閉鎖的楽園温室のアルカヌム

@onrzsk

第1話

 到底──少なくともあと五年は与えられることのない官名を得て、彼は巨大な硝子ドームの前に所在なく立ち尽くしていた。

 彼はつい四ヶ月前、新年を迎えると共に同郷の仲間達と足並み揃え、晴れて王宮に士官と相成った。

 士官とは言うが、それに際して大した試験も無く、簡易な健康診断のみが彼らのくぐった門であった。王宮の近衛隊所属の兵士、それは彼らが物心ついた頃から目指してきた当たり前に存在する目標であり、また健康に育ってきた証でもあったのである。

 王宮の近衛隊として鍛えなければならないものも、学ばなければならないことも山積みであったが、同郷の仲間がいれば多少の厳しい訓練とて乗り越えられるものだ。

 四ヶ月も過ぎれば最初もへばっていた訓練にも慣れてきたもので、気心の知れた仲間達と練兵場の隅で他愛もない話をしていたところであった。

 地面に尻餅をつき、練兵場の乾いた土からも尚めげず生えてくる野草を前にして、薬草に詳しい母親から受け継いだ知識を仲間に語っていたその時、新兵ばかりの練兵場はにわかにざわついた。

「武官長殿のおなりである!」

 武官長といえば、近衛隊を含む全ての武官を取りまとめる立場であり、事実上この国の「武」の采配を担う人物である。

 無論新兵などと言葉を直に交わすことなど無く、顔を見ることすら稀な高官であるが、その武官長が一体この新兵だらけの練兵場になんの用かと、直立不動に強張った新兵達の目は緊張と好奇心の狭間で揺れていた。

 野草の知識を得意げに語っていた彼も例に漏れず慌てて立ち上がり直立不動の姿勢をとったが、武官長が少し練兵場を見渡し、兵士長へ何か耳打ちをしたかと思うと真っ直ぐに自分の方へ向かってきたのを見ると、一層体を固くした。

 武官長は高官のみ着用が許されるゆったりとした上質のトーガに身を包んでいた。日に焼けた精悍で整った顔立ちに栗色の緩やかな巻き毛が空のような青い瞳に影を落とし、その身のあちこちに官位の高さを示す鮮やかな金属の装飾品が煌めいていた。

