第4話
自分の屋敷を持たぬ文官や武官は王宮の敷地内にある寮に住むのが決まりである。
王宮温室付きの研究員である檳榔も例外ではない。
つい最近まで新米武官であった檳榔だが、漸く王宮温室への行き方が板についてきたところであった。
同じ王宮の敷地内とはいえ、寮からは些か遠いのが王宮温室の難点である。彼の上司である王宮温室の筆頭研究員、金雀枝は特異な理由から王宮温室に住まいを持っている──と言うものの、住まいというよりはカウチと机があるだけというのが正しいが──のだが、それ故に先に王宮温室にいる金雀枝を待たせまいとして毎朝檳榔は早歩きで王宮温室へと向かう羽目になっていた。
今日もそれに変わりはなく、息は切らせずとも汗を滲ませて到着したのを、王宮温室付きの世話係である石斛に苦笑いをされながら王宮温室の扉を開けたのであった。
精巧な花の模様の細工が施された扉をゆっくりと開け、温室中に並べられた植物たちが作り出す迷路の中を檳榔は進む。その迷路の中にぽっかりと空いた場所があり、カウチと大理石の机、それにソファが置かれていた。そこが金雀枝の「住まい」なのであった。
「金雀枝の君、今日は──」
と、会話の常となっているルーティンの確認をしようと、その半分ほどまでを声に出した檳榔は、自分の眼下に広がっている光景を見て口を閉じた。
いつもなら、ああ檳榔の君、お早うなどと柔和な笑顔と共に返ってくる返事はなく、その返事を返すはずの金雀枝はカウチで些かだらしなく眠っていた。
檳榔が王宮温室付きの研究員となってから一月ほども経つが、その間一度もこのようなことはなかった。
金雀枝は檳榔が来る前には必ず起きていて、また檳榔が王宮温室から寮へと帰る時、檳榔を見送るまでは眠りにつくことはなかった。
それが、檳榔が来たことに気づかず眠ったままであるとは!
暫し檳榔はこの眠りこける天才を起こすか否か逡巡したが、無闇に起こさなくても良いだろうと思い──文官の証である白い毛皮のストールがかかっていない、彼の白く抜けるような白い肌、むき出しの肩を無遠慮に触ったりするのも気が引けた──、自分が使っているスケッチの道具だけを持ってそそくさと植物の迷路へと足を踏み入れた。
「檳榔の君!」
珍しく集中してスケッチをしていた檳榔の意識の膜を破ったのは金雀枝の声であった。
いつもの所作の優雅さもどこへやら、ずかずかと歩いてきながらも垂れ下がり覆いかぶさる植物を避ける手だけは優しいが、その顔はいつもより厳しい。
スケッチから顔を上げた檳榔は、だいぶ遅れた朝の挨拶をする。
「金雀枝の君、……お早うございます」
「もう昼じゃないか!なんで起こしてくれなかったんだい」
子供のように怒る金雀枝に、檳榔は笑いを堪えられず下を向いた。
「いえ……ふふ、すごく良く眠っていらっしゃったんで、ふふ、ははは」
「叩き起こしてくれて良かったんだよ!驚いたよ、目を覚ましてみたら昼だし、檳榔の君はいないし、一体何日寝てしまったんだろうと思ったよ」
すっかり笑って動けなくなった檳榔の傍に、ため息をつきながらしゃがんだ金雀枝は、横から檳榔のスケッチを覗き込む。
「美しいね」
「へ、」
あまりに静かな声だったので、檳榔は笑いも引っ込んで金雀枝を見る。
檳榔の目と鼻の先であった。彼が思っていた以上に、金雀枝はのめり込んで彼のスケッチを見ていた。
白磁の肌、整った顔、日の光を受けて煌めく瞳が、叡智の光を湛えて、それでいて好奇心旺盛に、新米研究員のスケッチを眺めていた。
「檳榔の君のスケッチは繊細で丁寧だ。特にここの葉脈の写し方などはとても興味深いな……素晴らしい」
する、と宝飾品に彩られた白魚の指が檳榔のスケッチをなぞる。それはどこか、檳榔を褒め称えているのでもなく、またスケッチの美しさを褒め称えているのでもなく、彼が写し取った植物の美しさを褒めているようなのであった。
「……金雀枝の君のスケッチには、とても、……俺のは、まだまだ……」
思いがけぬ褒め言葉に動揺した檳榔は、何とか言葉を絞り出した。
「いいえ、きっと檳榔の君は大成する──スケッチだけの話ではないよ。きっと、立派な研究者になれる。あなたのする仕事の全てが丁寧で、精巧だ」
美しい、と再び金雀枝は言う。
「武官長があなたを選んでくれて幸運だったよ」
そう言って笑いながら金雀枝は立ち上がった。
檳榔は何かを言うことすら失念していた。美しい天才に手放しに褒められたことも一因であったし、彼が何気なく口にした「武官長」という言葉もまた一因であった。
「そうだ、あとで檳榔の君の知識を借りたいことがある。スケッチが終わり次第、来てもらってもいいかい」
「ええ、わかりました」
了承の意を返すと、金雀枝はまたにっこりと笑って、今度はゆっくりと植物の迷路を歩いて行った。
檳榔は大きく息をつく。
金雀枝の口から出る「武官長」の言葉に、檳榔は得体の知れない危うさを感じていた。
金雀枝が「武官長」の周りにある薄い膜をいつか何かの拍子に破ってしまうのではないかと勝手に恐れているのであった。空木の名を出さないのは石斛との約定である。決して言うことはしないが、彼の言う「武官長」が彼がかつて愛したはずの空木であることを、彼は未だ知らないのだ──と思えば、到底彼がそれを知らずに永遠に過ごしていけるとは思われないのであった。
いつかは空木のことを思い出すかもしれない。
そもそも、こうして正気を取り戻したのも急なことだった。きっかけは分からないと、王宮医師も言っていたらしいではないか。いつまた正気を失うか、いつ空木を思い出すか、誰もわからないのだ──当の金雀枝ですら!
そういうことを考えるにつけ、金雀枝の「武官長」の語に一抹の不安じみたものを感じざるを得ないのであった。
だが、檳榔がそうして危うい淵を歩いているであろう金雀枝との日々を大変楽しいと感じ始めているのもまた事実であった。
最初は変わった人だと──何より、正気でなかった頃の話を聞いていたから如何なものかと距離を測りかねていたが、天才云々という以前に、金雀枝という男が明るく柔和な人物であることを早々に理解したのであった。
空木や石斛が言う通り、心底から植物を愛する優しく愛情深い男であると分かってきてからは、檳榔の当初のような緊張はだいぶ薄れてきていた。毎日植物をスケッチし、書物を読んで纏めたりする、ただそれだけの日々を単調だと投げ出してしまわないのは、金雀枝の存在が大きかったであろう。
金雀枝は檳榔に対して極めて近しい存在であるように接した。立場上は金雀枝が檳榔よりも幾分上であったかもしれないが、そんなことは毛頭気にしていないようであった。
まるで友人のように、或いは兄弟のように──温室から出ることができないという金雀枝にとって、1日の大半をここで過ごす檳榔も時折の来客も大切な話し相手であったであろうし、それらに対して時には近すぎると思うほどの親密な感情を寄せることもまた当然であったかもしれぬ。
にこにこしながらあれやこれやと他愛もない話をしたり、身振り手振りも大げさに植物について熱く語ったり、檳榔には到底理解もできぬほどの書物を拓いて語ったり。それらを見ていると、檳榔はそれらの話へ理解が追いつくかどうかはともかく、金雀枝へと心を注ぎたくなるような気持ちが少しづつ理解できる気がしていた。
手元のスケッチは未だ半分も終わっていなかった。
金雀枝に褒められた紙上の葉脈をそっと撫で、檳榔はまたスケッチを再開した。
金雀枝は丁度、大理石の机の上に書物を広げ、石斛の持ってきた加密列(かみつれ)のお茶を飲んでいるところであった。一通りスケッチを終え、植物を傷つけないよう慎重に迷路から顔を出した檳榔に、金雀枝はにこりと笑って、
「お茶にしないかい」
と言った。
彼がよく使う精巧な細工の如雨露と同じく、彼が手に取った加密列茶入りのポットもまた、美しい細工が施されていた。
「あ、俺がいれます」
上司にお茶汲みの真似をさせるわけには、と座ったソファから立ち上がりかけた檳榔を金雀枝は制する。
「どっちがいれたって味に違いはなし、いいじゃないか」
長い睫毛を伏せてポットからカップへと加密列茶を注ぐ金雀枝は、まるで子供のように嬉しそうであった。
ポットには蔦のような模様が這わされていた。そこを小鳥が啄ばんでいたり、花が咲いていたりする意匠なのであった。
「はい、どうぞ」
彼の指のような真白のカップに渦巻く加密列茶を、檳榔は恐縮しながら受け取った。
カップに口を近づけると良い香りがして、スケッチで凝り固まっていた肩や目が安らぐようであった。
「いい香りでしょう」
「ええ」
「すごく好きなんだ。疲れが溶け流されていくようで」
ね、と笑う金雀枝に、檳榔は頷き返した。
ガラスの天井から射し込む日の光が、カップの中の加密列茶をきらきらと反射する。
「尤も、あなたが来てからは随分楽だよ──檳榔の君は本当に働き者だね」
「性分ですよ」
実際、金雀枝は檳榔からしてみるとかなりのんびりとした性格であるようだった。
王宮温室の中で暮らしていると、急ぐだとか焦るだとか、そんなことは忘れてしまうのかもしれない。無論仕事がないわけではないし、金雀枝は檳榔には到底理解も及ばないような書物を読んだり、精巧なスケッチを基にして研究を進めている。だが、1日のうちに幾度もこうして休憩を設けて、檳榔と語らいたがるのであった。
金雀枝に言わせると、檳榔は「類を見ない働き者」であるらしい。檳榔はそのようには思わないが、これも金雀枝が暮らしてきた環境ゆえであろうか、などと考えることもあった。
檳榔は元が貴族ではない。武官として仕官し始めたときの友人は皆特に地位を持たぬ庶民か、或いは下級貴族の出身ばかりであったので、価値観や考え方が違うということもなかった。
しかし、王宮温室付きの研究員になってから接する者たちは皆、一様にどこか良い家柄の貴族ばかりなのである。
必ずしも家柄で地位が決まるものではなし、ただ王宮でものを云う多くは「教養」と「世渡りのうまさ」であった。
金雀枝の元を訪れる客人や、或いは檳榔が研究員として時折王宮内を歩くときに出会う、ある程度上位の武官や文官たちはいずれもそういうものを兼ね備え、加えて貴族の位を持つ者たちばかりであった。
元服──即ち王宮への仕官の歳までに高い教養を身につけ、王宮内で出世し高官になり確実な地位を得るのが彼らに課せられた使命でもあった。
檳榔はといえば、王宮仕官といえども最初志していたものとはまるで方向性が違うところへ足を踏み入れてしまっていたし──元より対して野心や親の期待というものもない、ごく一般的な庶民の家庭で育ったものだから、これはこれで良いか、くらいの考えであった。
以前金雀枝に頼まれ、過去の資料を取りに王宮図書館へ赴いたとき、檳榔は彼がまだ研究員になりたて──一週間ほどの頃だろうか、金雀枝への面会を取り付けるための手紙を届けに来た文官に出会った。
彼は確か、文官長からのものだと言って石斛へと手紙を手渡していた。
亜麻色の短い髪を編み込んで装飾品で飾り、意志の強そうな瞳をした美少年であった。確か、赤檮と名乗っていただろうか。
檳榔が声をかけ挨拶をすると、一瞬胡散臭そうにこちらを見遣ったが、すぐに軽く会釈をして挨拶を返した。檳榔よりは数歳年下のように見えたが、これで文官長の傍で身の回りの世話をするほどに取り立てられているのだという。明らかに年上であろう檳榔に萎縮せず、歯牙にも掛けない様は、その紅顔も相まって、なにやら不思議な気持ちになったのを檳榔は覚えている。
小耳に挟んだところによれば、この赤檮という若き文官はその容姿や神童ぶりから信奉する者も多いという。
信奉、などというのは檳榔には到底考えもつかないことであったが、後で金雀枝に聞いてみればそのようなこともザラだよ、と笑って言うから驚愕したものである。
とかく、そのような王宮の不思議な「常識」というものを、じわじわと分かりつつあった。
金雀枝に付いて素直に働き続ける檳榔は、ある意味これ以上の出世の見込めない柄なのかもしれぬ。が、檳榔は今の単調で平和な生活を気に入っていた。
加密列茶がゆっくりと湯気をあげながら、相も変わらず日の光を受けてきらきらときらめいている。
平和であった。
檳榔は、こうしてずっと金雀枝と共に王宮温室付きの研究員として働ければ良いなあ、などと呑気に考えていたのであった。
ひと息──といってもかなりの時間、他愛ない話で二人は盛り上がっていたが──ついたあと、金雀枝は檳榔を誘って植物の為す迷路の中へ入り、一つの鉢を指し示して言った。
「これなんだけれどね」
小さめの鉢に植えられたそれは、周りの大きく育った木や生い茂る植物の陰になりながらも瑞々しい緑の茎から幾枚も葉を出し、元気に僅かな日の光を求めて伸びているようであった。
腕を組み、ため息をついた金雀枝は言葉を続ける。
「花が咲く気配がないんだよ」
確かにすくすくと伸びていることは確かなようであったが、言われてみれば、花をつける様子はなさそうなのであった。
「これはこことは大分気候が違うところから取り寄せたものだから、気候が合わないのかなと思うんだけれど──そもそもが希少な植物で、育て方や管理の仕方もわかっていないところが多いんだよ」
そこまで言って、金雀枝は檳榔を振り向いて問う。
「わたしに分かるのは、これが希少な“野草“であり、そしてこの植物の実は薬になるということなんだ。檳榔の君は野草に詳しいと聞いたから、これがどのような環境で育っているものか推察できないかと思ってね」
檳榔はゆっくりとしゃがみ、その鉢から伸びる瑞々しい茎や葉と向き合った。
檳榔は幼い頃から、薬草や野草の効能や種類に関して母からたびたび教えを受けていた。
彼の母はそういった知識を基にして山や森へ入り、薬草や野草を採ってきては煎じて薬をつくることをよくしていた。檳榔もそれを近くで見ていたし、手伝うこともあった。その頃はまさか、それを生業にすることになるなどと考えたことはなかったが──檳榔は金雀枝の視線がこちらへ向けられているのを感じながら、葉の裏を返してみたり、土をそっと触ってみたりした。
土は他の鉢のそれと同じくしっとりと湿っていた。
檳榔は母と山や森へ入ったときのことを思い出す。そしてその指先に感じる水気に、はたと思い当たることがあった。そうだ、森や山は必ずしも毎日こうして土が十分に湿らされることはないのではないか?
この王宮温室の植物たちは、水を必要としないものや少量でいいものを除き、毎朝決まった時間に金雀枝が水が与えているが、もしかするとこの植物もその類であるのかもしれぬ。
檳榔にはもう一つ気になることがあった。
すくすくと青い茎を伸ばすこの野草だが、本来はもっと違う成長の仕方をするのかもしれぬ。青く伸びる葉には昔見た覚えがあったが、もっと違う色であったように記憶していたのである。
「……金雀枝の君、この植物の葉はもっと……白く、こんな青々とはしていない筈なのではないでしょうか」
「おや」
檳榔の言葉を聞いた金雀枝は、少し驚いたような声をあげ、それからにっこりと笑った。
「そう、その筈なんだ。日の光を得ず、本来はこのように青々と茂る筈のないものだ。だから、こうして日陰に置いてみている──もっと完全に日の光を絶った場所へ置いていたこともあるが、やはり今と同じように育っていたんだよ」
檳榔の君、あなたはどう思う?と、その視線に問われているようであった。
「日陰に置いていることは間違いではなくて……むしろ、この形はきっと、この野草にとってふさわしい環境だと思います。ただ、俺はこの環境ではこれが自然に生えている場所とは違うところが──水が多すぎるのではないかと思いますが」
しゃがんだまま、金雀枝を見上げながらそう言った檳榔は、何故だか時が止まったかのような気に陥った。
その天才の表情が明らかに驚きへと変化するのをはっきりと見た。
「そうか、水──そうか!」
直ぐに檳榔の隣へしゃがんだ金雀枝は、そっとその葉を撫でながら独りごちて言葉を続ける。
「なぜ思い至らなかったんだろう、ああ、考えてみればその通りだね」
野草へ語りかけるような金雀枝の横顔は、錦糸のごとき髪に隠されて見えない。
「すまなかったね、わたしの知識が至らないばかりに」
その言葉は檳榔に向けてではなく、その野草へ向けられていたであろう。いたわるような、愛おしげな声音であった。
檳榔はその様へ、吸い寄せられてまるで動けなかった。
人の言葉を解さぬであろう野草へこんなに愛しげに話しかけ、まるで子を慈しむように世話をするなど、こうも目の当たりにすると、如何にこの天才が王宮温室の世話に適しているか──否、如何に王宮温室の植物たちを愛しているかを深く実感せざるをえないのであった。
この王宮温室から出られない天才にとって、言葉を喋らなくとも手をかければかけるほど美しく健やかに育つ植物たちは愛おしいことこの上ないのであろう。無論、こうして傍で見るよりも前からそれはわかっていた筈であった。
であるのに、こうして傍でその様を見ると妙に「美しい」と感じるのであった。
それはほぼ無意識であった。花を見て美しいと思うように、風景や美術品を見て美しいと思うように、それくらいに瞬間的な感情であった。
「檳榔の君」
「……、はい」
「あなたが居なければ、わたしはこれに永遠に美しい花を咲かせてやることはできなかった」
檳榔の手を、白魚の指が握る。
「ありがとう。……また、その知識をわたしに貸しておくれ」
日の光を得てきらきらと輝く瞳が檳榔を見る。
「そんな、……また、いつでも」
「ありがとう」
立ち上がりながら金雀枝はそっとその手を引き、檳榔も立たせた。
「お、俺、またスケッチしに戻ります」
「うん、頼んだよ」
金雀枝の指に手を握られているのがどうにもこそばゆく、檳榔は逃げるようにそう言った。
瞳も、少し冷えた指も、装飾品で飾られ揺れる髪も、豊かな表情も、全てが明るく、美しかった。
惑わされる、というのも、恐ろしい、というのも違っただろう。
温室から出ることのできない天才、美貌、それらが相まって金雀枝を一層不可思議でミステリアスな男へ仕立て上げていた。
「あてられた」のかもしれなかった。王宮のしきたりにぴたりと嵌る、上品で美しいひとの気にあてられたのかもしれぬ。とかく若い檳榔には、金雀枝を理解しきるには到底まだ長い時間がかかる筈であった。
檳榔は再びスケッチをする準備をしながら、落ち着かずふわふわと浮いている頭で考える。
嗚呼、空木の君は「あれ」に恋をしたのだろうか?
