第3話
王宮温室研究員は決して王宮内での地位が低いわけではない。
文官と武官という大きな区分けの中で言えば文官に属するが、では文官の中でどれだけの地位があるのかと言えば、何分専門的な知識が求められる部署であるし、毎日植物をスケッチしているばかりというだけでもない。植物の持つ効能や特徴、薬にした時の効果、或いは危険性、それらの正確且つ膨大な資料をまとめ、病の治療や流行病の感染防止へ役立てる──というのが目的である。
王宮温室の実質的な主であり、筆頭研究員でもある金雀枝はかつてその植物に関する膨大な知識をそのままひとの形に整えたような男だと形容されたこともあったが、「ある時」を境に研究は長く停滞していた。そこへほんのつい最近、新米武官が急遽新たに金雀枝に取り立てられて研究の任に就いた、研究はめでたく再開したらしいというのは専ら古くから金雀枝と親交があった高官や文官たちの間では密かに噂になっていた。
そういう訳で決して王宮内での地位が低い訳でもなく、文官の中でも専門的な知識を扱う部署としてそれなりの地位を持つ王宮温室研究員であるが、とはいえそれより上の地位の高官たちも当然存在するのであり、それもその高官たちの中でも最高位の──つまり王宮に住む王族を除けば最も位が高い──政治や外交、実質それらの実権を握る二人置かれた宰相のうちの一人が、まるで散歩にきた、とでもいうかのように王宮温室を訪れたのはつい先ほどの出来事であった。
王宮温室は巨大な硝子ドームになっている。
その硝子越しの明るい日の光を受けて元気に育った植物たちがからまり合い、寄り添いあってできた温室内の巨大な植物迷路は迂闊に足を踏み入れれば出られなくなること請け合いである。難解な植物が為す迷路の中心に置かれた大理石の机を挟んで置かれたカウチとソファに、王宮温室の筆頭研究員たる金雀枝と、この国に二人置かれた宰相のうちの一人、
金雀枝の宝飾品や飾り紐で結われた絹糸のような長い髪が、光に当たってきらきらと揺れる。
上質なトーガを纏い、むき出しの白い肩を文官の証である白い毛皮のストールが覆っている。それに加えて官位の高さを示す宝飾品が腕や足首、手首、首元と、とかくその白肌を彩っていた。
右目を覆う前髪の向こうからたびたび覗く瞳は人が良さそうに、しかし叡智の光をたたえているのである。
一方、その真向かいに座る馬酔木は好々爺然とした佇まいであった。
肩ほどまでもある赤茶の癖毛は髪飾りで飾られ結われて、これもやはり日の光に当たるときらきらと揺れる。
上質のトーガを纏い、やはり重たげで華やかな宝飾品をつけていることは金雀枝と変わりないが、その目の光や、どこか呪術師を彷彿とさせる容貌は見るものの目を引く。
頬骨のあたりにはこの国にいくつか存在する民族のうちの一つの証たる刺青があり、更には薄くではあるが濃紫色が唇に引かれているのも、やはり妖しい──呪術師めいた印象を与えるに十分であった。
およそ若いというほどの歳でないのは確からしいが、しかしだからといって壮年、という様には到底見えないのである。ソファの脇には彼が用いている精巧な細工が施された杖が立てかけられているが、杖を使わねば歩けない歳にもまた、見えないのであった。
馬酔木の柔らかな表情を秘めた瞳は、鮮やかな翠玉の色をしていた。時折金雀枝の話に目を細めて嬉しげに相槌を打つのは、まるで子の話を聞く親の様でもある。
「金雀枝の君、あの助手は本当に入れたばかりなのだと聞いたが調子はどうなのかえ」
先程から植物のスケッチを続けている檳榔をちらと見やり、馬酔木は言う。
スケッチを続けていると言うが、檳榔はすっかり気が散ってしまってろくに集中できていなかった。
今朝方、王宮温室付きの世話係である石斛が、カウチで書物を読んでいた金雀枝と檳榔の元を訪れ、お客人がいらっしゃっておりますと言って通したのが馬酔木であった。
金雀枝は馬酔木を見るなりパッと明るい表情を見せ、よく来てくれたねとソファへ誘ったし、馬酔木も柔らかに笑んで、
「元気な様でなによりじゃ」
と幾分古風な口振りで安堵の言葉を口にした。
檳榔はと言えば、研究員という肩書きを得てから日が短く、まだ王宮内の主要な部署を覚えるのがやっとという有様であったから分かる顔であるわけもない。名前も顔も知らぬ客人にぎこちなく檳榔が名乗ろうとした瞬間、金雀枝は檳榔を振り返り、
