第2話
いわゆる大臣と呼ばれる高官達は、一つの部署につき数名が文官や武官の中から選ばれて取り立てられる。
それはそれまでにたてた功績によって選ばれることもあり、天性の才をかわれて選ばれることもあり、稀に世襲によってその地位につくこともある。
いずれにしろ、単に頭脳の良し悪しや、ただただ生真面目というだけではやっていけないところであり、世渡りの上手さや人心掌握、要領の良さというものがものを言う世界であった。
貿易や外交関連を司る高官である
自分でそれを自覚しているのもまた、彼の強みであった。
おまけに世に言う「美丈夫」で、整った顔立ちに加えて、黄玉の石が嵌ったかのような表情豊かな瞳や、丁寧に手入れされ結われた赤毛は如何様な相手に対しても憎めない印象を与えるのに一役買っていた。
官位の高さを表す数多の装飾品はただでさえ人並み以上である彼の容姿を一層華やかに見せるので、こと社交の場では男女問わず引く手数多といった様相であった。
現にうちの娘を是非、などという声がかからない訳ではないが、本音か嘘か、「今は仕事が恋人ですから」とそれとなく受け流してきたものである。
しかし、やれ完全無欠の貴公子やれ若き天才高官などと呼ばれてきた連翹が、傍目から見てもなりふり構わず大層入れ込んでいるようだというのが、王宮の文官を取りまとめる文官長、
春蘭は一応貴族の出身ではあったが、地位としては到底上級貴族と言えるほどのものではなかった。王宮へ文官として仕官し始めた頃は特に目立った噂がある訳でもなく、至って普通に──普通にとは言うが、それはまるで布に水が染み込むかのように自然に、それでいてあっという間であった。
彼は書物を読むこと、その内容を理解する早さ、知識の枝葉の広がり方が常人のそれとは全く異なっていた。
とかく知識を吸収し、それを活かす、応用することに長けていた。長けすぎていた。
そして、恐らくは非常な策士であった。
柔らかな物腰に加えて一見して何を考えているかわからないような言葉回しは、彼と話す相手を翻弄する。彼は無欲に見えて出世欲の塊なのではないかと疑ってかかる者もいたが、やはりその真意はわからないのであった。
今でこそ文官長という立場を得ているが、彼がその立場を自ら望んだことはなく、ある種畏れられているからこそ周りの者がその席に据えたというような形なのである。
無論文官長としての仕事は淡々とこなすし、文官長だからといって出過ぎたこともしない。来るもの拒まず去る者追わずといった真意のわからぬ態度を畏れる文官もいれば、それに深く心酔する文官もいた。
尤も、その容姿も心酔する者を生む一因であったもしれぬ。
象牙色の癖毛に薄いヴェールをあしらった髪飾りをつけ、細い腕や足に豪華すぎるほどの宝飾品を纏って、文官の証である白い毛皮のストールに上質な白いトーガ、おまけに透きとおる白い肌という、不可思議で妖しげな容姿に惹かれる者は少なからずいた。
加えて、春蘭は視力を失っていた。
生まれつきのことではなく、まだ文官であった時分から徐々に目が見えなくなり、文官長になって十数年経つ今では完全に盲目であった。
王宮図書館のみならず、もはや世界中の書物の内容は一言一句違わず全て頭に入っているのではないかと噂される通り、目が見えない今では新しい書物を読むことは難しいものの、この書物のこの巻のこの章はと聞けばスラスラと内容を言って見せるのは、やはり只者ではないとより一層噂を助長するのであった。
その春蘭の元に、今日も今日とて連翹が人目を憚らず訪れていた。
書物に強い日の光が当たらぬように薄いカーテンがかかった大きな窓から柔らかい光が射し込む文官長室は、壁一面が書物や巻物を収める棚になっている。ほのかに香が焚かれているが、それが自分の贈ったものであると気づいた連翹は殊更嬉しそうな声で春蘭に言う。
「僕の贈ったものを使ってくれているのか?嬉しいな」
「ああ、今日の香はそうだったのですね。……何せ、私では分からないものだから、
赤檮というのは春蘭がこと信頼して取り立てた若き文官である。
文官という位としてはほぼ同じ立場であるが、春蘭と赤檮は師弟関係のようなものであった。