考えるとどうにも口に出してしまいそうになるので、王宮温室付きの研究員となったその日から、檳榔はなるべくそのことを考えないようにしていた。
石斛があの日語ったこと、そして空木が苦しげに語ったこと。
空木と金雀枝の間に詳しく何があったのか、自分には知る必要がない。とは言うが、武官長もこんなことを思ったのだろうか、と不躾に思いを馳せずにはいられなかったのであった。
日が落ちた王宮温室は、ぽつぽつと控えめな灯りが点けられてあちこちを照らしていた。
一日中照らし続けることは植物にとっても決して良いことではない。朝があり昼があり夜がある、その通りに植物たちを生かしてやるべきなのだ、例えここに在ろうともね。──というのは金雀枝の言であった。
日が落ちれば仕事は終わりである。
金雀枝を手伝って書物を片付けた檳榔は、植物たちに囲まれた金雀枝の「部屋」へと戻ってきた。
金雀枝はカウチへ座り、白い毛皮のストールをカウチの背へかけて幾分リラックスした格好であった。
トーガの裾から装飾品のきらめく白い足首、その爪先までも飾る小さな装飾品がちかちかと灯りに反射していた。
「金雀枝の君」
「ああ、檳榔の君」
カウチの側に立っている檳榔を見上げ、金雀枝は柔らかな笑みを浮かべた。
「今日は本当に世話をかけたね」
「いえ、お役に立ててよかった」
金雀枝は檳榔の言葉にまたにこ、と笑った。
ぼんやりとした灯りが金雀枝の白い肌を照らす。
色のない唇が動き、檳榔を呼んだ。
「……ね、檳榔の君」
「はい」
「夜を恐ろしい、寂しいと思うかい」
檳榔は直ぐにそれへ答えることができなかった。
夜に包まれた硝子ドーム、そのぼんやりとした灯りに照らされた美しい顔立ちが、色のない唇が驚くほど柔和に、優しい声で問うのだ。
苦し紛れにでてきた言葉は、ある種姑息であった。
「……金雀枝の君は、寂しいと──恐ろしいと思うのですか」
「おもうよ」
一つ一つの音を区切るような、ゆっくりとした言葉であった。
「檳榔の君、……卑怯だね。わたしに問い返して、答えないつもりかい」
「俺は……」
恐ろしいのは夜でなく、そんな問いをする美しい金雀枝であった。
恐ろしい。夜を恐れ、寂しいと思う金雀枝を──
「恐ろしいと思います」
「ここへいるとね、急に一人が恐ろしくなる──夜、あなたがいなくなるとね」
「……」
「あ、真逆共寝をしろなんて言わないから安心しておくれ。ただ、こう……檳榔の君もそういう様に思うかな、と思ってね」
やや早口に言い訳をするような金雀枝に、檳榔は思わず吹き出した。
「いや……金雀枝の君でも、そのようなことを思うのだなと……」
「わたしをなんだと思っているんだい」
苦笑しながら眉間にしわを寄せ、怒るふりをして見せる金雀枝は、立ち上がり檳榔の瞳を確と見据え、屈託のない笑みを浮かべて言う。
「悪かったね、仕事終わりに。──おやすみ」
「いえ、──おやすみなさい」
金雀枝は温室の入り口の大扉まで檳榔を見送った。
大扉が閉められる寸前、檳榔は金雀枝の足元をふと見た。
この大扉から一歩でも足を踏み出したら、この天才は生きていけないのだ。このひとは命と引き換えにせねば外の世界を歩けないのだ。
おやすみ、ともう一度言って手をひらひらと振った金雀枝が、閉められた扉の向こうに消えた後も檳榔は暫くそう考えていた。
不思議なひとだ。
朗らかな美しさをしていながら、話す者皆を笑顔にするひとでありながら、たった一人で過ごす温室の夜を恐ろしいと思うひと。
自分が去った後、あの柔らかな灯りが点けられた温室で、カウチで緩やかな眠りに落ちるのだろうか。
一体、あの美貌の下に何を隠しているのだろうか。
朗らかなそれの下に、数え切れないほどの微かな不安を内包しているのかもしれない。
「……不思議なひとだ」
寮へと帰る、白い柱が月光に眩しい廊下を歩く檳榔の口から零れた言葉を聞く者はない。
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