「ああ、檳榔の君は新米だから会ったことがないかもしれないね──もしかしたら名前くらいは聞いたかもしれないな。こちらは馬酔木の君だよ」
と紹介をしたものである。
「これが件の新しい助手じゃな」
馬酔木はゆっくりと杖をつきながら、その翠玉の瞳を細めて檳榔の目の前へと立った。
「檳榔と申します」
「金雀枝の君を支えてやっておくれな」
馬酔木は檳榔の肩に手を乗せて言う。静かで低い声であった。そして、ひどく愛おしそうな──それは、親が子を見るような目なのであった。
年齢のわからないひとだ、と檳榔は内心思ったが、無論口には出さなかった。
「つい最近入ったばかりの武官じゃろう。我の顔なぞ見たこともないじゃろうが、まあ覚えておいておくれ。……宰相、馬酔木じゃ」
宰相と聞いて、檳榔は一瞬直ぐには判断が及ばなかった。
少なくとも王宮内で頻繁にすれ違う、という地位でないのは確かである。
「さ、宰相、」
どのような挨拶が適当か分からず、深々と頭を下げた檳榔を宥めるように、馬酔木は和やかな言葉をかける。
「そんなに緊張せずとも何もせぬわ──化け物であるまいし。いや、仕事を止めさせてすまなかったのう」
「しかし、まさか馬酔木の君が来てくれるとは思わなかったな。あなたの話を聞くのは楽しいから嬉しいよ。檳榔の君、邪魔をしてすまなかったね。スケッチを続けておいておくれ」
「は、はい」
──といった具合で、金雀枝の元をふらりと訪れた馬酔木はもう数刻は話し込んでいるのであった。
幅広の大きな濃緑の葉をスケッチする檳榔の手は遅々として進まず、ついその耳は急に訪れた宰相と温室の主の会話に傾けられてしまう。時折金雀枝の明るい笑い声が聞こえ、また静かで低い馬酔木の声が混ざる。
檳榔はここへきて改めて、この金雀枝という男がいかに人に好かれており、いかに広い人脈を持っているかを実感していた。
王宮温室から出ることができないというから、さぞ孤独に生きてきたのではないかと思えば決してそんなことはなく、恐らくは金雀枝が気が触れてしまう前、ずっと親交があったであろう者たちが次々に訪ねてきては話し込んでいくのである。
きっと、気が触れてしまう前もこうだったのだろう。
温室から離れることのできない男のために通ってくることを厭わない、そういう友人が沢山いるひとなのだ。
思っていたよりも随分幸せなひとなのだと檳榔は思っていた。そして、訪ねてくる友人たちと話し込む様を見るにつけ、金雀枝の頭の中には「いない」であろうかつての研究員、そして今は武官長である空木の存在を思わずにはいられなかった。
檳榔は空木に初めて呼び出され、この研究員の任を与えられた時以来彼に会っていないし、話してもいない。
きっと金雀枝を知る多くの友人の中でただ一人、今の金雀枝を知らないひと。きっと誰よりも金雀枝を想っていながら、当の金雀枝が知らないひと。
(哀れなのは金雀枝の君だけでなく、空木の君もそうだ)
確かに金雀枝を置いていき、金雀枝を狂わせた一因をつくったのは空木であろう。しかし、そのあと許しを請うことも謝ることも許されず、金雀枝から声をかけられることも想われることも許されないなど、あまりに酷ではないかと、自分のことではないにも関わらず檳榔は胸を締め付けられる思いであった。
金雀枝と空木の関係や過ごしてきた時間は、檳榔が石斛や空木から聞いた話が全てではないだろう。きっとほんの一部に過ぎない。膨大な時間と強い絆であったはずのものが脆く崩れ去ってしまった、忘れ去られてしまった、それらに思いを馳せるたび、檳榔はどうしようもなく空虚で哀しい気持ちになるのであった。
ようやっと幅広の葉の表をスケッチし終わり、次は裏を──と思ったとき、石斛の声がした。
「金雀枝の君、馬酔木の君、──
「おや、我を追ってきたのかえ……忠義よなあ」
にぃと笑った馬酔木に、石斛の後ろに付いて現れた青年は形容しようのない表情でため息をついた。
また知らぬ名が聞こえ、挨拶をせねばと植物を慎重にかき分け出てきた檳榔は、思わず息を漏らす。
亜麻色の髪をした青年であったが、その瞳は非常に強い意志の光を帯びた琥珀色であった。
決して体つきが大きい訳でも、また厳しい顔の作りをしている訳でもないが、その瞳の奥に秘めた意志の強さひとつでひとを屈服させることをも容易いであろうと思わせる男であった。
