無存在の男

ラッキー平山

無存在の男

 俺は完全に空気で、いないも同然なので、当然、ナイフで誰かをどんなに滅多刺しにしようが、相手はなんの影響もなく、全くの無傷のまま、ただにやにや笑うだけだ。往来で実際にやってみたが、やはり通行人は誰でも、男も女も、子供も老人も、全員がまるっきり平気のヘイザで俺をへらへらバカにしてきやがる。だが、なんせ俺は幽霊のように完全無力なので、誰かをいくら殴ろうが蹴ろうが、今みたいに刃物で刺そうが、相手にはいっさい通じず、ビクともしないのは、この世の絶対真理なのだ。いくら刺しても無反応なんて、まるで夢の中のようだが、これはれっきとした現実だ。


 なぜなら、俺以外の人間はみな肉体があって実在しているが、俺は生まれてから一度も存在したことがなく、誰かに存在を認められたこともないので、そんないもしない者が、なにをしようと全て無駄で無意味なのだ。だから完全優位な位置に立つ、「俺でない全ての人間ども」は、完璧に無で空気で、記憶どころか気のせいにも入らない俺のようなカスのゴミの微粒子など、気にする必要もないのだ。

 俺がどんなに気が狂おうが必死だろうが、ムキになって死ぬ気で刃物を何百回も誰かに打ち込もうが、そいつは涼しい顔で薄笑いするだけで、俺が一人でマヌケな醜態をさらして終わる。これはもう人間と神の差である。俺だけが無力な人間で、おまえらは全知全能の神なのだ。

 世間を見ると、大部分の奴はそう思ってなさそうだが、その事実は知っておいたほうがいい。最底辺以下からおまえらを見上げる、この汚物がそう思うのだ。草の根にこそ真実あり。どこかでそう聞いた。


 俺はそのようなマヌケなだけの殺人ごっこを、この東京のそこかしこで何回か繰り広げては、あきらめてその場を去ったのだが、そのあと、どういうわけか俺が殺そうとした連中すべてが、そこで惨殺死体で発見された、とニュースが報じていた。妙に思ったが、すぐにそうか、きっと俺があきらめたあと、陰でこっそり見ていた誰かが本当にそいつらを殺し、俺に罪をなすりけようとしたのだ、と納得した。

 どう見ても濡れぎぬだが、俺があいてを殺そうと頑張ったのは確かなので、それを自分の殺人のアリバイに利用する奴がいても、まったく不思議ではない。案の定、俺はすぐ逮捕された。

 そういえば、誰も傷つけていないのに、俺のシャツにもズボンにも、血がべっとりついて黒ずんでいる。きっと俺が知らないうちに、真犯人がなすりつけたのだ。べつに凄腕というわけでもなかろう。なんせ、騙すあいてが空気の俺なのだ。卓上のほこりを吹いて飛ばすよりも、はるかに簡単だったろう。



 取調べ室では罪を否認したが、むろん信じてくれるはずもない。往来で人を刺そうと、狂った猿みたいに何度も必死にナイフを突っ込みまくっている姿を大勢に目撃されたうえ、服のそこらじゅうに血のりがこびりついていては、黙っていても自白してるようなものだ。

 だが、「いくら刺しても、あいてはビクともしなかった」という俺の話には、おまわりどももさすがにきょとんとしていた。まあ、こいつらはまともな人間で、しかも法を扱う仕事につくエリートだ。こんな存在すらしない無駄野郎の行動が理解できるはずもない。


 だが、取調官の一人に、ことさらに俺にイライラしてるのがいた。眉が太い侍ふうの無骨な顔をしたオッサンで、その場のメンツの中ではけっこう偉く見えた。

 そいつはおまわりには珍しく正義感が強いようで、てめえがナニされたでもないのに、誰のためだか、俺に相当の憎悪の目を向けて怒鳴ってきた。


「ふざけるな! ほんとに覚えてないってのか?!」

「覚えてます。いくら刺しても、笑われるだけでした」

「てめえ、どこまでシラをきりゃ気が済むんだ!」と俺の胸ぐらをつかんでにらむ。「いったいてめえのせいで、何人が命を落としたと思ってるんだ!」

 その目には、なんと涙まで浮かんでいる。あかの他人のために泣いているのだ。まともな人間ってのは、いったいどういう身体構造してるのかと思った。

 ぶん殴るかと思いきや、誰かが止めたので俺を椅子に放ると、急に卓に短い物差しを投げ、その隣に右てのひらを置いて言った。


「おまえは無力で、誰かになにしようが、なんの影響もない、っつったな? じゃあ、俺の右手を思いっきり叩いてみろよ。俺は痛くもなんとも感じない、ぜんぜん平気なはずだよな?」

