4話 「ありがとう」の意味

「ただいま」


 なんとか定時である七時に職場を上がれた俺は帰宅して玄関のドアを開ける。

 するとそこにはエプロン姿の奏が、まるで俺の帰りを待っていたかのような装いで立っていた。


「おかえり」

「待っててくれたのか?」

「別に。たまたま廊下に出てただけだから」

「……そうか」

「何笑ってるの?」

「いや、なんでもない」


 健気な奏に早速癒やされた俺は、靴を脱いで廊下に上がる。

 そうして着ていたコートをいつものように手を差し出していた奏に手渡した。


「コートありがとう」

「ん……うん」


 ……これだけ見ればカップルというよりも、もはや新婚夫婦みたいだよな。

 それでも奏は俺にスキンシップを許してくれない。


 本当に、どうしてなのだろう。


「ご飯、できてるよ。先にお風呂がいいならすぐ沸かすけど」

「ありがとう。でも、せっかく作ってくれたんだしご飯にするかな。温かいうちに食べたいし」

「ん、分かった」


 そんな会話を交わして、俺たちはリビングへ向かう。


 いま前を歩いている奏を後ろから抱きしめてもいいんだが、流石にそれは奏も嫌がるよな。

 ただでさえスキンシップに慣れていないのだから、もっと段階を踏んだ方がいいだろう。


 と言っても、じゃあどうすれば奏とのスキンシップを増やせるのか。

 やっぱり何度も強く押すしかないのだろうか。


 ――洗面台で手を洗ってリビングに戻ってくれば、奏は既にテーブルに料理を並べ始めていた。


「ありがとう。俺も手伝うよ」

「あ……うん」


 ――食事中も色々と考えるが、やっぱりいいアイデアは思いつかない。

 でも、だからといってただ押すだけが得策だとも思えない。


 このままの関係でも十分すぎるくらい幸せなのだが、出来ればもう一歩奏との仲を深めたい。

 そのためには何か行動を起こさないといけないわけなのだが……。


 ――いろいろ考えているうちに、気付けば食事を終えていた。

 食器を手に取りキッチンに向かう。

 すると、そこには既に食事を終えた奏が洗い物をしていた。


「洗い物は俺にやらせてくれないか?」

「えっ、いや、でも……」

「その他の家事は全部奏がやってくれてるんだからさ。洗い物くらい、俺にやらせてくれよ」

「……分かった」

「ありがとう」

「っ……う、うん」


 けど、多くを望まないほうが奏も楽なのだろうか。

 この現状で何も言ってこないし、あの性格だから近すぎない距離感の方が彼女にとって心地良いのかもしれないし……。


「……そういえば」


 考えることに集中していて気づかなかったが、さっきから奏の返事が少しぎこちなくないか?

 洗い物を終えた俺はふとそんなことが気になり、ソファに座ってテレビを見ていた奏に声をかけることにした。


「なぁ、奏」

「何?」

「さっきは気にしてなかったんだけど、今になって考えてみたら奏の返事が少しぎこちなく感じてさ」


 隣に座ってそう言えば、奏は「あ、あぁ」と思い当たる節がありそうながらも少し気まずそうに視線を逸らす。


「何かあったか?」


 付け加えて答えを催促するが、奏はなかなか口を開かない。

 そのまま視線を下げて、どこか不安げな表情な表情を浮かべた。


 何か思うことがあるのだろうか。

 これ以上急かしてもきっと彼女に負担をかけるだけだろうから、俺は静かに彼女の返答を待つ。


 ――そうして待つこと約五分。

 おっかなびっくり口を開いた彼女が安心できるように、俺は口元に弧を描いた。


「ねぇ、千智」

「どうした?」

「千智は、なんで『ありがとう』って言うの?」

「えっ?」


 予想打にしていなかった質問が帰ってきたため、俺は素っ頓狂な声を上げてしまう。

 そんな俺を気にせず、奏はさらに言葉を続けた。


「千智は、いつも『ありがとう』って言ってくれる。コートを私に渡したとき、私がご飯の準備をしているとき、私が洗い物を千智に譲ったとき。何気ないやりとりなのに、千智は必ず『ありがとう』って言ってくれる」