腰のあたりまで豊かに波打つ亜麻色の髪を幾つもの煌めく宝飾品で結い、或いは飾っていた。燦たる様相に相対するようにその肌は抜けるように白かった。
その髪色と瞳の色とも相まって、神話に語られる勇猛果敢、一騎当千の太陽神を思わせるような中性的な美貌であった。
金雀枝や馬酔木とまた同じく、身につけている宝飾品の多さからそれなりの位であることは知れた。上質なトーガを身に纏ってはいるが、文官の証である白い毛皮のストールをつけていないので恐らくは武官であろうと檳榔は推察した。
「何故わたくしに何も仰らずにふらふらとお出かけになるのですか」
甘やかな声は些か不機嫌さを内包していた。
「何故って、お前がいなくては屋敷から一歩も出られぬわけではないわ──まあそんなに遠出をしたわけでなし。尤も、結局ここまで追いかけてきたのはやはり忠義、誠実、そのものよなあ、お前は」
杜松は反論をしようと口を開けたが、やがて馬酔木に何を言っても勝ち目はないと諦めたか静かに閉じられ、代わりに金雀枝と檳榔への無礼を詫び、挨拶をするために再び開かれた。
「突然このように押しかけました非礼をお詫び申し上げます。──わたくしは杜松と申します」
頭を下げた杜松に、金雀枝はゆっくりとカウチから立ち上がって歩み寄る。
「あなたが馬酔木の君の秘蔵っ子かい。話には聞いていたが、こんなにも話どおりに太陽のようなひととは驚いたな」
「……恐れ入ります」
「話は聞いているかもしれないけれど、私は王宮温室研究員の金雀枝。そしてあちらが新米研究員の檳榔の君だ」
示された檳榔は律儀に頭を下げ、また杜松も再び頭を下げた。
馬酔木は二人の様を見て笑い、
「杜松の君、まだ話はかかるからこの広い温室の中を散歩しておいでな」
と子供に言い聞かせるように言った。それを聞いた金雀枝もまた笑って、
「じゃあ檳榔の君、折角だからスケッチは一度やめて、気分転換に杜松の君に温室を案内してあげるといい」
と勝手に話をまとめたものだから、杜松と檳榔は妙な顔で顔を見合わせる。が、杜松は金雀枝と馬酔木の会話に同席をする気は無いらしく、未だその場で立ちすくんだままの檳榔の元へゆっくりと歩いてきた。
「……檳榔の君、……頼んでもよろしいですか」
杜松は檳榔よりも頭一つ分ほど背が高かった。それに近くで名を呼ばれたので檳榔は大変萎縮したが、金雀枝と馬酔木に見られていては今更これを断ることもできず、
「は、はあ」
と気の抜けた返事をした後、そっと頭上の葉を避け、杜松を連れて王宮温室のほぼ全てを占める植物の迷路へと歩みだしたのであった。
杜松は思った以上に無口であった。
檳榔はただただ杜松の少し前を歩いていたが、これが到底王宮温室の案内になっているとは思われず、度々不安になって後ろを振り向いた。その度に琥珀の瞳と目があうので、それもまた彼の緊張を呼んでいた。
温室の外周は、僅かに植物の為す迷路の壁と硝子の壁の間に細い道を作っていた。暖かで柔らかい光が入ってくるのを浴びながら黙々と歩く檳榔と杜松は、随分奇妙な図であった。
外から微かに聞こえる鳥の鳴き声、木々のざわめきが一層大きく響いているように感じられていた。
その沈黙を先に破ったのは、杜松の方であった。
「檳榔の君は、元武官であったと聞きましたが」
「あ、……ええ、でも俺は今年入ったばかりで」
武官と呼ぶにも浅いのだと檳榔は付け加える。
「研究員の職を難しいとは思わないのですか」
「元から野草や薬草にはそれなりに知識があったもので──それに、ここでの研究はのんびりしていて俺の性に合ってます」
と言って頭を掻いた檳榔は、背後から聞こえたひそかな笑い声に振り返った。
思いもかけず、笑っていたのは杜松であった。
笑うと幾分その厳しい表情の美貌は柔らかくなり、檳榔が先ほどまで抱いていた萎縮の気持ちは随分と小さくなった。
「……貴方は、稀有なひとですね」
「稀有、ですか」
「この王宮の中で、こんなに朗らかでのんびりしたひとがいるとは」
甘やかな声は端々に笑みを含んでいたが、嘲笑うようなそれではなかった。
「いや、俺はその……貴族の出じゃないし、恥ずかしいんですが今だって王宮のしきたりとか、身のこなしとか、そういうのはよくわからないんですよ。……杜松の君は皇子様みたいで、さっき見たときは大分驚いて」
「皇子様とは、……ありがたいな」
生真面目そうであった口振りは一瞬、素直な檳榔の言葉に解けた。
硝子の壁から惜しげもなく射し込む日の光に、杜松の亜麻色の髪は柔らかく照らされていた。
杜松がしばしば太陽神のようだと形容される所以でもあった。
「杜松の君は……馬酔木の君を、その、追いかけて此処へ?」
「ええ。……一応は、馬酔木の君の護衛を言付かっている身ですので」
「一応?」
杜松の言葉の意味を図りかねた檳榔が聞き返すと、杜松はその甘やかな声を低くして──それはまるで、小さな子供の内緒話のようにも思われた。
「……言付かっているというのは間違いではないが、任があるから護衛をしているというわけでもない」
そこに生真面目で神経質そうな、あの燦たる太陽神めいた美貌の青年はいなかった。
ただ、あの呪術師めいた宰相を慕う、泣き笑いのような表情をした青年がいた。
「馬酔木の君が、……彼の方がいなかったならば、俺は今頃とっくに死んでいたかも知れん」
別段他人の感情の機微に聡いとは言えない檳榔にも、その静かで抑えた声に秘められたものを察することはできた。
亜麻色の睫毛は伏せられて揺らぎ、絞り出すような低い声が言葉を紡ぐ。
「こうして王宮で仕官しているのも夢のようだ。彼の方の側で彼の方を護衛できることも──」
そこまで言った時、杜松はハッと口を噤んだ。
「……否、ご無礼を──わたくしのその、私情をこのような、お恥ずかしい」
亜麻色の髪に隠れた耳が僅かに赤くなっていた。
硝子の壁ごしに日の光に照らされた燦たる美貌は些か表情豊かにへら、と笑って見せた。
檳榔はこの太陽神の如き男があの宰相へ並々ならぬ思いを──それが凡そ一言で到底言い表わせるものではないであろうことを十二分に感じ取っていた。
「杜松の君」
「はい」
「……馬酔木の君のこと、大切に思ってらっしゃるんですね」
檳榔の言葉に、一瞬杜松は驚いたような表情を浮かべた。が、それを言った檳榔の瞳も、表情も、決して杜松を不審がったり馬鹿にしたり、嘲笑ったりするものではないというのは杜松にもありありとわかるものであった。
檳榔はゆっくりと踵を返し、再び歩き出した。
植物の為す迷路の外側を歩く檳榔に、杜松も続いて歩き出す。頭一つも違う二人である。歳も杜松の方が幾らか上であった。体格とて、長く武官をしている杜松の方が上であった。
だが、彼は長らくこのような素直な男に当たったことがなかった。彼は王宮の中で、ただ一人馬酔木の為だけに生きてきた男であった。
彼の硬い殻に開いた僅かな穴からその表情や言葉を引き出した檳榔に、杜松は少し遅れて返事をする。
「……ええ」
亜麻色の髪を揺らして軽く頷いた杜松の琥珀の瞳に、日の光がきら、と射し込んだ。
馬酔木と杜松が王宮温室を出たのは日が落ちかけた頃であった。
黄金から茜に、やがて濃紺へ変わらんとする日の光を受けながら、馬酔木と杜松は王宮温室のある王宮の敷地を出て城下にある屋敷へと帰ろうとしていた。
宰相ともなれば王宮の敷地内の寮に住むこともない。城下に屋敷を持つことが決まりであった。
尤も、有事の際にはいの一番に駆けつけられるよう、その屋敷は城下街のうちでも王宮と一番近い場所にある。
馬酔木の護衛を任ぜられている杜松も馬酔木の屋敷へと一緒に帰るのであるが、その忠義を尽くし信頼されている様を見る人々の中には「杜松の君は馬酔木の君から“特別な“寵を受けているそうな」などと噂する者もいた。
馬酔木は杜松を幼い頃から──杜松が武官として王宮に仕官する遥か前から彼を連れ回し、可愛がっていたのは周知の事実であった。きっと宰相殿はあの屋敷の中で太陽神の化身の武官を格別に愛でていらっしゃるのだなどと根も葉も品もない噂が聞こえるたび、杜松は馬酔木の君がそのようなことなどあるはずもないと露骨に不愉快な顔をして今にも殴りかからんばかりの気を発して見せたが、馬酔木はそれに反論、或いは手を出すことを決して許さなかった。
言わせておけというのが彼の言であった。
「我が世に言われる怪しい風貌をしているのは十分承知の上じゃ、お前がそうして怒ってくれるのは悪い気分ではないがな、……我がお前のような男を連れていれば何事もなくともそのようなことを言われるのは分かっておる。何事もないことを勝手に妄想して語る輩など大したことはない、捨て置くが吉じゃ」
杜松は馬酔木がそのような怪しい者だと思われることをそもそも厭っていたが、馬酔木に止められていてはなにも言うことはできなかった。
王宮の敷地を出て屋敷までの暫し美しい石畳を歩く間、馬酔木の一歩後ろにぴったりと付く杜松は、やはり生真面目で誠実そのものであった。
城下街の建物は一様に白みがかった石造りである。いついかなる日の色にも染まる、美しい街であった。あちらこちらに観賞用に植えられた鮮やかな柳緑の柳が穏やかで生暖かな風に揺れていた。
若い娘たちがどこかの路地で世間話をして笑っている声が響いたが、杜松はそれらに目をやることもなかった。恐らくは耳もそちらへ向いていることはなかったであろう。
「平和じゃ、美しい街よな」
これもまた真っ白な石造りの塀に囲まれた屋敷への門をくぐろうとした時、馬酔木はそっと呟いた。
「ええ」
と言葉短に返事をした杜松を、馬酔木は振り向く。
「ほんに美しいと思っておるのか?」
「……わたくしとてそう思う感情はありますよ」
「ふぅむ」
そうかのう、と言ってあやしげに笑う馬酔木に杜松はため息をついた。
馬酔木はこうして度々、杜松を本当にもののわからない無粋な者のように扱うことがあった。
その杜松にものの粋無粋を教えたのは紛れもなく馬酔木であったし、更には杜松がそれらを理解しているのを分かっているのであるが、生来こうして他人をからかうことが好きな男であった。
「我は部屋へ戻るが、……お前も来るかえ」
「いえ、わたくしは暫く庭におります」
「これは珍しいこともあるものじゃな」
どんな風の吹き回しかえ、とまた戯けてみせる馬酔木に、杜松はそういう気分なのですと答える。
馬酔木は笑って、ゆっくりと杖をつきながらそのまま屋敷の中へ消えていった。
あとには青々と繁り風に揺れる庭木と、もう直ぐ夜へと落ちる日の光にあてられる杜松だけが残された。
「……馬酔木の君」
杜松は昼間、王宮温室の新米研究員から言われた言葉を忘れることができなかった。
『……馬酔木の君のこと、大切に思ってらっしゃるんですね』
大切に思っている、そうか、そのような感情なのだ。そういうことなのだ。
杜松は決してひとの感情がわからぬ男ではなかった。無論人並みに笑うことも怒ることもある。しかし、物心ついた頃から彼を大事にしていた馬酔木に対する感情に、未だ名を付けられずにいた。
例えば、親に対する子の心だろうか?
しかし馬酔木は幼い杜松を親身になって可愛がり、教育を受けさせたが、杜松が馬酔木を親と呼ぶことを許さなかった。杜松からしてみれば、馬酔木は親と呼べぬこと以外は、恐らく限りなく親であった。
または、尊敬すべき上司であったかもしれなかった。
彼が王宮に仕官をすると決めたのは、馬酔木がいたからでもあった。その頃既に馬酔木は宰相の任についており、あのようになりたいと思って文武に励んだのであった。
結局は武官の道を歩んだわけであったが、その結果、王宮に仕える者として憧れた馬酔木の側でこうして護衛をしているのだから、杜松としてはこれ以上望むことはあり得なかった。
或いは根も葉もない噂が語るように、邪な心であるのかもしれなかった。
さもなくば、杜松は馬酔木を美しいと思うことが多々あった。
それは容姿云々の問題ではなく、彼の言動や、時には卑劣や姑息であると形容された采配をする様に対して思うのであった。
杜松は根っから、あまり嘘をつくのが得意ではない。思ったことがすぐ顔に出るのである。それはあまり王宮内では得になるまいなと馬酔木に言われ、生真面目で鉄面皮と揶揄されるほどに固い表情や口振りをするのを心掛けたのであった。
馬酔木は心のうちで思うことと口に出すこと、更にそれに表情が合致することがあまりない、と言うのが杜松の見解であった。何を考えているかわからないというのは宰相という職に合った性格なのだと冗談めいて言った馬酔木は、口元は笑っていても目はまるで杜松を探るように不可思議な光を湛えていたのを杜松は思い出す。
杜松は馬酔木のそのようなところが──底知れぬものを抱えていそうなところが、なんとも美しいと思うのである。煌めいているでもない、派手なわけでもない、もしかしたら清純ですらないかも知れぬ。しかし、そういう真がわからぬものを抱えている馬酔木を見ると、堪らなく美しい、と思うのであった。
杜松は夜の濃紺に染まりつつある庭のとりわけ大きな木の根元に腰を下ろす。
生暖かな風は徐々に涼しげな風に変わりつつあった。
頭上の木の葉がざざ、と揺れてひとひらふたひらと杜松のトーガの裾へ葉を落とした。
自分が今まで、馬酔木に対して思っていたどの感情も、いまいちしっくりとくることはなかった。自分の中で抱えきれていなかった、把握していなかった、名前を付けられていなかった思いが、やっと形が見えた気がしたのであった。
大切に思っている、そういうことなのだろうか。
あの新米研究員の素直な瞳に絆されて、幾分気が緩んだのかも知れぬ。こんなことをずっと考えたことはなかった。
そんなことを考えるのが逆に不思議であるほどに、杜松と馬酔木は当たり前のように近くにいた。まるで親子のように近くに在った。
杜松が自分の親と呼べるものはとうに死んでいると知ったのは、晴れて仕官を始めた歳──つまり、元服を迎えた歳であった。
その長い経緯を語って聞かせる馬酔木は、珍しく笑っていなかった。ひどく辛そうな顔をしていたのを、自分も辛い気持ちで聞いていた。それは、自分が親を失った経緯が辛かったからではない。無論大きな衝撃を受けたことに間違いはなかったのだが、その時ちくちくと針で刺されるような胸の痛みを覚えたのは、きっといつも笑みを湛えていた馬酔木が心から苦しそうな表情を浮かべていたからであった。
なんでも、自分の実の親は自分が生まれて間もなくに屋敷を強盗に襲われて殺されたのだという。
父と母に生まれたばかりの赤子を託された乳母は自分を連れてなんとか逃げ出したが、文官であったという父は母を守ろうとするも抵抗虚しく殺され、出産を終えて日のなかった母もやはり殺されたらしいと馬酔木は苦しげに語った。
それなりに身分も財産もある家であったらしいが、実の親たちを殺し、金目のものを一通り盗んだ強盗は屋敷に火を放った。逃げた強盗は幾日もしないうちに捕らえられて首を刎ねられたという。今でも賊が生きていたら仇を討ちたかったかえ、と馬酔木に聞かれたのを、わかりませんと答えたのをよく覚えていた。
屋敷の焼け跡からは煤けた「家具だったもの」と遺体が見つかった。
そこに残されたのは、財産にはならぬものだった。
画して逃げ延びた乳母と赤子──杜松は財産と呼べるものも、更には守ってくれるものすらも無くしてしまったのである。
亡くなった主のたった一人の子供を抱え、どのように暮らしていこうかと途方にくれていた乳母へ声をかけたのが、果たして馬酔木であった。
親族がいなかったわけではない。しかし、財産があればそれを手に入れることもできようが、それすら持たぬ乳母と赤子を金をかけて養ったところでなんの意味もない。
一体赤の他人であった馬酔木が何故、と杜松は聞いたことがある。
「我はお前と血は繋がっていないが、お前の父親と良き友人だったのじゃ」
友人が一夜にして強盗に襲われ命を落とし、運良く乳母と生まれたばかりの子供は助かったがそれに手を差し伸べる者がいない──そのようなことを聞いて到底座ってはいられるわけはなかろうて、と馬酔木は言った。
馬酔木は独り身であった。
恋をしたことはあっても、夫婦になるなどと考えたことはなかった。そんな風であったから、乳母と赤子をまとめて引き取ると決めた時は一瞬──ほんの一瞬躊躇した。だが、泣く赤子を見て心を決めたのだという。
亡き友人の忘れ形見を立派に育ててやらねばと、あやし方を知らぬ赤子を抱いて思ったのだと、馬酔木はやはり苦しそうな──或いは泣きそうな顔をして言った。
乳母は幼い杜松にとって母親同然であったし、馬酔木もやはり父親同然であった。尤も、馬酔木は父親と呼ぶことを決して許さなかった。聞けばただ一言、
「我はお前の父親ではないからよ」
と言う。
父親代わりにすることもいけないのかと問えば、やはり無言で頷いた。
「我はお前の後ろ盾に過ぎぬ、赤の他人じゃ。我がお前の父親の代わりに父親を名乗るなど烏滸がましいことは断じてあってはならぬ」
と言うこともあった。
納得ならぬ感情もあったが、結局ここまでそれに従って生きてきた。
馬酔木は実際、後ろ盾のなかった孤児をここまで育て上げたのである。自分の亡き父親との友情だけを信じてその子を育てるなど、到底杜松には想像もならないことであった。
そんな凄絶な自分の過去を知り、そして如何に馬酔木が自分を育ててきたかを知り、杜松は仕官を始めてから長らく、馬酔木に恩を返そうと思って過ごしてきた。
文官になり馬酔木の右腕として働きたいとも思ったが、武官として宰相たる馬酔木の身を守る任をやがて得た。
同じ年に武官として勤め始めた者の中で、剣で杜松に勝てる者はいなかったのであった。
杜松自身から馬酔木の護衛の任を与えられたと聞いた時、馬酔木は大変驚いた様子を見せた。
なにも我を守る必要などない、我は死ぬ時には死ぬ、殺される時には殺されるのだから、そんな者を若く先のあるお前が守る必要はないのだと。
それを押し切って、杜松は今でもこうして護衛を続けている。
馬酔木は幾度も杜松に忠告した。
杜松は幾度も馬酔木に反論した。
自分が守りたいからこうしているのだ、自分のやりたいことを考えろとは言うが、これが自分のやりたいことに違いないのだと反論した。
そう反論した自分の言葉の裏にはきっと、いくつもの言葉にできぬ感情があるのには間違いなかった。口に出せば簡単で、或いは口に出せばすぐ消えて無くなってしまう感情が。そして恐らく、大切に思っているからこそ、『大切に思っている』ことを明かすことはない。
「……明かしてなるものか」
トーガの端を強く握り、すっかり日が落ちてしまった庭で杜松は思う。
あの呪術師の如き底知れぬ男を、これからもずっと──墓に入っても尚、守らねば。そして、この感情の名も一生自分の心の中へしまっておかねばなるまい。
限りなく親に近しい存在として、上司として、そしてその美しく妖しい気性に惚れ込んでしまっている、どうにも形容しようのない、凡そ全てを内包した『それ』を。
「お身体を冷やされますよ」
乳母の声がふと頭上から降ってきた。
「ああ、」
「馬酔木の君も心配しておられましたわ」
「ああ」
二度同じ返事をして、杜松はトーガにまとわりついた葉をそっと払いおとした。
〈ああ、俺はこの並々ならぬ感情を抱えて生きてゆくのだ。長い長い秘密を抱えて、彼の方が死ぬまで、俺が死ぬまで!〉
飾られた亜麻色の髪は夜の濃紺を映して夜風に揺れていた。
太陽神の如きと称される武官の、哀しいほどひとでありすぎる心もまた、僅かに揺れていた。
馬酔木は恐らく夢を見ていた。
何故それが夢であると分かったのかと言えば、そこにいる自分はまだ杖をついていなかったし、目の前には今は亡き友人がいて他愛もない話をしていたからであった。
友人は亜麻色の髪をしていた。長く美しい髪で、馬酔木はこの髪がいたく気に入っていた。その容姿は勿論、彼の内面も気に入っていた。気取らない、人に好かれる男だった。
当の本人はそれを周りが言うほど美しいと思うこともないらしかったが、そういうところもまた好いていたのである。
聡い男であったが、彼はそれを武器にしようなどという気は毛頭ない。馬酔木は度々勿体無いと言い続けてきたが、
「俺は家族が養えればそれでいいんだ」
と言って柔らかく笑うのを見ると、それ以上なにかを言うという気も消えるのであった。
馬酔木はこの友人と過ごす時を愛していたし、それは馬酔木が彼を置いてどんどん出世し、割ける時間が少なくなっても尚続いた。
気づくと、馬酔木は無残な焼け跡に立っていた。
石造りの部分以外は燃え、炭になって黒く燻る「屋敷だったもの」の前で、呆然と立ち尽くしていた。
これはあの友人の家だ。そしてあの友人はこの中で死んでいるのだ。
馬酔木の中にぽっかりと穴が空いたようであった。
何か複雑なことを考えて悲しむ気持ちすら起こってこないのである。
ただただ、穴が空いたような虚無感だけが在った。
馬酔木が心を許す、凡そ親友と呼べる者はそう多くはなかった。あの男が死ぬわけはないと勝手に思い込んでいたのかも知れぬ。あまりにも簡単に、あまりにも早く目の前から消えてしまった。
腕の中から泣き声がする。
赤子の泣き声だ。
泣き声をあげ、抱き慣れていない者に抱かれている居心地の悪さからか手足をしきりに動かす赤子の髪は美しい亜麻色だ。
ああ、あの男の子供なのだ。
あの男の血が通った子供なのだ。
赤子の琥珀の目がこちらを見つめては顔をくしゃくしゃにして泣く。
「悲しいかえ……父を失って、母も失って、お前には何もないものなあ」
赤子の軽そうに見えてなんと重いことか。
赤子は尚泣く。
「我もなあ、同じじゃ。お前が失った父は同時に我の友であった」
馬酔木は赤子をより一層強く抱き寄せ、抱き上げる。
「憎いほど、羨ましいほど父に似た顔よな、ああ、愛おしい、悲しいこと……」
赤子を抱き、静かな、しかし情念めいたものが滲む言葉を呟く馬酔木へ、後ろから声をかけるものがあった。
「父上!」
そこにいたのは、亜麻色の髪の少年であった。
馬酔木はハッとして腕の中を見るが、そこには赤子を包んでいた布だけが残っていた。
「父上、聞いてください、先生に褒めていただきました!」
「父、」
「父上?」
不思議そうに覗き込む琥珀の瞳、亜麻色の美しい髪。
「……我はお前の父ではない」
この子の父は死んでしまったあの男以外に居らぬのだ。
自分はこの子の父を名乗れぬ。
「我を父とは呼ぶな」
「父上、」
「我はお前の父では、」
常には決してあげないほどの大きな声で、あどけない少年の縋るような声をかき消すように言った、その時であった。
「馬酔木の君」
「……杜松の君」
哀れな少年は消えていた。
三たび、そこにいたのは、亜麻色の髪に琥珀の瞳の青年だった。
馬酔木はこれを何があっても言うまい、墓に入るまでひとには言うまいと固く心に誓っていた。
杜松は亡き父に本当によく似ていた。まるで生き写しであった。成長するにつれて一層似てくるのである。
また笑った顔などもやはり、亡き父にそっくりなのであった。
杜松は馬酔木の助言を受けてからというものあまり派手に感情を顔に出すことをしなくなったが、時折へら、と溶けるように笑うところなどを見ると、嗚呼あの男の子供なのだ、とぼんやりと思うのである。
杜松に友人を重ねることがどんなに愚かしいか、わからない馬酔木ではない。幾ら容姿が似ていようと、血が繋がっていようと、笑顔が似ていようと、別人には違いないのだ。
そこの境を見失えば、忽ち転がり落ちるように「駄目になる」だろう。
亜麻色の髪の美しいこと、その顔立ちの燦たること!
眩しい青年であった。
馬酔木はこの男を側に置くことを嬉しくも思い、また恐ろしくも思っていた。この男は自分の側にあるには有り余る。忠義を尽くし、恩を返すためにと護衛をしてくれるが、いずれ──自分が死んだ後は自分のことなど気にせず、好きな生き方をすれば良いと、口にはせずとも考えていた。
「ああ、死んだ時のことなんか考えるのはやめろ」
そう言ったのは、目の前にいる杜松ではなかった。
美しい亜麻色の髪をしているが、琥珀の瞳ではない。
杜松によく似た美しい顔をしているが、幾分優しげで人が良さそうな顔をしている。彼はまさか、否、恐らくは──
「お前は、」
名を呼ぼうとしたが、喉は絞められたように言葉を発することを拒む。
「俺の息子が愛しいか」
違う、そうではない!
だがやはり、声は出なかった。
「馬酔木の君、馬酔木、■■」
最後に呼ばれたのは、官名ではない、自分の名前であった。官名を貰って以後は、本当の名をごく親しい友人にしか教えなかった。杜松の父とは、親から与えられた名で呼び合う仲であった。
美しい亜麻色の髪が、ふわ、と声を出せぬ馬酔木の視界を覆ったような気がした。
「は、」
夢など見るのは何年ぶりであろうか。
まして、あの男の夢を見るのは。
嫌な汗が体を伝っていた。夜風は妙にその体を冷やした。
乾いた色なき唇から懺悔の言葉が漏れる。
「どうか、……愚かな我を許しておくれ」
遺されたたった一人の息子に、その父の姿を重ねることを。
どうしても忘れられぬ男の影を重ねることを。
あの亜麻色の髪の青年を子供のように愛することができるのは、その父をいたく気に入っていたからであったかもしれぬ。
その瓜二つの容姿を愛し、その容姿を持つ男に「馬酔木の君」と呼ばれる度に遥かな昔を思い出していたからかもしれぬ。
〈ああ、我はこの憎らしい感情を抱えて生きてゆくのだ。長く醜い秘密を抱えて、我が死ぬまで、あれの元へ行くまで!〉
呪術師の如き、悪辣な魔導師の如きと称される宰相の、悪夢に溶かされた、悲しいほどひとでありすぎる心は哀れにも誰にも知られぬままに冷えてゆく。
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