「あなたに触れると、公務執行妨害になるから、出来ません」

「今さらなに言ってんだ! わかった、俺に触っても罪には問わん」

「わかりました」

 俺は仕方なく、物差しを取ると、それで思いっきり奴のてのひらを上からぶっ叩いた。むろん、奴は涼しい顔で俺を嘲笑うだけだ。こんな無意味なとこを、なぜわざわざさせるのか分からなかったが、相手はなんせ神に等しい連中だ。こっちが理解できなくて当然である。




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 秋山警部は、本署で部下の報告を聞くうちにうんざり顔になった。

「鑑定の結果、精神にはなんら異常はないとのことでした」

「じゃあ、あいつが嘘をついてることになるが――」と嫌そうに目をしばたたく。「とてもそうには見えん」

 そして窓の外を遠い目で見つめた。庭の桜が満開だが、赤みがかった白い花を見て、彼はあの殺人犯のうつろな目を思い出し、ぞっとした。


「あいつが、自分は存在しないから、他人になにもできない、とぬかしやがるんで、俺の手を定規で叩かせたんだ。思いっきりやられて、俺は手をおさえて『いてえ!』と叫んだんだが、あいつの目は俺をしっかり見てるのに、まるでちがうもんが見えてるみたいなんだ。またぼーっとしやがってコノヤロ、って頭きてさ。それでなんか言おうとしたんだが、声が出なくなっちまってな」

 秋山は部下のほうに向き直り、声をひそめた。

「だってあいつ急に――なにかがっかりしたような、悲しそうな顔になって、机をじーっと見つめるんだぜ。きっとあいつには、俺がぜんぜん平気で、にやにや笑ってバカにしてる幻覚が見えたんだろう。『ああ、また無駄なことしちまった』って、失望したのさ」

 気味悪そうな顔になる部下に、彼は言った。

「あいつにとって、あいつという人間は、本当に無意味で存在しない、完全に無力な幽霊なんだ」


 その両目には、二つのしずくが光っていた。流される相手にとっては完全に無意味な水であっても、それはたちまち喉元まで怒涛のように流れ落ち、しばしとどまることがなかった。(「無存在の男」終)




 (作者による注釈)


 この作品の語り手である男は、いわゆる毒親家系で育ち、彼の母親は自分の父母に虐待されて育った。そこで母親は一人息子である彼をまっとうに育てようとしたが、そういう場合は往々にして、ちがうつもりが、結局は別の意味の虐待になってしまうことが多い。


 この母親も彼のためと言いながら、出世させるために過度な教育と規律を押し付けるなど、彼女の理想実現のために散々に利用してしまった。自分の受けた愛情飢餓を残したままで子育てをすると、それを無意識に満たそうとする行為を、どうしても避けられない。わが子を可愛いと思っても、可愛いがられなかった自分が、それを誰かに対してしなくてはならない、という矛盾に、どうしても納得できないのである。


 かくして、しつけという名の暴力と管理・支配により、彼本人はかえりみられず、ただ母親の欲望を満たす道具という扱いを受け続けた結果、彼は「自分は存在しない」という悲惨きわまる感覚を持つにいたった。



 また彼は幼少期から、巨大な手につかまって握り潰されそうになる、という悪夢にさいなまれていた。これは彼の完全な無力感の表れであり、怪物のような手は、彼を庇護する存在ではなく、たんに恐怖の対象でしかない母親のイメージである。


 親は子にとって神に等しい。神が暴力的で恐怖でしかないと、彼以外のすべてが恐怖と暴力であるばかりか、彼自身も恐怖と暴力でしかなく、慰めや癒しが必要なときにも、いたわることなく常に自分を脅し、責め、傷つけることになる。これがさらに無力感を強化し、彼の存在を完全に消し去り、空気化するのである。


 彼は「無力な自分が、他人をナイフで刺したら、はたしてどうなるか」と考えて実行してしまうが、そんな発想をする根底には母親への激しい憎悪と殺意がある。ふつうなら親への不満や怒りなどは自分で自覚できるが、彼の場合は、自身に対する無力感の植え付けが、あまりにも隙なく完璧すぎたために自覚できず、それでも無意識下では怒りを抑えられていないため、無関係の他人に対して爆発させてしまった。

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