「……君は、植物に詳しいそうだな。特に、薬草の類に」

 何を告げられるのかと顔を青くしていたところへ予想だにしないことを聞かれたので、彼はは、と詰めていた息を吐いた。それから、尚硬い声で、

「恐れながら、……詳しいという程ではありませんが、幼い頃から野草や薬草のことを教えられて育ってまいりました」

「そうか」

 武官長の答えは簡明だった。

 そして、

「私は君に用があって来たのだ。今すぐ、共に来て欲しい」

 と、有無を言わさぬ二の句を継いだ。

 周りの同郷の仲間達は顔を見合わせ、人身御供がごとく武官長の言葉に射られた彼に目をやった。

「か、かしこまりました」

 それ以外に答えは残されていなかった。

 武官長は踵を返し、彼は練兵場の小石につまづきながらそのあとに続いた。

 あとに残された新兵たちは、誰からとも無く、忽ちにほう、と安堵の息をついた。



「入ってくれ」

 促されたままに、花の薫りの香が焚かれた武官長室に足を踏み入れた彼は、未だに状況が理解しきれずにいた。

 応接セットの細かな浮き彫りの装飾が施された椅子を勧められ、それにもまた、促されるままに座ったが、いまいち落ち着きのない様子であった。

「……突然このようなことをしてすまなかった」

 書類や小物が几帳面に片付けられた机の向こうで、武官長は逆光で顔の見えないままに言葉を紡いだ。

 日除けのカーテンを閉める手はどこかぎこちなく、つまりはこの部屋にいる二人は互いに硬い空気を作り出していた。

「君は、この王宮にいくつかの研究機関があることは知っているか」

「は、はい、その……部署までは、……把握しておりませんが」

「いや、構わない。知っていても知らなくても……」

 武官長は羊皮紙の束とペンを持って応接セットの真向かいに腰を下ろし、真摯な目で彼を見据えた。

「単刀直入に言おう。君に官名を与え、温室付きの研究員に命じる」

「け、」

 研究員、と情けない声を絞り出したのに目もくれず、武官長は手元の羊皮紙に何かを書き付けた。

「これが今から君の官名となる。君はこの王宮の中では親から授けられた名ではなく、官名を呼ばれ、名乗ることになる」

 あまりに性急な出来事に目を白黒させながらも、彼はなんとか、武官長から差し出された羊皮紙を両手で受け取った。

「……檳榔びろう

「そうだ」

「ありがたく、拝命します……」

 書物よりも剣の柄を握ってきた手が羊皮紙を丁寧に巻き取り、精巧な細工がされた机に申し訳なさそうに置いたのを見て、武官長は息を吐き、そして先程までの精悍で険しい顔つきとは打って変わって、憔悴したような顔で困ったような笑みを浮かべて見せた。

「檳榔の君」

「……っ、はい」

「私は、空木うつぎという」

「は、」

「君に、温室付きの研究員となってもらうのに──どうしても説明しなければならないことがある」


「長い話になる」



 嘗て私は、たった今私が君に命じたのと同じ──温室付きの研究員だった。

 驚いただろう?いち研究員が、今やこうして武官長になっているのだからな。だが、ここに至るまでに私は多くを学んで、……大きなものを失ってしまった。

 これは私の過ちの話だ。

 そして、君にこの過ちを押し付けることへの言い訳だ。

 ……私は草木を観察するのが好きだった。家は貴族で、男子と生まれたからには武芸も充分にできなくてはというのが父親の言い分でね。厳しく扱かれたが、その合間を縫って独学で草木や花のこと、それらのもたらす効能、形、香り──様々なことを学んだ。

 王宮へ士官をする歳になった時、私はその知識を買われて王宮温室付きの研究員へと推薦された。私を武官にするつもりだった父親は驚いていたが、反対はしなかったよ。武官ばかりだった家から知識人たる文官が出るのは悪い気はしなかったのだろう。

 この王宮の温室はかなり設備が整っていて、そして広大だ。

 歴代の温室の管理者達、つまりは筆頭の研究員が手を尽くして集めてきたありとあらゆる植物がそこにある。

 私にとってはまるで夢のような場所だった。ここでこの植物を研究しながら生きていくことができる、そう考えると至福だった。

 私が研究員になったとき、温室の管理者は代替わりしたばかりだった。

 若かったが、その知識は正に図鑑そのものだった。

 植物の研究に関して、彼は天才だった。

 ありとあらゆる植物の管理方法に精通し、細やかなスケッチや観察を欠かさず、その植物一つ一つを愛していた。

 私がなにか少しでも雑な扱いをしようものなら途端に不機嫌になり、すっ飛んできて正しい扱いはこうだと教えてくれたものだった。

 熱心な研究員だなとは思っていたが、一年二年と過ごしているうちに彼について様々なことがわかった。

 温室付きの研究員というのは基本的に温室から離れることはないが、それでも食事を摂ったり睡眠をとったり──とかく研究に関係ない私事というのは温室の外にある部屋で行うことになっている。

 でも、彼は一度たりとも温室の外に出なかった。

 彼の為に温室の中に彼の自室が用意されていると知ったとき、流石にこれは何か彼に隠された理由があると察した。

 彼が植物を愛するのに等しく、また彼も「植物にも愛されていた」。

 彼は不思議な体質で、この管理された王宮の温室を出ることがままならない体質だった。

 植物によって浄化されている空気と、植物の為に完全に管理されている温度や湿度が、その天才を生かす命綱だったというわけだ。

 外に出ることのできない彼は、度々私に外界の話をするよう求めた。

 求められるままに応じて話をしているうちに、やがて研究員という枠を超えて、私達は親友になった。

 天才はますます植物の研究を進め、私は彼の右腕であり、また良き友として平穏な日々を送っていた。

 あれは──十一年前になるか。

 研究員をしていた私の元に、当時の武官長が訪れた。

 長らく武官などというものからは遠ざかっていたから何事かと思ったが、武官長が述べた内容はあまりに衝撃的だった。

『君の腕をかって、長期遠征部隊の隊長へと任命したい』

 一介の研究員にそのようなことは出来るはずはないと断った。

 何年も剣を握っていなかったし、研究に身を捧げて終わるつもりだったからな。

 しかし、武官長は私の父や私の家柄、私の昔の武芸の腕に酷く信頼を置いていた。家の為と思って──その言葉に、否とは言えなかった。愚かな選択だった。

 その遠征部隊の隊長というのは、非常な急務だった。そして、延期という選択肢も、中止という選択肢もなかった。前々から予定されていた長期遠征で、謂わば一大イベントだった。

 長く仕えた老兵であった隊長が遠征出発の五日前になって急死し、代わりを立てるには時間がかかり過ぎる。

 武官長がツテをたどって私を任命したわけだ。

 出発は三日後に迫っていた。

 はいと言ったからには研究員の職を辞退し、即刻王宮温室を出ていかねばならなかった。私は親友に事情をろくに説明することもできなかった──いや、しなかった。ただただ気が急いていた。

 研究員をやめることになった、長期遠征の隊長へと急遽任命された、それらを矢継ぎ早にまくし立てて、温室の外へは出られない天才を、親友を置いて、私は武官へと転身した。

 海を越えた五年の遠征だった。

 激しい戦闘が無かったのは幸いだった。任務の内容は長期視察で、五年を遠国で過ごした。

 その間、私が無理矢理に振り払った親友は──賢い男だったから、他の者から様々に話を聞いて、この長期遠征の隊長という任を断りきれぬ理由があったことを察したらしかった。

 らしいというのは、……まあ、後で話そう。

 五年を遠国で過ごし、帰還となった時、問題が浮上した。

 帰還するための船が足りないのだという。

 船を新しく作っては手間も時間も大変にかかる。

 本国から船をよこすのには半年、帰るのに半年はかかる。

 私は部隊の一部を残して、帰れるだけの兵士を先に帰すことにした。

 隊長として、部下を残して帰還するわけには行くまい?

 帰還は1年延びた。

 悪いことというのは重なるもので、長期視察の先で小さな内紛が起きた。

 小さいものだったが、到底その国の王宮内では手に負えぬものだった。やむなく私達が力を貸したが、鎮圧に一年と半年かかった。

 帰還は結局、三年延びた。

 私達が帰還したのは本来の予定よりも三年あとだった。

 大分伸びてしまった遠征から帰って、私はすぐに王宮温室へ行きたいと武官長に願った。

 まずは親友に詫びなければならないと思ったんだ。

 遠征先で過ごした八年の間、何も考えなかったわけじゃなかった。まずは言葉を交わしたい。

 ろくに挨拶もせず出て行ったこと、また一緒に研究をしたい、話をしたいということ。

 ──だが、それを聞いた武官長は目を伏せ眉間に皺を寄せて、それから何も言わず温室付きの世話係を呼んだ。

 私も顔を知っている世話係だったが、その顔は酷くやつれ、私がいた頃とはまるで様子が違っていた。

 そこで察するべきだった。私の身勝手な行動がなにを引き起こしたのか。

 温室だけが世界の全てだった友人が如何なることを思ってこの長い長い八年間を過ごしたのかを。


 世話係は黙って私を温室まで案内した。

 そして、温室の扉を開ける前、私にこの八年間のことを語った。

 私が置き去りにした天才は、人づてに聞いた五年で帰るという情報をずっと信じていたということ。

 五年経っても私が帰ってこないのを待つうちに、……気が狂ってしまったのだということを。

 私が帰還せず六年目を越え、七年目を迎えた時、その精神は限界を迎えてしまったのだと世話係は言っていた。

 親友に見捨てられるように置いていかれ、帰ってくるはずの時間を過ぎても帰ってこないのをただただ温室で待ち続ける間、徐々におかしくなっていった。私が去ったことを自責し、自分も海の向こうへ行けたらと夢想を繰り返していた。

 そういうことを続けているうちに、前に終わらせた研究をもう一度頭から繰り返してやり直し続けたり、度々現実と幻覚との見分けを失って奇声をあげ、およそ研究どころではなくなってしまったのだという。

 世話係が鎮静薬を投与しなければただただ狂人でしかなく、私の名を呼んでは自分は愚かだ、自分が愚かだから友人に捨てられたのだ、空木の君を返してくれと暴れるのだと。

 私は温室の中へ入る勇気を失った。

 今すぐにでも逃げ出したい気分にさえ駆られたが、なけなしの精神力がそれを引きとどめた。

 世話係が慎重に開けた扉の先で何があったのかを──君に語るのは憚られる。

 簡潔に語るが、……彼にはもう、私は見えていなかった。

 彼は幻覚の中に私を見ていた。そして、もう数年前にとっくに終わらせた研究について、きっと彼には見えている幻覚の中の私に向かって柔らかに笑いながら虚空を見て話しかけていた。

 世話係が止めるのをよそに、私は彼の手を握って名前を呼んだ。近くまで行って名前を呼べばさすがにわかるだろうと思ったんだ。

 ……しかし、彼は私を突き飛ばした。お前は誰だ、空木の君を返せと言って、世話係が彼を押さえつけ、鎮静薬を投与するまで狂乱し続けた。

 私は、……絶望した。

 目の前が真っ暗になったようだった。

 私が咄嗟に選んだ道が、脆く美しい天才を狂人にしてしまった。

 世話係はこのことは誰が悪いという話では無いのです、ずっと昔からただこうなる運命だったのでしょうと私を慰めた。

 それでも尚、思い返さずにはいられないのだ──もしも私があの時隊長の任を断っていたら、もしもあのまま私が研究員を続けていたらと──


 長い昔話をする空木は、酷く苦々しく悲しげな顔をしていた。

 檳榔はそういった話に感情移入するたちであった。

 感情豊かな彼の目は潤んでおり、

「空木……殿……の君」

 と慣れぬ官名で呼びかける声は震えていた。

「それで……なぜ、その……つまり、今はそうなってしまっている研究員の方と一緒に温室で研究をする、ということなんですよね?」

「そうだ」

「空木の君は、その方はもうとっくに終わっているはずの研究を繰り返したり、幻覚を見たりで、まともな研究どころではない……という風に仰っていましたが、」

「……ああ、そうだ。本当につい最近まではそうだったと私も聞いていた。だが、時が解決したか、いやそれとも……もっとよくない状況になったかは分からんが、ともかく檳榔の君のような助手の研究員を呼ぶことができる状況になったらしいのだ。ごく、最近に」

 空木も檳榔を急に新兵から研究員へと取り立てることになった詳しい経緯は分からないらしかった。

「どうあれ、……あれが自ら人を呼ぶように命じたらしいから、きっと……悪い兆候ではないのだと信じている」

「空木の君は会いに行かれないのですか」

「ハハ、そうだな……その話を聞いて、会いに行こうと全く思わなかったわけではない。だが、」

 空木は苦笑して、それから俯いた。その表情は前髪に隠れ、向かいに座る檳榔には到底見えなかった。

「……足が竦むのだ。狂乱するあれを見たからではない──自分が情けない、到底自分はあの温室へ入ることを許されるものではないのだと、この数年を過ごしてきた。今あれに会ったところで、私は何も言えない、赦しすら請えない木偶の坊だろう」

「……」

「あれは優れた学者であり、研究員だ。そして、……優しくて脆い性根の男だ。どうか、檳榔の君……」

 言葉を詰まらせた空木に、檳榔は慌てたように口をパカッと開けたが、やがて目を泳がせて言葉を絞り出した。

「俺は優秀ではないし……その方がどんな方かも知りません。育ちも良くないし、わからないことだらけです。けど、きっと……一緒に研究をやり遂げてみせます。……最後まで」

「……ああ」

 顔を上げた空木は泣き笑いのような顔をしていた。

 武官長室の扉をノックする音がして、空木はゆっくりと立ち上がり、来訪者を迎えた。

「空木の君。……新しい研究員の方と、こちらにいらっしゃると伺いましたので」

 開けられた扉の向こうで一礼した人物は、空木と同じような上質なトーガを身に纏っていた。艶やかで黒く短い髪と白い肌に、黒曜石のような目をしていた。際立って目立つような美しい顔立ちではないが、賢そうな男であった。装飾品は空木よりも少ないものの、穏やかな物腰や上品な口ぶりからして、それなりに位のある人物であることは間違いないようであった。