赤檮は幼い頃から抜きん出た才能を持っていた。中流貴族の出だが、四、五歳の頃には大人のようにハキハキとよく喋り、十歳になるかならないかのうちで大人でも読むのが難しいような書物を膨大な量読みこなしていたという。親や周りの勧めで、通例では元服の儀を迎えてから──つまり十五歳になってから文官の仕官試験を受けるところを十二歳で受けた。これを難なく通り、文官として仕官し始めてすぐ、王宮図書館の難解な書物も瞬く間に読んでしまったというのだから当然噂にならないわけもなく、百年に一度の神童が現れたと王宮中で囁かれた。
当の赤檮はまるでそのような噂に興味がない様子であったが、ただ一点、文官長たる春蘭に教えを請う事に関しては他のどの文官よりも熱心であった。
天才と言われようが元服が済んでいない、未熟なところも多々ある少年である事に変わりはなく、大人びた口調で話しはするが、春蘭に教えを請うている時は一心に春蘭を見つめ、熱心かつ無邪気に、ここはどう読むのですか、これはこのような解釈なのですかと尋ね、時には春蘭と議論を戦わせることすらあった。
特に誰かを傍に置くというようなことをしていなかった春蘭であったが、この無邪気で少し背伸びをした神童を気に入って、度々話し相手として呼んでは様々なことで議論をしたり、他愛もない話をしたりしていた。
世話係は別にいるのだが、赤檮が来てからというものは彼が望んで盲目の春蘭の身の回りを気遣うようになったので、いつの間にか春蘭の世話係はほぼほぼ赤檮の役目というようになっていた。
文官長室の片付けや手入れも赤檮がしており、盲目の春蘭の為に床にはものを置かぬよう、ものがせり出したりしないよう、またせめて香りくらいは楽しんで頂かねばなりませんと言って、殺風景すぎるほどに整理整頓された上に、いつも赤檮が選んだ香が焚かれているのが常であった。
その赤檮の名が真っ先に春蘭の口から出たので、連翹の笑顔は若干苦笑へと傾く。
連翹は赤檮がいる時を避けて文官長室を訪れていた。
赤檮が連翹を露骨に嫌がるのである。
若き天才高官たる連翹が、儚げな美貌の文官長春蘭に大層入れ込んでいるらしいというのは、およそ王宮内にいる者なら皆知っている噂で、こと赤檮はこの要領のいい、軽薄な(というのは赤檮の言であるが)若い高官が自分の師の元を訪れては口説くのを目の敵にしていた。
連翹としては赤檮は別に嫌う理由もなし、寧ろ春蘭の弟子ならば「仲良くしたい」ということなのだが、少年ゆえの苛烈で純粋な敵意を真っ向から浴びるのはさすがの連翹も気疲れするので、こうして毎度時間を見計らっては春蘭の元を訪れるのである。
「赤檮の君はどこへ行ったんだい」
「何を白々しいことを。今の時間は図書館へ行って書物の整理をしていますよ。暫く戻っては来ますまい……それを分かっていらっしゃっているんでしょう」
春蘭は見えぬ目を閉じたまま、柔らかな光が射すソファに座っている。
連翹はというと、美しい木目の卓子を挟んだ、春蘭の目の前のソファに座っていた。
向かい合って高官と文官長が話す様は、凡そ口説いている──口説かれているというよりはもっと別の──例えば密談とか、賄賂のやり取りとか、そんな風にすら見えるのである。本音の見えぬ、真意のわからぬ言葉のやり取りを繰り返す二人はお互いの腹の底がわかっているものか、口元に穏やかな笑みをたたえたままだ。
「春蘭の君、貴方とこうして話すようになってだいぶ経つけれども、未だに貴方は僕と友人のような口ぶりで話してはくれないんだな」
「私は連翹の君のことは良い友人と思っておりますよ」
「赤檮の君には大層くだけた話し方をするじゃないか」
「まさか、赤檮の君に嫉妬でもしているんですか?おかしいこと……あの子は立場上私よりも下の立場ですし、弟か子供のように思っていますから、とても連翹の君とは……違うんですよ」
それに、連翹の君は私よりも上の立場でございましょうにと春蘭は言う。
見えぬ目を開けて、髪と同じ象牙色のまつ毛の下、白く濁った瞳が覗く。目を開けただけであって、こちらを視認したわけではない筈なのに、連翹は春蘭にひどくまっすぐ見つめられたように錯覚する。
「……若き天才高官がしがない文官長に大層ご執心だと──王宮中で噂ではありませんか。私の何処がそんなに気に入られたのです?それとも、私でなく赤檮の君に興味がおありですか?」
「赤檮の君は優秀だと思うよ」
連翹は含笑いで些か的外れな回答をしたが、春蘭は意に介さないようであった。
「……春蘭の君、……貴方は……つれないひとだな」
「連翹の君、もう一度よくお考えあそばされませ。あなたが溺れるべきは私ではないはず」
陽に雲がかかったのか、文官長室は一瞬陰った。
陰った中で、春蘭の色のない薄い唇が紡ぐ。
「あなたともあろうひとが、私の様な男を引っ掛けて……確かに社交界の話題づくりには事欠きますまいが、」
「僕が貴方を話題づくりなどに使うとでも」
その声ははっきりと激昂していた。
声を荒らげたわけではない。静かな、だが抑えた激昂が見て取れた。
連翹の笑みは消えてしまっていた。声は震え、若き天才高官の顔はどこにもなかった。そこにいるのはただ、青年であった。
「こうして毎日訪れてくださるけれど、私にはどうも、あなたの“ご執心”は刺さりません」
春蘭は立ち上がり、まるで──まるで盲目であるのが嘘の様に、するりと正確に卓子を避け、連翹の目の前に立った。
象牙色と白に、豪奢な色合いであるはずの装飾ですら、それらに飲み込まれて見える。
白魚の指が連翹の赤毛を絡め取って、その耳元で色なき唇が囁く。
「……あなたはきっと、芯から……“あいしている”と口にできぬお方」
焚きしめられた香の薫りを纏って、春蘭はそっと、連翹の髪から肩へと手を滑らせる。
確かに大人の男であるはずなのに、その体重と言えるものはおよそ、なにも感じられなかった──連翹の膝へ、春蘭は臆面もなく横坐りに座って見せた。白いトーガの裾が、大袈裟なほど衣擦れの音をさせる。
「盲目の男を捕まえて、手慰みに恋の遊び相手になさるのは……どうかおやめになってくださいね」
今にも頰と頰が触れ合いそうなほど、息の音も、心の臓の立てる音も皆聞こえそうなほど。連翹は喉元に短剣を突きつけられたかのような気分になった。
確かに想った筈の相手を、その腰を抱き寄せられるほど、それほど近くにいるというのに、手は戒められたように動かなかった。
「……連翹の君」
縋るような、それはほぼ息の音であった。
色なき唇がそう動いたのを見届けて、連翹はまるで悪夢から逃げ出そうとするかのように、そのしびれた手で白く軽い体を自分の膝からどかし、
「……また、会いに来るよ」
と掠れた声で言い残して早歩きに文官長室を出た。
精巧な細工が施された白い柱が続く廊下を戻る最中、恐らくは王宮図書館から文官長室へ戻るのであろう赤檮とすれ違ったが、今の連翹には彼に対し時間を取って挨拶する余裕もなかった。
かろうじて会釈をして見せたが、相も変わらず赤檮は露骨に顔を歪め、顔を伏せて早足に歩いて行ってしまった。
一から十まで、連翹の負けであった。
次第に笑いがこみ上げてきて、大臣達の執務室のある棟へ戻った時にはもう涙がこぼれるほどくつくつと笑っていたのであった。
仲間達は酷く訝しんでいたが、連翹の耳にも目にも、それらは入っていない。
「大したひとだ……本当に」
それは賞賛であり、また負け惜しみのようでもあった。
彼の脳裏に鮮明に焼きついていたのは、尚一層懸想を強くするに足る、文官長の美しい顔と、震えも揺れもなく紡がれる声と、あの自分を呼ぶ生々しい息の音なのであった。
「春蘭の君」
赤檮はその紅顔を露骨に嫌悪に歪めて、静かにソファに座っている春蘭の名を呼んだ。
「連翹の君と、何かあったのですか?あの方がまた何かなさったのですか?」
「いいえ。……しかし、わからぬ方だね、連翹の君は」
素知らぬ顔といった春蘭に赤檮は納得いかない表情をしていたが、師にこのような問答で勝てたためしが無いのは一番よく分かっていた。
赤檮は亜麻色の髪に、子供らしくまだ桃色ざした白い肌をしていた。その歳ではおよそ多すぎると思えるほどの宝飾品に白いトーガ、文官の証たる白い毛皮のストールは、彼を大きく大人らしく見せるというより、寧ろその可愛らしさを多分に示す格好にも見えるのであった。
王宮内にはこの紅顔の神童の熱烈な信奉者も多く、果ては古代の神々の遣わした使者であるだの、いやいや使者ではなく古代の神々の生まれ変わりであるだの、いくら神童と呼ばれようとも地位としては一介の文官でしかない赤檮には余りある贈り物や言葉を寄せる者は多々在った。
幸いにして学問と王宮図書館にある膨大な書物、そして師たる文官長以外には興味を示さぬ、ある種無欲な──或いは貪欲であったかもしれぬ──赤檮にはその言葉や贈り物は大した効果をもたらさなかったが、そのそっけない様子は一層信奉者たちの気持ちを煽るのであった。
黒曜石のような瞳は、表情豊かに且つ明らかに不満げな色をして、赤檮はソファに座った春蘭に体を向けて言う。
「連翹の君と先程すれ違いました。……いつもとは様子が幾分違われたので、何かあったのかと思ったのですが」
「赤檮の君、……おまえが気にすることではない」
優しい声音であったが、同時に有無を言わさぬ声音でもあった。そして、師が自分のことを「おまえ」と呼ぶ時は、文官の枠を超えて、もっと強い意志や感情を以って何かを伝えたいのだということを、聡い赤檮は言われずとも知っていた。
「噂は知っているのだろうね」
「ええ、でも……でも、連翹の君の考えは私には分かりかねます」
「分からずとも、この王宮で充分おまえはやっていけるよ──それに、時が来ればそのような感情にもやがてすぐ通づるでしょう」
まだ若いのだからねと笑う春蘭に、赤檮は曖昧に頷いた。その動作が春蘭に見えるわけでもないのだが、春蘭から与えられた言葉を飲み込むように頷いたのだった。
「春蘭の君、春蘭の君は……連翹の君のことが……お好きなのですか?王宮内のあちこちでそのような噂を言われても、何も思われないのですか?私は……あのような……あのような方と春蘭の君がその……ありもしない噂を囁かれるのは……」
いくら赤檮個人が嫌っていようと疎んでいようと、連翹は文官よりも更に地位の高い高官である。充分そのような王宮の「しきたり」を理解しているはずの赤檮が、春蘭の目の前で連翹に対し「あのような方」などという言を発するのは至って珍しいことであった。
「赤檮の君は私が連翹の君を好いていると、そう思うのですか?」
「いいえ、私には……」
言葉を濁らせる赤檮に、春蘭は笑って言う。
「そう、王宮のそこかしこで、あの天才高官が文官長に首ったけなのだという噂は私とて耳にしますよ。そしてそれが強ち間違いでないことも」
「……」
「連翹の君が何を思って私に良くしてくださるのかは存じあげませんが、些か私を買いかぶりすぎていらっしゃるのは間違いありませんね」
春蘭が「存じ上げない」筈がない──赤檮はそう思ったが、口には出さなかった。この儚げで底知れぬ文官長は、自分の本心や本音を隠すことに長けている。それはいつも傍に置かれている自分に対してですらそうだ。
「私を清廉潔白な聖人君子、目の見えぬ哀れな籠の鳥の如く扱われるのですから」
そう言って笑う、何も捉えておらぬ筈の春蘭の白く濁った瞳の、まるで先を見通せぬ霧のようなそれに、赤檮は背筋につうと水を垂らされたかのような気分になった。
あの様子がおかしかった軽薄な高官も、もしかしたらこの瞳の見せる底知れぬ何かに当てられたのかもしれないとも思った。
実際春蘭の言う通り、春蘭に憧れ、或いは心酔信奉する者達は総じて春蘭のことを聖人君子、盲目で儚げ、深窓の何とやらだと語る。
赤檮はそれを聞くたび、その印象をどうこう言うつもりはなくとも、決してそんなことはないと思うのである。
確かにその容貌は頭抜けて美しく儚げである(と赤檮は強く思っている)が、その内面は思った以上に強情、負けず嫌いで頑固だ──と、数年傍に仕えて気づき始めたのだ。
何か言われてはいそうですかと口では答えても、腹の底と口先で同じことを考えているとは全く限らないし、その穏やかな口振りからは一見予想もできぬほど、冷徹で薄情な考えも持ち合わせている。
そういうところへ赤檮は憧れるのであるが、これを知らぬ者の方が当然多いのだから、哀れ、言い寄ってきた天才高官もその差に驚いてしまったというところであろうか。
「赤檮の君は連翹の君のことをあまり好きでないのでしたね」
「好き、と言いますか……反りがあいません」
「他人に変わりないのですから、そういう相手もいて然り、ですよ。……あまり冷たくするものではありません」
「ええ、まあ……」
あからさまに納得いかぬという赤檮の答えに、また春蘭は笑った。
「……また連翹の君は春蘭の君に会いにいらっしゃるでしょうか」
「先程はまた来ると仰っておりましたよ」
「……」
「面白い方ですから、私は連翹の君がいらっしゃるのを楽しみにしているんですよ。そんな、目の敵にしないで差し上げて」
ね、と念押しするように言われては、赤檮は反論もできなかった。
憮然とした表情の赤檮をよそに、春蘭はそうだと小さく呟いて再び赤檮の名を呼んだ。
「赤檮の君、手紙を書いていただきたいんですよ」
「手紙ですか」
まさか連翹の君に、と言いかけた赤檮に、春蘭は首を横に振る。
「あの方は手紙なぞ書かなくても会いに来られるからよろしいんですよ。そうではなくて、もうずっと会っていない方に……王宮温室へ」
「王宮温室」
赤檮は王宮温室の名こそ知ってはいたが、行ったことは無かった。
仕官し始めてからこれより、近づく機会も用事も無かったのである。王宮温室は王宮の敷地内とはいえ幾分遠い場所にあったし、何より──不気味な噂が若い文官たちの間で広まっていた。
「あの、狂人だか幽霊だかが幽閉されているという──」
「なんですかそれは」
眉根に皺を寄せて、春蘭は微妙に不機嫌そうな声を出した。
「若い文官の間では王宮温室に関してそのような噂が?」
「え、いえ、数人がそのようなことを言っているのを聞いたことがあるというだけですが……」
「根も葉もない噂があっという間に広まってしまうものですね」
ため息をついた春蘭は、顔をソファの脇に立っていた赤檮の方へ向け、見えぬ目を開けて言う。
「とにかく、王宮温室宛に書いていただきたい手紙があるのです。私が言いますから、代筆を頼んでもよろしいでしょうか?」
「勿論です」
言うが早く、赤檮は勝手知ったる文官長室の棚から羊皮紙を持ち出して準備を始めた。
「……赤檮の君は、金雀枝の君という方を知っていますか」
ペンとインクを用意しているところに声が飛んできて、赤檮はそちらを振り向きながら、
「いいえ、存じあげませんが」
と答える。
「どなたです?」
「そう、……その名前も最早知られてはいないんですね」
そう呟いて、それ以上春蘭は言及しようとはしなかった。
長い手紙だった。
春蘭は、まるで詩を暗唱するように滑らかに語ることもあれば、訥々と話すこともあった。
赤檮はただただ聞き取ってそれを書いたが、春蘭の語るその言葉のうちに秘められた、或いはあふれ出してくる感情に、一瞬筆を止めることが多々あった。
この手紙をあてる相手は師にどれ程の感情を抱かせるひとなのだろうと、手を動かしながらも夢想すらした。
春蘭は語る中で、手紙の相手の名前を口にしなかった。ただ、「あなた」と呼ぶのであった。
書き出したのは正午を過ぎた頃だったが、手紙を書き終わった頃にはもう日が落ちかけていた。
「春蘭の君、これを……王宮温室へ?」
「そうです。手間を掛けますが、どうか届けてきてください」
「分かりました」
赤檮が静かな返事と共に文官長室を出て行ったのを、春蘭はその他人より幾分鋭くなった聴覚で聞き届けていた。
「……金雀枝の君」
春蘭がその名前を再び耳にしたのはほんの最近である。
きっとこの事を知らされているのは、「あの時」──王宮温室の筆頭研究員であった金雀枝がおかしくなってしまった、それ以前から彼を知っていた、ごく僅かな者だけなのだろうと察していた。
金雀枝に付いて研究員として仕えていた空木が急遽武官として転身し、仲が良かった金雀枝が止めたのも振り切り、任を得て遠国へと遠征へと行ったはいいが、その空木が長く遠征から帰ってこないうちに、置いて行かれた金雀枝は気が触れてしまったのだ──というのは当時随分と文官武官問わず王宮中で話題になって、あの温室から出ることができぬ天才になんと酷な事をするのかと密かに憤ったのを春蘭は思い出す。
春蘭は金雀枝と随分な交流があるうちの一人だった。
特異な体質を持っていて、なんとも不可思議なことに温室から出ることができないという金雀枝の元を訪れる者は決して多くはなかったし、また彼の話す内容といったら一から十まで自分の愛する植物のことばかりだったから、実際そういった知識のないものには大層退屈な話であっただろう。
春蘭も決して植物に多分な興味があったわけではなかったが、金雀枝の人となりに深く惚れ込んでいるようなところがあった。
とかく明るく気が利く男で、目の見えぬ春蘭が訪ねて来たとあらば入り口まで出てきては手を取って案内をしたし、決して饒舌ではない春蘭が言葉を引き出されるような興味深い話を山ほど話すのである。
そういうところを間近で感じていたものだから、到底「気が触れてしまった」などという噂を聞いても直ぐに信じることは出来ず、自ら王宮温室付きの世話係の元まで赴いて確認し、漸くその叡智が失われてしまったということを受け入れざるをえなくなったのであった。
それから随分長い間、王宮の中においても王宮温室のことが話題に上がることはなかった。すぐに箝口令が敷かれたか、それとも誰もがその話を忌んだからか、何れにしろ春蘭も時折思い出すことはすれど率先してその事を口にすることはなかった。
それがほんの五日ほど前、王宮温室付きの世話係が春蘭の元を訪れた。
顔は見えずとも、その声は動揺していて、また同時に安堵もしているのだろうということは容易に感じ取れた。
世話係は王宮温室の主に関して俄かに信じがたいことを語った。
金雀枝が急に正気に戻ったということ。
しかし、かつて彼と一緒に研究の任についていた空木のことはまるで覚えていないらしいということ。
世話係は一通りそのようなことを説明した後、
「私にもなぜこのようなことが起こったのか……」
とひどく不安げな声で言ったのを春蘭はよく覚えている。
長らく正気を失っていた者が急に正気に戻る、そのようなことは通常あり得るのであろうか、あり得るのだとしたら一体何がきっかけだったのだろうかと、金雀枝を診た王宮医師と議論を交わしもした。
そうしてその後、武官長──空木はこの事を聞いてどうしたのだろうかとも考えた。
長い遠征から帰ってきた空木が金雀枝が気が触れた様を目の当たりにしたあと大変衝撃を受けたらしいということも、またその後自ら金雀枝に関わることから身を引いて武官の任に専念していたのも春蘭もよく知っていたし、その功績から武官長へと取り立てられてからは立場上公の場で会うことも話す事もあった。
春蘭が思うところでは、空木という男はとかく不器用な男であった。仕事はよくできるし、それでいて仕事一辺倒でなく、人に優しくし思いやる気持ちも持ち合わせている。しかし、人と密接に関わるのに於いて、空木は優し過ぎるのである。優しすぎるが故に、自らの意思で行ったはずの遠征を今でも悔いている。金雀枝のことを切り捨てられずにいる。数えてみればもう十年は経つというのに、未だ一時も金雀枝のことを忘れたことはないのだという。
きっと金雀枝のことを忘れてしまえば、或いは切り捨ててしまえば楽になる。彼を十年以上、悔恨の念に縛り付けている存在を自ら切り捨てることもまた選択の余地である。
だが、空木は金雀枝へ会いに行くことはしないと言って尚、心の底で金雀枝を思い続けている。
そこへ来て、正気に戻ったという金雀枝は空木のことを覚えていないというのだから、流石の春蘭もなんと哀れな男なのだろうかと内心思ったものである。
金雀枝の古くからの友人というのは何人かいて、空木はともかくとして、きっとその何れにも世話係が赴いてこのようなことがあったと説明をしているのだろう。
春蘭は、金雀枝が自分を覚えていたであろう事を密かに嬉しく思っていた。また王宮温室に赴き、金雀枝の語る植物談義を聞きたいものだと考えもした。
そんな訳であったので直に会いに行こうかとも思ったが、何分特異な出来事である。先ずは手紙を出し、それからでも遅くはあるまい──と、割に春蘭はのんびりと考えていた。
赤檮に手紙を届けさせに行ったのは、あの聡い文官ならば若い文官の間に蔓延しているらしい怪しい噂にも惑わされることはないであろうし、万一のことがあってもうかうかと話し回るようなことはしないだろうということであった。
春蘭は金雀枝と過ごした、遥か昔の日々の香りを、音を、感情を思い出す。
あの頃そのままに金雀枝と夜を徹して語り明かしたいものだと、見えぬ目がほんのり開いて、先の見えぬ霧を映すかのような瞳がそっと笑った。
日は落ちて、もう直ぐに星月が顔を出し始める頃合いであった。
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