「俺、そんなに言ってたか?」

「言ってたよ。だから、不思議だった。なんでこんなに何気ないやりとりなのに、いつも当たり前にしてることなのに、千智は欠かさず私に『ありがとう』って言ってくれるのかが」


 奏の話が本当なら、きっと無意識のうちに言っていたのだろう。

 だから、何故かと聞かれてもいまいち言語化がしにくい。


 でも、初めて奏から質問された。

 何とか言葉にして返したい。


「……まず、奏が俺のために何かしてくれたんだから『ありがとう』って言うのは当たり前だろ?」

「それが出来ない人たちだってたくさんいるんだよ。でも、千智は私に『ありがとう』って言ってくれる。たとえすごく優しい人だって、ことあるごとに『ありがとう』って言うことなんかきっと無理だよ」

「じゃあ、俺もきっとどこかで奏に『ありがとう』って言ってないんじゃないか?」

「千智は言ってくれるよ。どんな些細なことでも、私が何かしたら必ず『ありがとう』って」


 本当にそうなのだろうか。

 俺自身そんなに性格も良くなければマメな人間でもない。

 でも、奏が嘘を言っているようにはどうしても聞こえなかった。


 だとすれば、本当に俺はいつも奏に「ありがとう」と言っていることになる。

 じゃあ、それはいったい何故なのだろう。


「……強いて言えば」


 奏の望んでいる答えではないかもしれないが、これは俺の本心だから嘘偽りなく伝えてみる。


「奏が好きだから、かな?」

「好き……?」

「あぁ。好きな人に何かしてもらったら嬉しくなるからさ、どんな時でも心から『ありがとう』って言いたい気持ちになるんだよ。だから多分、俺が奏にいつも『ありがとう』って言ってるのは、奏にしてもらってるのが嬉しくて、そんな奏が好きだからなんだと思う」


 何回でも言うが俺は奏が好きだ。

 容姿も勿論そうだし、献身的な性格も、素直になれないツンデレなところも、俺を好きになってくれたところも。

 そんな彼女が俺に何かをしてくれたのだ。

 それだけで幸せな気持ちになるに決まってる。


 だから自然と感謝の気持ちが出てくるんだろうけど……いまいち自分の答えに自信を持てない。

 本当にこんな解答でいいのだろうか、と奏の顔色を伺うと……。


「……そっか」


 奏の口元が、僅かに緩んでいる。


 奏が笑った。


 今まで一度も見たことのなかった奏の笑顔が、ようやく見られた。


「奏、いま笑った……?」


 俺が声を震わせて指摘すると、奏は伏せていた視線を勢いよく上げる。

 それと同時に、顔を真っ赤に染め上げた。


「わ、笑ってない!」

「いや今絶対笑ったって!」

「うるさい!」


 奏は何度も否定する。


 でも、俺ははっきりと見た。

 嬉しそうに口角を上げて微笑む奏の姿を。


 そんな姿を思い出して、俺の口角も自然と上がってしまう。


「……やっぱり、笑ってる奏の方がずっと可愛いよ」

「か、かわっ……もうっ、そうやって私をからかってると、今日は頭撫でてあげないよ!」

「えっ、今日も撫でてくれるのか?」

「そうだって言ってるの! だから、もうこれ以上からかうのはやめて!」


 奏にどんな心境の変化があったのかは分からない。

 だけど昨日より、ほんのちょっとだけ、奏との距離が縮んだような気がする。


 焦る必要はない。

 お互い無理をしない程度に、少しずつ仲を深めていこう。


 半年経った今だって、俺たちの恋愛はまだ始まったばかりなのだから――


 ――とりあえず、今は奏の言うことに従って頭を撫でてもらうことにするのだった。

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