 空木の隣に慌てて立った檳榔を見て、改めて一礼をした人物は穏やかな口調で名乗った。

「この度は急なことでお呼びだてして申し訳ありません。私は石斛せっこくと申します。王宮温室付きの世話係をしております」

「は、初めまして……檳榔、と申します」

「薬草や野草の知識にお詳しいとか。温室には薬草はともかく野草は少ない故、金雀枝えにしだの君も檳榔の君のことを聞いて大変喜んでいらっしゃいました」

「金雀枝の……?」

「おや、空木の君から聞いていらっしゃいませんか」

 僅かに石斛の表情が驚きを映し、空木をちらと見る。空木は首を横に振ってみせた。

「経緯は話したが……そういえば、名を伝えなかったな。すまん」

「左様ですか……いえ、構いません」

 石斛は再度檳榔に向き直り、

「先程空木の君から伺ったかとは思いますが、王宮温室の現在の筆頭研究員は金雀枝の君と仰います。檳榔の君のお出でを待ち望んでおられますが──」

 未だ練兵場から着の身着のままの来た格好でいる檳榔を上から下まで見た石斛は、柔らかな笑みを浮かべて、

「色々とご準備もありましょう。金雀枝の君にはそのようにお伝えしておきますので、準備がお済みになりましたら三日後に、王宮温室の前へいらしてください」

 と告げたのであった。



 王宮温室とは言うが、実際王宮がある敷地の中にある、という話で、温室自体は王宮とごく離れた場所にあった。

 王宮はその中で働く武官や文官に見て取れるように、華やかな金属装飾や極彩色の宝石、精巧な浮き彫りなどで痛いほどに満たされた、開放的かつ豪奢を極めた空間であった。

 そこにあって王宮温室は、無論細部に精巧な細工がなされている箇所はあれども、王宮そのものよりは幾分落ち着いた雰囲気の建物であり、何よりその外観は、白い石造りの壁に青々としたツタ植物や苔が生き生きと這うのに加えて、外部から太陽の光を取り入れる為に、温室がある建物の上部分は大きな硝子ドームになっていた。

 着慣れぬトーガを身に纏った檳榔は、なけなしの荷物を持って硝子ドームの前に立ちすくんでいた。

 白壁と蔦に覆われた中に、控えめな装飾が施された両開きの金属の扉があって、もう随分と檳榔と睨めっこをしているのであった。

 と、ゆっくりとその扉が内側から開いたので檳榔は思わず一歩後ずさる。

「檳榔の君、このようなところでお待たせをして申し訳ありません。随分お待ちになったのでは?」

 扉を開けた石斛にそう問われ、檳榔ははっきりしない返事をしながら誘われるままに中へ入った。

 白壁の中もまた、真っ白であった。

 天井には明かり取りの為の窓が高くに空いていたが、その光が大理石の床を四角く明るく照らしていた。

「……檳榔の君、空木の君は金雀枝の君についてどこまで話されましたか?」

 白く広く静かな広間を抜けて、中庭に面したこれまた白い廊下を歩きながら、石斛は檳榔に問うた。

「どこまで、というと……空木の君が遠征に行かれて、金雀枝の君はその……気が触れてしまって、という……」

 言い淀む檳榔に、石斛は一つ頷いた。

「つまり、ここ最近のことはお話にならなかったのですね」

「詳しいことは知らないと……俺が呼ばれた事情も、詳細は知らないと仰っていましたが」

「そうですか」

 石斛は歩く速度を遅くすることも早くすることもなかったが、やがて

「これだけは知っておいていただかなくては」

 と前置きして、静かに事情を語った。



 空木の君が語られたことは確かに嘘偽りございませんでしょう。

 しかし、空木の君もお忙しい身ですから、ここ最近の金雀枝の君の事情にあまり詳しいというわけでもございません。

 金雀枝の君は長い狂乱から目を覚まされました。……ごく最近のことです。

 その兆候は私には分かりませんでした。

 空木の君がご帰還されてから、ついこの一週間ほど前までの三年の間、金雀枝の君は凡そ……まともな状態ではなかったのです。

 私は王宮温室付きの世話係として必ず、金雀枝の君がいらっしゃる温室の前に待機しております。何事もなくても、ほぼ一日中、万が一金雀枝の君に何かあったときのために。

 時に幻覚を見て正気を失われた金雀枝の君に鎮静薬を打つ場合もありましたし、私を空木の君だと言って話しかけられる場合もありました──あまり、詳細にお話することではありませんでしょうが……。

 とかく、金雀枝の君はずっとそのような状態でしたし、この状態からいつ脱するのかというのも見当がつきませんでした。

 王宮医師は、これは外に見える病や傷なのではなく、また薬草からつくる薬で治るものでもなく、ただ時間が解決するか、そうでなければ金雀枝の君が「気がつく」までは治らないのだと仰っておりました。

 そういう事でしたから、私もこの命がある限りは金雀枝の君の側で世話係の任を全うしようと考えておりました。

 そうして三年ほどは変わらぬ日々を過ごしておりました。とはいえここ1年ほどは鎮静薬を打つようなこともなく、日ごと穏やかに──きっと、幻覚の中の空木の君と話しておられるのを見ておりました。ずっとこうして過ごしていかれるのだろうと思っていたのでございますが……。

 それが、ほんの一週間ほど前、金雀枝の君が温室の中からお呼びになりますので、何があったのかと──金雀枝の君が私を呼ぶのは何年ぶりでしたでしょうか、これまでといったら今までの事など全て忘れて、人の名前と言ったら空木の君を呼んでおられましたから、大変驚きました。

 慌てて行ってみますと、新しい研究員が来ると聞いているけど、いつ頃来るのかなと、そう聞かれるのでございます。

 新しい研究員の話など、無論ございません。

 十一年前、空木の君が去られてからはずっと、この王宮温室の研究員は金雀枝の君一人でしたから。

 金雀枝の君の様子は、今までとは違っておられました。

 幻の中の空木の君を呼ばれるときの表情や声ともまるで違っておられました。

 私はまさか金雀枝の君が正気を取り戻されたのかと、そう思いましたので、空木の君の名前を出したのです。

 ところが金雀枝の君は、

「空木の君とは誰だい?それが新しい研究員の名なのかい」

 と仰いました。

 私は金雀枝の君がどのような状況に置かれているのか、詳しい事はなにも分かりません。一介の世話係であるところの私には、王宮医師のような分析や診察はできませんので……しかし、もしかすると金雀枝の君はある意味、「戻った」のかもしれないと思いました。

 空木の君が研究員として来る前まで、つまりは「空木の君と関わった時間」が丸々抜けてしまったのではないか、と。

 今の金雀枝の君の中に王宮温室研究員の空木の君は存在せず、空木の君というお方は知らない、会ったこともない、そういう状態ではないか──結果的に、私の予想は外れてはおりませんでした。

 定期的な診察というていで王宮医師が呼ばれ、金雀枝の君と面会なさいました。

 体に異常はなく、言っていることに齟齬も無い、様子がおかしいということも無い、また天才と謳われた頭脳も技術も知識も、何もかも欠落はない。ただし、空木の君に関する記憶はまるで無いのだというのが、王宮医師の言うところでございます。

 王宮医師は、「金雀枝の君が求める新しい研究員」を即刻連れてくるべきだと仰いました。残酷なことではあるが、金雀枝の君に合わせ、我々も辻褄を合わせるべきなのだと。

 この事に関しては空木の君には申し上げませんでした。

 金雀枝の君が空木の君のことをすっぽり忘れてしまっている、など、幾らあの方が武人であり、強い精神力を持っているとはいえ申し上げる事はできません。

 何より、──この事は決して他言無用でいて頂きたいのです。けれど、檳榔の君、貴方には胸に秘めて知っておいていただかなければ。──何より、……きっと、空木の君は金雀枝の君を愛しておられました。

 研究員の枠を超え、友人の枠を超えて、空木の君は金雀枝の君を愛しておられた。

 家族に向ける愛情や、友人に向ける友愛とは違ったでしょう。

 懸想、そう表現するのが相応しいと──少なくとも私はそう感じたのです。

 恐らく、金雀枝の君も空木の君を愛しておられました。

 それらを露骨に言葉にして紡ぐお二人ではございません。お互いがお互いに懸想して、そしてそれを実らせるつもりもなかったのだろうと思います。

 けれど、温室のカウチで寄り添って何事か話すお二人や、或いは激しい雷雨の夜にぴったりとくっついて雷の音に隠れて笑いあうお二人や、与えられた官名ではなく親から与えられた名前で呼び合うお二人に──それはお互いを何より信頼し、想いあっていなければできることではありますまい?

 ……そうして金雀枝の君のことを想っていたであろう空木の君に、どうして金雀枝の君は空木の君のことを何一つ覚えていないなどとお伝えすることができましょうか。

 今でさえ、空木の君は自分を責めていらっしゃいます。金雀枝の君をああしたのは自分だと、幾度も悔いておられました。

 この温室へ会いに来ることも拒まれます。

 ならば、きっと今の状態を知らない方が良いのでしょう。

 ……ですから、私は空木の君に、「金雀枝の君が新しい研究員を望んでおられる」とだけお伝えしました。

 空木の君は、金雀枝の君が良くなったのかとだけ聞かれて──金雀枝の君が自らそのように言いだしたのならと、三日間でその研究員を見つけるからどうか待っていてほしいとだけ申されました。

 選ばれたのが檳榔の君、貴方というわけなのです。

 これがほんのここ一週間ほどで起きたことなのです──。


 石斛が語り終わった時、檳榔はまたも目を潤ませていた。

 そんな檳榔を見た石斛は、慰めるように、或いは戒めるように言葉を続ける。

「檳榔の君、ここまで語っておいてこう言うのは酷かもしれません。身勝手なことも承知しております。ですが、──約束をしてほしいのです。金雀枝の君の前で『空木の君』の話をしないこと。

 そしてどうか、……これは真に私の願いでもありますが、……どうか、金雀枝の君を置いていくようなことはなさらないでください」

「……分かりました」

 檳榔の声はまたもその感情に揺らされて震えていたが、確固とした意志は石斛にも伝わったようであった。

「檳榔の君は感情豊かな方ですね」

 石斛に言われ、檳榔はえ、と裏返った声を上げる。

「そ、そうですか」

「責めているのではありませんよ。……金雀枝の君は明るい方ですから、きっと話も合うでしょう」

 そう語る石斛の横顔は柔らかに笑っており、檳榔もそれにつられて笑う。

 気づけば、白くて長い廊下は終わり、目の前には白い壁と、精巧に花の細工が施された重々しい銀色の扉があった。

「金雀枝の君、石斛です」

 ドアノッカーを鳴らし、石斛が呼び掛ける。

「入って」

 扉の向こうから聞こえた声に、石斛は後ろにいた檳榔を1度振り返り、そして扉を開けた。

「失礼致します。……新しい研究員の方をお連れ致しました」

「ああ、待ってたよ」

 どこからか声は聞こえるが、姿は見えない。

 石斛に促され、檳榔は扉の中へ一歩踏み出す。

「……!」

 そこは、ありとあらゆる草木が生きる楽園であった。

 外観にも強烈な印象を与えるドームの壁は光を取り入れるため天井まで硝子張りになっており、数多の植物が我こそはと言わんばかりに葉や蔦を伸ばしているのである。

 背の高い植物から苔や低木のような腰の下ほどにも無い植物まで、檳榔は名も知らぬような植物が所狭しと並んで、小さな森を作っていた。およそ緑に埋め尽くされたその硝子張りの世界は、あまりに隙間なく植物があるが故に、縦にも横にも終わりがないように思われた。

 今まで見たことも無い、硝子の空の中の森に呆気にとられてしまった檳榔に、石斛がそっと後ろから耳打ちをする。

「……檳榔の君、金雀枝の君ですよ」

 濃密な緑に気圧されていた檳榔は、そこでハッと我に帰った。

「はじめまして。金雀枝という。……あなたのことは聞いているよ、檳榔の君」

 片手に持った緻密な細工が施された如雨露の注ぎ口からは今にも水の雫が零れ落ちそうになっていた。

 石斛や空木のような上質なトーガを纏い、細い腕や足首を鮮やかな金属の宝飾品が飾っているのは高官の装いそのものであるが、剥き出しになった白い肩には文官の証である白い毛皮のストールが覆っていた。

 髪飾りや髪紐で複雑に結われた絹糸のような長い髪に硝子の壁を通した太陽光があたって煌めいているのは神秘的ですらあった。

 右目を覆う長い前髪の向こうから人がよさそうに弓なりに笑う瞳に捉えられた檳榔は、金雀枝の名乗りに対し、到底明瞭な答えを返す余裕がなかった。

「はじめまして、金雀枝の君……檳榔といいます」

「なんでも、元は今年入ったばかりの新兵なんだってね?武官長が見つけてくれたそうだけど、武芸を志して入ってきた人間をここへ連れてくるなんてねえ」

 苦笑し、金雀枝は檳榔の肩に手を置いて言う。

「慣れないことはあるかもしれないけれど、どうかあまり固くならずに過ごしておくれ。ここにあるのは固い礼節でも作法でもなく、私と植物たちと檳榔の君、あなただけなのだから」

 金雀枝は檳榔の一歩後ろへ控える石斛に向き直り、

「石斛の君、色々と忙しかったろう?ありがとう」

「いいえ、金雀枝の君の為にある身ですから」

「私だけの為じゃ困るよ」

 檳榔の君がいるのだから、と笑う金雀枝は、直立不動の体の脇で緊張のあまり拳を握りしめている檳榔の手をその白魚のような指で握った。

 つい先ほどまで水を扱っていたからか、凍るとはいかなくとも冷えた金雀枝の指先に檳榔は驚き、小さく身じろぐ。

「あ、あの、金雀枝の君」

 手を握らないでも俺はついていきますという言葉はか細く消えた。

「なんでも、野草や薬草に詳しいんだと聞いているよ。私は如何せん外に出られない身だから、知識として知ってはいても……檳榔の君ほどは詳しくないんだ。……どうか私にも沢山教えておくれ」

 そう手を握って優しい声音で言われると、檳榔はぐうの音も出ず、黙って頷くことしかできなかった。下手に口を開くと大変なことを口走ってしまいそうであった。

 温室に住む天才と、初っ端から翻弄される新人研究員を残して世話係は静かに温室の外へと退室した。

 金雀枝は檳榔を誘って、濃密な緑の中に無造作に置かれたカウチと机へ向かう。

 背や枝を伸ばした植物たちによって作られた天然の迷路の間を縫ってぽつんと置かれた人工物たちは、その上に数多の羊皮紙の束を乗せて佇んでいた。

 檳榔はその机とカウチの周りをそっと見渡してみたが、硝子の天井と生い茂った草木が見えるばかりで、先程入ってきたはずの温室の入り口は見えそうにはなかった。

 カウチに腰をかけた金雀枝は、机に羊皮紙の束のうちの一つを広げて見せた。

「……ああ、」

 声にならぬ声を漏らした檳榔は、その羊皮紙に釘付けになっていた。

 羊皮紙に描かれた緻密で繊細な植物のスケッチが、目の前の研究員の手によるものであることは間違いがないのだった。

「普段はこうして毎日スケッチをして、草木がどのような変化を遂げたか、少しずつ少しずつ、調べているんだ」

「俺は絵はまるでダメで、」

 たった今緻密なスケッチを見せられたばかりで慌てて声を上げた檳榔に、金雀枝はくつくつと笑って言う。

「絵が上手い下手は関係ない。いかにここの植物を愛し、その変化を読み取ろうとするか──必要なのは植物への愛と熱意だけだよ」

 頭上の緑が影を落とす美顔が、そっと檳榔に笑んでみせる。

「わかったかい?」

「はい、……金雀枝の君」

 檳榔もまた、金雀枝に笑んでみせた。

 二人の頭上に、織り成す木漏れ日が降る。

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