはならぬと思っていた想いが強烈に焼き付いて離れなかった。
お互いの瞳にお互いが映るのがわかるほどの距離。
冬青は紺碧を、そして柏槙はきっと緑青を見た。
心の臓がいたく鳴っていた。
遣りどころのない心音と感情を抱え込んで、冬青はただ早足に、逃げるように長い廊下を歩いた。
中庭に面し陽の光をふんだんに取り入れるつくりの王宮の廊下には数多の硝子細工や彫刻、宝石が埋め込まれてその光を反射していた。自分にも降りかかるその光が、今はちっとも美しいと思われなかった。
まだ中天にある太陽が、後ろめたく走り去る冬青のトーガの背を刺すように照らしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます